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第3章

 長保二年、連日新年の挨拶や酒宴に走り回り、新女御立后の日取りなどを調整しているうちに二月を迎えた。

 都は梅の花が盛りである。一条院今内裏の庭にも、長い眠りから覚めたかのように紅白の梅が咲き乱れていた。

 妻戸を押し開き、簀子に下りると遠方の山々の姿がおぼろげに見えた。夜明け前の空気はやはり肌を刺したが、俺はじっと山々の姿の移り変わりを眺めている。暗がりの中から山の縁が現れ、次第に下の方から白みがかっていく……

「はるはあけぼの。やうやうしろくなりゆくやまぎわ、すこしあかりて、むらさきだちたるくものほそくたなびきたる」

 声には出さず、そっと口の中でその言葉を呟くと、俺は春そのものになった気がした。彼女が戻ってくる。たった数日後には、またあの鳥のさえずりのような声を飽きるほど聞くことができると思うと、自然と笑みが零れた。

 中宮が再び入内する前日、新女御が内裏から退出した。立后前の一時的な里帰りだ。

 結局、俺と少納言が再会したのは、七日後、男一宮の百日の儀の後のことであった。中宮がお産みになった男一宮は、恙無く誕生百日を迎えられた。

「お久しぶりですね、少納言」

「お元気そうで何よりですわ。お見えにならなかっただけでなく、文もいただけなくて、心配しておりましたのに」

 拗ねているような口ぶりだが、本当はそんなこと気にもしていなかったに違いない。少納言には中宮のお相手、そして男一宮のお世話という大切な役目があるのだ。仕事に忠実な彼女は俺がいなくとも、その機転と明るさで、生昌殿の邸宅を取り仕切っていたことだろう。

「男一宮様のお姿はご覧になりました?」

「ええ、儀式の時に遠目でしたが」

「本当にお可愛らしくて、私、ずっとお側であれこれお世話申し上げて涙が出っぱなしでしたの。お上と宮様の御子様ですもの、美男子に成長されること間違いなしですわ。それで宮様はね――」

 また賛美の時間が始まった、と俺は内心で苦笑した。少納言にとって、中宮は生き甲斐らしい。どんなに不遇を強いられようが、常にお側でお支え申し上げるべき唯一無二の存在なのだ。そして、俺は心強く思っていた。立場上、俺は公正な態度を取らなければならない。いや、むしろ最近では新女御を支えなければならない立場に変わりつつあった。だから、少納言が中宮の味方であり続けることは、俺の心の慰めにもなる。

「ねえ、頭弁様」

「何ですか」

「上巳の節句の日はお忙しいかしら?」

 三月三日か…… 少し先のことだからまだわからないと答えた。

「何かあるのですか?」

「宮様がね、桃の花を飾って小さな宴をしましょうとおっしゃって、頭弁もお呼びなさいですって」

「ご指名ですか。俺みたいな無粋な者を呼んでも華やかさを添えられませんよ」

 ころころと鈴を鳴らすような笑い声が弾けた。今日は暖かいので、少納言も廂に出て几帳を置いてその後ろに座っていた。几帳からはみ出している衣装の重色目は、白藤。彼女の装いはその発言の大胆華やかさとはかけ離れた、上品で控え目な色合いが多かった。そういうところに、感性の良さが伺えて俺は好きだった。

 話題は日常的な業務のことに移った。立后の件は伏せられていて中枢の一部の人間しか知らない。俺はまだ少納言に話すことができずもどかしかったが、それ以外にも気にかけなければならない案件は多いのだ。

「以前から思っていたことなのですけど」

 話が途切れたついでにという感じで、少納言が言った。

「私ばかりに取り次ぎを頼むのは不便じゃありませんか? その時どきに応じたつてを利用していただかないと」

「その方が不都合だな。あなたに頼むのが一番信頼できます。それに、改まざるものは心なり、そういう性格なのです」

 今さら忠告されても遅いじゃないか。俺はあなたの仕事ぶりに馴れ過ぎてしまった。すると少納言はこう切り返してきた。

「過ぎてば則ち改むるに憚ることなかれ、という論語の教えはどういうことなのかしら?」

 くっ、墓穴を掘った。非常に悔しくて、俺はうっかり笑ってしまった。そこで、俺は少納言を困らせてみようと思った。

「ねぇ、少納言。俺たちの仲は方々で噂されています。こうやって親しく話しているのですから、恥ずかしがることはない。俺にもいい加減その顔を見せてほしいものですね。逢坂の関の返歌もいただいていませんし」

「ご自分が不利になったからって、逃げるのですね! 以前、とんでもないひどい顔は好かないとおっしゃってたじゃないですか。それなのに顔をはいどうぞなどと、簡単に見せる女ではありませんわよ。逢坂の関は未来永劫、開けませんわ」

 俺も俺だが、少納言もなかなか手ごわい。仕方がないので、逆手にとってこう言ってやった。

「本当に、そんな可愛げのないことを言われては憎くもなるな。ということで、その顔は見せないでいただきたい。俺も見ようとはしませんから」

 予想外にも俺に強く出られて驚いたのか、少納言は「そうですか。それなら結構よ」と言っただけだった。怒ってしまっただろうか、と少し不安になったが俺に何か言われたくらいで気にする女ではなかった。

ちょうどその時、廂の奥から「少納言さん、準備ができたわよ」という声が聞こえた。

「申し訳ありませんけど、今から女房仲間と歌を詠むことになってるの。上巳の節句はいらしてくださいね。宮様も楽しみにしていらっしゃるから」

「ええ、仕事がなければ必ず」

 俺はそう約束をしたが、立后の話をしないままその日に至ってしまうことに後ろめたさを抱え、ひとり悶々としていた。なぜなら、少納言そして中宮は、いずれ立后は避けられないだろうということは薄々理解していても、まさか立后の日が目の前に迫っているなどと思いもよらないだろうから。

 二月二十五日、女御従三位藤原朝臣彰子を皇后とせよという命が、主上から俺に下された。必要な手続きを済ませると同時に、新しい中宮職の人事を行い、多数の武官らによって厳重に護衛されながら、彰子様が再び参内された。この日から、定子様は皇后宮となり、中宮という呼び名は彰子様のものとなった。


 三月一日、日蝕があった。日蝕と聞くと嫌な気分になるものだが、俺は明後日のことを考えて、気持ちの切り替えをした。主上の保興寺行幸が停止となり、運よく三月三日は通常業務だけで済むことになったのだ。そして、さらに運の良いことに、左府が公卿らをこぞって誘って、郊外に花見に出かけてしまった。今日一日は左府から呼び出されることもない。

 俺は昼過ぎには意気揚々と、皇后宮の元へ参上した。

「ようこそおいでくださいました」

 少納言が御簾をくぐって出迎えてくれた。もちろんしっかりと扇で顔を隠しているが、俺は先日言ったことを思い出して、自分でも扇を出して少納言の顔を見えないように遮った。「有言実行ですわね」という小声が耳に入った。

 驚くべきことに、皇后宮が住まわれている北殿へ続く東西二つの渡殿に囲まれた壺庭は桃と桜とその他色とりどりの花であふれかえり、そこだけが小さな花園のようにしつらえてあった。渡殿の西の廂の御簾からは、女房達の袿が見え隠れしており、個性豊かな色が競合している。小さな池に、桜の花びらが舞い落ちる様はいかにも風情があった。

 今日、俺が皇后宮の元へ参上したことには意味がある。未だに蔵人頭の任にある俺は、皇后宮と中宮の様子を把握し、滞りなく主上を補佐しなければならなかった。とはいえ、今ここで俺は複雑な政治状況を考えるのは止めることにした。

 ワンワン。

 聞きなれた犬、翁丸の鳴き声がしたからだ。

「今日はお前も客人か。おいで」

 俺は廂に座って、翁丸に手招きした。この犬はいつの間にか御所に住みついていて、悪さをするわけでもないから、そのまま野放しにしているのだった。けれども、女房や蔵人たちがかわいがって餌をやるものだから、飼われた犬のように丸く肉付きがよい。

「少納言、柳の輪はありますか?」

「ええ、ちょっとお待ちくださいね」

 大陸では古くから上巳節には柳を飾る習わしがあると言う。少納言に指示されて、童の一人が軒先に吊るされていた柳の葉で作った輪を外して持ってきた。俺はそれを取り上げて、庭に下り立った。大人しく座ってこちらを見つめている翁丸の頭の上に、柳の輪を載せると、思いのほか似合うではないか。

「さて、翁丸、お前もあの女房たちに負けないくらい飾ってみたいだろう?」

 次は桜と桃の花を飾ろう。今度は美しい組紐を持ってこさせ、その間に俺は一時的にそこかしこに植えられている桜と桃の枝を適当に数本ずつ抜き取った。

「少納言、これはどうです? 翁丸も立派な殿上人だ」

「頭弁様ったら、何をなさるのかと思えば…… そのように花を首や腰に飾り立てた犬は日本中を探しても翁丸だけでしょうね! 本当に頭弁様は犬のこととなると、日頃の頭脳がどこかに行ってしまわれるのね」

 少納言は呆れていたが、翁丸は嫌がる様子もなく、しっぽを振りながら庭を歩き回っている。その姿を見た女房たちが笑い出し、少納言もついに声を上げて笑ったのだった。そしておそらく、御簾の奥からこちらをご覧になっている皇后宮もまた、面白がっておられるに違いないし、そうであってほしい。

 久しぶりに心から笑った。小さな花園と犬と、そして少納言と…… あの立后宣旨の日、ここの住人は皇后宮から下の若い女房たちまで涙に暮れたことだろう。権勢を誇り、帝に寵愛され、男一宮まで御誕生された一族の最後の光が、ついに大きな抗えない雲の影に隠れてしまったのだから。

「宮様がよくよく頭弁に礼を言うようにと、おっしゃっていました」

 夜、渡す物があって局を訪れた俺に少納言が言った。

「俺は心苦しく思っています。立后の件については、何もあなたに知らせることができなかった」

「それは…… 高度に大切な政のことですもの、頭弁様を責めるのは筋違いでしょう。主上の宮様への御寵愛は今もお変わりなく…… それがせめてもの救いですわね」

 昼間とは違って、少納言の声はやはり愁いを帯びていた。浅からぬ衝撃を受けたことが想像に難くないだけに、俺はこれ以上、かけるべき声を見つけることができなかった。しかし、下手でもいいからと、俺はどうにか彼女を励まそうとした。

「少納言、俺はその主上の変わりない御心こそが、皇后宮の力なのだと思います。権力ではない力、です」

 すると少納言は擦れるような声で言い募った。

「嘘よ…… この世界では権力が絶対なのよ。それはあなたもわかっているでしょう? 愛こそが力だなんて、あなたの口から聞かされるとは思ってなかったわ。あんなに脆くて儚い力に夢を見ることが、どれほど慰めになるの? あなたは、愛に破れ、愛を失ったことがある? いつまでも、と誓った時にはそれだけが真実に思えるわ。だけど、現実はそうじゃないの……」

 そんなことはわかっていますよ、と途中で言いかけて、俺は無言を通した。彼女のやり場のない憤りと悲しみが俺を圧倒してしまった。蔵人頭と弁官を掛け持ちしている限り、俺は身動きができない。少納言が言う通り、この世界では権力がものを言う。翻って、俺には誰かを動かせるような力は持ち合わせていなかった。そんな状態なのに、どうやって皇后宮と少納言を安心させることができよう。

 燭台の光が不規則に揺らめく。明日も早朝から左府の元へ行かなければならない。

「すみません、帰ります。昼間の宴は本当に楽しかった」

「……ええ。またいらしてくださいね。頭弁様の姿を見ると、宮様も私もほっとするの」

「おやすみなさい」

 俺はそう言って、素早く御簾の中に薄紅色の紙を二つ折りにして差し入れた。これを少納言に渡すために、局に来たのだ。

 春は曙。やうやう白くなりゆく山際――

 あの春の一節を仮名で書きつけた。初め、全て真名で書いてみたがやはりしっくりこなかった。この言葉は、やまと言葉がふさわしい。

「頭弁様! お待ちになって。これは?」

 少納言は開いた紙に視線を落としていた。

「何でもありません。春が好きなので書いてみただけです」

 俺は立ち上がり、局を後にした。少納言が何か言っていたけれども、また長居をすることになってしまいそうだったので、後ろを振り返ることもしなかった。

 三月十四日、再び提出した蔵人頭辞職願はまたもや突き返された。せめて参議に昇進できれば……という期待は泡と消えた。

 この頃、左府にとっては心がざわつく知らせが公になった。またもや皇后宮定子様が御懐妊されたのである。そして、再びしばらく生昌殿の屋敷に里下がりをされることになった。

 その前日、俺は宿直で殿上の間におり、まだ夜明け前であったがあの人の局あたりに足を運ぶことにした。明日から皇后宮が内裏を退出されてしまうので、少納言に挨拶をしようと思ったのだ。

 俺は少納言の局に行くまでの間、歩きながら他の女房たちの局も横目で見ていったが、まだ早いので静まりかえっている。もうすぐで少納言の局だというところに来て、俺は歩みを止めた。主上と皇后宮が連れ立って、少納言の局の方に歩いて行かれる姿を目撃したからだ。

 どうされたのだろうと思って、俺は気づかれないように近づいた。少納言の局は小廂という独立した場所にあった。その南側の遣戸が運よく開いていて、さらに中に置かれていた几帳の手が突き出ているので簾がひっかかり、ちょうど良い具合に隙間ができていた。

 後ろめたいような気もしないではなかったが、好奇心が勝って、俺は思い切って中を覗いた。すると、手前にはこちらに背を向けた女房一人、そして主上と皇后宮が東側の御簾から少し離れて並んで座り、外を指さしたり、お互いに笑い合ったりされていた。お二人はよくこの場所からこっそりと外をご覧になって面白がっておられる。小廂の中は衣や夜具で足の踏み場がない。突然、主上達がお越しになってそのままになっているのだ。

 そして、視線を奥に向けると、汗衫かざみの上に唐衣をひっかけただけの女房――清少納言その人が眠そうな顔ながら微笑んでいた。俺は呆然と立ち尽くした。初めて見た素顔が寝起きの、しかも朝日に輝く笑顔だったなんて! 突然、主上たちが足をお運びになり慌てて唐衣を肩にかけた彼女の長い髪は、無造作に肩から流れ落ち、ともすれば胸元が肌蹴そうで意図せぬ色気を醸し出していた。

「二人とも、さああちらへ」

 永遠の友情を語り合ってきた人の素顔に見とれていると、主上がお立ちになり二人の女房に声を掛けた。しかし当然、身づくろいなど一切していない少納言たちは「化粧をしてから参ります」と見送る。その後も少納言と別の女房は主上と皇后宮を褒め合っていたが、とうとう少納言がこちらに気づいてしまった。

「そこにいるのはどなた? 則隆なの? 用があるなら――」

 その時の少納言の驚きようは、後々まで語り草にしたいほどであった。 まさか俺が覗いているとはつゆ知らない少納言は、蔵人の一人が用事を持ってきたのだと勘違いしていたらしい。

 俺はこの僥倖に頬が緩み、ついに笑いながら少納言の前に姿を見せた。

「すばらしい。余すところなく見てしまいましたよ、少納言」

「則隆だと思っていたから、完全に油断していましたわ! 私の顔など見ないとおっしゃってたのに、どうしてそんなに隈なくご覧になったのかしら!」

「女の寝起きの顔を見るのは難しいそうですが、もしかしたらあなたの顔も見られるのではと、こうやって夜明け頃にやって来たんです。主上がこちらにいらっしゃった時から立っていたのですが、気づいていませんでしたね」

 背中を見せて座っていた女房は俺の声を聞いて、いつの間にか退散していた。少納言は扇で顔を隠して几帳の後ろに駆け込んだが、遅すぎた。

「本当に恥ずかしいのよ、あなたはお若い北の方を見慣れてるから、年かさの女なんて余計に不器量だとお思いでしょうね」

「それならどうして男たちがあなたを放っておかないのですか? 漢籍のざえだけで惹きつけてきたとでも?」

「……早く主上の御前へ伺わないと。頭弁様も結政所にお集まりにならなくてよいのですか」

 これ以上、少納言を困らせるのは止そう。それよりも、明日からのしばしの別れの挨拶をしに来たのだ。

「真面目な話をします。内裏でのことは、今度はなるべくお伝えします。士は己を知る者の為に死し、女は己を悦ぶ者の為にかたちづくる…… あなたは俺をよくご存知だ。俺もあなたが傍にいると嬉しい。あなたもそう思ってくださったらありがたい。皇后宮にもよろしくお伝えください。では」

「わかりました。こちらからもたまには文を出しますわ」

 この時、少納言と俺は一切遮る物を隔てずに、相対していた。


 しかしその後、互いに消息をやりとりすることはなく日々が過ぎた。というのも、俺は仏事や賀茂斎院のことで駆け回り、その上、彰子様が中宮として初めて参内されたり、定子様の男一宮が親王の宣旨を下されたり、かなり多忙な毎日を送っていたからだ。

 そして四月の下旬になると、都には疫病の足音が忍び寄っていた。

 身近な存在でその病に絡め取られたのは、なんと左府であった。俺は参上すると、明らかに以前とは異なる弱々しい左府の声を聞くことになった。未だ三十代半ばの最高権力者は、まるで明日にでも死んでしまうかのように雑事を事細かに話し、最後にこう言われた。

「頭弁、俺は以前、お前の将来は心配するなと言ったが、果たせぬかもしれない。申し訳ないが、長男のたづのことを心に留めて、世話をしてやってほしい」

「何をおっしゃるのですか。国を支える左府様が弱気ではいけません。私にできることなら何でもします。今、あなたに倒れられては皆が困るのですよ。主上も中宮も、左府が頼みなのです」

 俺は自分でも驚くほど必死に左府に訴えていた。左府の政運営は強引であるし、あまり他の公卿に気を遣おうともしないし、日頃悶々としていたが、いざこの人が死にそうなほどに弱っているのを目の前にすると、俺は言い知れぬ恐怖を覚えた。主上はもちろん賢帝であらせられるが、左府ですら手こずらせている公卿らを纏め上げるのは至難の技だ。国が乱れるのではないかという考えが脳裏をかすめ、俺は身震いをした。

 対策を講じている間にも、病魔は東三条院も襲い、内裏に勤務する官人たちを歯牙にかけていった。

 五月も終わりに近づくある日、俺は左府から奏上すべきことがあると、呼び出された。

「……それは御本心でしょうか?」

 内容を聞いて驚いた俺は聞き返した。なんと、皇后宮の実兄で、失脚した後、現在は出家の身となっている藤原伊周様を本官、本位に復するよう主上にお願い申し上げるという。その理由は恩赦によって己の病悩を平癒させんがためである。

「本心に決まっているだろう。俺は、やはりまだ死ぬわけにはいかない。中宮が男宮をお産みになるまでは……」

 あり得ない。自身の不祥事で左遷され、仏門に入った者を簡単に呼び戻すなど非常識も甚だしい。病のためにこのようなことを口走ったのだろうが、急ぎ内裏に戻り主上に奏上した。

 その御返事は当然、否であった。もし伊周様を復すれば、妹君の定子様はお喜びになるであろうが、結局また叔父と甥の権力闘争が一層激化するだけなのだ。

「なぜお上は願いをお聞き届けられないのだっ! 頭弁、お前が余計な口添えをしたのだろう!? そうだ、そうに違いない。俺の平癒をと言いながら、心では亡き者になればよいと思ってるんだろう!?」

 左府には悪霊が取り憑いていた。青ざめ、無精髭を生やした男は仁王像もかくやと思われるほどの憤怒の形相で、俺を睨み付ける。

「あなた、頭弁殿に何ということを!」

 北の方倫子様が左府をたしなめたが、病に冒された者に正論を言っても無駄であろう。目の前の男は、主上の舅であり、皇太后の弟であり、中宮の父でありこの天下に比する者なき権勢を誇ってきた。それがかくも醜い姿をさらし、道理に叶わないことを喚いている。

 死は人の常なのだから、結局俺たちが生きたとしても何の意味がある? 愁うべき、悲しむべき世の無常である。曲がりなりにも長期にわたって仕えてきた方の目を背けたくなるような姿を見て衝撃を隠せず、再び内裏に戻った俺はやりきれない思いを主上に吐露してしまった。

 六月になるとますます疫病は猛威を振るった。主上と中宮と里下がりをしている皇后宮が御健康を保たれているだけでも奇跡的なのだろう。

――こちらは元気にやっています。たくさん笑うと邪気が避けていくのよ。頭弁様もお笑いになって。

 短く安否を尋ねる文を送ると、若竹色の紙に彼女らしい言葉が書きつけてあった。お笑いになって、という文字に、俺はいつの間にか笑うことを忘れていたのを思い出した。冬子や子供たちに笑いかけたのはいつのことだっただろう。

「頭弁、今般の疫病流行について良くない噂が流布してるのを聞いたことがあるか?」

 内裏の宿所に控えていると、右衛門督公任殿が話しかけてきた。

「良くない噂ですか?」

「検非違使庁の案件とは直接関係ないんだが、京内では像法の世だの末法の世だの人々が恐れを口にしているそうだ。検非違使たちがそういう報告をしてくる」

「最近あまり姿を見かけませんでしたが、一応、別当の仕事もしてるんですね」

「してるさ。皇后宮大夫の任よりましだろう」

 公任殿が意地悪く言ったのは、俺への当て付けに決まっている。公任殿は皇后宮大夫も兼任しているものの、今後日の目を見ることのない皇后宮の家政責任者など面白いわけがない。とはいえ、公任殿が皇后宮や付女房たちを蔑視していたかというとそんなこともなかったが。

「それでな、もっと不穏な言説も飛び交ってる。疫病流行は帝に徳が欠けているからだと。誰かが左府を呪詛してるんじゃないかって噂も聞いたぞ」

 俺は眉をしかめた。公任殿の表情は崩れず、心の底で何を思っているのか読み取ることはできなかった。

「右金吾殿はそんな噂を真に受けるのですか。馬鹿馬鹿しい。像法も末法も疫病とは何の関係もない。ましてや主上は、村上帝以来の好文の賢帝でいらっしゃる。政務のない時でも常に最善の舵取りを模索しておられるのはご存知でしょう。そもそも、大陸の堯帝や湯王でさえ災厄を防げなかったではありませんか!」

 先輩に激高しても仕方がないことはわかっていたが、日頃思っていたことも含めて吐き出してしまった。冷たくあしらわれるに違いないと俺は思ったが、意外にも公任殿は真面目な顔で静かに言った。

「もちろん俺もそんな噂を信じているわけではないさ。ただ、内向きになっている君に外の状況を知らせたまでだ。まぁ、君みたいなやつが一人くらいこの朝廷にいるべきだと、俺は思うよ」

「……どういう意味ですか」

 公任殿は扇をぱちんぱちんと手でもてあそびながら立ち上がり、俺の問いかけには答えることなく、報告でも聞きに行ってくるかなとひとりごちて消えてしまった。

 結局、六月の終わりには左府や女院の病は回復した。連日のように加持祈祷を行わせ、天下に恩赦を命じ、終息を祈願したためだ。本当に仏力のお蔭なのである。


 七月下旬、昨年は行われなかった相撲節会すまいのせちえが開催されることとなった。相撲人たちにより穢れや邪気が払われ、五穀豊穣を祈念するのが目的だが、俺たちは単純に相撲を見るのが楽しみだった。

「頭弁、今日の五番の取組みは皆、左方が負けたであろう?」

 二日間の相撲が終わった後、主上から召しがあって参上したところ、そのような仰せがあった。

「はい、全て左の負けです」

「それは甚だ面白くない。来月上旬も再び五番を行わせよ」

「承知いたしました」

 主上も相撲がお好きなのだなと思ったが、それは気遣いから出た御発案だったことがすぐにわかった。

「左府は未だに参内せぬな。甚だ遺憾だ。もし歩行に困難がないようであれば早く顔を見せるようにと伝えよ。左府の参内する日に、相撲を執り行わせようと思うがいかがだろう」

「良い案かと存じます」

 俺は主上に微笑んだ。そして左府からも、近々参上するとの返事を承った。

 八月となった。七月から続く猛暑は依然衰えることなく、容赦ない熱気を都にばら撒いている。おまけに雨がひどく降り続け、蒸し暑さが増している。車を引く牛などは見るからに暑苦しく、牛飼童もつらそうにのそのそと歩いていた。

 参内してから結政所に向かおうとしたものの、きっちり束帯を着していたため、俺は暑さで気分が悪くなり、宿所に戻った。帯を解いて休んでいると、藤中納言が俺を探して入ってきた。

「頭弁、すぐ来られますか。主上がお召しなので」

「あ、はい。わかりました」

 本当は息苦しく、眩暈を覚えたが主上のお召しとあれば参上しないわけにはいかない。それに、実資殿が俺に構ってくれるような御仁でないことは重々承知だった。

 御前に出て拝謁すると、右大臣まで参上した。何事だろうかと思っていると、蔵人の橘則隆が藤中納言に対して勅を読み上げた。

「来る八月八日に皇后宮の御入あり。宜しく備えるべし」

 寝耳に水だった。俺はつい今しがたまで気分の優れなかったことを忘れてしまった。定子様が戻られる、つまり少納言も従って帰ってくるのだ。その後、俺がどう行動したのかはちょっと定かではない。しかし、誰も何かを咎めることはなかったし、滞りなく御入がなされたのだから、俺は定め通りに手続きを行ったのだろう。

 少納言が内裏に戻ってくるのは皇后宮の御出産が終わり、落ち着いてからだと思っていた。俺だけでなく、他の公卿や殿上人もそういうつもりだったと思う。

 俺はひどく動揺していたが、あちこちに赴いて職務をこなしているうちに平常心を取り戻し、胸の内に幸福感を覚えた。俺はあの顔を見てしまったのだ。心の底から微笑む艶やかな年上の人――

 立后そして暗黒の疫病流行を経て、俺は一つの事実に気付いた。今、感じ取っている冬子では得難い心の高揚が、紛うことなく恋のなせるわざであることを。

 戯れに贈った逢坂の関の歌への返歌はお預けになっている。もはや戯れではないということを伝えたら、彼女は応えてくれるだろうか。

 左府の権力掌握が進めば進むほど、皇后宮の立場は危うくなり、少納言への風当たりも強くなる。きっとそれでも少納言は笑いを武器に皇后宮をお支えする覚悟でいるはずだが、彼女に脆さがないとは到底言えない。そして、俺は左府が病に臥せった時に感じた恐怖を、少納言に対しても抱いた。

 失いたくない。

 人の命の儚さを思うと、どうしようもない定めなのだと諦める気持ちになるが、やはり簡単に手放してなるものかと思う人というのは存在する。彼女を惨めな境遇に置かせることだけは回避したいし、俺の知らない世界に行かせたくなかった。

 皇后宮は八日の夜遅く、今内裏に御入された。それで俺は翌日の夕刻まで待って、少納言の局に足を運んだ。長雨は止んでいて、雲間から申し訳程度に青空が覗いている。

「いますか、少納言?」

 俺は声を掛けて様子を伺った。気配がするのでいるのだろうということがわかると、俺は返事を聞く前に躊躇わず御簾に手をかけ、中へ滑り込んだ。

「失礼します」

「と、頭弁様、勝手に人の局に入るなんて困りますわ! 私にも恥じらいというものが……」

「別に気になさらないでください。もうお顔は拝見済みの仲ですし」

「あれは許可したわけではないのに!」

 ご立腹であることを示しているようだが、本心でないことくらいわかる。俺は御簾の近くに腰を下ろした。

 少納言は何か書き物をしていたらしく、文机の上には紙と何冊かの漢籍が積まれていた。

「ああ、これ…… 宮様からお借りしたのよ。写してしまおうと思って」

 俺は書きかけの漢詩に視線をやった。

――琴詩酒の友は皆我を抛つ。雪月花の時最も君を憶ふ。

「お好きですね、白楽天」

「ええ、美しいもの。殿方だけのものだなんてもったいないわ!」

 少納言は美しいもの、小さくて愛らしいものに敏感だった。全て捉えて離すまいという姿勢でいるから、何気ない日常も彼女の言葉にかかればきらきらと踊り出す。

 しかし、反対に美しくないものには驚くほど拒否反応を示す。数日後の会話がそうだった。

 俺は毎日、仕事の合間を縫って少納言の局に通った。通ったと言っても、世間話をするだけだ。二回目に訪れた時は、勝手に御簾をくぐる俺に非難の言葉を浴びせた少納言も、三回目ともなると何も言わなくなった。

 昼間、左府も参加して臨時相撲が行われた。小雨の中の相撲人のぶつかり合いはぞくぞくするほど白熱した。一連の行事が終わると、俺はまた少納言の元へ赴いた。

「今日の相撲はなかなか興奮しましたね。途中色々ありましたが」

 何気なく相撲の感想を言うと、少納言は大袈裟に溜め息をついてみせた。

「信じられませんわ、あんな野蛮な見せ物を喜ぶなんて。神事の一種なのはわかりますけど、言葉が乱暴で耳を塞ぎたくなります。力を当てにするつまらぬ者が我が物顔で幅をきかせるのも、気にくわないわ!」

「あれはあれで良いではないですか。諸国の強者たちの晴れ舞台なのですよ」

「やはり頭弁様も殿方ですわね。聞けば今日の相撲では、投げ飛ばされた相撲人が前後不覚になって、欄干まで走り寄ったり大騒ぎだったとか。ああ、恐ろしいこと」

 顔をしかめているのを見ると本当に相撲が嫌いらしい。俺は遠慮なく笑いながら、御簾越しではない彼女の表情を全て視界に収めて、堪能していた。

 止雨の祈念も虚しく、長雨は続いた。俺は帰宅前に、彼女の御簾をくぐった。

「最近雨ばかりで気が滅入りますね」

「晴明殿も頼りないわね」

 少納言は女郎花の襲の色目の袿を着て、また文机の前に座っていた。生絹の衣で透けていて涼しげだ。写本かと思ったが筆の運びが慎重でいつもと違う様子だ。

「……もしかして、書ですか?」

「そうなの。頭弁様みたいにとはいかないけど、私も少しは流麗な筆跡をと思って」

 俺はここで一石を投じることにした。少納言は俺に構うことなく机に向かったままだ。

「では、俺が書を教えて差し上げるというのは?」

「え?」

 俺は少納言の左側すぐ近くに座った。突然、隣に気配を感じた少納言は驚いているが、俺は彼女が手本としようとしていた書に目をやった。

「王羲之は駄目です。まるで違う。しかも、池魚籠鳥…… 潘岳の秋興賦は止めましょう」

「もう、ではどうすれば?」

 少納言は口を出されて少し不機嫌になった。

「……力を抜いて筆を持って」

 俺は方膝をついて少納言の背後にまわり、後ろから右手を伸ばして少納言の筆を持つ手に添えた。

 きゅっと少納言の肩が狭まり、警戒して体を強張らせたのが衣装ごしに感じられた。こんなに体を寄せていたら、彼女の移り香が残ってしまう。

「力を抜かないと美しい書にはなりませんよ」

「……どの文字を書いたらよろしいの?」

「そうですね…… 宋玉の高唐賦」

「まだ夜ではないわ」

「昼の出来事だから良いのです」

――あしたには朝雲と為り、ゆうべには行雨と為りて、朝朝暮暮、陽台の下におらん。

 初めのうちは力を入れ過ぎてぎこちなかった手も、ゆっくり筆を進めていくにつれ滑らかになっていき、少納言と俺の合作が真っ白な紙に紡ぎだされていった。長雨は止まず、さきほどからますます強く降っている。屋根や戸に打ち付けられる雨音を聞きながら、俺たちは無言で文字を書き連ねる。

 触れてしまえる距離に、彼女の濃い睫毛が瞬き、真剣な息遣いが流れる。掌から指へ、そして筆先へ。楚の懐王と美しき神女の深い契りの物語が真名となる。

 全ての物語が終わると、俺は添えていた手をそっと離した。

「美しいわね」

 少納言は感嘆の溜め息を漏らし、顔を俺の方に傾けて呟いた。髪の生え際、瞳の動き、呼吸、そして控えめな紅色のくちびる。俺は全て思い出すことができる。

 俺は一度離した右手を少納言の肩に掛けて軽く引き寄せた。反射的に顔を背けようとした少納言の頬を反対側の手で支えてこちらを向かせる。俺はこの瞬間を捉えて、素早く口づけた。そのまま豊かな長い髪ごと抱き締めたいと思った。けれども少納言は両腕を思い切り使って俺を引き離そうとした。

「なぜ? お嫌ですか?」

「……人目をお考えになって、頭弁様。それに、私たちは……」

 拒まれれば想いはさらに燃え上がることを、この人だって知っているはずだ。俺はもう一度、くちびるを重ねた。

風雨を受けて御簾がさらさらと音を立てた。

「この世には定めというものがあるのです、少納言」

 俺は彼女の耳元に囁いた。少納言は俺から逃れようと身じろぎをして、御簾の向こうに視線を向けた。

「頭弁様、萩式部がこちらに……!」

 離れる口実かと思ったが、事実、局の前に女房が立っていた。若い今時の女房だ。

「少納言さん、いらっしゃいますか? 宮様がお召しです」

「ええ、わかったわ」

 少納言が明るい声で返事をしたので、俺は潮時だと思い腰を上げた。また来ますと言い残して御簾をくぐると、萩式部は咄嗟に袖で顔を隠した。

「あらっ、頭弁様! お、お邪魔でしたでしょうか」

 萩式部は他の女房たちに漏れず、俺を味気ない唐変木だと思って煙たがっている。

「いや、漢籍を貸しに来ただけです」

 そう言って俺が立ち去ると、後方から萩式部の甲高い声が耳に入った。

「頭弁様ほど付き合い難い殿方はいませんね! ご実家でもあんな風に無愛想なのかしら。北の方に同情しますわ! やはり宰相中将みたいな殿方が素敵ですもの!」


 うら若い女房に同情された頭弁の北の方こと冬子は、相変わらず夫の俺と三人の子供たちに愛情を注いでくれていた。

「左府様の御邸宅はどうなりました? 本当に胸が痛みますね」

「元通りになるのは時間がかかりそうだね」

 鴨川に近接している土御門第は、最近の長雨のせいで鴨川が溢れ出し、浸水してしまったのだ。

「冬子、こちらへおいで」

「はい」

 寝ている赤ん坊を胸に抱いて簀子に出ていた冬子は、乳母に赤ん坊を託して俺の側にやってきた。

 冬子のふっくらして白い頬はいつ見ても愛らしい。穏やかな物言いも女人らしいし、裁縫も完璧で、欠点と言える欠点は思い付かない。時々、夢見がちな発言をするけれど、政治に疎いわけではなかった。

「昨日の件はよくやってくれたね。皆も行成の室は賢いと褒めていたよ」

「それはようございました」

 俺が感謝を込めて手を握ると、冬子は嬉しそうに、しかし控え目に微笑んだ。

 昨日の件というのは、極めて政治的なある出来事のことだ。簡単に言ってしまえば、俺の叔父を出家の身に追いやり失脚させた七日関白殿の妻が、勅使としてやって来た俺に授け物を与えようとして自宅まで届けさせたのを、冬子は受け取らずに突き返し、俺に速やかに連絡してきたのだった。

 冬子はそうした事情をきちんと把握していて、政敵からの高慢な授け物を拒否してくれた。俺は七日関白殿に仕えていたわけではないのだ。授け物をもらうなんて屈辱以外の何物でもない。だから俺は冬子に大変感謝をした。自慢の北の方だった。


 耳を澄ますと、風に乗って秋の虫の音が聞こえる。とは言え、残暑はしっかりと居座っていた。長雨がいつ終わるのかも不明である。

 今夜は宿所でささやかな酒宴が行われた。

「頭弁、噂で聞いたんだが、少納言と関を越えたとか…… よく彼女が許したな。俺にはいい顔しておいても、隙は一切見せなかった女だぞ」

 俺は危うく徳利を落としかけた。宰相中将斉信殿があからさまに好奇の目で俺を見ている。

「何ですかその噂は」

「私も聞いたよ、局の御簾をまるで背の君のように勝手にくぐって出入りしてるって」

 俊賢殿まで話に加わった。厄介な公任殿がこの場にいないのが救いだ。

「出入りしてることだけは事実です。世間話をしに」

「何だ、つまらん奴だ。そんなだから、女房たちから興ざめだの何だの言われてしまうんだよ。よくそれで頭弁が務まるなあ」

 何とでも言ってください。風流人で女房たちの憧れの的である斉信殿と俺とでは、お話にならない。

「まだ少し雑務がありますので、私は失礼します」

 俺は先輩たちに挨拶をすると宿所を離れた。残してきた雑務――水害で破損した寺院などの修繕費の配分をなんとか形に仕上げた頃には、亥刻になっていた。

 束帯を脱いで楽になり、俺は彼女へ想いを馳せた。まだ答えをもらっていない。少納言が軽々しく首肯しないのは、皇后宮を憚ってのことに違いない。

 共に書を紡いだ日から、以前にも増して思慕の念は強まった。数日後には少納言は皇后宮に従って生昌殿の屋敷に戻ってしまう。皇后宮の御産が済んで内裏に帰ってくるのは来年の正月以降だ。

 定子様が皇后宮として存在する限り、少納言が俺から逃げてしまうことはないのだが、俺はこれ以上待てなかった。

 夕刻から雨の上がった空は、野分の後のように澄んでいた。こんなに遅い時間に少納言の局を訪れることは実は初めてかもしれない。

 皇后宮御座所に向かって歩いているが、今夜はほとんど灯りもなく寝静まっている感じだ。手燭がなければ進むことができない。

 来てしまった。

 少納言の局は一間だけ独立して造られた小廂をあてがわれている。自分の娘ほど若い萩式部と共にいることが多いが、俺が勝手に出入りするようになって、萩式部は南廂に移ってしまった。気をきかせて、というわけではなく、単に無愛想な俺を避けたかったからに決まっている。

 こういう完璧な夜這いなんて久し振りだ。源泰清殿から長女の冬子を妻にという話が来た時は、全てがぎこちなかったことを思い出した。俺は深呼吸をして、ぴったり閉じられた遣戸に手を掛けた。

 御簾をくぐるといつものように几帳が置かれている。ぶつからないように迂回して奥に進むと、少納言は裀の上に衾を掛けずに眠っていた。北側に置かれた文机に手燭を置き、俺は無防備に横たわる少納言の傍らにそっと座った。確かに、数多くいる若い女房や女官に比べたら、溌剌とした少納言でさえ衰えというものからは逃れられていないかもしれない。それでも、黒く濃い睫毛に縁取られた輝く瞳と、重責を背負い先頭に立って戦ってきた女の愁いとが絶妙に混ざり合い、不思議な色香を感じざるを得なかった。

 俺は無防備な年上の女の耳元で囁いた。起こしてしまうのは忍びないけれど、逢坂の関は目の前にあるのだ。

「少納言、起きて」

「ん……」

 完全に目覚めていない彼女の額に口づけると、ぱっちりと大きく開かれた瞳がこちらを見ていた。思考が停止しているらしい。

「だ、誰よっ」

「逢坂の関は開けて待つとか」

「卑怯だわ、頭弁様! こんな仕打ちをなさるなんて」

「前世からの因縁で俺たちは引き合わされたんですよ」

 少納言は起き上がって逃げようと試みたが、俺は素早く衣の裾を手で押さえつけ、少納言を裀に戻した。俺は彼女の両側に手をついて、見下ろした。

「俺をもっと頼ってください。これからまた皇后宮が御子をお産みになって、東宮の問題も出てくるでしょう。俺は左府を支えなければならないし、指示はできる限り実行しなければならない。だけど、俺は――」

「言い訳なんか、聞きたくありませんわ。口説きにいらしたのでしょう?」

 ずるい。卑怯なのはあなたの方だ。どうやって穏やかに想いを伝えようか悩んだのに、そんな挑発的な言い方こそ卑怯というもの。

 俺は少納言の背中に手を滑り込ませ、思い切り抱き締めた。苦しい、と少納言が言う。

「関を越えるにしても、頭弁様は過所をお持ちでないわ」

 許可を与えていないなどと、少納言はまだ俺に意地の悪いことを言う。

「今夜いただくことはできないのですか? つれなくて死にそうです」

 俺は少納言の胸元に顔を埋めて、少しいじけてみせた。二人とも身動ぎせずに、長いこと虫たちの鳴き音に耳を傾けていた。

「頭弁様」

「はい」

 とうとう少納言が口を開いた。

「過所がほしいのですか」

「もちろん」

「引き返すことができないかもしれませんよ」

「承知の上です。なにも、禁じられた恋をしているわけではないのですから」

 俺は頭を上げて、そのまま少納言の体を抱き起こした。暗がりがもどかしく、全てを明らかにしたい気持ちに駆られる。

 すると少納言の両腕が俺の背中に回された。

「……彩子と申します。過所を、差し上げましたわ」

 その本名を告げた少納言のくちびるは誘うように艶かしく、俺は全身が麻痺した感覚に陥った。

 一つわかったことがある。すがる相手のいないのは少納言で、俺が支えてやらねばならないと思っていたのは間違いだったということだ。俺の方こそが、この人の優しさに甘え、すがり付いていたのだ。


「ね、満足なさった?」

 うつ伏せになり俺の方を見ながら、彩子はまるで遊女のように囁き、俺の額にかかった髪を掻き上げた。少し投げやりな彩子の態度に、俺はその露わになった白い腕を掴んだ。 

「どうしてそういう言い方をするんですか。これきりの関係だと思ってるのですか。俺は他のやつらと違う」

 俺は彩子の瞳を覗き込んだ。

「まるで捨てられた子犬みたいな瞳をしていらっしゃるわ。私はどこにも行きません。年が明けたら、宮様のかわいい御子と一緒に戻ってきますから。私、笑ってるあなたの方が心地いい……」

 彩子は穏やかに微笑んだ。しかし、俺は彼女の本心を確信することができず、微笑み返すことを忘れていた。そして俺は彩子の頭を支えるように手を添えて、耳元で囁く。

「愛してます。俺は本気です。俺を受け入れてください」

「おかしな方ね。だからこうやって受け入れましたのに」

 少し気が静まってきた俺は、さらに彩子に重なるほど体を寄せた。俺の誠意はまだ彼女の心に届いていないように思えた。

「俺があなたを何不自由なく世話をして、幸せにします」

 ずっと考えてきたことだ。彩子は驚いたような呆れたようなそんな顔をしている。親友として接してきた男から、突然、妻にと言われて驚かないはずがなかった。

「そこまで私を想ってくださってとても嬉しい。でも、それじゃあ、あなたの面目は……」

「五か月前、俺は辞表を出したんです。もう何度目かの。でも翌日却下されました。どう足掻いたって、俺たちの置かれた状況は変わらない。俺も本当はこういう世界は得意じゃない。つぶされないように必死で生きている。だからせめて、あなたと――」

 これ以上ないほどの愛おしさを感じながら、俺は彩子のくちびるを奪った。

「俺はもうあなたと生きる覚悟をしたんですよ」

 禁じられていない恋を封印し、二人を隔てていたものは俺たち自身の心だった。人の世は儚い。全力で愛さないとしたら、一体その人に何が残るのだろう。

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