北の山 4
「ところで君たちはどこから来たんだい?」
人心地ついた頃、水筒の水を飲みながら村山が尋ねた。
「わかんない」
「え?」
暁は哀しげに呟いた。
「気がついたら夕貴と二人でここにいたんだ」
村山は優しく頷く。
「そうか、じゃあ、君たちの住んでた所の住所はわかる?」
暁は勢いよく答えた。
「うん、あのね! 本町五の三十六!」
「その上は?」
「上?」
「そうだね、何県とか何市とか」
暁は答えたが、それは萌たちが住む町と同じ県名だった。だが、彼はそれ以上は電話番号も覚えていなかった。
「じゃあ、通ってる小学校の名前は?」
「松原小学校」
よくある名前だ。
「じゃあ、ちょっと別の事を聞くよ。君たちはいつからここにいたんだい?」
暁は指を折った。
「三回夜があったぐらい?」
「え! こんなところにずっと?」
「うん、僕がどっかに行こうって言っても夕貴が絶対にここを動かないって言うから。本当に大変だったんだよ」
(そんな……)
萌は思わず声をあげそうになる。確かに萌たちは追われてばかりで辛かった。ここにたどりつこうと必死で山道を歩くのは大変だった。
しかし、こんなところでこんな子供がひたすら助けを待って座っているのは別の意味で恐ろしく忍耐のいる事ではないだろうか。
高津が溜息をつく。
「よく我慢したね、偉いや」
暁はちょっとだけ胸を張った。
「最初はね、二人で遊んでたから良かったけど、だんだん飽きて、どっかに行こうと思ったんだ。でも夜は暗いし、そんなとこに夕貴を一人ぼっちにしたら僕は悪いお兄ちゃんになっちゃうし。それに夕貴が山を下りたら鬼が出るって言うから」
「鬼?」
萌の脳裏に母の姿が一瞬よぎった。
(この子たちは何か知っているかも知れない)
聡明そうな顔立ちの二人を見ていると、そんな期待が心に浮かぶ。
「ご飯はどうしていたんだい? チョコレート食べる?」
高津が彼らを気遣うように訪ねた。
(高津君は優しいな……)
またしても自己嫌悪だ。でも、こんな時に他人の腹の減り具合まで心配できる高津の方が異常な気もする。
「お腹が空かなかったから食べてない」
「なんだ、君たちもか」
村山が首をかしげた。萌たちも食事は一日に二度取っているが、ほとんど義務的に喉に流し込むだけで、味も何もわからない日々が続いていた。
「こうなると俺たちの方がエイリアンみたいに思えるな」
萌は高津を睨んだ。
「せめてスーパーマンって言ってよ。正義はこっちにあるんだから」
村山がわずかに笑ってコップを置いた。
「まずはわかりやすいところから聞いて行こうか。……暁君、君が俺たちを呼ぶときに言ってた、『早くしないと間に合わない』ってのはどういう意味なんだい?」
暁は困ったように夕貴を見た。どうやら暁は夕貴に言われるがままに萌たちを呼んでいたらしい。
「うう……う」
心の中で会話したのか、夕貴がふわりと頷くと、彼は得心したとばかりに顔を上げた。
「あのね、町の人を助けて、あれを倒すのは今がぎりぎりなんだって。でないともっと広がっちゃってお仕舞いになるから」
「……え?」
三人は絶句した。
「それって」
一番先に我に返った村山が全員の意志を代弁する。
「どういう意味かな、あれって何だ? 広がる? そして君は何を知っているんだ?」
「……何って?」
暁は困惑した表情で妹を見たが、今度は夕貴も質問の意図がわからなかったらしく、微かに首を振った。
「ごめん。じゃあ今からおじさんが言う質問に順番に答えてくれるかい?」
おじさんというよりはお兄さんにしか見えない村山は、子供たちの目線近くまで屈み込んだ。
「まず、今言った助けなければならない町の人ってどれくらいいるんだろう? 日本全部? それとも十人ぐらい?」
暁は夕貴を見てから口を開いた。
「どれくらいかはわからないけど、とにかく一杯って」
「じゃあ、あれを倒すって言ってたけど、あれって何?」
「緑のお化け」
村山はぽかんと暁を見つめる。
「……緑のお化け?」
暁は頷いた。
「うん、僕も夕貴が言ってるそれがどんなお化けなのかはわかんない。多分夕貴もいまいちわかってないと思うし」
意味を図りかねてか村山が怪訝な顔をした。
「夕貴ちゃんはどうやって緑のお化けが悪い奴ってわかったのかな?」
少女はじっと高津を見て、そして彼を指さす。
「このお兄ちゃんに教えてもらったって言ってる」
「は?」
今度は高津が驚愕した顔で夕貴を見た。
「俺が、何で?」
萌は動揺している高津に顔を向けた。
「高津君、この子の知り合い?」
「そうだったら言ってる。もちろん今初めて会ったとこだよ」
村山が再び夕貴と暁に向かう。
「このお兄ちゃんをどうして知ってるんだい?」
暁からの翻訳時間をおいて、夕貴は軽く首を振った。
「夕貴も知らない」
ますます意味がわからない。
「でも、黒い人のことを聞いたのもそう。……だって」
「黒い人?」
「そう。黒い人に会うんだって夕貴はずっと言ってる」
「黒い人はいい人?」
「それはわかんないけど、緑のお化けは悪者だよ。で、黒い人に助けてもらうんだって」
村山は途方に暮れたような顔で暁を見る。
「それで、『緑のお化け』を倒せば町の人を救えるって言うわけなのか」
「そういうこと」
萌は高津を見た。
「よくわかんない話ね」
しかも子供の言うことだ。
そしてよくわからない話の原因に勝手にされてしまった高津は尚のこと、衝撃を受けたような顔で立ちつくしている。
「……高津君」
仕方なしに萌はもう一度高津に声をかけた。
「なんとなく振り出しに戻ったみたいね。今まで『子供の声』を頼りにここまで来たのに、次は『黒い人』を探せって……」
「……うん」
何となく高津の様子がおかしいような気はした。
村山もそう思ったのか、わずかに問うような眼差しを彼に向ける。
「つかぬことを聴くけど、君は緑のお化けを知ってるのかい?」
高津は目を見開いた。
「何故?」
「……今の話の流れから考えると、そうとしか思えないから」
萌は驚いて高津を見た。
「……そうなの?」
しばらくの間の後、高津は小さく頷く。
「うん」
しかしすぐに首を横に強く振った。
「でもさ、それって随分昔に見た夢なんだ。だから俺もよくわからないし、今回のことに関係あるかもわからない。夕貴ちゃんがそれを何で知ってるかも……」
わずかに震えた高津を見て、村山がその肩に手を置いた。
「夕貴ちゃんはおじさんが考えてること、わかるかい?」
暁が夕貴を見てから答えを返す。
「……時々わかるときもあるみたい」
「いつもじゃないんだ」
「僕以外の人はそう。……それでね」
暁は頷く。
「僕の時でも、僕が話したい事はわかるけど、教えたくないことや隠したいことはわからないんだ」
微かにほっとした顔の高津を見て、萌は彼の恐怖をようやく理解した。
高津も夕貴もお互いを知らなくて、夕貴はテレパシー能力を持っている。ということは、高津の心を夕貴が読んだのだ。
それは確かに気持ち悪いかもしれない。
「高津君、その夢の話を少し聞いていいかな?」
高津は困惑した顔のまま頷いた。
「小さい頃に見た怖い夢ってだけで、全然覚えてないに等しいんです。今、夕貴ちゃんに聞いて、ようやくそんなのあったなってぐらいの記憶で……」
彼は眉間にしわをよせて考え込む。
「覚えているのは、その日が六日目だったってことと、緑のお化けが怖かったってことと、やっぱり四人いないと駄目なんだなって諦めたこと、それだけ」
萌は怖々聞いてみる。
「緑のお化けってどんなもの?」
「ごめん、思い出せない」
「黒い人は?」
「……多分、俺は黒い人は見てない。でも……」
高津はまた考え込んだ。
「黒い人に助けてもらえるかも、って思ったような思わなかったような」
村山が高津を見つめる。
「じゃあ、今がぎりぎりでこれから広がるっていうのは?」
「そこは全然わかんない」
少し首をかしげて村山は考え込んだ。
その沈黙の合間、高津は疲れた顔で首を振る。
「いずれにしたって雲をつかむような話さ。特撮映画じゃあるまいし、黒や緑のお化け相手に何をしろと? 第一そいつらがどこにいるのかもわからないのに」
「ううん、夕貴はわかるって」
「黒い人のいる方向が?」
萌は驚いて暁と夕貴を見る。
(……そういうこともあるかも)
村山がそうだったのだ。夕貴もそんな力を持っていないと誰が言えよう。
「それはわからないみたいだけど、場所の名前はわかるって。ええっと、岩岳って山のてっぺん?」
瞬時の間の後、全員が驚愕して顔を見合わせる。
「岩岳……」
「そこにいるんだって。そこにいけば黒い人が全部教えてくれるって」
皆と共に萌は息を呑んだ。
町には東側を除く三方に駒山地、あるいは巨馬山地と呼ばれる低い山並みがある。岩岳は町の南南東にある山の名だ。つまり、こことは町を挟んで反対側にあたる。
岳と言うほど高い山でもなかったが、山自身が昔、信仰の対象になっていたとかで今もその名で呼ばれている。
「で、でも、うちの町の岩岳じゃなくて、北海道とか九州とか、どこかずっと遠くにも同じ名前の山があるかもしれないし……」
しかし暁は萌に向かって首を横に振った。
「歩いて行けるぐらいの山だよ、多分」
だとしたらそれはあの岩岳だ。
「もう一度、あの町に戻れって?」
高津が青い顔で呟く。しかしそれには村山が首を振った。
「いや、そう短絡的に考えることはない。町の西側の山伝いに人気のないところを探して迂回していけば、二週間ぐらいで行けると思う」
「それじゃあ駄目だよ、時間がないもの。もっともっと早く黒い人に会わなきゃ」
「……どうして?」
「それもわかんないけど、多分、その時しか黒い人がそこにいないんだと思う」
「そう言えばさっき、君は夢が六日目の話だったって言ってたよな?」
村山が高津を見つめる。
「……だから早くしないと間に合わないってことなのかい?」
しかし高津は不安そうな顔で村山に首を振った。
「あんまり覚えてないし、それにあんまり信じない方がいいよ。だって所詮俺の夢なんだから」
萌は村山を見る。
「ここからだと、どれくらいで岩岳に行けるの?」
「……真っ直ぐ町の中心を通って四日間ぐらいってとこだな」
萌の脇の下が汗に濡れた。思い出さないように努めてきたあの朝のことが甦る。血で染まったグラウンドや友人たちの奇妙な笑み。喉に突き刺さる鋭利な刃物……
「いやよ、戻りたくない!」
高津が優しく萌の肩を叩く。
「行くと決まったわけじゃないよ」
「でも、他にどんな方法があるの?」
筋違いも甚だしかったが、萌は高津に噛みついた。
「ここで飢え死にする訳にはいかないじゃない!」
「かと言って、安易に動いて彼らに捕まるのはまずいよ」
高津の言葉と同時に、屈んでいた村山が立ち上がって岩に座り直した。
彼は再び考え込む。
その間があまりに長かったので、暁がしびれを切らして村山の膝を揺らした。
「ね、お兄ちゃん、行くよね?」
村山は物憂そうに首を横に振る。
「こっちの高津君と違って、俺はお兄ちゃんじゃない。おじさんと呼ぶんだ、いいね?」
「いいけど」
少し暁を見つめた後、村山は少し目を細めた。
「……そうだな」
そして微妙に首を傾ける。
「……行って見た方がいいかな」
高津がはじかれたように村山を見る。
「本気ですか?」
「考え中ではあるけど、神尾さんの言うとおり、他に方法があるわけでもない。ただ……」
「ただ?」
「やっぱりちょっと怖いかな」
暁が村山の前で腰に手を当てて仁王立ちした。
「大人なのに怖いの?」
「うん」
「じゃあ、僕の家来にしてあげようか?」
「そしたら怖くなくなる?」
「…………多分」
村山は微笑った。そうして高津と萌を見る。
「どうだろう、選択肢が二つなら時間が制限されている南に戻るべきじゃないかな。この山の北側の町にも行ってみたいが、そこも奴らの支配下にあれば取り返しがつかない」
「でも村山さん、南は間違いなくリスキーなんだぜ?」
高津はますます悲観的な言葉を吐いた。
「だが、ワンゲル部の学生が俺たちよりも北にいたことを考えると、北が安全だという保証はどこにもない。そうした場合、地の利のない場所よりは自分たちが住んでいた町の方がましとも言える」
確かに北町の細かいところは分からない。
だが、萌たちの町、その東にある南東町、今話題の北町の三つを合わせて市にしようという話が何度も出ており、全く知らない訳でもない。
(だったら……)
高津の言うとおり、絶対危ない町に戻るよりも、ひょっとしたら危なくないかもしれない町に向かう方がいいのではないか?
少しの時間をおいて、高津が頷いた。
「わかった、こうしよう。機動力のことも考えて、南には村山さんと俺が行く。神尾さんは子供たちを保護してここで待つ」
萌は目を見開く。
「……え?」
「女の子や子供は可哀想だよ」
「でも……」
否定の言葉らしきものが口から出たが、内心はふっとそれに甘えようかという気になった。
南に戻るのは怖い。今度こそ絶対に殺される……
「それは駄目。四人そろわないと勝てないから」
「は?」
三人の強い視線を受けて、今度は若干気弱に暁は頷いた。
「……って、さっきお兄ちゃん、言ったよ」
「言ったけど、さほど意味がある言葉じゃない」
高津は肩をすくめる。
「何度も言うけど、俺の夢だし、それにそれがどの四人かもわからないしさ」
「夕貴はわかるみたい」
「え?」
村山が静かに夕貴を見つめる。
「それはここにいる四人でなければ駄目ってことかい?」
「村山さんっ」
高津が言いかけたが、村山が柔らかな眼差しで彼の言葉を制して頷いたので、暁が代わりに口を開いた。
「……夕貴はそう言う意味じゃないって言ってる」
「じゃあ、別の四人でもいいのかな?」
暁は村山の言葉を夕貴に伝える。すると彼女は少し悩むような顔をした。
「いいときもあるし、悪いときもあるって」
「いいときってどんな時?」
「……ええっとね、今みたいな時」
「悪いときっていうのは?」
「……今みたいじゃない時……だよね、夕貴?」
村山は微かに笑った。
「四人そろうとどうなるんだろ?」
「ううんとね、緑のお化けに勝つの」
「どうやったら勝てる?」
「とにかくやっつけるんだ」
「六人とか七人とか、人数が増えたら?」
「多いほどいいみたい」
村山は高津を見た。
「言ってる意味、わかる?」
「いいえ」
それを聞いた村山はなおも暁に尋ねたが、要領を得た答えは返ってこなかった。
「黒い人が本当にこの世にいるのなら、直接話を聴くのが一番てっとり早そうだな」
「村山さんと暁君と夕貴ちゃんの間で、伝言ゲームになってるもんね」
村山の言う通り、それを解決するには黒い人本人に会うこと以外にないのは明白だった。
「とは言え、かなりの危険が伴うことは充分予想できる。確かに話を聴くだけなら俺一人でもいいんだが」
「俺も行きます。だって、一人じゃ緑のお化けとやらに勝てないんでしょ?」
すると暁が慌てて立ち上がる。
「駄目だよ、こんな寂しいところにお姉ちゃんと夕貴を置いていくなんて。
萌は苦笑いを口元に浮かべる。
子供にまで庇われる自分がちょっとだけ情けない。
「もちろん、お姉ちゃんも行くよ」
「神尾さん!」
心配げな高津がこちらを見る。
「いいのか? あそこに戻るんだぜ?」
「だって、他にどうしようもないこと、何となくわかったし」
村山がカップの白湯を飲み干した。
「方針は決まったな」
夕焼け空が次第に暗くなる中、萌は頷く。
行くのも嫌だが、高津たちがいない中、こんな所に知らない女の子と二人で残されるのはもっと嫌だった。
(大丈夫……)
しかし思いとは裏腹に、萌の指は細かく震えていた。