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  作者: 柚木ハチワレ
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鵺の参――禍蛇

男と女の愛憎劇。愛した人がいて、愛している家族がいて、それらを守るための行動が招く帰結がハッピーエンドとは限らない。けれど、ある側面から見れば……?そんな話です。




穴を、掘っている。


予め用意しておいたスコップを地面に突き刺し、てこの原理で土をほじくり返しては横に積んでいく。

額に浮く汗を時折拭い、再び作業に戻る。湿った、重い音が悪い夢のように続き、次第に荒い息遣いが混じった。


暗い、暗い、森の中。


光の中では決して見えないものが、真っ暗な木々の中で蠢き出すようだった。遠い空は夕暮れを迎え、烏が啼きながら飛んでいく。



「……ふ」



汗と泥に塗れ、疲弊に顔色を失くしながら穴を掘っていた者の頬を彩っているのは、この場にそぐわぬ紛れもない笑顔だった。裂けるように口唇が吊り上がり、頬は疲れのそれとは異なる感情から上気している。


狂喜だった。



「ふふ、ふ」



堪え切れぬ、とばかりに漏れ出る音は尋常な人間の放つものではない。

もし、獣が哄笑を上げればこのような声音になるのだろうか。喉の奥から絶えず落ちる、人ならぬ道に足を自ら踏み入れた者のみが発する、それは化生の産声だった。


穴を掘っているのは、女である。


けぶるような睫毛が影を落とし、汗で張りついた髪さえも飾りのように美しい、水際立った美貌の女だった。けれど、その美しさとは対照的に双眸に宿る色は狂気に染まった人間特有の、灼けるような熱情を帯びている。



「もう少し、もう少しだから待っていて」



熱に浮かされたような呟きが口の端からあふれ出る。

やがてスコップから手が離れ、土の中へと倒れ込む鈍い音が響いた。女の瞳が先程までの狂的な様子から一転、陶然と潤み、淡い恋心を知ったばかりの乙女の如き甘さを含む。



「――旦那さま」



睦言めいた囁きが闇にとろけ、伸ばされた腕が夜を抱くように重力を感じさせない動きで、ほろりと踊った。恥じらうように、土に汚れた指先がそっと自分の頬に添えられる。



「さよなら、鬼灯」



指先に力が込められ、目元の皮膚が凹んだ。



「おはよう、椿」




ぶつっ。




              × × × × ×




うつくしいひと、というのは姉様のことをのみ指す言葉であって、他の全ては何もかも偽物であるとすらわたくしは思います。


いいえ、この世の如何様な美辞麗句を寄せ集めたところで、真にかの人のことを形容するには、まだ足りません。どれだけの感嘆と賛美を以てしても役不足なのです。


立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花など、とんでもありません。そんな陳腐なものではないのです。


指先ひとつ、仕草ひとつから綺羅が零れ落ちるようなその清艶。


姉様の立ち居振る舞いは匂い立つように美しく、儚げで、そしてどこか可憐ですらありました。

裾から覗くしなやかな足首は細くいとけなく、小鹿のような愛らしさ。一片の穢れすら見当たらない白皙の如き肌。桃色の唇から紡ぎ出される旋律は、天上で響くという麗しき楽の音も遠く及びますまい。


まるで人の形を模した宝石。生きた宝珠。希少種の蘭のような、芸術家がその全てを燃やしつくすように精魂込めて造り上げたように完璧な、わたくしの姉様。


両の瞼が開くことはないけれど、それがこそ姉様を姉様たらしめていたのかもしれません。

世のみにくいものを、目をそむけたくなるような卑小さを、文字通り瞳に映すことがなかったのです。瞳の光を永遠に喪っている姉様は、だからこそ無垢で、人が生きて行く上で垢のようにこびりつく汚穢のような感情とは無縁でいられたのでしょう。


崇高なる欠落者。


それが姉様でした。


けれど、姉様が美しければ美しいほど、優しければ優しいほど、わたくしはみじめでした。


差異は此の岸と彼の岸の如く遠くて、手が届かなくて、絶望感が徹底的にわたくしを打ちのめします。


姉様の淳良な心根を知っているからこそ、わたくしには責める相手すらいないのです。


ああ、なんて狡い。なんてひどくて、惨い。恨めしく、憎らしい。自分の身内に、しかも盲の姉を掴まえて浅ましい、恥を知れとわたくしに人非人の烙印を押す方もおりましょう。ええ、わたくしはその謗りを受け入れましょう。けれどね、これはおそらく共感頂けるものではないかと思うのです。


だって、わたくしは、何も持っていないのですから。


姉様の指先が動くたびに星屑が散るような、あの煌めくような輝きも、美酒の如き美声も、細い鼻梁も花弁の唇も何も何も何も何も何もなにも! わたくしにあるのは、見たくもない世を見つめることのできる瞳と、いやらしく矮小で醜いことしか頭に浮かばぬ、姉様が無縁な情動。

きっと母様は、わたくしたちを産み落とすときに何やらの采配をしたに違いありません。もとはひとつであったはずの同じ血肉からできあがったのに、わたくしと姉様との違いは、誤差と呼ぶには開き過ぎているのです。天が二物を与えぬと言うのなら、その分母様が姉様に二物も三物も才をお与えになったのでしょう。事実、わたくしは母様に愛されてはいませんでした。よしんば愛されていたとしても、平等ではありません。


いつだって、何があったって、優先されるべきは姉様で、わたくしはその次。


それも当然なのでしょう。姉様の盲を差し引いても余りある希少性は、わたくしなどではとてもとても。そう、釣り合いがとれませんもの。


でも、それはそれでよかったのです。


納得はできなくとも、理解はできました。


姉様は母様の掌中の珠。愛され、慈しまれるべき存在なのです。


どんなに異常であろうと、常軌を逸した行動であっても、それが続けば日常です。

人間は慣れというものに特化した生き物ですから、連綿と、途切れようなく同じことが続けば、如何なくその順応性を発揮します。


わたくしは、姉様と母様とわたくしとの関係を規定致しました。こういうものだ、と。


姉様が大事にされるのは、「そういうものなのだから」仕方がない。諦観というよすがに縋るように、わたくしは漫然と日々を過ごしました。


けれど、けれどね。


我慢強く、忍耐に優れたわたくしにも、限界がありました。


好きな人が、できたのです。


あの人の姿を視界に納めたまさにその瞬間、全身に痺れが駆け抜けました。

あの、血液が残らず沸騰するような痛痒を、震えるような高揚感を、わたくしが忘れることはきっと生涯ないでしょう。


まさに恋の落雷。


愛の激情。


あの人を思うだけで心が満たされました。多幸感があふれました。けれどあの人を思うたび、胸に痛みが走ります。


思えば、苦しい。


思えば、切ない。


くるくると、くるくると、わたくしのなかで矛盾した思いが暴れまわるのです。

そうして、やがてわたくしは天啓のように確信致しました。


あの人になら、わたくしの全てを捧げてもなんら惜しくない。


いいえ、むしろ彼に捧げられるものがほんの一滴でもあるのなら、これほど幸福なことはありません。

他の何よりも誰よりもあの人を優先して、尽くして、愛して愛して愛し抜くことがわたくしのしあわせ! 必要ならば、喜んでこの身体を差し出すことでしょう。

もはや憧憬や恋情などという言葉では生温い、それは信奉にも近い感情の塊でした。


なのに。


それなのに。


姉様の旦那様となったのは、わたくしの好きになった人でした。


あの方の心を射止めたのは、わたくしではなく姉様でした。けれどそれはしようのないこと。誰でもわたくしと姉様を並べて見れば、姉様を選ぶに決まっていますもの。


愛されるべき、姉様。


慈しまれるべき、姉様。


それは、わたくしにとってもはや意識の埒外にある不文律でした。

姉様はわたくしを本当に好いて下さったので、毎日のように話して下さいます。

今日は旦那様と深川へ行ってきたの。浅蜊のご飯がとっても美味しかったわ。今度、私と一緒に行きましょうね。きっとあなたも気に入るわ。

本当に他愛のない、益体すらもないことを姉様は、まるで物語を小さな子供に読み聞かせるように語ります。


わたくしは、それを笑顔で聞き続けました。


旦那様がお買いになった簪の模様も、お好きな食べ物のことも、日常のほんの些細なくせだって、わたくしはなんでも存じ上げております。姉様の幸せが、旦那様の幸せだということも、ね。


腸が煮えたぎる熱湯に浸けられたようでした。


溶けたあかがねが身の内でのたうつような、これを或いは憎悪と呼ぶのでしょうか。


だとすれば、本当の憎悪というものを、わたくしはこの時はじめて理解したのです。


忍耐の糸が擦り切れる音を聞きました。我慢の井戸は枯渇しました。諦観なんて後ろ向きなもので糊塗していたわたくしの思いが、地割れのように露出したのです。


分水嶺なんて、きっととうに越えていたのでしょう。


限界という名の消失点。


それを今、迎えただけなのです。


もとはひとつであった、同じ血肉から生まれたのがわたくしと姉様。


ならば、これからひとつになったとて、何の不都合がありましょうか。


ひとつの椀に満たされた水をふたつの椀に分けたって、いっぱいになんてならないではありませんか。なら、片方の椀を傾ければよいのです。ひとつの椀がいっぱいになって、ほら、元通り。とっても簡単な話ではありませんか!

ああ、ああ、よい気分です。なんて清々しい。なんて軽い。まるで心に羽根が生えたよう。きっと、今のわたくしならなんでもできる。わたくしは、わたくしを使ってこの苦境を突破するのです。さぁ、ぐずぐずしている暇などありません。まずは準備をしなければ。


こんなに胸ときめくことは、きっともうないのでしょう。




              × × × × ×




武葉(たけは)は父が嫌いだった。


否、嫌いなどと甘っちょろいものではない。憎悪という言葉ですら到底言い尽くせぬほどに武葉は父を憎み抜いていた。金で金を生む作業に憑かれた、金の亡者。


けれど、亡者は亡者でも、父は餓鬼だった。


食べても食べても満たされることのない、施餓鬼すら通用しない、最悪の化け物だった。

金満家の豚と揶揄されることも少なくなかったが、父は豚どころかがりがりの痩せっぽちで、いつか見た猿の木乃伊のような見た目をしていた。その双眸はいつでも欲望と自分の金を奪われることに対する恐怖でぎょろぎょろと落ち着きがなく、それが武葉を苛立たせた。

父の愛は一途なまでに金へと注ぎ込まれ、武葉にその一片でも与えられることはなかった。

苛烈なまでに金を求める父はいつでも猜疑心の塊で、それは病床で死の淵に立たされていても変わらなかった。臨終の父は、五十かそこらの筈なのにまるで八十を過ぎた老人のようだった。


枯れ枝よりなお細い腕を伸ばして呟かれた最期の言葉は、惜しい、だった。


金か、自分の命か、或いはその両方か。


今の武葉には推測するしかできないが、父がその最後の一瞬まで自分と金のことしか考えていなかったのは疑いようがない。


まだ、足りないのか。――ここまでしておいて。


武葉は父の果てがない欲望に呆れ、死に際を越えてなおこちらを一顧だにしなかったことに震えるような怒りを覚えた。稼ぐ、ということに特化して執拗なまでに他を切り捨ててきたが故に、父の象徴は金だった。莫大に残った遺産が父そのものだった。


だから、武葉は家の金を使い切ることにした。


父という存在が、金に依存して出来ているというのならば――武葉はその金すら残らず憎む。稼ぐことにのみ固執していた父への、それが最高の意趣返しだと思った。信じた。切望した。


今もなお武葉の中で暴君の如く君臨し続けている父の姿を塗り潰すには、これしか方法がなかった。


使って、使って、見事その数字が零を迎えた時が武葉の満願成就である。燃え盛る復讐心そのままに、武葉は金にあかせて豪遊し、知人に利息もなく貸し与え、何人もの女を作って宝飾品を貢ぎ続けた。

消費こそが至上命題の武葉にとって、その手段はなんでもよかった。見返りなど求めていなかった。

仮に返るものがあるとすれば、それはやはり武葉の憎悪の種だけだろう。


けれど、金が減らない。


その遺産もさることながら、父が生涯をかけて作り上げた金が金を生み出す歯車は寸分の狂いなく完璧で、武葉が使い込む以上の金が何をせずとも毎月転がり込んでくるのだ。


そうして年を重ね、小煩い母を黙らせるために盲の女と結婚した。


見目こそ美しいが、彼女はその致命的な欠陥ゆえに何をするにつけ愚鈍で無知だった。取り柄といえば優しいという一点だろうが、それを構築しているのは彼女のいっそ清々しいまでの鈍さと迂闊な思考回路が結晶化しただけの話。三歩下がって夫の影を踏まずと言えば慎ましやかだが、十歩以上離れていればただの鈍亀である。

案の定、父に愛されていなかった弊害からか武葉に異常な愛を注いでいた母は瞬く間に歪んだ情愛を嫁に対する嫉妬へと変換し、鬼姑へと変貌を遂げ、連日のように出来の悪い嫁をなじり溜飲を下げることに腐心するようになった。

母に使えない嫁という玩具を与え、ひたすら金を使い込むことに心血を注ぎ込む日々。

徒労感だけが武葉の精神を削り続け、枯渇を望めば望むほど、途方もない金額にたとえようのない屈辱を覚えた。


しかし、如何な葛藤があろうと傍目から見れば遊び暮らしているだけの武葉に、当然世間の目は優しくない。


父親の遺産を食い散らかす穀潰し。放蕩息子。ドラ息子。口さがない人の間で武葉は物笑いの種だった。飽きるほどの嘲弄と侮蔑。下世話な詮索と好奇の入り混じった蔑みの視線。持たざる者の羨望と嫉妬の念が嵐のように武葉を攻撃した。自分の囲っている女たちもそれは同様で、会えば金の無心をされるか高価な物をねだられるか、いつでもその二択だった。行為もするが、それ自体作業に近く、金払いに対する単なる対価と変わらない。


そしてある時、唐突に武葉は気が付いてしまった。


心のどこか片隅に存在してはいても目を背け続けてきた思考に、意識が傾いてしまった。


ひたすら金に尽くし、金を妄信し、金に囚われて生きていた自分の父親。


間違っても彼のようになるまじと彼の生きた痕跡を消そうと躍起になっている自分。


恨みの枷。殺意の虎鋏。報仇の鎖に縛られている自分と彼に、果たして如何程の差異があろうか。




――同じ轍を踏んでいる。




図らずも到達してしまった思考は、武葉をこれ以上ないほど徹底的に打ちのめした。

これまでの自分が、自分によって否定されてしまったのだ。


絶望とは、文字通り望みが絶えること。


自分で喉首を掻き切るように引導を渡してしまった武葉は、僅かに残っていた精神すら喪って――抜け殻になってしまった。


生きた屍。それが当時の武葉に最も相応しい形容だろう。


そうして、動くだけの骸と化した武葉の前に、夢のように現れたのが(ひわ)だった。


囲っている女は数あれど、鶸はそのどの女とも異なっていた。少なくとも武葉はそう感じた。

喪失感と虚脱感。無力感と自己嫌悪の渦に流され自暴自棄に陥っていた武葉を、鶸はその細腕を伸ばし、優しく抱きしめたのだ。幼い雛鳥を守る親鳥の羽根の如き柔らかさと暖かさを全身に感じて、削り果てていた空っぽの心に何かが満ちた。



「可哀想なひと」



そう言って、鶸は我がことのように涙を零した。はらはらと、頬を伝い落ちるそれはあまりにも美しく、宝石の如く武葉の目に焼き付いた。



「ずっとずっと、辛かったでしょう? 苦しかったでしょう? でも、もう大丈夫」



柔らかな声音は武葉の内に、乾いた土を穿つ雨のように染み込んだ。健気な腕力での抱擁は武葉に繭の中にも似た安らぎを与えた。



「……う」



小さく呻き、背中に感じる、いたわりを込めてさすられる手の平の感触に、武葉の何かが決壊した。



「う、うあ、あ、ああああああぁぁぁぁあああああ!!」



喉を酷使するが如く、声帯も千切れろと言わんばかりに声を上げて泣き喚く。恥も外聞もかなぐり捨てた、獣の咆哮のような叫びだった。けれど、それは間違いなく武葉の嗚咽だった。


悲嘆と無力感に蝕まれた武葉の心を、鶸は掬い上げたのだ。


そこから、武葉は鶸に猛烈に惹かれていった。

鶸は金の無心もしなければ、物をねだったりもしない。ただ武葉の来訪を喜び、心から歓待する。それだけだが、それこそが武葉の望むものだった。


そうしていつの間にか惚れていた。


柔らかくも芳しい口付けは甘く蠱惑的で、その声音を聞いているだけで夢見心地に陥るようだった。鶸を抱いていると、それこそ雑事など那由多の彼方へと飛んで行ってしまう。



「旦那様さえ傍にいて下さるのなら、鶸は満足でございます」



事後の余韻漂う妖しくも甘い空気の中、とろけるように囁いて、ほんのりと微笑む鶸に武葉は心臓を撃ち抜かれた気がした。毒薬のようだとふと思う。じわじわと侵食して、甘さと心地良さがそれを毒とは気付かせない。そして、それが毒だと気付いた時には既に手遅れ。けれどそれでも構わない。


神も仏も信じていない自分が乞い願うとすれば、それは鶸だけだ。


鶸は武葉にとって、唯一かつ絶対の無聊の慰めとなったのだ。




              × × × × ×




私の可愛い妹は鬼灯(きちょう)という。


この世に生を受けたその瞬間から、私の視界は暗闇に閉ざされて、何かを見ることはきっと生涯叶わないけれど、それでも鬼灯が可愛いのはよく分かる。


だって、あんなに綺麗な声をしているのだもの。


雛鳥が懸命に親鳥を呼ぶような、ひたむきで、とてもまっすぐな声。


私は鬼灯の声が好き。人の美醜が分からない私にとって、その声は何より代え難い宝物だった。

貴重で、価値があった。だから、その可憐な声が曇るようなことはあってはならないと、いつだって思っている。


けれど、私が私であるからこそ、鬼灯は小さな頃から苦しい思いをしてきていた。


それを、私は知っている。

鬼灯に苦しい思いをさせたのは、唯一の母を奪ってしまったのは、他でもない私なのだから。

母様は生前、ずっと謝っていた。ずっと悔いていた。私を盲にしたのは自分が悪いのだと、夜毎、呪詛のように謝罪の言葉を繰り返していた。母様が私を何より優先していたのは、ただの贖罪だった。愛情でもなんでもない、ただの償い。


私の生家では、妊婦が蛇を殺すと盲の子が生まれるという俗信があった。


そして、母様はまだ私と鬼灯を身ごもっている時に、蛇に襲われたのだ。


赤い、それこそ赤酸漿みたいな目をした蛇だったそうだ。母様は自分を守るため、お腹に息づく私達を救うため、その蛇を追い払おうとして――殺してしまった。

振り回した枝が運悪く蛇に当たってしまい、頭部を潰された蛇はその場で絶命した。それは人間の生存本能で、同時に親としての責任感だったのだろう。不幸な事故で、どうしようもなかったのだ。その点を責めるつもりは毛頭ない。


けれど、生まれた私は俗信通りの盲だった。


母様は、それこそ気狂いのように私を溺愛した。目が見えない私よりも、よほど盲目的に私を慈しみ、優先し、鬼灯はいつでもその次だった。


何もしていないのに、蔑ろにされる私の妹。


私という姉のせいで親の情を受けられなかった、可哀想な鬼灯。


だから、私は鬼灯を愛している。


私のために狂ってしまった母様の代わりに、いえ、そうでなくても、あの哀しくもいじらしい妹を導き、慈しみ、愛するのが私の生き甲斐で、そのためにこの命を燃やし尽くせるのならば本望だった。

好きな人ができたと嬉しそうに報告された時は、心が躍った。恋の歓喜に甘くとろけ、砕いた水晶を混ぜたような綺羅の声は、まるで自分のことのように私を嬉しくさせたのだ。


けれど、鬼灯の好きになった人は最低だった。


その界隈を歩きまわれば、噂話は私の敏感な聴覚に否応なく飛び込んできた。父の遺産を鼻にかけた金満家で、女をただの肉壺くらいにしか考えていない、下劣な男。


それを知り、私は考えた。可愛い妹の恋路を応援してあげたいのは山々だけど、その相手がどうしようもないろくでなしならば話は別である。鬼灯を守るのは私の義務。姉の責務。鬼灯が心奪われた人を、なんとしても遠ざけなければならない。肉体的なものが無理ならば、せめて精神的に。必死で考えて、考えて――そうして、閃いた。それしかないと思った。普通の人とは基本的な部分で欠けている私にできることはあまり多くないけれど、これだけは完遂しなければならない。


鬼灯、姉様は頑張るから。


私は不退転の覚悟と決意を以て妹の思い人に接触を図り、何度かの交流を経て――結婚した。


私が思いついた、たったひとつの、最高の手段。


鬼灯をあの人から遠ざける、最強の肩書き。


鬼灯に結婚を告げた時のことは今でも忘れられない。嗚咽に声を震わせて、ただどうして、どうしてと繰り返す鬼灯に心が痛みで軋みを上げた。


ごめんね、鬼灯。あなたの大好きな人を奪ってしまってごめんなさい。


でもね、私が結婚すれば、あなたは誑かされたりしない。だって、私という伴侶がいるのだから。


優しい鬼灯だから、私の「旦那様」に手を出すなんてできなくなってしまうでしょう?


世間的に見れば、私は妹の恋しい人を横から奪った悪女だ。鬼灯にとってもきっとそうだろう。とても寂しいことだけれど、憎まれても、嫌ってくれても構わない。これが、鬼灯のためになると、私は信じている。



「俺はお前を愛していない」



結婚前日、旦那様となる人は忌々しそうに言った。


ええ、奇遇ね。私もよ。


勿論、こんなところだけ共通していてもちっとも嬉しくなどないけれど。


旦那様が欲しかったのは、有能で貞淑な妻なんかではなかった。姑の目を自分以外に向けることができる、劣った使えない嫁だった。

その点があったからこそ、私が結婚できたのだろう。

案の上、私は嫁入りしたその日から「お義母さん」からの叱責と侮蔑に襲われた。私の一挙手一投足に至るまで姑は管理し時に貶め、小言の乱れ撃ちを見舞ったのだ。食事の味付けから始まり趣味に至るまで微に入り細に穿ち、永遠に続くかと錯覚しそうになる執拗なまでの姑の「教育」を私は受け続けた。辛くて苦しかったけれど、これが鬼灯の幸福に繋がると考えれば我慢できた。耐えられた。

妾なんて、何人作っても構わなかった。ただ、鬼灯の目の届かないようにと、そこにだけ常に注意を払った。


数日に一度だけ、鬼灯と会う時だけが私の心の拠り所だった。


旦那様のことを話す時は、鬼灯の想像を壊さないようにと心を砕いた。だって、あの人の本当を知ってしまったら、鬼灯はきっと傷付いてしまう。泣いてしまうかもしれない。

そんなの駄目。あんな男のために、鬼灯の心にほんの僅かなひっかき傷だってつけることは許せない。


だから、嘘をついた。


優しくて、格好よくて、強くて、でも何をするにしても自分をいちばんに考えてくれる、夢みたいなひと。妻以外に心を奪われることなんて万が一にもありえない、そんな理想的で偶像的な旦那様を作り上げた。


ありもしない話をせがむ鬼灯に、いつでも少し心が痛んだ。


でも、本当のことを話して鬼灯が受けてしまう心の痛手を考えれば、こんなのなんでもなかった。


鬼灯、鬼灯。だぁいすき。


あなたはしあわせになってね。


私が奪ってしまった母様の愛情なんか及びもつかないくらい、とびきりの幸福を掴んでね。あなたなら、それができるでしょう。


だってあなたは私の自慢の妹なのだから。




だから、こんなのは嘘よね?




首が熱い。


咄嗟に首筋を押さえたけど、熱い液体がびゅうびゅうと手にかかるだけで止まる気配はなかった。


おかしいな。


今日はこれから鬼灯と深川に行くはずで、その前に行きたいところがあるの、と言われたから一緒に沢山歩いて……あれ?


疑問だけが渦巻く中、私は真横に倒れた。鉄錆と土の味が口の中に広がる。



「き、ちょ……」



残った力を振り絞って鬼灯の名前を舌に乗せる。身体が動かない。命が、零れていく。


指先から腕から暖かみが失せていく。



「姉様」



ああ、私の大好きな声がする。可憐で、びろうどみたいに滑らかな、愛しい声。



「わたくし、あなたがとてもとても嫌いでした」



けれど紡がれた言葉はこれ以上ないほど残酷だった。


ああ、そうだったの。そうだったのね。


鬼灯は、私が嫌いだったのね。ずっと、ずぅっと。こうして、殺したいほどに。


それじゃあ、仕方ない。


なんだ。私がいないことで、あなたがしあわせになれるのなら、早くそう言ってくれればよかったのに。



「でもね、これからは愛せると思います」



のびやかで、歓喜にあふれた子供みたいな声だった。


それを聞ければ、うん、じゅうぶん私は満たされる。安心できる。本当はもっと聞きたいけど、どんどん声が遠くなるの。



「――さようなら。大嫌いな、でもこれからは大好きな椿(つばき)



名前を呼ばれたのは、始めてかもしれない。場違いな嬉しさに頬が馬鹿みたいに緩んだ。


これがきっと、最初で最後。


なんて寂しいんだろう。(まなじり)に涙があふれる。


でも、鬼灯の声は、今まで聞いたどんな声より楽しそうで、嬉しそうで、衒いがなくて……ああ、そうだ。



まるで、狂っているみたいに。



…………。




              × × × × ×




段々視力が落ちてきたことに気がついたのは、一体いつ頃だっただろうか。


まるで網膜に一枚薄絹をかけたように全てが朧だ。

目の前に人間が立てばさすがに分かるが、それも黒い影がなんとなく映るだけで、それが男か女かすら声を聞かなければ判別するのが難しい。しかも、意識すら最近は霞んできているような気がする。


足が動かない。


まるで膝から下が自分のものではないように、主を見限ったかのように動くことを放棄してしまった俺の足。ここ数ヶ月の間に、何が祟ったのか俺の足は徐々にその機能を失いつつあり、先日ついに動かなくなってしまった。床から出ることすら叶わず、ただひたすらに日々を退屈が蝕んでいく。

冷たく乾いた瞼の裏。朗らかに笑う鶸の姿を幻視する。大丈夫だ。俺の心はまだ鶸の姿を忘れてはいない。少しだけ安堵する。


鶸。愛してやまない俺の小鳥。


俺の心を闇の底から引き上げてくれた、魂の伴侶。


彼女を忘れるなど、あってはならないことだ。けれど、それも一体いつまで保つだろうか。


時間という最強の溶媒は重ねれば重ねるほど、本人が望むと望まざるを関わらず、その何もかもを薄れさせてしまう。


新たな不安が募る。


彼女はどうしているだろうか。鶸に会うまでは感じたことのなかった孤独感が冷気となって臓腑の裏側に刺さるようだ。


叶うのならば、今すぐにでも鶸の元へ行って抱きしめてやりたい。ああ、けれど。


この濁った瞳では、あの愛らしい姿を見ることができない。


いや、それどころかこんな棒きれのようになってしまった足では鶸のもとにすら辿り着けないではないか。胸に巣食う寂寥感と悔しさにきつく唇を噛む。血の味がした。



「旦那様、旦那様」



扉の外から、忌々しい声が聞こえる。


鶸に似ている分、余計に疎ましい。鈴振るような声の抑揚は鶸に酷似していたが、そのものではない。虫唾が走る。鶸のそれが魂を芯から慰撫する癒しの声だとすれば、これはどこか歪んで捻じくれた、俺を惑わし貶めようとする魔女の声だ。


愛してなどいない俺の妻。


結婚した当初は徹底して不干渉を貫いていたくせに、一体どのような心変わりがあったのかここのところ随分纏わりついてくる。母の相手だけをしていればいいものを。そういえば、最近母に会っていないことをふと思い出す。まぁ、あとで聞いてみればいい。


さっさと三行半を叩きつけてやりたいとも考えるが、俺の現状ではそれもできないから屈辱ばかりが澱のように自分の中で蟠りを作る。


嬉々として自分の世話を焼く妻に普通ならば情のひとつやふたつ沸きそうなものだが、生憎どんなにあちらが心を砕いても、俺が情をかけることなど一欠片もありはしない。


俺の全ては鶸に捧げているのだから。


ああ、鶸、ひわ。


会いたいなぁ。



俺はさびしいよ。




              × × × × ×





――あちらこちらを隔てる幕も、闇じゃ分からぬ裏表。





              × × × × ×




私は今日も食事の準備を致します。


湯を沸かして、野菜を刻み、感触と位置を頼りに下準備を施しながら諸々と思考を巡らせる。

これが旦那様のお口に入り、いずれは血となり肉となるのです。ああ、それだけで私の心は歓喜に震えます。旦那様に尽くすことが私の喜び!


以前の私は旦那様のことを何も知らなかった。


自分が愛されないと思い、けれどそれを誤魔化すために想像を口から吐き出して、言霊として世に現出させることで自らの均衡を保っていたのでしょうね。


今思えば、しあわせな、ひどく理想的な家庭を築きあげているのだと、そう錯覚したかったのですね。


私の愛する背の君は、そんな偶像の中にのみ存在するような、肉のない朧な方ではないというのに。


なんと愚かしく、惨めで滑稽な行為なのでしょうか。


けれど、もう大丈夫。心配などひとつもありません。


甘やかな蜜のような愛情を、秘めやかで淫靡な慈しみを、もう私は知っているのだから。


……ああ、いけない。物思いに耽っていたら朝食が遅れてしまいます。

最後にほんのちょっぴりの隠し味を一匙落として、さぁこれでよし。多すぎても、少なすぎてもよくないのです。隠し味は隠れてこそ。表に押し出されてしまっては、隠し味の意味がないというもの。


あとは旦那様を起こさなくては。


私は慣れた動きで廊下を歩き、手の平の感触で旦那様のお部屋の扉を知る。いつだって少し不便だとは思いますが、これも日常です。


旦那様、旦那様。起きていらっしゃいますか? おはようございます。


まぁ、大きな音。お怪我はございませんか?


旦那様は足がお悪くなっているのですから。無理をなさらないで下さいまし。


大丈夫のようでございますね。安心致しました。


朝食のお時間です。沢山召しあがって下さいね。


……え?


なぜ、そのようなことを仰るのですか? いけません。少しでも口にしなければ、治るものも治らなくなってしまいます。


ふふ、可愛らしゅうございますが子供のような駄々はおよしになって下さいませ。


お義母様? ご気分が優れないらしく、お部屋に籠もっておられます。明日にはきっと、また元気なご様子を見せて下さいますよ。さぁ、お義母様のためにもまずは旦那様がお元気にならないと。


前のように、食べたふりなどしてはいけませんよ。


私にとって、旦那様は生涯ただひとりの背の君でございます。ほんの少し、そう、ほんの少しだけしょうがない部分があったとて、それすらも不思議と愛おしく思えるのです。


ですから……そんなに声を荒げてどうしたのですか。


鶸がいない?


……。


おかしなことを仰いますね。


ねぇ、旦那様。この声に、聞き覚えはございませんか?


あんなにも睦み合った仲だというのに、お分かりになられないなんて……悲しゅうございます。


旦那様、旦那様。どうか意地悪なさらないで。



「私は、あなたのために、あなただけのために愛を囀る金糸雀でございます」



あなたの鶸は、わたくしであるというのに。


旦那様の寵愛を一身に受けた私が、こうしてお傍におりますのに。



ほんと、しようのないひと。



「でも、あいしています」






〈了〉



これにて『鵺』は終了となります。


実の所誰も幸せになっていないのにハッピーエンドに見える不思議(笑)。旦那様が愛したのはあくまで『鶸』であって、椿でも鬼灯でもありませんので。


少し題名の解説をしますと、全体の題名である『鵺』は頭が猿、手足は虎、身体は狸、尾は蛇、声は虎鶫という形状の怪異であり、その各種の動物の特徴が混ざった形状からか、正体のはっきりしない人物や行動の事を「鵺」「鵺的」と呼びます。今回、ひとつひとつに文体と内容に変化をつけたので、それらを鑑みて全体の題名に採用しました。


ご拝読ありがとうございました!


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