ガレ場 1
「どうだ、高津?」
村山が萌ごしに高津に声をかけた。
「人数が減ったみたい」
少し高津は考え込み、それから後ろを振り返った。
「五人くらいは同じスピードで上がってくるけど、ほかの赤い人たちは十分前ぐらいに止まったまま動かない。それこそ二百メートルぎりぎり圏内で、もうすぐ見えなくなる」
「残りの五人との距離は百五十メートル弱のままか」
「うん」
アドバンテージの三十分は変わらずのようだ。
「丸山で挟み撃ちになった時の、後ろにいた八人なんだろうか?」
高津は首をすくめる。
「さすがにそこまではわからないな」
と、
「おい疲れた、ちょっと速度を落としてくれ」
井上が空気を読まずに音を上げた。
「女の子がこんなに頑張ってるんだ、貴方も頑張りなさい」
どうしてか北浜が井上を叱咤する。
(……北浜さんはいい人だ)
それは何となく嬉しい。
「高津、こちらに向かっている五人との距離に差が出てきたら教えてくれるか?」
しかし、井上に気を遣ってか村山が高津に声をかける。
「わかった」
頭はひどく重い。
しかし、当初と同じように身体の疲れはさほど感じなかった。
(……本当にあたし、スタミナついたのかな)
右手が崖で、左手が山肌。この位置からは頂上は見えない。
空を見上げると、幾度か経験した青い夜明けが近づいていた。
「なあ、一度休もうぜ」
再び井上の声がしたので萌は振り向く。
しかし村山は首を横に振っていた。
「申し訳ありませんが、あと三十分程度歩いていただけませんか?」
「何故?」
「ここは極めてまずい位置です。できるだけ早く抜けないといけません」
井上は座り込んだ。
「なら、お前たちだけ先に行ってくれ。俺は少し休む」
「井上さん、それは」
「もう、歩けないんだ」
「せめて、あと三百メートルほど……」
と、突然、井上が咳き込んだ。
彼は屈み込み、今にも吐きそうな姿勢で苦しげにむせた。
慌てて村山が北浜を押しのけて側に駆け寄る。
「井上さんっ」
「水、水をくれ……」
村山は暁を降ろして北浜に預けると、リュックを開けてペットボトルを取り出そうとした、が……
「あっ!」
本当に一瞬の出来事だった。
屈んだ村山の横を井上は一足飛びに避けて、北浜の側に走る。そうしていきなり暁の腕を掴んで引き寄せた。
「井上さんっ!」
村山が目を見開いて動きを止める。
「な……」
その視線の先には鋭いナイフ。それが暁の首にかかる。
萌は声も出せずにその場に固まった。
井上はそのままじりじりと後ろに下がった。
「やっと捕まえた」
太陽は見えないまでも、東側は朱に染まっている。その光の中、井上がほっとしたように笑った。
「これで俺は助かる。命が助かるんだ」
北浜が首を振った。
「貴様、気でも違ったのかっ!」
「充分正気さ。何せ大手柄だ」
村山が立ち上がって一歩進もうとしたが、暁の首から一筋血が流れたのを見て立ちすくむ。
「哀しいことだが、お前たちのような人間を捕まえるために生かされている残りカスというのもいるんだよ。逃げたカスかリソカリトを見つけない限り死ぬまで誰もいない山の中を徘徊するか、奴らに出会った途端に殺されることになってるんだ」
高津が身震いする。
「あれは全部、作り話だったのか?」
「全部じゃない。作り話は最後だけさ」
井上が後ずさりしながら笑う。
「俺は部屋から逃げちゃいない。全員殺して生き残ったのさ。だが、それ程の苦労をしたのに丸山なんぞが俺の責任テリトリーだと言われた時にゃあさすがに絶望した。だが、俺もまだまだ運に見放されてはいない」
井上の足が崖の淵にかかり、からからと石が下に落ちる。
「さ、あと二十分程度で奴らは来るぞ、お前たちだけでも逃げたらどうだ? 俺はここから動かんからな」
「知っての通り、俺もリソカリトだ」
村山が両手をあげた。
「暁を放してくれ、代わりに俺が人質になってもいいから……」
「冥土のみやげに教えてやろう。リソカリトって言ってもランクがある。こいつは多分最高ランクだ」
歯を見せて井上は笑った。
「お前みたいに弱いテレパシー程度しか持たないリソカリトは俺と同じカス扱いさ。しかしこいつは違う。リソカリトの中でも稀にしか現れない特殊能力者なんだよ」
村山が真っ青な顔で首を振る。
「よせ、貴方も見ただろう? その子は夕貴と一緒に北浜さんを治した。その子がいればみんなを元に戻せるんだ!」
「こんなチビが一人二人いたところで何になる? 奴らは何万、いや何十万といるんだ。無駄な抵抗ってものだよ」
暁の顔がこわばったのは、刃物がさらに食い込んだからか。
「ほらほら、逃げろって。全く奇特な奴らだ。でもま、全員ひっつかまってくれるなら大手柄だ。俺はひょっとしたら命だけでなく役所の仕事だってもらえるかもしれん」
「いい加減にしろっ!」
北浜が怒鳴る。
「あんたに人としての尊厳や理性はないのか?」
「ないね。そんなものはあの日に全てなくしてしまった」
途端、暁が身じろぎした。
「逃げてっ! 夕貴っ!」
見ると高津の背から飛び降りたらしい夕貴が暁の方に走り出そうとしていた。それに気づいた村山が慌てて彼女を抑える。
「だめっ、きちゃだめっ!」
と、その時だった。
ズキュンという音がして、まるでスローモーションのように井上が宙に撥ねた。
そして暁もろとも崖の下に落ちていく。
「あきらあっ!」
萌の叫びとともに、つんざくような悲鳴が辺りに満ちる。
それが夕貴の叫びだと気づくと同時に第二弾が岩肌をえぐった。
高津が萌の手をつかみ、そして走る。
(ど、どこから?)
明るくなった山間はようやくその姿をくっきりと現した。
敵のいる場所は道のりにすれば遠い。しかしここはちょうどアルファベットのCの先端同士のように、距離的には近づいた場所だったのだ。
村山もまた、ぐったりとした夕貴を抱きかかえて走りはじめる。
萌の頭は既に真っ白だった。何も考えられず、ただ足だけが反射的に動く。
何度も銃声が聞こえた。
それは彼らが獲物であることをいやが上にも教えているようだ。
やがて彼らとの見た目の距離は遠くなったが、しばらくすると逆に高津が焦り始める。
「ピッチ上げてっ! 近づいてきたっ!」
どうやら追っ手の足は速いようだ。
崖は終わったが、足下が徐々に悪くなってきた。
必死で進もうとするが、急ぐと足を取られる。
慎重になると歩みが遅くなった。
「来たっ!」
後ろを見ると、確かに人のような黒い塊がこちらに向かってくるのが見えた。
弾切れか、それとも余裕のせいかはわからなかったが、彼らはもう銃を発射せずにじわじわと間を詰めてくる。
(殺されるっ!)
敵が間近に迫り、今にも捕らえられる、そう萌が思った時だった。
またも銃声が鳴り響く。
「!」
だが、倒れたのは萌が見ていた男たちの方だった。
「北浜さんっ、撃つな! 彼らは治るんだっ!」
村山が叫んだが、パニックを起こしている北浜は、至近距離から銃をさらに発射した。
「やめろっ!」
すれ違い様、夕貴を萌に渡した村山がようやく彼に追いついた時には銃は既に空であり、カチカチという乾いた音だけが周りに響く。
「村山さんっ! 左っ!」
追っ手で生き残っていた一人が彼ら二人に飛びかかる。
萌の膝はがくがくと震えた。
白み始めた空の下で、敵が拳銃を構えたのが目に入ったのだ。
だが、村山はそれをびっくりするほどの速さでかいくぐり、下から相手のあごに拳を入れる。
そしてすぐに相手の胸板の真ん中にもう一発。
「!」
ふらついた男の頭を北浜が持っていた拳銃で殴ると、男はそのまま地面に突っ伏した。
(……もうやだ)
腕の中でぐったりとしている夕貴は、青白い光の中で死体のようにさえ見える。
萌はそんな彼女から醜い光景を隠すように力一杯抱きしめた。
村山が肩で息をしながら、倒れた男の側に屈んで手首を取る。
北浜は自分が撃った男たちの方へと駆け出し、いくつかの銃を拾い上げて戻ってきた。
やがてゆっくりと村山も立ち上がり、萌の側にやってくる。
そして黙って夕貴を受け取ると、再び前に歩き出した。
「そのまま放っておいていいの?」
また立ち上がって彼らを追いかけてくるのなら、縛るなりなんなりした方がいい。
そう思って言ったのに、彼は小さく首を振った。
「診たところで何もできない」
高津が村山の方に数歩歩いた。
「暁を捜しに行く?」
「……行ったところで何もできない」
絶望的に響いた声には引き裂かれるような哀しみが宿っていた。
その瞬間、萌の胸にも激しい痛みが走る。
「暁を……」
高津が唇を噛んで村山を見た。
「見捨てる?」
辛さがじわじわと上に上がってくる。だのにどうしてか涙は出ない。
乾いた苦しみがただどんよりとまとわりつくだけで。
「……済まない」
高津が村山の肩を拳で軽く打った。
「村山さんが謝ることじゃない」
と、その振動でか夕貴が身じろぎをし、瞳を開けた。
「夕貴、大丈夫か?」
高津が呼びかけたが、しかし彼女は応えない。
「夕貴……」
村山の問いかけにも、彼女は反応しない。
「ショックも大きいだろうが、それだけじゃなく耳の問題がある」
村山が一度腕の中で夕貴を持ち上げて、ちょうど抱きやすい位置に落とす。
「暁を通じて感じていたものもあっただろうから」
苦しくて萌は唾を飲み込む。
号泣したり、叫んだり、あるいは井上をなじったりすれば少しは楽になれるのかもしれない。
だが、そんな気力は既になかった。
何も考えないでいる方が随分と楽だから……




