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  作者: 柚木ハチワレ
1/3

鵺の壱――虎鶫


眠っていた私は何やらの香に気付いた。


どこか甘い、えもいわれぬ香りである。



――はて、おかしい。



頃は冬。

花の盛りはとうに終え、未だ迎えぬ春を夢見て根雪の下で眠りに落ちているであろうことは、想像に難くない。


瞼が開いた。


雪が降りそうなのか空気が重く、きんと冷えていた。

ひしひしと纏わりつくような夜の気配が部屋に満ちている。私は布団から亀のように首だけをぬうっと出して周囲を窺った。動くのが億劫だったのである。


何度か首を巡らせていると――ふと、襖の絵に目を惹かれた。


一面に描かれた枯れ枝のなかに、何やら白いものがひとつだけ。ぽつん、と夜闇に浮き上がるように膨らんでいるのである。布団という厳寒の極楽から足を出すのは大層憚られたが、私はしばらく迷い、とはいえ好奇心には勝てず、結局は腰を上げて近付いた。


枝の真下まで歩み寄り、見上げてみれば、それは瑞々しくふっくりとした蕾である。

白い、重たそうな花弁が今にも開きそうに甘やかな芳香を漂わせている。ははぁ、香りの主はこれであったかと得心がいき、何をするでなく見つめていると、不意に時節を迎えたかのように花弁がほころび、弾けるように広がった。誰の肌も知らぬ処女が自らの纏う薄絹を開くように楚々とした、けれどどこか蠱惑的な仕草で真珠色の花弁がゆるりと柔らかく開いてゆく。


いちまい、にまい。


果たして、今が盛りと咲き誇るそれは芍薬の花であった。

なよやかに、けれど凛と佇むさまは息を呑むほどにうつくしい。


女性を形容するに古くから用いられているが――なるほど、よく似ている。


益体もないことを考えていると途端、酩酊するような花の香が噎せるほどに強くなった。いくら良い香りといえども、これでは少々辟易してしまう。私は逃れるようにその場から立ち去った。




              × × × × ×




高く、高く、澄み切った透明な夜の空に月が出ている。

青白い月光が天からほろほろと零れ落ち、私の足元まで照らしてくれるから不安はない。

当然ながら素足である。不思議と寒さは感じなくなっていた。歩き、歩き、ようやっと香りの届かぬ所まで出ると、少し困ったことになった。

布団の敷いてある場所が分からなくなってしまったのだ。

自分の足で歩いていたというのに、どちらから歩いてきたものだったか、皆目分からない。その場で横になる気にも、なれなかった。あんな煎餅蒲団だが、愛着があるのだ。

立ち止まるわけにもいかず、さりとて目的地が定まっているわけでもなく、ゆるゆると歩を進めていると――


ぽぉん。



高く、何かを打ち鳴らす音が響いた。



ぽぉぉん。



どこか、遠くから聴こえてくるものらしい。

耳を打ち、身体をわななかせるような独特のそれは鼓の音だと分かったのだが、どうにも具合がおかしかった。私は聞き分けのない子どもを落ち着かせるように、腹の辺りを何度か撫でさする。

本来ならば鼓の音というのは、種類はどうあれ腹の底に響き、力が沸くようなものである。

けれど、この鼓はひとつ叩けばずんと重く、胃の腑が焼けるように痛み、ふたつ叩けば、はらわたが焙られたようにむず痒くなる。これはたまったものではない。

私は少しでもその音から逃れようと足を踏み出したのだが、歩けば歩くほどに鼓の音が耳につく。



か、ぽおぉん。



ついに、きりきりと心の臓までが痛み始めてしまった。目の前がうす暗く霞み、得体の知れぬ脱力感がはらわたの裏から骨にまで伝播する。膝が折れ、立っていられず、私はその場にうずくまった。それだけでは到底足りず、服の上から胸の辺りを強く押さえつける。服に皺が寄るが構っていられない。

このままでは、よくない。それだけは分かったが、どうすればいいのだろうか。

立ち上がることすらままならず、ただ痛みをやり過ごそうと、目を閉じた。暗闇の中、かち、と歯を鳴らすと口内に鉄の味を感じた。唇を傷付けたらしい。どれだけそうしていただろうか。時間の境はひどくあいまいで、ほんの数分にも、数時間にも感じられた。


不意に、一陣の風が私の耳から全ての音を奪い去るようにざぁっ、と鳴った。


すると、ふうっ、と嘘のように胸の痛みが消えた。は、と詰めていた息を吐くと脱力感も抜けていく。今までの苦しみが、幻だったかのように。

妙なこともあるものだ、と首を傾げていると、



――調子が戻られたご様子。ようございました。



細いが低く、さびさびとした声が私の耳に滑り込んだ。


振り向けば、ひとりの女が音もなく立っている。頭から衣被(かずき)を冠り、顔は判然としないが、被の隙間から零れる黒髪は絹糸めいてつややかだった。



――今の音は、なんだったのでしょうか。



そのまま醜態を晒すわけにもいかず、私は立ち上がり、何か知っていそうな目の前の女に尋ねた。ほんの少し被の端をつまみ、女は言った。布から覗く指はいかにも頼りがなさそうな、柳の如くに細く、白い指だった。



――毒塗鼓でございます。


――ずどっこ?



珍妙な名前である。ともすれば間抜けですらあった。聞き覚えもない。眉を寄せる私に、女は厭う様子も見せずに言葉を足した。



――毒を塗った鼓と書きまして、毒塗鼓、とこう読みます。あのまま聞き続けていれば、心の臓が爛れ落ちていたでしょう。あの音は人の命を奪うのです。



そうしてふ、と女は顔を上げた。

何処へと視線を向けているらしい。どこか哀しげだった。



――あのこは、仲間の間でも殊に腹鼓が上手でないもので、苛々していたのでしょうね。……まったく、人を殺めたら、音は濁るばかりだというのに。



女の言葉は私の理解の範疇を逸脱している。同じ言語であるにも関わらず、まるで要領をえない。はぁ、と私は分かったような分からぬような声を口の端から漏らした。



――ほんに、申し訳のないことをしました。このようなことをせぬように、きつく言い含めておきましょう。



ことここに至って、私は目の前の女が先程の音を止めさせたのだろうとようやく気付いたのだが、かといって返答のしようがない。礼を言うには遅きに失している。



――では。



何を言ったものかと私が思い悩んでいる間に被を軽く傾け、女はその場から離れてしまった。

身体の調子が戻り、再び歩き出した私の足元を、一匹のそれは見事な尻尾をした狸が通り抜けていった。


何を考えたわけでもないが、私は狸が消えた方向に頭を下げた。




               × × × × ×




歩くうちに、川に出た。

さして大きいものではないが、渡るには少々骨が折れるかもしれない。どこかに橋でもないものかと、流れを辿るように縁を歩いていると、突き出た石の上に人影が見えた。


しなやかな腕で石にもたれかかり、下半身を水に晒しているらしいのは女人であった。


何も身に付けておらず、けれどうねるように長い髪が胸元まで覆っているので、余計な心配はせずに済んだ。近付いている私の気配に気付いたのか、彼女は身を翻し、川に滑り落ちていく。その拍子に私の目に飛び込んだのは、月明かりを浴びて煌めく銀鱗である。女人の下半身は鱒《ます》であると分かったのは、身体を覆う銀鱗にひとすじの虹色を見たからであった。

思いもかけぬ光景に暫し私が心を奪われ、それでも早く布団を見つけねばならぬと歩を進めていると、やがて一艘の小舟を見つけることができた。

小舟にはひとりの船頭がいた。笠を目深に被り、目元は窺い知れぬが体格から男であると分かる。



――ははぁ、迷われましたな。



男は、私が何を言うでもなく唐突に言った。

反論する気にもなれずただ素直にそうだ、と頷いた。それを聞き、男は何が面白いのか口元をにいっと吊り上げた。隙間から僅かに見えた歯は鋭く尖り、どこか川獺のそれに似ている。



――よろしければ、ご案内致しましょう。



男は私の返事を待たず、船を出してしまった。櫂がぎいっと耳障りな音を立てる。涼やかな川のせせらぎを耳にしつつ空を仰ぐと、少しずつ藍から青へと染まっていくのがよく見えた。松にかかる羽衣の如き薄雲が穏やかな光を帯び、合間の星々が少しずつその輝きを明け渡している。

夜明けが、近いのだ。



――どうぞ。



あれから、ものも言わずに小舟を進めていた船頭が唐突に差し出してきたのは、枇杷《びわ》である。橙色でまるまると肥えており、ぴっちりと身が詰まっているのがよく分かった。



――喉が渇いているのでしょう。



知ったように言われるのに良い気分はしなかったが、確かに喉は乾いている。

私は誘われるがままに枇杷を受け取り、指でくるりくるりと皮を剥いた。指先に感じる産毛は柔らかく、よく熟しているのか、皮は抵抗らしい抵抗なくよく剥けた。宝石のようなその果肉に歯を立てると、枇杷にしてはひどく甘い。ひりつくような喉に染みわたるようであった。

汁が数滴手を汚したが、夢中で種のまわりを歯でこそぎ、綺麗に食べてしまった。焦茶色の種をつまみ、懐に入れる。あまりにも見事な種だったのだ。捨てるには惜しい。



――ここですよ。



浮遊感と僅かな衝撃。先程とさして景色は変わっていなかったが、道があった。



――辿れば、いずれは行き着くでしょう。やれ、骨が折れました。



ことり、と櫂が船頭の手からから離れる。降りろということなのだろう。私は船から降り、礼を言った。船頭は暫くの沈黙ののち、真横にぱっくりと裂けるように笑った。



――悪い気は、しませぬなぁ。



ほんの少し笠から覗いた目つきはやはり人のそれではなかったが、どこか愛嬌があった。




              × × × × ×




一面、緑の絨毯に子供が戯れに引いた絵筆の線のようだ。


不自然なまでに白い道をなぞり歩いていれば、やがて少しばかり広がったところに出た。白い道とばかり思っていたそこには白菊が寄り集まり、自ら光を放っているようだ。おおきく輪を描くように咲き誇る白菊の群れ――その、中央。

漆塗りの見事な台座が据え置かれていた。足には精緻な紋様が彫り込まれ、見目麗しい。


けれど私の目を引いたのは、その上に置かれたひとつの杯だった。


つるりとまろやかな曲線を描く切子硝子の杯。


刻まれた蒼い籠目紋も鮮やかなそれを、私は何の気なしに覗きこんだ。

ふたふたと、溢れんばかりに張られた水の中。ひとひらの金魚が花弁のような鰭を揺らめている。素っ気のない色味のなか、眼球だけがくろぐろとしていた。奇妙なことに、その金魚は凡そ色というものを持ち合わせてはいなかった。

そこへ、鷺《さぎ》が羽音を響かせながら降り立った。妙な鷺であった。全身が朱に染まっているのである。茹で上げた蛸のようであると私が思っていると、鷺はいかにも頼りのない足取りで此方へと歩み寄り、杯の中を覗き込むとそこへ嘴を突っ込んだ。

ぱくりと金魚を一飲みにした鷺は、ほんのひとときの間に色を変えた。朱が抜け、未だ誰も足跡を残さぬ白雪の如き、無垢な真白へと変貌したのだ。私が口を開く間もなく、白鷺は先程の杯にけろりと金魚を吐き出してしまった。

杯の中へと戻された金魚は、私が常に目にする金魚と同じく朱に染まっていた。



――食わぬのか。



思わず私は問うていた。



――なぜ食わねばならぬのか。



白鷺は答えた。



――餌ではないのか。


――餌ではない。白い金魚は熱を吸うのだ。病を飲み下す間抜けはおるまいよ。



白鷺は細長い嘴をかちりと合わせて羽根を広げると、何処へと飛び去った。

私は内をひらめく朱の鰭を辿るように、つややかな杯の縁を一度、二度、指先でなぞり、再び歩き出した。




              × × × × ×




私が再び布団に潜る頃には、しらしらと夜が明け始めてしまった。

障子の隙間から差し込む陽射しから逃れるように、すっかり冷えた布団に頭まで埋める。

もはや如何ともしがたくなっていた睡魔は瞬く間に私の上下瞼を仲良くさせ、脳の奥を痺れさせる。安寧な暗闇が全身に満ちるのが分かった。


ふと、硬い感触が胸に当たった。


懐を探ると、何やら小さいものが入っている。取り出し、うっすらと瞼を開く。


朝陽によく映えるそれは焦茶色の、まるまるとした枇杷の種だった。





〈了〉



少しでも不思議な雰囲気を味わって頂ければ幸いです。ご拝読ありがとうございました!

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