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いつもと少し違う朝に  作者: 中島 遼
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自宅 2

 「……おっしゃる通りです。では軽い催眠薬があるのでアイスコーヒーにでも混ぜて飲ませておきます。もちろんです、リソカリトなら逃げられたら大変ですし」

 (リソカリト?)

 ふと萌は後ろに気配を感じ、ぎくりとして振り向いた。

 すると、そこに立っていた高津は全てを理解したかのように頷く。

 (……何かの間違いよ)

 萌は唇を噛んだ。認めたくない。認めたくないが……

 「はい。学校からここまで誰にも見つからないで帰れたという事自体が異常なことと……」

 二人は音を起てないように再度部屋に戻った。

 引き出しを開け、なけなしの小遣いをポケットに突っ込む。そうして他に持っていくものがないだろうかと萌が周りを見まわした時、母がアイスコーヒーを持って現れた。

 「一体何があったのか話してくれるわね?」

 母は心配そうに萌を見つめる。その表情に危うく萌がさっきの電話こそ夢ではないかと思おうとしたとき、高津が間髪を入れずに切り出した。

 「神尾さん、ごめん、ちょっとトイレ貸してもらっていいかな?」

 「……もちろん」

 仕方なしに萌は立ち上がった。

 「ちょっとわかりにくいから場所教えるよ。こっち」

 二人は廊下へ出て、階段を降りた。

 「電気のスイッチはここ」

 聞こえよがしに声を出しながら、玄関へと急ぐ。

 信じたくはない、信じたくはないがしかし……

 「萌、どこに行くの?」

 靴をひっかけ、外へでようとした時だった。

 顔を上げた萌の目に、母の姿が目に入る。

 「どこかに行くなら、ちょっとだけ待って」

 言いながら台所に消えた彼女は、再び玄関に現れた。その手に握られるのはどうしてか包丁……

 「お母さんっ!」

 一抹の望みは抱いていた。それでもやっぱり母がおかしいのは気のせいで、萌が勘違いしているのだと。

 そして、そんな希望を壊されたくなくて、密かに逃げ出す方法を選んだのに。

 「正気に戻ってよ!」

 何者かに操られているのだろうか、それともこれは母と同じ顔、同じ声の別の何かなのだろうか……

 「きゃあ!」

 鋭い突きが顔をかすめた。

 反射的にかわしたが、第二段が間髪を入れずに襲い来る。上向きの刃が鈍く光り、それが恐怖心すら凍らせる。

 「…っ!」

 高津が横から刃を持った腕に飛びついたが、腹に強い蹴りを入れられて後ろによろめく。

 (……こ、これはお母さんじゃ、ない?)

 玄関の鍵を開ける間もなかった。包丁は萌の喉笛を正確に狙う。

 「や、やめて……」

 動くこともできずにそれを見つめていた萌の目に、再び高津が母に飛びつくのが見えた。

 そして今度は彼も遠慮なくげんこつで相手を殴り、包丁を何とか奪うことに成功した。だが、もみ合う弾みに横に払った彼女の指先が刃に当たり、鈍い音を起てて横に落ちた。

 (なっ……)

 悲鳴も出せずに萌は目を閉じたが、未だもみ合う音に瞼を開けると、母は欠けた小指の事など気にもとめずに高津に襲いかかっていた。

 「うわっ!」

 母は高津の首を両手で締めた。高津も必死で彼女を振り払おうともがく。

 だが、男の力で顔が腫れるほど殴っているにもかかわらず、その力は衰えない。

 むしろ、その顔に笑みがこぼれているのが奇妙なほど非現実的だった。

 (やめてえっ!)

 萌の振り下ろした銅製の花瓶が母の腕に落ち、やっとの思いでその腕から逃げ出した高津が青ざめた顔を彼女の母に向ける。

 どうしてかこの状況で、母はまだ微笑んで……

 「逃げろっ!」

 高津は母親が拾おうとしていた包丁を家の奥に投げ込んだ。そして萌の手にあった花瓶をひったくると、身体をかがめて力任せにその向こうずねを殴った。

 (……嫌だ、)

 もう見たくない。何も見たくない。ほとんど無意識に玄関の扉を開けて表に飛び出す。

 ドアを閉める音と共に、横に並んだ高津の姿が視野に入る。

 「違う、こっちだ!」

 やみくもに走ろうとしていた萌を高津が引き戻し、いきなり他所の家の敷地に飛び込んだ。

 「なっ!」

 しかし、抵抗しようとする萌に構わず、高津は彼女を引きずるようにその家の裏庭へと入っていった。

 「伏せろ」

 縁側の下にもぐると、高津は何も言わずにじっとそのまま外を睨んでいる。

 言葉を発することもできず、萌もそれに従う。

 いずれにしても何も考えられない。

 頭の芯が麻痺してしまったのか、目の前に霞がかかっているようだ。

 ぴったりと身体をつけた地面の上を、ワラジムシが驚いたように何匹か逃げていく。いつもならそれだけで悲鳴を上げて跳び上がるところだが、今はただ無感動に眺めるだけだ。

 やがて、道路を何人もの人が歩いている音がした。

 それは潮騒のように大きくなり、この家の前を通りながらやがて彼方へと去っていく。

 (……まさか)

 高津が息を殺しながら、血の気の失せた顔で萌を見た。

 恐怖がくだんの足音のごとく再び甦り、凍った神経を溶かし始める。

 (あたしたちを捕まえる……っていうか、殺すための人たち?)

 思わず横の高津の肘を強く握る。母が電話で呼んでいた奴らだろうか。

 「ぐずぐずはしてられないみたいだ」

 囁くように小さな声で高津は言い、縁の下から這い出た。萌も後に続き、彼に手を引かれるまま往来へと出る。

 「こっち」

 あの足音が向かったのとは逆の方向へと彼らは走った。

 高津はどういう土地勘があるのか、時には民家をつっきり、時には道路を走りして、ひたすら遠くへと逃げた。

 時々、敵がきそうな予感がすると言って、反対方向へとバックすることもあったが、そのためか不思議と一度も人と遭遇することはなかった。

 (……今、何時だろ)

 携帯電話の事を不意に思い出したが、当然通学カバンの中にあり、それは学校の下駄箱の前に置きっぱなしだ。

 振り仰ぐと今まで気にも留めなかった太陽が、やや西よりの空に薄黄色に輝いていた。

 いつもと違って場面ごとに一気に時が進む感じに焦る。。

 似たり寄ったりの住宅地を越え、畑や雑木林の中を抜け、やがて彼らはこの町でも比較的古く、大きな家が建ち並ぶ一角へとやってきた。

 その家々の北側には、標高二百メートル足らずのどちらかと言えば丘のような山と、それに連なるようにして八百メートルほどの山が隣町との町境よろしく立っている。

 「あっ!」

 と、突然高津が小さくくぐもった声を上げて立ち止まった。

 理由を尋ねる元気もなく、萌がぼんやりと顔を向けると高津は一つ首を振った。

 「もう、おしまいだ」

 萌は高津の次の言葉を待った。

 絶望的な響きの割に、彼は落ち着いているように見える。

 「取り囲まれた。この先、どこを通ろうとも奴らは待ってる……いや、待ってなんかいない。こちらに近づいてくる」

 高津の額から流れた汗が、鼻の横を通ってあごから地面へと落ちた。

 (スローモーションみたい)

 萌は落ちた汗の痕に目をやった。アスファルトの上にできた染みは、まるで穴のように見える。それはとてつもなく深い穴で……

 「神尾さん、俺たちはあの山の方へ行かなけりゃいけない」

 彼は目の前の家の裏にそびえる北の山を指さした。

 「だから、奴らが来たら北へ逃げろ。何があってもだ」

 「どうして?」

 「あっちには奴らがいないからさ」

 地面の汗染みは少し大きくなった。同時に深さも増していく。

 その色はどこかで見たような気がする鮮やかな紺色で……

 「高津君」

 麻痺していた萌の思考の一部が溶け始めた。それが凍らせていた恐怖をも解き放つことは知っていたが、それでもそれは必要なことだと理性が告げた。

 「どうする気?」

 高津は何も言わずに小さく笑う。

 それで萌は彼の意図を理解した。

 (あたしを逃がすために道を開けるつもりなの?)

 一瞬、あの鋭利な刃物を腹に突き立てられる感触を想像し、怖さのあまりその事に気づかないふりをしようかと思った。

 だが心が決定を下す前に、考えなしの口が先に動く。

 「あ、あたし、一人で逃げる気はないからね……というか、方向音痴だから絶対無理。他に何か方法はないの?」

 実際に敵の姿を見たら高津を犠牲にしてでも逃げるだろう自分の弱さを知ってはいたが、幸いなことにまだ、それを実行に移すほどの切迫感はない。

 「どっちから来るの?」

 「挟み撃ちだ。手前に見えるあの角を曲がったとしても、その先には敵がいる」

 高津は絶望的な目で正面を見つめた。遠い昔の名残を残すこの辺りの道路には、袋小路や曲がった道が多く、彼らが見つめる道の先もY字路になっているため見通しは悪い。

 「せめて、何が武器があれば……」

 そう、高津が呟いた時だった。

 北側の屋敷の、高さ二メートルはあろうかという塀に連なる大きな木の門、そこの潜り戸が小さく開く。

 そして、硬直して身構えた萌の目に、二十代後半ぐらいの男の姿が映る。

 「話は少し聞いた。追われているなら入るんだ」

 萌は躊躇して高津を見たが、彼は何も言わずに萌の手を掴んで潜り戸に向かう。

 「高津君?」

 「大丈夫、この人は青い」

 萌は頷いて、高津の後に従った。


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