序
しばらく背中を支配していた熱と湿気を帯びた肌がふいに離れていった。名残惜しい気持ちと離れてくれてほっとした気持ちが混在しながら、私はうつぶせのまま全身を褥にゆだねた。庭から入ってくる風が汗ばんだ肌を冷やす。頬の下に組んだ両手を枕代わりにして、私は隣で呆けたように無造作に横になっている男を眺めた。髻がほどけて髪が顔に流れ落ちている。
「ね、満足なさった?」
私は彼の額にかかった髪をそっと指先で掻き上げた。すると、彼は私の腕を掴んで吐き出すように言った。
「どうしてそういう言い方をするんですか。これきりの関係だと思ってるのですか。俺は他のやつらと違う」
彼は常々、あなたの恋の関を越えたいなどと冗談交じりで言ってきていた。この職場ではよくある駆け引きのうちだから、本心なんてわからなかった。だからそのお心は受け取っていたけど、うまいこと言って色恋沙汰になるのは避けていた。
それが、この結果だ。
全身全霊を私にぶつけてきたのだろう。荒く肩で息をして、それでもなお、彼は私を離すまいと必死だった。
「まるで捨てられた子犬みたいな瞳をしていらっしゃるわ。私はどこにも行きません。年が明けたら、宮様のかわいい御子と一緒に戻ってきますから。私、笑ってるあなたの方が心地いい……」
そう言われてもなかなか笑顔になってくれず、彼は俯きながら再び私をかき抱いた。その貪欲さに呆れつつも、私は少なからぬ幸福感を味わっていた。そして彼は私の頭を支えるように手を添えて、耳元で囁く。
「愛してます。俺は本気です。俺を受け入れてください」
「おかしな方ね。だからこうやって受け入れましたのに」
すると彼は私のすぐ横にぴったりと寝て、今度は私の髪を撫で始めた。
「俺があなたを何不自由なく世話をして、幸せにします」
あまりに突然の申し出に、さすがの私も驚いてしまった。恋は盲目というべきか。現在私たちが置かれた立場を理解していないはずがないのに。
「そこまで私を想ってくださってとても嬉しい。でも、それじゃあ、あなたの面目は……」
「五か月前、俺は辞表を出したんです。もう何度目かの。でも翌日却下されました。どう足掻いたって、俺たちの置かれた状況は変わらない。俺も本当はこういう世界は得意じゃない。つぶされないように必死で生きている。だからせめて、あなたと――」
ほんの一瞬だけ春の息吹のような笑顔を見せた彼は、最後まで言わずに私に口づけた。この時にはもう春は過ぎ去り、熱気がぶり返していた。
何不自由なく世話をして、というのはつまり私を妻に迎えるということだ。彼には若い頃から連れ添っている北の方がいらっしゃる。だから私は妾の一人。それでも、出会ってからの日々と今日までの深い情――昨日までは永遠の友情だった――を思えば、彼の心うちが確かなものだとわかる。
「俺はもうあなたと生きる覚悟をしたんですよ」
流麗な書を生み出す繊細で大きな手が、今は私の頬を優しく包んでいる。泡のごときこの世の中に、私は一筋の光を見た気がした。
「ねぇ、わがままを言ってもいいかしら?」
「どうぞ。あなたの口からわがままを言われる男になれて、感無量です」
「息子の名前は『犬』以外になさってね」
彼はそのわがままがいたくお気に召したようだった。私たちはこの時、政治という魔のしがらみを一切忘れ去っていた。そうでもしなければ、お互いに心が折れてしまいそうだったから。
私はもう一度、強く抱き締められた。
――彩子。彩子。愛してる。彩子。
何度も繰り返して私の名を呼ぶ彼の声は、真夏の夜の夢のごとく、あらゆる甘美を弾けさせ、そして、無情な夜明けとともに遠ざかるのだった。