母は忙し
「ただいま」
返事なんて、この家の壁や天井が、自分の声をそのまま吸収してしまうだけで、
誰も返してはくれないことなんて、とっくに分かり切っています。
それでも、家に帰ってきたら、「ただいま」
出ていくときには「行ってきます」
これが、すっかり習慣になってしまいました。
かつて、この家の中は、とても賑やかでした。
正直、家具や置物なんかは質素なものがほとんどだったけれど、それでも温かく、
人の心を癒してくれる、太陽のひだまりのような場所でした。
何か言葉を発すると、それを超えた感情とコメントが必ず返ってきました。
彼女の父と母が、子をこよなく愛していたのです。
子は、既に十分な愛を注がれていました。
なので、心は常に踊っていて、家がほかのどの場所よりも
楽しくて、頼りがいもありました。
でも、その子の両親は、違っていたようです。
子には良いものをと、常に出し惜しみがなかった二人は、
次第に、残業や休日出勤、やがて出世して収入を上げることに熱心になり、
家のひだまりは、いつしか木陰、じめじめした陰湿な場所へと
変化を遂げてしまいました。
その子の周りには、質の良いものがたくさん置かれていきました。
好きにお小遣いを使って、店に並んでいるものは、大抵買おうと思えば
手に入るようにもなりました。
豊かな暮らしが、子の周りを取り巻いてくれるようになりました。
ですが、どうもその子は、心にぽっかりと穴が開いてしまったような、
そんな感覚が、拭えなかったのでした。




