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母は忙し

掲載日:2026/06/03

「ただいま」

返事なんて、この家の壁や天井が、自分の声をそのまま吸収してしまうだけで、

誰も返してはくれないことなんて、とっくに分かり切っています。

それでも、家に帰ってきたら、「ただいま」

出ていくときには「行ってきます」

これが、すっかり習慣になってしまいました。


かつて、この家の中は、とても賑やかでした。

正直、家具や置物なんかは質素なものがほとんどだったけれど、それでも温かく、

人の心を癒してくれる、太陽のひだまりのような場所でした。

何か言葉を発すると、それを超えた感情とコメントが必ず返ってきました。

彼女の父と母が、子をこよなく愛していたのです。


子は、既に十分な愛を注がれていました。

なので、心は常に踊っていて、家がほかのどの場所よりも

楽しくて、頼りがいもありました。

でも、その子の両親は、違っていたようです。

子には良いものをと、常に出し惜しみがなかった二人は、

次第に、残業や休日出勤、やがて出世して収入を上げることに熱心になり、

家のひだまりは、いつしか木陰、じめじめした陰湿な場所へと

変化を遂げてしまいました。


その子の周りには、質の良いものがたくさん置かれていきました。

好きにお小遣いを使って、店に並んでいるものは、大抵買おうと思えば

手に入るようにもなりました。

豊かな暮らしが、子の周りを取り巻いてくれるようになりました。

ですが、どうもその子は、心にぽっかりと穴が開いてしまったような、

そんな感覚が、拭えなかったのでした。

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