第1章
日蝕というのは時々起こるがなんとなく不気味なものだ。長徳四年秋以降の数年間は、俺の人生の中で最も目まぐるしい時期に入るだろう。
十月の始めのことだった。日蝕で廃務となり延期された孟冬旬は結局行われずじまいだった。参加すべき公卿が一人も参上しなかったからだ。
「この微妙な綱引きいつまで続くんですかねぇ。頭弁殿の負担が増えるだけですよ」
諸衛府の者に禄を配分する手続きを行いながら、部下の蔵人の一人が溜息をついた。
「まぁ、それが私の仕事だから仕方ない」
本来ならば左府(左大臣)藤原道長様の指揮の下、主上が南殿にお出ましになって行事が行われるはずであったが、肝心の左府は宇治の別荘に遊覧に出かけてしまったのだ。そして、その他の公卿もまた左府に対抗してか、姿を現さなかった。
思えばちょうど一年前の孟冬旬では、儀式の最中に大宰府からの急使が、管内に南蛮人が乱入したと告げ、ちょっとした騒ぎになったし、今年の過ぎし夏は赤疱瘡が流行して公卿を始めとする多くの人々がこの世を去った。
「左府となってからもう二年経つが、安定には時間がかかるだろうな。今の朝廷には左府の代わりになるような人物はいないし」
蔵人頭に任命されてから三年間、俺、藤原行成は主上をお支えするとともに弁官として左府にも仕えてきた。主上は御年十八歳でいらっしゃるが大変聡明で漢詩や楽を好まれ、臣下への気配りも忘れない魅力的な御方だ。そんなわけで、左府も意思をごり押しすることはなるべく控えていた。ところが、頭の痛くなるような状況が起きつつあった。
「絹を府生以上に、布を番長以下に下すこと」
俺はひとまず今日の業務に集中することにして、出納にそう命じた。
それからしばらくして、俺は世の中のままならないことを知った。幼い頃に父と祖父を亡くしたことも不条理だと感じていたが、また一人俺の愛すべき家族が息を引き取ったのだ。
俺は熱にうなされて泣き声を上げている赤ん坊に水をやろうとした。しかし、手足をばたつかせてなかなか飲ませることができない。
「あなた、私が……」
俺は器と匙を妻に渡して、少し座から離れた。
「冬子、すまない。俺も身重の君の傍にいてやるべきなのに、なかなか帰れなくて」
「ええ、わかってるわ」
普段はふっくらとした妻の顔は明らかに憔悴してやつれている。突然、赤ん坊が発熱してから数日間、寝ずに看病しているのだから当然だ。薬師も控えているが手の施しようがないらしい。この赤ん坊は俺にとって二番目の子で、本当に愛らしい姿をしていた。垂れた眉がどことなく妻に似ている。しかし、冬子は三人目の子を宿していて、腹部もかなり大きくなった。こんな時に赤ん坊の看病は酷だった。
いつの間にか泣き声が止んでいた。もはや苦痛を訴える気力すらなくなってしまったのだろう。妻は赤ん坊を持ち上げて、その胸にしっかりと抱きかかえた。何度も流したであろう涙がまた頬を伝っている。俺は赤ん坊の手の近くに指を運んだ。ごくわずかな息がかかるのはわかったが、その小さな手はもう俺の指を掴むことはなかった。
「旦那様、もはやお庭へ移動されてください」
乳母が俺に声を掛けた。それはつまり、赤ん坊の命が残りわずかだということを意味していた。死の穢れに触れれば三十日間は謹慎しなければならない。俺は瀕死の赤ん坊の父親であったが、出仕を長期に渡って控えることが許されない身だった。
庭へ降りてから間もなく、冬子の泣き声が聞こえた。それから俺は死穢を避けるためそのまま庭を出た。俺は車に乗り込んだ後、一人になると号泣した。妻を慰め労わり、共に嘆くことができなかったからである。
愛児を失ってから五日目、悲しみを堪えて参内し、俺は自身の晴れの日を迎えた。京官除目、つまり人事異動の発表がなされたのだ。
「頭弁! 昇進おめでとう」
「ありがとうございます。お蔭で今までの苦労が報われました」
除目が明け方に終わったため、欠伸を飲みこみながら、俺は先輩であり親友である参議の源俊賢殿に礼を述べた。
「君はまだ二十代だろう? その若さで右大弁になった人物はそうそういないよ。すごいことだ。ところで、奥方の様子はどうだい?」
「ああ、はい、だいぶ落ち着いたようですが、身重なので少し心配ですね」
「そうだな。まぁ、今日の君の昇進の知らせも、いくらかは慰めになるんじゃないか」
「だといいのですが」
俊賢殿はこうやってなにかと俺や家族のことを気にかけてくださる。事情は違えど不遇の少青年期を送らざるを得なかった俺と俊賢殿は通じるところがあって、殺伐とした宮中の政治の海を泳ぐための光のような存在だ。
「ところで、清少納言とはどうなった?」
穏やかな波に突如稲妻が落ちた気分だった。俊賢殿は面白そうに笑っている。
「どうもないですよ。中宮様への用事もないですし、最近忙しすぎてあちらの局には行ってませんから」
俺はいくぶん迷惑そうに返事をしてしまった。中宮に仕える女房清少納言は、なんというか今までにない型の女人だった。
物分りが良くて仕事の話を持っていっても適切に処理してくれるので、俺はわざわざ彼女以外の女房に取次や依頼をしようとは思わない。無駄に世間話を吹っかけてくるだけで、俺の心情を汲んでくれない女房に関わっても無駄なだけだ。
それだけではなくて、清少納言は漢籍の知識を武器に殿上人たちを相手に遠慮なくずけずけと切り返してきて、端から見ていると飽きなかった。俺もやり込められるうちの一人だったが、他の殿上人はいざ知らず、不快に思ったことは一度もない。
可愛げのない女だと陰口を言う奴もいるようだが、俺は彼女の柔らかく朗らかな笑い声が、その場に虹をかけているように感じられたし、子犬だとか小さな花の蕾だとかを見て無邪気に喜んでいる姿はただの女人そのものに思えた。
そして俺と少納言は、出会ってからそう時間を置かずに、永遠の友情を誓い合うようになっていた。二人ともその性格から周りに誤解されることが多かったが、どういうわけか俺達は手に取るように互いの心根がわかり、尊敬の念を抱くようになったのだ。
「とは言うものの、近々、職曹司に行く必要があるでしょうね。少納言には理解してもらわねばならないことがありますから」
「ああ、御懐妊中の中宮様も心穏やかではないな」
俊賢殿との話はこれで終わり、俺は明け方まであちこちに昇進の報告とお礼をしに駆けずり回った。
十二月に入り、この頃冷えが一層強くなった。憂いのなさそうな晴天はありがたかったが、庭の霜や薄化粧の雪は見るからに寒い。仕事の合間の短い間に帰宅した俺はもっと火をおこすように家の者たちに指示をした。お産の迫る妻の身に何かあったらどうするんだと、少しいらつきながら。
「冬子、何かほしいものは? 温かい粥は? あっ、甘く煮た黒豆はどうかな」
俺は冬子の手を握りながら尋ねた。もう三度目というのにこういう時はどうしていいかわからず、うろたえることしかできない。
「もうたくさんいただいたわ、行成様。これ以上食べたら私、ぶくぶくに太ってしまうじゃない。醜い女人はお嫌いでしょう?」
こんな風に妻に笑われる始末だ。
翌日、まだ日の出ていない明け方に左府の元を退出すると、わざわざ岳父がやってきて、冬子が出産を終えたと伝えてくれた。実は冬子の後産が悪く、慌てて僧都に加持を行わせるというどたばたがあったが、元気な男子が生まれたのだった。やはり頼むべきは仏である。
「この子の名前はこれでどうかな」
俺は妻に名前を記した紙を見せた。雪のような真っ白い衣に包まれた妻は、大仕事を終えた満足感に満ちてこの上なく美しかった。
「……犬丸、ですか。ちょっと変わった名前ですね」
「いや、ありきたりの名前ではつまらない人物になってしまうと思ってさ。それに、犬はかわいいだろ?」
「ええ、行成様がそうおっしゃるなら、犬丸がよろしいですわ」
犬丸は元気に乳母の乳を飲んでいる。失った次男の分も愛情を注いでやらねば。とにもかくにも、俺は幸せだった。
暮の押し迫ったある日、前日の降雪は夜のうちに止み、大内裏は鏡を揺らしているかのように雪明りで輝いていた。
俺は外での用事を終え、内裏に向かう途中何気なく職曹司に立ち寄った。職曹司は兄君の不祥事により一度御髪を下ろされた中宮のお住いで、内裏の東側に位置している。本来であれば中宮は正妻として後宮に住まわれるのだが、兄君の不祥事と共に後宮を退出し、主上が再び呼び寄せたため、内裏の外に身を置かれているのである。
いつものように清少納言の局に向かい、部屋の様子を伺うと先客がいた。少納言は几帳の裏に座り、先客の公達は火鉢に手をかざしている。気になって聞き耳をたてていると、清少納言の声は微かに震えているように聞こえた。気丈な彼女が涙を流すなんてあり得ない。まさかこの男が泣かせたのか。
「あら、頭弁様! いつからいらっしゃったの? こそこそなさって!」
突然几帳の裏から少納言の呼び声がした。非常に気まずいと思っていると、先客も振り向いた。それは右衛門督公任殿だった。やはり気まずい。
「すみません、なんかお邪魔だったみたいで。俺、帰ります……」
「おい、勝手に帰るなよ。寒いだろ、お前も入って座ったらどうだ」
公任殿は少納言と同い年で、よくこちらに来ては喋っている。永遠の友情を誓い合った俺とは別の意味で、友人づきあいしているようだ。公任殿は何をやらせても随一で、諸芸をいとも簡単に操ってしまう。そんなわけで、どこから湧いて出てくるのかと思うほど自信過剰、酒が入ると失言も飛び出す。ついでに言うと、四つになる御子息を溺愛している。
「何の話をしていたのですか?」
先輩が来いと言っているので、俺は遠慮せずに部屋に入った。少納言の涙声は一体何だったのか気になって仕方がない。しかし、俺はその理由を知ってかえってもやもやを感じてしまうことになった。
「先日、陸奥守が亡くなったって話だよ。お前聞いてないのか」
「えっ、いえ何も。病気……ではないですよね」
「ああ、落馬だとさ。風流人が何と呆気ない旅立ちをするのか」
公任殿は陸奥守実方殿と親しかった。悲しみは人並み以上だろう。そして、実方殿はそれよりも少納言のかつての恋人として知らぬ人はいない。
「帝もあの方に期待を寄せて陸奥国に送り出されたのに……」
少納言の溜息が聞こえた。宮仕えを始めた頃に別れたというが、やはり完全に他人にはなりきれていなかったようだ。
元夫の左衛門尉則光殿との間柄だって、隠そうとせず、なんやかんやと世話を焼き合っていた。少納言はさばけているのに、妙に情にほだされやすいらしい。
俺は何となく、自分が損をしているような気持ちになった。彼女の局に足を運ぶのは仕事のためでもあるし、純粋に心が安らぐからだ。安らぐというのは冬子と一緒にいる時とは違う、飾らなくとも共感が生まれるという意味だ。
彼女もそう思ってくれているから、たとえ離れ離れになってもまた会うことのできる仲でいようという友情を約束したのだと、そう信じているのだが、悔しいかな、俺は実は左衛門尉や陸奥守ほど彼女を、彼女の素顔を知らないのだった。
「……聞こえていらっしゃるの、頭弁様? 昇進なさって気が緩んでいるのかしら」
「まぁ、いいさ。大した話じゃない」
公任殿と少納言が何か話していたらしいが、俺は上の空で聞き漏らしてしまった。
「すみません」
「さて、長居してしまったな。行くぞ、朴念仁」
この先輩にはいつもひどい言われようだが、几帳の陰でくすりと少納言の笑い声が聞こえた。そう、あなたに泣き声なんか似合わない。