学校 1
〈……ってて。……から……〉
「え?」
声がしたような気がして、萌はきょときょとと辺りを見回した。
だが、そこには誰もいない。
(……子供の声かと思ったけど)
それすらあまり定かではない。
(……ま、いっか)
頭を一度振り、萌はいつもの通学路を歩く。
秋風が頬を撫でるように吹き、肩までの髪が優しく揺れた。
(今日の山は、くっきりしてる)
この町は小さな盆地になっていて、隣町との境となる東真川が流れる北東側を除いて三方に巨馬山地と呼ばれる低い山が連なっていた。
今朝は晴天で、西山の上にうっすらとかかる筋雲以外は全て青い。
「あれ?」
萌は百合子の家の前で立ち止まった。
門の前に立っているはずのいつもの姿がない。
寝坊したのだろうと思って呼び鈴を押したが誰も出ない。
仕方なく萌は再び高校への道を歩き始めた。
(……変なの)
母親同士が知り合いだったこともあって、百合子とは小学校の頃からずっと一緒に通っているが、萌に何も言わずに休んだことはない。
風邪で休むにしても、彼女の母親からハンコを押した生徒手帳を預かるのが常だ。
「あれ?」
菜園の横にある電信柱の側にいるはずの和実もいない。
しばらく待ったが、こちらに向かってくるはずの人影を見ることはなかった。
(……どうしたんだろ)
引っ込み思案で内弁慶な萌は、一人で学校に行くのが嫌だった。
だが、遅刻するぎりぎりまでそこにいても誰も現れないので、やがて諦めて歩き出す。
(なんか今日って変)
大通りまで出ると、ようやく萌と同じ制服を着た高校生がちらほらと目に付くようになった。
だが、心なしかいつもよりも数が少ない。
(ひょっとして、携帯の時計が進んでて、かなり早くきちゃったとか?)
それとも二人が質の悪い冗談でも考えついたのだろうか。
(まさか、そんな子供みたいなことする訳ないし……)
と、萌が首をかしげた時だった。
〈……ってて。……から……〉
また、何か聞こえた。
思わず周りを見て、声の主がいないか探した萌の目に、左角から曲がってきた自転車が目に入る。
(あ!)
まずいと思った時には、彼女を避けようとハンドルを切った自転車が壁に激突し、転がっていた。
「ごめんなさいっ、大丈夫?!」
慌てて駆け寄ると、萌の高校の制服を着た姿が手を挙げ、安心しろとでも言うように手を振った。
「神尾さんこそ怪我はなかった?」
「うん」
言ってから萌は相手の顔をまじまじと見る。
「どうしてあたしの名前、知ってるの?」
自転車を起こしながら相手は笑った。すっきりとした顔立ちに、笑うと少し細くなる目。
さわやかな笑顔だが記憶にはない。
「何言ってんだ? 同じ二年だし、選択の音楽は同じ教室だよ。俺、一組の高津、記憶にない?」
言われてみれば、そんな名前を聞いたことがあるようなないような……
「なんだ、残念。覚えてもらってなかったんだ」
自転車から降りたまま、並んで高津が歩きだしたので、萌は焦る。
知らない人はもちろん男子と話をするなんて、とんでもなく苦手だ。
「ご、ごめん、あたし、有名な顔音痴で……」
百合子なんぞは組替えが終わって一ヶ月経たないうちに、クラスメートの顔も名前も全て把握していた。
だのに萌はそれが大の苦手だ。同級生ですら認識し終わるまでに半年を要する。
ましてや週一回の音楽で一緒なだけの他所のクラスの、しかも男子生徒など覚えているはずもなかった。
「顔音痴?」
「そう」
緊張のあまり、普段以上に頭が回らない。
(……な、何か気の利いた事とか話さないと……)
だが、男子と共通の話題が萌にあろうはずがない。
そうして焦れば焦るほど、何一つ思い浮かばなかった。
(どうしよ、まだ学校までしばらく歩かないといけないのに……)
こんな時、和実がいれば、きっと何の苦もなく高津と話を続けただろう。
(だのに、何で今日に限って来ないのよお……)
「神尾さんって、無口?」
「え?」
何と言っていいかわからないので、仕方なくカバンを持っていない右手を左右に振る。
「無口というか、何というか……」
だんだん泣きたくなってきた。
高津もきっと、萌をつまらない女の子だと思っているはずだ。
(……ああ、最悪)
こういうことはすぐ噂になる。
明日には同学年の男子たちから、そうレッテルを貼られることになるのだろう。
萌は額にしわを寄せ、必死で会話の取っかかりを探した。
(そう、クラブ何入ってるの、とか、一組だったら理恵を知ってる、とか、そんなでも良かったんだ!)
だが、それを思いついた時には二人の間には相当長い沈黙が続いていて、とても今更そんなことを言い出す状態ではなくなっていた。
(……うわ、怖い顔)
高津はなんだか機嫌が悪そうに前方を見つめている。
そちらに目をやると、高校の建物が見えてきた。
遅刻寸前のためか、門に吸い込まれる紺と黒の集団の数はいつもより格段に少ない。
ふと、高津が足を止めた。
「どうしたの?」
怖々尋ねると、高津は微かに首を振った。
「別に」
(……これって、明らかに怒ってるよ、ね?)
高津の立場ならきっと不機嫌になるだろうと萌は思う。
朝からぼんやり歩いている気の利かない女の子のせいで転んで、その上、会話一つうまくできない相手とずっと一緒に歩かなければならないのだから。
「変だよな」
「え!」
萌は跳び上がった。
つまらないだけでなく、変人扱いされるなんて。
(それだけは何とかしないと……)
勇気を振り絞り、萌はこわばった顔で笑った。
「そ、そうかもしれないけど、何でそう思うのか聞いていい?」
「……様子が変なんだ」
「だからあたしのどこが?」
高津はこちらを驚いた顔で見て、そしてくすりと笑った。
「何で神尾さんを変だなんて思うのさ?」
「だって、ずっと口を利かなかったし、それで……」
「それは俺だってそうだろ? 話しかけなくてごめんな」
「え!」
「沈黙長くて、嫌な奴だって思ったんじゃないの?」
萌は首を横にぶんぶん振った。
それはこっちの台詞だった。
「それより、他の奴らのことだよ。今日は会っても誰も声をかけてこない」
それは横に変な女の子がいるからではないかと思い、申し訳なさに顔が熱くなった。
「親父もいつもは七時に出勤するのに、何も言わずに六時に出て行ったし、母さんも何か変だった」
(……は?)
萌は驚いて顔を上げる。
「何て言うか、その、のっとられてるっていうか、いやむしろ別人になったっていうか……」
ぽかんと口を開けた萌を見て、高津は再び笑った。
「……何でもいいけど、突っ込んでくれよな」
「え、あ、ごめん」
通常の会話ですらままならないのに、そんな高度なことができるはずがない、と思いつつ、萌はしげしげと高津を見る。
「なんか本気で言ってるみたいに見えて」
「俺、怪談とか得意だよ、くだらないネタで怖がらせるの」
「……今の、怪談だったんだ」
「ちょっと唐突だったよね、ごめん」
ほんのちょっぴりだが、高津に慣れてきた気がする。
「理解が遅くてごめんね」
高津は首を軽く横に振った。
「それはそうと、さっき俺がぶつかりそうになったとき……」
「……あ、それもごめん」
高津は片手を振った。
「そうじゃなくって、何か捜し物してなかった?」
「捜し物?」
「っていうか、人? 何か空耳聞こえたみたいにきょろきょろしてたし」
「え?」
あまりにタイムリーな発言だったので、萌は次の言葉を発せずに黙り込んだ。
「神尾さん?」
萌を見て高津は少し押し黙り、そしておもむろに言葉を継いだ。
「まさかと思うけど、聞いたなんて言わないよね?」
「何か聞こえたかもしれないけど……」
だが、高津の顔に浮かんだ表情を見て、萌は慌てて首を振る。
「た、高津君こそ突っ込んでよ」
「……なんて言ってた?」
「だから冗談だって」
言いかけて萌は言葉を止めた。高津の様子が何となく笑い話を話している雰囲気ではなかったからだ。
不思議に思って相手を眺める。ひょっとして彼もそれを聞いたのか?
だが、そんなことを尋ねるのは妙な気がした。
(……変だな、今日は)
光が、風景が妙に淡い色彩のように感じられる。
「きょろきょろしたのは、友達が今日に限って二人とも待ち合わせ場所にいなかったから、その辺りにいないかなって思って」
本当の事を話す代わりに萌はそう言った。でも、
(本当に百合子たち、どうしたんだろ)
インフルエンザにしては季節が変だった。言いようのない不安がふと心をよぎる。
(今朝はいつもと少し違う……)