皇子殿下を殺さないと死ぬ呪い
「俺はあなたに指一本たりとも触れませんし、あなたがこの国でどう振舞おうと目を瞑るつもりです」
ガタガタと身体を震わせる私の姿を、冷めた深青色の瞳が見下ろしている。
艶やかな黒髪から覗く、氷のような眼差しに心臓が高鳴った。
「ですから、どうか怯えないでください」
私の夫となった男、帝国の第一皇子ルシアンはそう言った。
私はふと視線を落とし、自分の姿を確認する。
薄ピンク色のネグリジェのリボンはほどかれ、青白い鎖骨と胸元がさらけ出されている。
私は、自身の丸い左胸を凝視した。
今日初めて会ったばかりの男に触れられることよりも、左胸に宿った呪いが彼に気付かれてしまうのではないかと気が気でなかった。
相手はこの世界の主人公。絶対的な存在だ。もしも私の思惑に気付かれれば……。
表には決して現れることがないと分かっていても、不安で身体が震えてしまうのはどうしようもない。
だけど、この状況で困るのは私の方だ。
夫婦の勤めを果たすことができない妃など、どんな扱いを受けるのかは目に見えている。
「ま、待ってください!」
ベッドから降りようとする男の手を慌てて掴むと、彼は困ったように眉尻を下げた。
そして呆れたような顔をして私を見下ろし、まるで幼い子供を嗜めるように言い放つ。
「今日はこの部屋で寝てください。俺は別の部屋を使いますので、ご安心ください」
黄金色の月光が、恐ろしいほど整った男の顔を照らしていた。
「夫として、あなたの願いにはできる限り答えるつもりです」
親切な言葉とは反対に、限りなく冷ややかな声色で言葉を綴る男の顔を、私はじっと見つめた。
私の願いを叶えてくれる?
だったら、死んでよ。
喉元まで込み上げた言葉を飲み込むと、どうにか震えを抑えようとベッドのシーツを握りしめた。
彼は無表情のまま私を見下ろすと、やがて身を翻し、部屋を出ていった。
たとえ私が怯えていたとしても、あなたには私を好きにする権利がある。
私が“彼女”のように、狂って暴れ回ったりしない以上、あなたは自分の身のために私を利用するはずだ。
何を企んでいるのか、全く理解ができない。
その疑問がさらに私を恐怖へと奮い立たせる。
私が望むことはひとつ。
悲惨な結末を終えず、何が何でも生き残ること。
そのもっとも簡単な方法は、あなたを殺すことよ。
一人取り残された私は不安を覆い隠すように布団を引いて、中に潜り込んだ。
震える両手を抑え込むように合わせて、目を閉じる。
あの日の出来事が、今もなお、脳裏に流れている。
私は必死に脳内から消し去ろうと奮闘した。
背筋が凍らずにはいられない美しさを持つ、呪いのような女のことを――。
「こっちへいらっしゃい」
花の香りを纏った美しい女、ローズィア王国の王妃ロゼリアは優雅に両手を広げながら微笑んだ。
彼女は咲き誇る花のように華やかで、茨のように冷酷な女だった。
「お待たせしてしまい申し訳ございません」
私は、幼い頃から矯正し続けた完璧な笑みを浮かべて王妃の元へ歩み寄る。
ふんわりとした淡いピンク色の髪を揺らしながら歩く姿は、この女と同じように眩いほど美しいのだろう。
すっと伸びた完璧な姿勢に、手のひらで簡単に覆えてしまいそうなほど小さい顔。明るい水色の瞳と、真珠のように白い肌に咲く薔薇色の頬と唇。
そのすべてが、この女と同じだった。
「気にしなくていいわ。陛下の元へ行っていたのでしょう?」
強烈に漂う甘ったるい香りが脳を刺激する。
ロゼリアの身体から漂う薔薇を煮詰めたような香りは、人間を誘惑するには最も効果的だということを私はよく知っていた。
嗅ぎ慣れている私でも時々ぼうっとしてしまうのだから、初めて彼女を前にした人たちが無意識に跪いてしまうというのも納得だ。
香りだけで人を魅入ることができてしまう。
まるで呪いのような女。
そして、彼女によく似た自分も……。
「愛しい私の娘」
立ち上がり、こちらを見下ろす王妃の瞳は宝石のように輝いている。
私の母。私が絶対に逆らうことのできない存在。
ロゼリアの指先が、娘の腰まで流れる淡いピンク色髪を優しく梳く。
「お前が嫁いで行く日が来るのがこんなに早いとは驚きだわ。月日が流れるのはあっという間だというけれど、ここまでだったとはね」
ロザリアの声で、先程謁見室にて冷淡に告げられた言葉が脳裏でこだまする。
『アルヴェリア帝国が、お前を皇子の妃として迎えたいそうだ』
足元に敷かれた赤い絨毯が、まるで血で染まっているかのように思えるほど本当に地獄のような空間だった。
敵国の元へ嫁ぐ、人質同然となる娘に対して、どうしてめでたいことのように言ってのけることができるのか。
母には限りなく甘い父が、母と瓜二つの姿持つ娘に対してはゴミくず同然の眼差しを向けることが私には理解できなかった。
「ソフィア?」
優しげな言葉と共に頬に添えられた両手に、ハッと意識が戻される。
「お母様。素敵な嫁ぎ先を見つけてくださり、本当にありがとうございます」
こちらを凝視するロゼリアに向かって、私は慎ましく返事をした。
すると、前髪が丁寧に横へ流され、限りなく甘やかな口づけが額へ落とされる。
「今日お前を私の元に呼んだのはね、可愛い娘の門出のためにおまじないをかけてあげるためよ」
娘の頬に両手を添えたまま色っぽく囁いた王妃は美しく笑った。
「おまじない、ですか?」
「そうよ。とっても素敵なおまじない」
真っ赤な薔薇のような唇の端が吊り上がる。
その美しさに、私は完全に魅入られてしまっていた。
私の母は本当に恐ろしい女だ。
次の瞬間、目の前に禍々しい紫色の魔法陣が浮かび上がる。
「い、いや……!」
左胸へと広がるそれが目に入った途端に全身が震え出す。
冷や汗が額を伝って、頬に流れ落ちた。
「心配しなくていいわ。お前はすぐに私の元へ帰ってくる」
いつもは神経を研ぎ澄まして必死に耳に入れようと奮闘する母の声も、今は全く頭に入ってこなかった。
私はただ、唇を震わせて彼女の恐ろしいまでに整った顔を見つめた。
その魔法陣には見覚えがあった。
忘れることなど決してできない、彼女自身に植え付けられたトラウマだ。
絶望に染まった人間の顔を初めて見た時の記憶。
昔、面白いおもちゃを手に入れたと言ってロザリアが連れてきた男のことだ。
その男にも、ロザリアはこれと同じ魔法をかけていた。
紫と黒が混じった魔法陣。
禁句とされる黒魔術の一種――死の呪いだ。
「お、お母様、どうして……」
震える声で問うと、ロゼリアはうっとりとした目で私を見つめた。
まるで自分のしたことは単なる愛情表現だと言わんばかりに愛に満ちた眼差しだった。
「この私が、愛する娘を何の考えもなく敵国へ嫁がせると思う?」
衝撃に唖然とすることしかできない娘に、王妃は恐ろしいほど穏やかに説明した。
「世の中にはね、この私に牙を剥く愚か者が大勢いるのよ。一人残らずこの手で切り刻んでやりたいけれど、皇族となれば、そう簡単にはいかないでしょう?」
優しく頬に手を添えられ、深青色の瞳が見開かれる。
その瞳を唖然として見つめていると、それに気づいたロザリアが楽しそうに笑った。
「現皇后の息子よりも、第一皇子の方が見目麗しいそうよ。お前も美しい男の方が良いでしょう?」
計算高く残忍なロザリアが、それだけの理由で私を嫁がせるとは到底思えなかった。
私は、その一挙一動を見逃すまいと必死に目を見開いた。
「私は帝国が血の海になることを望んでいるの。きっと、夢のように素晴らしい光景のはず……」
熟れた薔薇のような赤い唇が妖しく吊り上がる様は、息を呑むほど美しかった。
「だからね」
私の頬に手を添えたロザリアは、無邪気にニコッと笑った。
「お前がアルヴェリアの皇子を殺してきなさい」
「……な、何を言っているのですか?」
「アルヴェリアの皇子妃として暮らすのはたった一年間。その間にお前が第一皇子を殺すのよ」
「そ、そんなこと、私にできるはずがありません。帝国の第一皇子と言えば、戦でも負け知らずな恐ろしい男だと言うではありませんか……!」
困惑した私を見て、母は楽しげに笑う。
「お前は私の娘なのだから、一人の男を虜にすることなんて容易いでしょう? どんな男でも、心を開いた女に対しては隙が生まれるものよ」
お母様も、そうやって国王だった父を虜にしたのですか?
自分の願いを叶えるために男を利用してきたのですか?
今度は自分によく似た娘を使おうと?
誰もが母と私はよく似ていると言う。私も、父親の要素が少しも入っていない自分の容姿が誰に似たのかなんてことは知りえていた。
それでも、魔女のように完璧な美しさを持つこの女のようになれる日は一生こないと思った。
こなければいいと、心から願った。
「私は母親よ。一体誰に似たのか、心優しい性格をしたお前が人を殺せないことくらい分かっているわ。だから、この母が背中を押してあげているんじゃないの」
「ですが……」
「人間が真の力を目覚めさせる時は、自分の生死が関わった時よ。私はそういう人間を大勢見てきたわ。これでお前も覚悟を決めることができるというものでしょう?」
窓から差し込む陽光がロゼリアの顔を照らす。
この世のモノとは到底思えない美しさだった。
「夫を殺すか、お前が死ぬか」
甘い声色に騙されてはいけない。
言葉と仕草でどれだけ取り繕おうが、この女は決して私を愛してなどいない。
彼女の心には、感情というものがすり落ちてしまっているのだ。
欲望以外の全てを失った女は、表向きに取り繕った術で自分の願いを叶えるために人を使う。
たとえそれが、自分の身体から産み落とした実の娘だとしても。
「私の可愛い娘。お前を心から愛しているわ。ちゃんと自分の役目を果たして、お母様の元に帰っていらっしゃいね」
・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・
「全員、今すぐ出ていきなさい!」
困惑した顔を浮かべるメイドたちを、私は一人残らず部屋の外へ追い出した。
扉が閉まる音を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れる。
私は鏡台の前へ駆け寄ると、ドレスを乱暴に引き剥がした。
はだけた胸元から白い肌が露わになり、肩が荒く上下する。
先ほどまで浮かび上がっていた呪いの紋章は、まるで最初から何もなかったかのように綺麗に消え去っていた。
「……ほんとにイカれてるわ、あの女」
王妃ロゼリアは実の娘に死の呪いをかけた。
恐怖に襲われ、膝から崩れ落ちると、そのまま床へ座り込んだ。
しかし、神は絶望する暇も与えてはくれない。
「ルシアン・ディ・アルヴェリア……」
敵国の第一皇子であり、未来の夫の名を呟くと、押し寄せる恐怖を抑え込むように下唇を噛んだ。
見ず知らずの男と最も近しい関係になること、その男をこの手で殺さなければならないという事実がひどく恐ろしかった。
やっぱり、あの記憶は本当だったんだ。
まさか本当に敵国の皇子と結婚することになるなんて……。
私が前世で読んだ小説の悪女ソフィア・フォン・ローズィアに転生していると気がついたのは、十三歳の誕生日を迎えた頃だった。
夢の中で流れ出した記憶が到底他人のものとは思えず、何度か夢を繰り返し見るうちに、これは前世での記憶なのだと整理を着けた。
小説『神に選ばれた者』は、主人公ルシアンが数々の困難を乗り越え、栄光を掴み取るという英雄譚だった。
彼には多くの悲劇が訪れる。
側室の子供として生まれたルシアンは、幼い頃に母を亡くし、異母弟との政争に巻き込まれ、皇后によって若くして戦場へ送られる。
そして、ようやく皇宮に帰ってこられた時には、敵国の悪女と結婚させられる。
そのうえ自分の一番の理解者でなければならない妻に毒を盛られるというのだから、ルシアンという主人公は、読者が憐れまずにはいられない悲劇の青年だった。
だけど、今の私には彼を憐れむ余裕などなかった。
そう、その敵国の悪女という人物こそが、この私、ソフィア・フォン・ローズィアだった。
ローズィア王国の姫とアルヴェリア帝国の皇子が結婚するという信じられない事実を、私は五年も前から知っていた。
前世の記憶なんて、目の前の苦しみから免れるために私が生み出した幻想なのではないかと思っていたが、数時間前に父から告げられた結婚の話を聞いて、ようやく事実だったのだと納得した。
小説のソフィアは、心の底からルシアンを憎んでいた。実際に毒殺を試みたが、ルシアンが毒に耐性を持った得意体質であったことを知らなかったソフィアの暗殺は失敗に終わる。
そして追い詰められた末に短剣で自らの胸を刺すという、何とも情けない死にざまだった。
それもそのはず、ソフィアは真の悪役を引き立てるための脇役悪女に過ぎないのだから。
小説の真の悪役は第二皇子の母であり、アルヴェリア帝国皇后であるルドヴィカ。
彼女は自身の息子を皇帝とするために、あらゆる手を尽くしてルシアンを苦しめた。彼がまだ物心ついたばかりの幼い少年だった頃から徹底的に痛めつけたのだ。
「まさか、物語の裏側がこんなことになっていたなんて……」
前世の記憶という訳がわからないそれがなければ、私の心はとっくの間にぽっきりと折れてしまっていたはずだ。
もしかすると、この前世の記憶というものは一種の予知夢のようなもので、生存本能を働かせた私の身体が無意識的に生み出したものなのかもしれない。
しかし、肝心なのはそれではない。
明確に示されていることは、確かに私の身体に死の呪いがかけられたということだ。
夫を殺さなければ、死んでしまう呪い。
ふと、小説でのソフィアにも、これと同じ呪いがかけられていたのだろうかと疑問が湧いた。
そうなのだとすれば、彼女は悪女だった訳でなく、ただ自分の死にもがいていた子供だったのではないだろうか……。
そこまで考えて、私は頭を動かすのをやめた。
そんなことは私に関係ないこと。落ち込んでしまうようなことを考えるのは、よそう。
主人公だとか、悪役だとか、関係ない。
私は自分の本能に従って生きようともがくだけ。
この運命に従って情けない死を迎える人生なんて絶対に嫌。
この呪いを解く方法を、なんとしてでも探さなくてはならない。
それでも方法が見つからなければ、私は生きるために手段を選ばないだろう。
たとえそれが、この世界の主人公を殺すことだとしても。
・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・
「おはようございます、ソフィア様」
翌朝、寝室で一人目を覚ました私の元に、一人のメイドが朝食を運んできた。
彼女は慣れた手つきで料理を並べていく。
クルミが混じったパンに、淡いクリーム色のスープ。牛肉のステーキと彩り豊かな野菜が添えられた、一見、何の問題もない朝食。
早速食べようと牛肉のステーキに手を伸ばした時だった。
ナイフを入れても上手く入らず、無理に力を込めてみると、皿の上で嫌な音を立てた。
私は思わず、眉間に皺を寄せる。
「何か問題でもございますでしょうか、姫君」
私の反応を見逃さなかったメイドが平然とした表情で問いかけてきた。
「いいえ。何でもないわ」
私はにっこりと微笑むと、今度は半透明のスープへ手を伸ばし、躊躇いなく口へ放り込む。
ほのかにじゃがいもの風味がするそれは、溶けたばかりの氷みたいに冷たかった。
ローズィア王国と同じ扱いを期待していたわけではないが、ここまで露骨だとは。初夜に失敗して、寝室で一人目を覚ました私をどう扱おうが平気だと捉えたのだろうか。
まったく、面倒になってしまった。仲睦まじいとまでいかずとも、必死に愛想を振りまくべきだった。
ロザリアの言うとおり、彼女と揃いの姿をした私の手を振り払える男など存在しない。恥を忍んででも、彼に縋り付くべきだった。
それで、彼の油断の隙を突くことができるかもしれない……。
「…………」
メイドは驚いたように目を見開いて私の姿を凝視する。
彼女の瞳には、明確な敵意が宿っていた。
敵国の姫に関する噂が、この皇宮でどのように語られているのか。彼女の目を見れば、おおよその見当はつく。
まさか私が声を荒げて皿をひっくり返すとでも思っていたの?
確かに、小説のソフィアならそうしたかもしれないわね。
だけど、そんなことをしたって何の意味もないでしょう?
「美味しかったわ。下げてちょうだい」
何とか食べ切った私は、必死に口角を上げて微笑んだ。
すると、茶髪のメイドが目を見開いたまま「ハッ……」と失笑する。
笑顔を保ったまま彼女の様子を覗っていると、メイドはすぐに表情を整え、こちらに向かって一歩足を進めた。
「姫君は、ロザリア様と本当によく似ていらっしゃいますね」
「……はい?」
突然飛び出した母の名前に、私は思わず片眉を上げる。
「申し遅れました。私、ソフィア様の身の回りの世話を任されました、モニカです。皇宮へ来る前はダンヴェール侯爵家に仕えておりました」
「ダンヴェール家……」
「ロザリア王妃殿下が、まだダンヴェール侯爵令嬢だった頃、彼女にお仕えしておりました」
ああ、なるほど。だからそんなに怯えた目をしていたの。
私を見ると、あの魔女のような女を思い返してしまうから?
ロザリアの生まれた家、ダンヴェール侯爵家。
母は元々、アルヴェリア帝国の貴族令嬢だった。
今より両国の関係が良かった時代、ロザリアはローズィア王国の貴族学校に留学し、そこで父と出会った。
その魅惑的な容姿で次期国王を虜にし、王妃候補と目されていた名門貴族の令嬢たちを押しのけ、王妃の座を奪い取ったのだ。
「一介のメイドが申し上げるのは差し出がましいのですが、元々、姫君と第二皇子の婚姻話が持ち上がっていたところを、王妃が直々に第一皇子との結婚を望まれたと聞きました」
モニカと名乗ったメイドは、警戒するように目を細め、私を鋭い眼差しで見つめる。
「ロザリア様は、今度は一体何を企んでおられるのでしょうか」
彼女たちからすれば、私もまた母と同じ道を歩んでいるように思えるのだろう。
祖国を裏切り、敵国の国王をたぶらかした魔女。
鏡写しのように瓜二つの娘。
運命を繰り返すように、今度は私が帝国の皇子を誑かしにきたのかと疑っているのだろうか。
「ルシアン皇子殿下はとても苦労されたお方です。ですから……」
「母によく似た私が、大切な皇子の妃になったことが許せないと?」
唇の端を持ち上げ、母のように優美な微笑みを浮かべる。
すると、彼女の瞳に分かりやすく恐怖が浮かび上がった。
「そう警戒しないで。私は何も企んでいないわ。皇子様のことなんてどうだっていいの。ただ言われたとおり、王族としての役目を果たしただけよ」
「つまりは、実の娘だろうが彼女の言いなりになってしまうということですか……」
「ま、そういうことね」
平然と答えると、今度は露骨に軽蔑した眼差しが向けられた。
実際、私は母の命令に逆らえないし、あなたの大切な皇子様に危害を加える存在であることに違いない。
もちろん、そんな事情を説明するつもりもないけれど。
あんたみたいな人間をいちいち相手にしていたら、どれだけ時間があっても足りないの。所詮は取るに足らない一介のメイドに過ぎないのだから。
……だけど、どうやら私の選択は間違っていたようだ。
こんなことになるくらいなら、あの時、生意気なメイドの頬を引っ叩いてやるべきだった。明確に己の立場というものを教えてやるべきだった。
こんなことになってしまうくらいなら……。
「何か言い分はあるか? ローズィア王国の姫よ」
帝国の第二皇子エヴァレットが私に向かって挑発気に笑う。
彼の足元では二人のメイドが涙を浮かべながらこちらを睨みつけていた。
その後ろでは、椅子に腰掛けた皇后ルドヴィカが私を見下ろしていた。
ルドヴィカ皇后の淡い紫色の瞳に宿った、尋常ではない敵意に息が詰まる。
『皇后がこの顔を気に入るわけがないのだけれど……』
私の頬に口づけを落としたロザリアが言った言葉を思い出した。
母の言葉から何となく予想はしていたが、ロザリアと皇后の間には何かしらの因縁があったようだ。
一度は自分の息子の妃に私を迎えようとしていたとは到底思えないほど冷酷な眼差し。
恨めしい存在が、人前で恥をかかされる瞬間を今か今かと待ち望んでいる様子だ。
「君が祖国でどのように振る舞っていたかは知らないが、アルヴェリア帝国の系譜に名を連ねた以上、この国では皇族らしく振る舞ってもらわねば困る。それを理解しているのか?」
エヴァレット皇子は私を見下ろしながら、諭すような口調で言った。
腹違いとはいえ、実の兄弟にも関わらず、第一皇子と第二皇子は全くと言っていいほど似ていなかった。
彼が驚くほど謙虚で紳士的だったのに反して、エヴァレット皇子は傲慢で偉そうな男だった。
彼の足元には、見覚えのある顔のメイド二人が跪いていた。
モニカが憎しみを滲ませた眼差しでこちらを睨みつけている。
その時になってようやく、私は自分の失敗に気付いた。
皇后主催の夜会に招かれた時点で、もっと警戒するべきだったのだ。
届けられた招待状を疑うことなく受け取り、指定された時間に皇后宮を訪れた私を待っていたのは華やかな小規模の夜会だった。
豪奢な広間には二十名ほどが居た。
皇后ルドヴィカと第二皇子エヴァレット。
そして彼らの追従者である第二皇子側の貴族たち。
そんな場にルシアン皇子の妃であり、心内が何であれ立場的には第一皇子側の私が招かれた理由など、ひとつしかない。
「当然心得ております、エヴァレット皇子。ですから私が彼女たちに危害を加えることなど決して……」
「嘘です!」
鋭い叫び声が私の言葉を遮った。
膝をついていたモニカが勢いよく立ち上がる。
そのまま傍らに控えていた若い侍女の腕を掴み、乱暴に前へ引き出した。
「でしたら、なぜアリアの腕がこのようなことになってしまったというのですか!」
モニカはアリアの袖を力任せに捲り上げた。
アリアの短い悲鳴が響く。
次の瞬間、露わになったアリアの腕を見て、会場のあちこちから息を呑む音が上がった。
アリアの白い肌には、痛々しい火傷の痕が広がっていた。
赤黒く腫れ上がった皮膚に、裂けた傷口からは血が滲み出ている。
まともな手当てすら施されていないのか、包帯すら巻かれていなかった。
思わず目を背けたくなるほど惨い有様だった。
「ソフィア様は、ただアリアが気に食わないという理由で腕に熱湯をかけたのです! そのうえ、暖炉の薪を顔へ投げつけようともなさいましたわ! 私が必死の思いで止めていなければ、今頃どうなっていたことか……!」
香油の香りに包まれた空間で、人々は恐ろしい物でも見るかのような目つきへと変貌する。
「そうでしょう、アリア?」
「そ、その通りです……」
モニカに促されるようにしてアリアが震える声でエヴァレット皇子に訴える。
今にも泣き出しそうな顔だった。
演技なのか、本当に怯えているのか。
少なくとも、その場にいる人間の多くは彼女の言葉を信じただろう。
私でさえ一瞬息を呑んでしまったほどなのだから。
恐らくこれは、敵国の姫に痛ぶられたメイドが、帝国の母である皇后に泣きつき、母に代わり聡明で勇敢な第二皇子が咎めるというシナリオだ。
この場に必要なのは、彼らにとって都合の良い人物だけ。
第一皇子側の重要人物である私に恥をかかせる様は、皇后派にとっては十分な成果だ。
もちろん、本気で私を裁くつもりはないだろう。
ローズィア王国との同盟が結ばれた今、私に公然と罰を与えるなど不可能に近い。
だから彼らの目的はもっと単純なものだ。
私に恥をかかせること。そして、この宮廷で誰が上で誰が下なのかを思い知らせること。
「私がそのようなことをするはずがありません。皇族にとって侍女とは、最も身近な側近であり、自らの手足となる存在です。この国に嫁いできたばかりの私が侍女を傷つけて何の得があるというのでしょう?」
落ち着け。落ち着くのよ、ソフィア……。
自分自身に言い聞かせるようにして深く息を吐き出し、言葉を続ける。
「そこまで仰るのです。当然、それ相応の証拠があるのですよね? エヴァレット皇子」
私の物言いが気に入らなかったのか、エヴァレット皇子は不満そうに眉をひそめた。
それでも彼からは、ルドヴィカ皇后やモニカのような剥き出しの憎しみは感じられない。
二人から向けられる憎悪が強すぎて、そう見えるだけなのかもしれないが、その場に居る貴人たちも同様だった。
どちらか一方の言葉を信じ込むというより、真相を気になっている好奇に満ちた眼差しだ。
そして、本来であれば夫婦となっていたかもしれない第二皇子と、その兄へ嫁いだ異国の姫が向かい合う光景に興味を抱いているのだろう。
顎に手を添えて考え込むエヴァレット皇子よりも先に口を開いたのは、モニカの方だった。
「私にも、アリアと同じ火傷の跡があります。これはソフィア様の母君である、ローズィア王国の王妃に付けられたものです」
そう言うと、モニカはスカートの裾を捲り上げた。
思わず目を覆ってしまいたくなるような光景だった。
右太ももからふくらはぎにかけて広がる傷跡は、皮膚が溶け落ちたように爛れていた。アリアの火傷など比較にならない、ひどい傷跡。長い年月を経た今も消えることのない深い傷だ。
「血は、争えないということですね」
モニカがなぜ、あれほど私を憎悪と恐怖に満ちた眼差しで見つめるのか、ようやく理解した。
実の娘にも、死の呪いをかけることができる人間。
一介のメイドに、どれだけ冷酷になれるかなんて分かり切っていたこと。
親が親なら子も子という言葉がある。
モニカの恥を忍んでの証明は、確かな説得力があった。
この場に集まっている者は、第二皇子派であり、ルドヴィカ皇后の追従者たちだ。
私にとって、これ以上なく都合の悪い状況だった。
周囲では好き勝手な憶測が飛び交い、悪意に満ちた囁きが絶え間なく耳に届く。
そんな中、私は必死に思考を巡らせていた。
一体、誰の仕業だろう。
たかが数人のメイドだけで、ここまで大掛かりな舞台を整えられるはずがない。
誰かが裏で糸を引いていることは確かだった。
母の手先か。皇后の差し金か。第二皇子派の側近か。はたまた第二皇子側でありルドヴィカ皇后の追従者か。単に私を嫌う者の仕業か。
少し考えただけで、大勢の人たちが思い浮かぶ。
一体私は、どれくらいの人たちに嫌われているのだろう?
何が悲しくってこんな思いをしなければならないのか。
「ロザリアの娘なら、やりかねないわ」
お母様はこれを望んでいたのだろうか。
だったら、私の役目は彼女の望み通り、ルドヴィカを挑発すること。
母のように、ロザリアのように、あの魔女のように。
小説のソフィアは分かっていたのかもしれない。
自分を守ってくれる人など誰もおらず、爪を立てて周囲を警戒していなければ、傷を負うのは自分自身だということを。
それでも最後は悲惨な末路を終えてしまうのだから救いがない。
私の選択が間違っていたというの?
真の悪役にもなれない脇役が救われる世界はどこにもないの?
「私は……」
「何の騒ぎだ」
やっと絞り出した私の声は、低く威厳ある声によって遮られた。
その一言だけで、ざわついていた会場が静まり返る。
突如として現れた男に、その場にいた全員の視線が一斉に向けられた。
艶やかな黒髪に、深青色の瞳でこちらを見つめる男。
アルヴェリア帝国第一皇子ルシアン・ディ・アルヴェリア。
私の夫だった。
対立状態にある第一皇子と第二皇子、その両者が同じ場に揃ったことで貴族たちは緊張を隠せずにいた。
そんな中、最初に口を開いたのはルドヴィカ皇后だった。
椅子から立ち上がった彼女は、氷のような眼差しをルシアン皇子へ向ける。
「なぜ、お前がここにいるのかしら。ここがどこだか分かっているの?」
「まるで、この皇宮で俺が足を踏み入れてはいけない場所でもあるかのような言いぐさですね。親愛なる皇后陛下」
「返答になっていないわよ、第一皇子。どうしてお前がここにいるのかと聞いてるの!」
「妻と食事の約束をしていたのです。約束の時間になっても現れなかったので探していたら……まさか、皇后宮に居るとは思ってもいませんでしたよ。それで、これは何の騒ぎです?」
身に覚えのない約束に思わず反応しそうになるのを、私は必死に堪えた。
隣に立つルシアン皇子の横顔を盗み見る。
深青色の瞳には感情らしい感情は浮かんでいなかった。
「ルシアン皇子! よくぞ来てくださりました!」
モニカが一歩前へ進み出ると、鬼気迫る表情のまま、縋るように声を張り上げた。
「アリアが、ソフィア様からひどい怪我を負わされたのです! アリアは皇子が幼い頃から仕えてきた子でもありますから、当然ルシアン皇子も……」
「それが事実だったとして、何か問題でもあるのか?」
「は、はい……?」
予想だにしなかった返答だったのだろう。
モニカだけでなく、その場にいた全員が呆気に取られたように目を見開いた。
「何バカなことを! 皇族の一員になった以上、家臣たちへ感謝と慈悲を持たなければならないわ!」
「へえ、あなたに使用人を思いやる心があったとは驚きですね」
ルシアン皇子は口元に薄い笑みを浮かべた。
あまりにも露骨な皮肉に、周囲の空気が一気に張り詰めた。
私も彼女らと同様に目を丸くさせることができず、その場に立ち尽くしていた。この状況を切り抜ける案は、もうとっくの間に消え去っていた。
「兄上が姫をそこまで寵愛していたとは。運命とは複雑なことです。彼女は僕の妻になるはずだった方なのに」
冷ややかに兄を睨みつけたエヴァレットは、敵意を隠そうともせず言い放つ。
「兄上は亡くなった母君に感謝しなければなりませんね。恐れ多くも皇帝を誑かした女の秀でた容姿に……」
怒気が込められた冷ややかな眼差しが交差する。
帝国の皇子たちが火花を散らす様に、息が詰まりそうだった。
私は、自身の夫となった男に視線を向ける。
これは単なる物語。
彼が――ルシアン・ディ・アルヴェリアが困難を乗り越え幸せになるための世界。
私は、彼を引き立てるためのいわば成長剤のようなもの。
この世界の主人公は私ではない。
……だったら、少しくらい牙を向いたって、許されるわよね?
ロザリアも、国王も、家臣たちも。みんな私を人形のように扱う。私はずっと、それが腹立たしかった。
あんたも同じよ、帝国の第二皇子。
バカなことを考えないで。あんたも所詮、私と同じ、主人公の引き立て役なの。
「私があなたの妻になることはありえないでしょう。エヴァレット第二皇子」
私の声に、ルシアン皇子とエヴァレット皇子が揃って首を回す。
「私は意外と面食いなんです」
「……は?」
「だから、あなたの妻になることは絶対にあり得ないと言っているのです。もし、父から結婚の話を告げられた時に上がった名前があなただったら、間違いなくお断りしたはずですわ」
エヴァレット皇子の爽やかな紫色の瞳が見開かれる。
私はまくし立てるように口を開いて、叫んだ。
「生憎ですが、あなたは私のタイプじゃないんです!」
部屋中に響き渡るほど大きく叫ぶと、不思議と心がすっとする。
ああ、神よ。私の運命の歯車はこれからどうなるのでしょう。
だけど、後悔はしていません。ずっと腹が立っていたんです。
それなら、悪女は悪女らしく、正直に言ってやらないと!
私の言葉に続いて爽やかな笑い声が上がる。
ルシアン皇子の声だった。
彼は心の底から愉快だとでもいうように、自身の弟に向かって爽やかに笑いかけた。
「だ、そうだ。弟よ。お前の言うとおり、俺は死んだ母上に感謝しなければならないようだ」
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皇后宮を後にした私は、男に手を引かれながら長い廊下を進んでいた。
さっきまでの喧騒が嘘のように静かだった。
窓から差し込む柔らかな光が石段を照らし、規則正しく響く足音だけが耳に残る。
握られたままの手首が妙に落ち着かない。
何か言わなければと思いながらも、何を口にすればいいのか分からなかった。
迷っているうちに、先に口を開いたのはルシアン皇子の方だった。
「あのようなことはもう二度とされないでください」
突然口を開いたかと思えば、何を言い出すのか。
私はムッとしてすぐに言い返す。
「あなたが言ったのではありませんか。私が帝国でどう振る舞おうが目を瞑ると。自分の発言に責任をもって、どうか私のことは放っておいてください」
「そういった意味で言った言葉ではありません。一方的に責め立てられる妻を傍観する夫がどこにいますか?」
背中を向けて歩いたままの彼は、足を止めて振り返ると、冷たい眼差しで私を見下ろしながらそう言った。
妻? 夫? あなたがそんなことを気にしていたとは驚きだわ。
「何もやっていないことを咎められたところで私は平気です」
静かな冷たい眼差しで見つめられ、私は無意識に顔を伏せる。
分かってるわよ、私の言葉なんて信じられないんでしょ。
だからって、そんな目で見ないで。
私はまくし立てるように話し始めた。
「あなたがどう思っているかなんて知りませんが、私は本当に何もやっていません。メイドに手を上げたことなど、今まで生きてきて一度も……」
「そうでしょうね」
あまりにもあっさりと返され、私は思わず顔を上げる。
「そんなに細い腕で人に手を上げれば、あなたの方が傷ついてしまうだろう」
掴まれたままの手首へと視線が落とされる。
「とにかく、もう休んでください。俺の宮の使用人を数名向かわせましたので、新たなメイドが決まるまでは辛抱してください」
「……どうしてそのように親切にしてくださるのですか?」
「あなたは俺の妃ではありませんか。夫が妻に親切にすることは、至極当然のことです」
冷ややかな眼差しに射抜かれると、まるで心内をさらけ出されている気分になる。
「あなたは、見る度にいつも怯えていらっしゃいますね。そんなに俺が怖いですか?」
「……まさか、そんなことはありません。あなたは私の夫なのですから」
いっそのこと、あなたが怖くてたまらない人だったら。
容赦なく私を傷つける人だったら……どれほど良かったか。
そうだったのなら、あなたを手にかけ、これは正当防衛だったのだと自分に言い聞かせることができたのに。
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窓際に腰かけた私の足元に、ローブを深く被った男が片膝をつく。
差し出された書類を受け取ると、無表情の男を見下ろした。
母が私につけてくれたイヴァンがこんなにも早く役立つとは。
青白い肌に細身だが鍛えられた体格の男、イヴァンは母によって徹底的に支配された男だった。
何の感情も抱かれていない眼差しは思わず背筋が凍るほど恐ろしい。
彼に命じて調べさせた報告書によると、アリアは自らの手で自分の腕に火傷を負わせたという。
理由は至って簡単、金銭目的だ。
彼女は貴族の家の出身ではあったが、父親が家業に失敗して金に困っていたという。
そんな彼女に目をつけたモニカは、多額の金銭支援をすると持ち掛けたという。その対価に、今回の件に協力しろと……。
「モニカをここへ連れてきて」
短くそう告げると、イヴァンは素早く部屋出て行った。
あの夜の出来事は表向きになっていないが、二人のメイドが皇子妃宮から突如所属を外されたことに疑問が飛び交っている。
このまま面倒なことになる前に、私も私で、動かなければならなかった。
「よく来てくれたわね、モニカ。少し前に、アリアが皇室を後にしたと聞いたけれど、どこへ行ったのかしら?」
「……あなた様には関係のないことです」
「この状況でまだ強がれるのは素直に尊敬するけど……私、ちょっと怒ってるのよ。だから穏便にことを進めましょう? モニカ」
怯えたように目を見開いたモニカは、私とイヴァンを一瞥すると、悔しそうに下唇を噛みしめ、話し始めた。
「アリアには、休養を取らせるために実家に帰らせました。あのような傷が出来てしまった以上、仕事になりませんから」
「傷……母によく似た私を勝手に恨んだ馬鹿が付けさせた傷のこと?」
「……なんのことか、私にはさっぱり……」
「ここで今更猫をかぶる必要はないわよ。あなたがいくら母を恨もうが勝手なこと。母があなたに犯した罪は、それだけ罪深いことだから」
モニカが母によく似た私に代わりに腹いせを企むのも理解ができないわけではなかった。
モニカの足に出来た爛れた蝋のような足は、間違いなくロザリアがやったものだ。
そして、それ以外にも多くの傷を彼女に与えたはず。
「だけど、それとこれとは別問題。あなたもまた、加害者になっているのだから」
追い詰められていた少女の弱みに付け込み、自ら身体を傷つけさせたのだ。
「何の罪もなかったあなたを母が傷つけたように、あなたもまた、自分の復讐のために何の罪もないアリアに深い傷を与えたんでしょ? もしかしたら、あなたの方が私よりも母に似ているんじゃないかしら?」
そう言い放った時だった。
突然、私に向かって一歩踏み出したモニカが、その手を伸ばして私に掴みかかろうとした。
私に触れる間一髪のところで、モニカの茶色の髪がイヴァンによって掴まれる。
「よくもそんなことを……! いつか必ず天罰が下ることでしょう! こんなこと、許されて良いはずがない!」
素早くモニカの腕を乱暴に掴みあげた男が、何の感情も宿っていない冷淡な声で放つ。
「……殺しますか?」
男の不気味なまでに真っ黒な瞳が私を見つめた。
私が頷けば、すぐにでも手にかけてしまいそうな勢いだった。
イヴァンは、これまでもロザリアに命じられて大勢の人間を手にかけてきた。
こんなことは、彼にとってはなんてことのないことなのだろう。
「必要ないわ。後日、正式に皇宮から追い出すよう私が手続きするから、それまでは適当に監視しておいて」
母によって徹底的に手懐けられた男は、感情というものが完全にすり落ちてしまっているらしい。
すべてがどうでもいいといった様子で、淡々と指示に従うイヴァンに、早くモニカを連れて下がるよう顎で指示をする。
「ハッ……その美しさの裏に隠されたものがいつまで保たれるか見ものですね! あんたも、あんたの母親も! いつかきっと地獄に落ちる!」
イヴァンに力強く腕を掴まれてもなお、モニカは必死に身を捩らせて私へと叫んだ。
男の手から逃れようとしているというよりも、少しでも多く私に罵声を浴びせようと必死な様子だった。
黙らせようとモニカの喉に手をかけるイヴァンを、首を左右に振って止める。
「……殺す価値もないわ。さっさと連れて行って。目障りよ」
イヴァンは静かに私を見つめると、モニカの体を無理やり引きずって扉を開けた。
廊下に出てからも、モニカは狂ったように私に罵声を浴びせ続けた。
全く身に覚えのない、母との出来事を永遠と繰り返す様に、思わず眉間に皺がよる。
私は椅子から立ち上がり、無事にイヴァンがモニカを連れて行くところを見送るために廊下へと出た。
怒りに狂った女が、無事に私の元から連れていかれるのをこの目で確認しておきたかった。
そうでなくても、今日は不安で眠れやしないだろうから。
「この、悪女が……!」
……そうよ、私は悪女よ。
物語の脇役として悲惨な末路を迎えるバカな女。
最後の足掻きをするかのように必死にその手を私に向かって伸ばすモニカの姿が恐ろしい。取るに足らない存在である一介のメイドが怖いのではない。
母の意に逆らえば、ロザリアの言いつけを守らなければ、今度は私がああなってしまう。
いつしか、自分がこうなってしまわないだろうかという想像もできない未来が怖くてたまらなかった。
「き、きゃあっ! 何を!」
突如、背後から伸ばされた手に肩を抱かれ、私は声を上げる。
母が私につけたイヴァンが私を抱きしめたのだと思ったのだ。
けれど、男は私の視界にはっきりと映っている。
ならば、この手の持ち主は……。
「あなたは、いつも騒ぎの中心にいらっしゃいますね」
それは、こっちのセリフよ。
どうしてあなたは、いつも私の前に現れるの?
回された腕を両手で掴み、顎を上げると、そこには彫刻のように端正な顔をした男の顔があった。
この角度から見てもこんなに美しいとは素直に尊敬してしまうわ。さすがは主人公と言うべき?
彼は冷ややかに私の前にいるモニカを見据えると、冷酷な声で言い放った。
「連れて行け」
誰に向かって言っているのだろうかと考える暇もないうちに、どっと大きな音を立てて彼よりも背後に立っていた皇室騎士団の制服を纏った騎士たちがモニカを捕らえた。
「殿下、こちらの男は……」
騎士団の一人が、モニカの腕を掴んでいるイヴァンに視線が向けられる。
彼は無表情のまま、指示を待つ犬のように私を見つめていた。
「か、彼は、私の護衛です」
そう言うと、一斉に警戒の眼差しが向けられる。
王国から妃になりにきた人間が帝国が用意した護衛とはまた違う男を用意したことを怪しんでいるようだった。
「メイドだけ連れて行け。そっちの男は放っておくように」
「ですが、殿下……」
「皇室騎士団が、皇族である皇子妃の命に逆らうことはできないだろう」
騎士は不服そうな顔をしたままルシアン皇子に向かって敬礼すると、モニカを連行していった。
「廊下は冷えますから、中に入りましょう」
騎士がモニカを連れて行くのを見送り、ルシアンは私にそう言った。
いつものように冷たい声色だったが、その眼差しは、どこか優しげだった。
「イヴァン。あなたは下がっていいわ」
イヴァンはこちらをじっと見つめると、返事をすることなく身を翻して去っていく。
「あの男は……」
「わ、私がローズィア王国から護衛として連れてきた者です。心配性の母が無理やりつけてくれて……ですが、やはり他国の従者を帝国に置くことは難しいですよね? すみません、すぐに送り返すようにします」
「あなたに害のない人物なら結構です。可能でしたら、今後は事前に俺にだけは伝えるようにしてください」
ルシアンの言葉に、思わず目を丸くして問いかける。
「……私の近くに置いても良いのですか?」
「あなたにとって信頼できる人物だから傍に置いていらっしゃるのでは? 目立つような男でもありませんし、さほど問題はないでしょう」
信じられなかった。
どうしてそんなことが言えるのだろう。
主人公というものは、意味もなくこんな優しさを持ち合わせているものなのだろうか?
「随分とお優しいのですね……普通なら、もっと疑うと思いますが」
「気に入りませんか? あなたが俺の妃である限り、俺にはあなたを守る役目がありますから」
「私の存在が、あなたを危うくする存在だとしても、私を守ると、そう言い切れるのですか?」
どうしてこんなことを言っているのか、自分でも理解できなかった。
私の言葉に、ルシアンは頷く。
「あなたが、俺の妻である限り」
まっすぐに見つめられ、私は下唇を噛み締める。
私に初めて不可解な感情を抱かせた相手。
私が初めて殺めることになるだろう相手。
私が結婚する相手が、あなたではなく、第二皇子の方だったらよかったのに。
主人公というものが、こんなにも……。
「どうして、そんなに優しいことを言うんですか……」
無意識に私の手は、彼の頬へと伸ばされていた。
突然触れられ、驚いた様子は見せたものの、彼が私の手を払うようなことはなかった。
身体の奥底から湧き上がる炎のような熱に気付いてしまったら、もう引き返すことはできない。
愛という名の呪い以上に恐ろしいものは、きっとない。
明確に示されたそれが私を惑わせる。
だから私は、罠にハマった死にかけたネズミのように、生きようと必死にもがき続ける。
私たち夫婦に定められた運命は、あなたが死ぬか、私が死ぬか。
たとえ、私は悲惨な末路を迎える悪女だとしても。
あなたが世界のすべてを手にする主人公だったとしても。
私たちが二人一緒に幸せになれる結末は、どこにもなかったとしても。
それでも、あなたが私にくれる優しさが、こんなに私の心を乱すことに気づいてしまったら……。
涙で視界が歪む。
頬に添えられた冷たい手のひらが限りなく暖かく感じた。
凍り付いた心が、温かい優しさによって溶かされていくかのように。
ロザリアがお気に入りです( . ̫ . )
ロザリアとルドヴィカの関係もっと書きたかったので好評だったら続き書きます꒰՞ ܸ. .ܸ՞꒱
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