自宅 1
やがて彼らは住宅地と畑地の境にある雑木林を抜け、その端にある神社の境内に入った。
そうしてそこでようやく息をつく。
(こんなの夢よ)
恐怖のためか涙も出ない。足だけが意志に反してがくがくと震える。
それを察してか、高津は神社の本堂の裏に周り、セメントの上に座るよう手で示した。
(絶対に夢……)
現実にこんなことが起こるはずがない。
和実から、十六歳になった記念だと押しつけられたR指定スプラッタ型のホラーDVD、あの中に似たような惨殺シーンがあったようななかったような。
「……不思議だったんだ」
しばらくしてから、横に座った高津がぽつんと呟いた。
「他のみんなは赤いのに、君だけ青い。不思議だった」
萌は眉をしかめて顔を上げる。一体何の話をしているのか。
思えば高津も変だ。パニックに陥るでもなく、不自然なほど行動が落ち着いている。
「ゲームみたいって言われるかもしれないけど、本当にそうなんだ。親父たちも赤い感じがした。そして近寄ってはいけないって気がした。だけど、通学途中で見る奴も全部そうで、俺は自分がどうにかなっちまったって思ったくらいさ」
挟む言葉が見つからないので、萌は黙って高津の言葉を待つ。
「そんな時、神尾さんにぶつかった。君は赤くない。むしろ青い感じで不思議だなって思って、でも歩いているうちに絶対味方だって確信した」
やはり、彼の言葉が理解できない。
「どうして?」
正直、二人が出会った当初、会話なんてほとんどなかったような気がする。味方かどうかなんて判断できるレベルでは……
「君、幻聴が聞こえたみたいだったから」
萌はゆっくりと顔を上げて、相手を見つめる。
「子供の声?」
高津は頷く。
「俺もそれを聞いた。だから心の中では学校に行ってはいけないって気がしてた。でも、家にいても危険だってことはわかったから、とにかく外に出た」
頭の中には霧が立ちこめている。
普段でも萌のレスポンスは悪いのだが、今日はさらにひどい。
だが、何か口を利かないといけないという思いで、萌は高津の発した単語の一つを繰り返した。
「学校に行ってはいけないってどうして思ったの?」
すると高津はふと眉をしかめる。
「幻聴、聞いたんじゃなかったの?」
「……あたしは何か声がしたってわかっただけ。内容までは聞き取れなくて」
「ま、俺も君とそんなには変わらない。そんな感じがする、っていう程度だから」
言いながら彼は辺りを見回した。
「それより、これからどうするかなんだけど」
「すごいね。高津君」
ぼそりと萌は呟く。何故彼はこんなに次々と考えられるのだろう。
「あたし、頭フリーズしてる」
高津は困った顔をした。
「俺一人だったら多分校庭でパニックになって死んでたと思う。ただ、君がびっくりしてるのわかったから、自分が動顛するきっかけを失っただけで……」
「ごめんね」
「……俺が先にどうにかなってたら、今頃君がそう言って俺を慰めてたろうさ」
彼は立ち上がって制服についた土を払う。
「で、その子供の声のことだけど」
「幻聴の?」
「うん、俺はその子を味方だと思う。危険を事前に教えられるような。だから俺たちはその子に会わないといけない。なるべく早く」
しかし萌は首を振った。
「どこにいるのかわかんない子を探すなんて無理。それに何が起こったのかわからないうちは家でじっとしているべきだと思う。テレビも何か言うだろうし、あたしたちの高校がおかしくなったのなら、警察が何とかしてくれるはずよ」
高津は萌の手を掴んで立たせた。
「家は駄目だ。俺の両親もおかしかったんだから、君の両親も変化しているかもしれない。それにあの集団には教師も混じってた。大人だって同じようにやられてるに違いないよ」
「そんなはずはない。あたしのお母さんは……」
言ってから萌は愕然とした。
今朝の母や、妹の妙の様子、行動を全く思い出せなかったのだ。
「なんでだろ……」
そう言うと、高津は少し痛ましげに彼女の肩を叩いた。
「いきなりあんなものを見りゃ、ショックで記憶があいまいになることもあるさ」
だが、なんだか泣きそうになってうつむいたその時だった。
萌の肩に置かれた高津の手がびくりと震えた。
「たか……」
しかし彼は口に指を一本当て、彼女を黙らせる。そしてできるだけ本堂の中央付近によると小さくしゃがみ込む。
(どうしたんだろ?)
だがその答えはすぐにやってきた。幾人かの足音が近づいてきたのだ。
「……でしょ?」
「いや、確かにこっちに来たとの通報があった。まだ近くにいるはずだ」
「早くカスを全部捉まえないと、おちおち仕事もしてられませんしね」
「カス退治だって大事な仕事だ」
男の声が遠くへと去っていく間、萌はただ震えた。
高津も緊張しているのか、萌の肩に置いた手に力が入っている。
(……お母さん)
十分間もそうしていたろうか、ようやく高津がその手を緩めた。
「あたし、家に帰る」
「よせ、危険だ」
萌は首を振った。無性に家族に会いたかったし、会えばこの悪夢が覚めるような気がする。
「高津くんは一人で行って。あたしは帰る」
「帰ってみて、家族がおかしかったら?」
「お母さんは大丈夫。だって家を出るときおかしかったんだったら、覚えているはずだもの」
高津はしばらくの間、萌を説得しようと言葉を継いだが、萌の意志が変わらないとみるや、諦めて一つ溜息をついた。
「わかった。どうせ俺だって次にどこに行くかなんてわからないんだ。だけどこれだけは約束してくれ。俺が見てお母さんが赤かったら逃げてくれるね?」
萌はうなずく。そんなことなどあり得ないのを知っていたからだ。
二人は辺りを窺いながら神社を出た。途中幾度か高津は歩みを止め、物陰に隠れたが、そのたびに五人ほどの集団が彼らの側を通り過ぎて行った。
(お母さん)
自宅の表札が見えたところで、萌は思わず駆け足になった。
まだ、朝出てからそれほどの時間は経っていないはずなのに、家の前に立つととても懐かしい気がする。
「ただいま」
萌が玄関のノブを回すと、珍しく鍵がかかっていず、それはすんなりと開いた。
「萌?」
玄関に現れた母はひどく驚いた顔をした。それはそうだろう、こんな時間に帰ってくることなど普通はない。
そんな母の顔を見るとほっとして、思わず萌は玄関にしゃがみこんでしまった。
「どうしたの、一体?」
「怖かったの、とっても怖かったの」
急に今までの緊張がどっと緩む。萌は早く事情を説明しようと顔を上げたが、相手の視線が自分より相当上にあることに気づき、ようやく高津のことを思い出す。
「ごめん、高津君」
慌てて後ろを振り向き、立ち上がって母に紹介する。
「後でゆっくり説明するけど、高津君はあたしを助けてくれたの」
「まあ……」
母はまだ現状を把握できていないような顔をしていたが、とりあえず一つ頷いた。
「とにかく二人ともお上がりなさい。話はそれからよ」
「うん」
「二階に行ってらっしゃい、何か飲み物でも持って上がるから」
「うん」
母の言葉を受け、萌は黙りこくった高津を自分の部屋に案内した。
こんな時は妹の妙が綺麗好きで良かったと思う。彼女は出しっぱなしにした萌の本まで片づけてしまうのだ。
「よかった、やっぱり家は安全よ」
しかし、同意を求めた萌に対し、高津は予想に反して固い表情のまま首を振った。
「いや、すぐに逃げよう。君のお母さんは赤い」
「何言ってるの? 高津君も見たでしょう? あれはいつものお母さんよ」
少しむっとして高津を睨む。仲間に刃物を突き立てた高校生たちの表情を高津も見たはずだ。あれと母が一緒だなんて侮辱も甚だしい。
「違う、逃げるんだ。俺たちはやっぱりここに来てはいけなかったんだ」
萌の手を掴もうとした相手の右手を振り払い、萌は立ち上がった。
高津はきっと羨ましいのだ。自分の両親が変わってしまったのに萌の母が普通だから。
「大丈夫よ、子供のあたしが変じゃないって思うんだから」
萌は高津を残して部屋を出た。とにかく早く母に自分の話を聞いて欲しいし、もし、この付近がそれほど危険な状態なら、戸締まりを忠告せねばならない。
「……です、はい。二人で」
台所から母親の声が聞こえる。電話中らしい。萌は構わず入ろうとしたが、その声にさっきとはうって変わった硬質な響きを感じ、何となく立ち止まる。
「もちろん、引き留めます。ただ二人一度に処理しようとすると逃げられる可能性が高いので、やはり専門家にお願いした方が……」
萌の顔から血の気がひいた。
母は一体誰と何の話をしているのだ?