◆6月のはじめ 雨の日と炭酸飲料
梅雨入りの知らせを聞いてからというもの湿っぽい日が続いていた。
今は古文の授業の最中で、静かな教室では初老の先生が教科書を片手に、念仏のように淡々とした解説を続けている。
頬杖をつきながら窓の外に目線を向けると景色は灰色で、どんよりとした気分に拍車をかける。
ガラスに映った冴えない男子生徒と目が合ったけれど、……僕だった。
ビシッと上げてキメる勇気もないので適当に伸ばした前髪がそろそろうっとおしい。
「アキラは死んだ母さんに似てきたなぁ……。一緒に風呂に入ろうぜ!」
ちょっと日本語が不自由なのかな? と疑ってしまいたくなる僕の親父は、夕べもそう言ってモリモリと上腕筋を見せびらかしていた。
もちろん高校生にもなって親父と風呂になんてはいるもんか。
「はぁ……」
3階の教室から見える低く連なる山並みは暗い雲で覆われていて、手前に広がる緑のなだらかな丘陵地帯や水田も白く煙っている。
まばらに建つ赤や青の家々の屋根が妙に鮮やかで、どこかアンニュイな気分になる雨模様の昼下がりだ。
ちらっと教室の中を見回す。
1年B組の教室は、男子と女子が半分ぐらいの30人学級になっていて、居心地は……まぁ悪くないほうだと思う。
もちろん学園生活のご多聞に漏れず、僕のクラスでもイケてる「リーダー的男子」を筆頭に既にトップグループが形成されていて、女子も既にいくつかグループを形成していた。
いわゆる「学内ヒエラルキー」というヤツだけれど僕はといえば……ちょっと自由な一匹狼(狼じゃないけどね)的ポジションに落ち着きつつあるような気がする。
僕の通っている高校は地元周辺の中学から上がってくる生徒が多いので、ユウナが吹聴して回っていたた「アキラは一子相伝の凄い拳法を使える!」という迷惑千万な噂のせいなのだけど。
おかげで何処かのグループにどっぷり浸かることも無く、かといってハブられることもなく、適度な距離感を保ちながら楽しく適当な共存共栄の関係を築けている……と思う。
「で、次の『倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる うるわし』、これはね……」
五時間目に古文という時間割は忍耐力を試される。エナジードレインをくらっているかのように元気を奪われて瞼が落ちてくる。
初老の古文の先生は黒板に向かって古事記の一節にカツカツと訳を書き入れていた。真剣に書き写したり、半分寝ていたりと、それぞれがノートに書き写しながら時間の経つのを待っている。
北国のほうの梅雨は湿度が低くて過ごし易い、なんて言われているけれど、じめっと不快な事に変わりは無い。
首もとのネクタイを緩めて、ぱふぱふと襟元の空気を入れ替える。
けれど自分の汗臭さに気がついて、隣の席の美人クラス委員長のミカリさんに届いていないか心配になる。
そっと隣を見てみると、ミカリさんは黒板に目線を向けていて、気がついていないようだ。
――しかしまさか隣になれるとはね……。
ミカリさんはクラス委員長で成績優秀、おまけに学年でも三本の指に入る美人さんだ。
ぱっちりとした二重まぶたに桜色の薄く上品な口元、整った鼻筋にあごにかけての綺麗なライン。まっすくで艶やかな黒髪をハーフアップにまとめて背中に流している。
おまけに村に古くからある大きな神社「豊陵神社」のご令嬢で、休みの日は巫女さんなんかもやっている。
休みの日は朝から神社に行ってお賽銭を投げて、ミカリさんのありがたい巫女さん姿を一日中拝ませて頂きたいくらいだ。
――はぁ……。「うるわし」ってこういう事を言うんだよね……。
「……?」
すっ、とミカリさんが瞳を細めて僕に目線を向けた。でも怒っているわけでも怪訝そうな顔でもなく。
――なぁに? 天野羽くん。
そんな声が聞こえてきそうな、優しく僕の言葉を待っているような表情だ。思わずほわぁ……と頬が赤くなるのを感じつつ――
「――いっ!?」
ガタッ、と椅子が思わず動いて周囲の視線が集まる。
危なく声を出すところだったが堪えて、キッ! と真後ろを振り返る。
「ミ カ リ ン 逃 げ て !」
ユウナが身振りで信号を送っていた。
こいつ背中からシャーペンで刺しやがった!
「な に す る ん だ よ!?」
「前向きなさいよ、ま え」
小声で言い合う僕とユウナ。
窓際最後尾から二つ目の席にはユウナが座っている。
そこはアニメやラノベではお馴染みの「主人公席」なのだけど、僕……ではなくユウナの席だ。
家が隣で教室も一緒、席も前後って、誰かが仕組んでいるとしか思えない。
唯一の救いは隣の席にはミカリさんという天使さんが座っているということだ。気がつくと、くすくすっ、とミカリさんが可憐で小さな笑みをこぼしている。
それだけで僕は救われたキモチになるけれど、マジメな顔を貼り付けて黒板に向き直る。
窓の外は相変わらず煙っているけれど、少しだけ雲の切れ目が見えてきたようだ。
◇
昼すぎから降りはじめた雨は、下校時間になっても降り続いたままだった。
憂鬱な気分で校舎をから足を踏み出して、水たまりを避けて歩く。
――と、
校門を出てすぐに、ユウナがタックル気味に僕の傘に飛び込んできた。
ばしゃばしゃっ、ズシャッ! と派手に水しぶきを散らして僕の隣にすべり込む。
「セーフ!」
「いや、アウトだろ」
置き傘忘れた! とユウナが喚きながらふるふるっと子犬のように水滴を散らす。
飛び散って顔にかかる水しぶきに少しは遠慮しろよ……と僕は渋面で雨雲を睨む。
「アキラさ、すこし背、伸びた?」
不意にユウナの手が伸びて、ぽんぽんと僕の頭の水滴を払った。
何が面白いのか悪戯っぽい口元に白い歯を覗かせて。
教室でみせる顔とは違う、僕だけに見せてくれる笑顔。
それはずっと昔から知っている顔だ。上目で見つめてくる綺麗な二重まぶたと、見慣れた鳶色の瞳に少しだけ、鼓動が跳ねる。
「雨で伸びたんだろ」
「どういう体質」
ころころと隣で笑うユウナの背を追い越したのは、いつだったか。
幼稚園の頃は僕がいつも一番小さくて、ユウナは一番大きかった。
小学校の頃は僕が真ん中ぐらいで、ユウナは少し順位を落としていた。
たしか中学1年の時には遥か眼下に見下ろしていた気がするけど。
「中3でやっと私を追い越したもんね、ま、大きくなって良かったね」
「テキトー言うな! 少なくとも1年には追い越してたよな!?」
「はいはーい、正しい歴史認識乙」
ユウナは本当に適当な返事をして、アジサイの上にいるカタツムリを覗き込んだりして、すぐにまた傘に戻ってくる。
「でも今は、大きいんだからいいじゃん」
「そう、かな」
「うん!」
ユウナが濡れない様にと傾けた傘から垂れる水滴が、静かに僕の右肩を濡らしてゆく。
そろそろ冷たくなってきたけれど、時折触れる腕が暖かくて柔らかくて、これはこれで悪くないようなそうでもないような――。
「あ……少し晴れてきたね」
「お、ぁあ?」
慌てたように空を仰ぐと、灰色の雲の隙間からオレンジ色の夕日が差し始めていた。
「なんだか冷たいものが飲みたいね」
「うん同意。よし、ドクペ買おうドクペ!」
「あれってさ、アニメとかじゃよく飲んでるけど、この辺じゃ売ってないよねー」
「だよなぁ。コーラでもいけど……あー、とにかくなんか飲みたい」
「アキラのおごり?」
「なわけあるか」
店といっても帰り道にあるのは馴染みの雑貨屋「田中商店」だけだけど。
どうでもいい会話を交わしながら、二人で雨と草の匂いが混ざったむせ返るような湿気の中を歩く。
無性に炭酸が飲みたい気分っていうのはきっと、こういう事を言うのだろう。
◆「6月のはじめ 雨の日と炭酸飲料」(了)
【さくしゃより】
お読み頂きありがとうございます。
アキラくんはマジメなのでシャツインですw 普通っぽく
次回更新は6月14日(来週末)となります!