江戸通り 3
萌は引っ張られるがままについていった。
とは言え、高津がいない今、出会い頭に彼らに会わないように、村山は角にくるたびに様子を見ながら先へ行く。
なので、時間の割には二人は先へと進めない。
「!」
と、村山が立ち止まり、萌を引っ張って自動販売機の陰に隠れる。
後ろは駐車場なので、こちらに入ってこられると丸見えだったが、幸いにも通行人はそのまま真っ直ぐ道を歩み、こちらに来ることはなかった。
二人は汗をぬぐい、そして再び前へと進む。
(きっと今晩だけで十年分くらい寿命が縮んだはず……)
途中、同じように何度か人の姿を見かけて物陰でやり過ごしたが、さっきの事件のことはまだ世間に知られていないのか、パトカーが走り回る気配もない。
(でも……)
まだ空が白むには早いが、間もなく夜明けを迎えるという時刻になると、萌のぼんやりとした心にも、焦りがさざ波のように訪れてきた。
「朝までには行きつかないな」
彼女の心を見透かしたかのように、村山が低く呟く。
「どこか隠れる場所を見つけよう。そして蔵には明日の夜、改めて行った方がいい」
「でも、どこに?」
不安で震えた萌に、村山はしっかりと頷いた。その姿は何よりも頼もしい。
「この先に高校がある。第二グラウンドの体育用具倉庫に潜り込もう」
「体育用具倉庫?」
萌は少し足を速めた村山に歩調を合わせながら囁く。
「でも、体育の授業があったら……」
「大丈夫。第二グラウンドはサッカー部専用だし、今日は日曜だ」
萌は目を見開いた。
もう、曜日の感覚など既になくしている。
(よく、そんなことを覚えていられる……)
感心しながら彼のあとに続き、ようやく二人はくだんの高校に到着した。
「行けるか?」
萌は頷き、金網に取りついてグラウンドに入った。途中、足が金網に引っかかって向こう側に転げ落ちそうになったが、村山に支えられて何とか地面に降り立つ。
間をおかずに村山も軽々と金網を越えてグラウンドに入った。
そして彼は何を探すでもなく、真っ直ぐに歩き、やがてグラウンドの南西の隅にあるプレハブっぽい建物の前で立ち止まった。
それは並んで二つある。
そのうちのグラウンド寄りにある方の倉庫まで村山は歩き、まず、横に生えている木の根元にあったブロックをどけ、その後ろの穴から変な形をした針金を取りだした。そしてシャッターのロックを外すとそれを元の場所に戻し、そして扉をそっと三十センチほど引き上げた。
二人はその間に身体を滑り込ませる。
「よし」
村山が再びシャッターを降ろすと、途端に真っ暗になったので、萌は思わず前にあった跳び箱のへりに手をかけた。内側から施錠した、がちゃりという音が奇妙に部屋の中に響く。
「こっちの倉庫は普段使わない体育祭用の入場門とかマットとかが入ってるから、日曜日にはまず開けないと思う。隣の倉庫はひょっとしたらサッカー部が使うかもしれないけど」
声のした方に萌は顔を向けた。
「何でそんなことがわかるの?」
「母校だから」
「え?」
幾分目が慣れると天窓からの光で、ぼんやりと辺りの用具の輪郭が見えてきた。
村山はマットの上を乗り越えて右奥の隅へと進み、用具を少しずらして場所を空けると萌を呼んだ。
「ここなら壁に小さな穴があるから、こっちに人が近づいてくるのがすぐわかる」
萌は村山の向かいに座り、村山寄りにあるその穴を覗いた。
少し辺りが明るくなってきたのか、外の金網がぼんやりと濃紺に浮かんでいる。
「何でこんな妙なことに詳しいの? いくら母校でもおかしいよ」
萌が身体を戻しながら尋ねると、村山は煙草を吸う仕草をした。
「校規が厳しくってね、生活指導の教師がトイレまで巡回するんだ。だからここくらいしかゆっくりと一服できるところがなかった」
「……お医者さんなんでしょ?」
「その頃は高校生だった」
「今はやめてるんだ……」
村山が煙草を吸うところを一度も見たことがなかったのでそう言ったが、ふとあることに気がついて萌は顔を上げる。
「ひょっとして、休憩中に時々いなくなってたのって……」
「あ、ばれちまった」
さすがに萌も少しあきれた。
「仮にも大人なんだから、何も隠れて吸わなくったっていいのに」
「習い性なんだろうな。高校時代もそうだったし、大学でも色々言う先生がいたし」
「今は?」
「内科は怒られるけど外科は煙草OKだって言うからそっちに進んだのに、今の病院は建物内完全禁煙で、たまに外で一服してると仕事さぼってるみたいに言われたり……」
「村山さんも、苦労してるんだ」
「……うん」
萌は少し笑った。
「これを機会にやめたら?」
「……考えとく」
「お父さんがポリープで入院した時、煙草吸う医者は信用できないって言ってたよ」
「やっぱり?」
さすがに軽口が過ぎたかなと思い、萌は慌ててフォローする。
「もちろん村山さんは煙草吸ってても、いいお医者さんだと思うけど」
「……いや」
彼はふと自分の手を見つめた。
「人を助けるはずの医者が、こんなことやってたら駄目だよな」
呟いたその声があまりに絶望的に聞こえたので、萌は思わず彼の顔を仰ぎ見た。
「こんな事」がどれほど彼を傷つけているかを感覚的に理解したような気がして。
(村山さんのせいじゃないのに……あたしたちを助けようとしてくれただけなのに……)
しかし萌の視線に気づいたのか、村山は慌てたように手を振った。
「煙草のことさ、もちろん」
そっと微笑んだあと村山は両手を頭の後ろに置き、跳び箱にもたれかかった。
そして壁の穴をじっと見つめる。
「……そうだな、食事と一緒でいくら吸っても吸った気しないし、明日から禁煙しよっか」
「今日じゃなくて?」
「そう、明日」
明日。
その言葉を思った途端、どうしてか萌の身体に震えが走った。
(今日、どうなるかだって全然わからない)
明日なんて言っても、本当にそれが来るのかどうかの保証はない。
このあとも彼らを害虫みたいに狩り、殺そうとする者達に遭遇しないようにまたびくびくと逃げ回ることだけは確かで。
そして見つかったら最後、相手か自分かどちらかの血は確実に流れる。
(……どうして)
思わず泣きそうになり、萌は唇を噛む
一人ならともかく、村山と二人きりの時にそんな真似はできない。