書架の迷宮
古本屋「月読堂」の扉を開けた瞬間、鈴が鳴った。
私——田辺透、二十二歳、大学生——は、店内に足を踏み入れた。
埃の匂い。古い紙の匂い。
天井まで届く本棚が、狭い通路の両脇にそびえていた。
「いらっしゃい」
誰もいないのに声だけが聞こえた。
店主は、いないのか?
私は、奥へ進んだ。
探していたのは、絶版になった哲学書だった。
卒論のために、どうしても必要だった。
通路を曲がった。また曲がった。
本棚が、延々と続いている。
おかしい。
外から見た店は、こんなに広くなかった。
振り返ろうとした時——
背後の通路が、消えていた。
本棚に、塞がれていた。
「何……?」
私の心臓が、激しく打ち始めた。
前に進むしかなかった。
通路を進んだ。また曲がった。
本棚。本棚。本棚。
どこまで行っても、本棚だけだった。
私は、叫んだ。
「誰か!」
声が、本の間に吸い込まれた。
返事はなかった。
汗が、背中を伝った。
喉が、渇いた。
私は、走った。
でも、通路は終わらなかった。
右に曲がっても、左に曲がっても、同じだった。
本棚。本棚。本棚。
そして——
ふと、通路の先に、人影が見えた。
老婆だった。
小さな椅子に座って、編み物をしていた。
白髪。深い皺。でも、目だけが黒く光っていた。
「あの……」
私が声をかけると、老婆は編み物の手を止めた。
「ようこそ、田辺透」
私の名前を、知っている。
「ここは、どこですか?」
「書架の迷宮よ」
老婆は、周囲の本棚を見回した。
「本を愛する者が迷い込む場所」
「出口は……」
「ないわ」
老婆は、私を見た。
「ただし——課題をクリアすれば、出られるかもしれない」
私の喉が、詰まった。
「課題?」
「そう」
老婆は、立ち上がった。
小さな体。でも、威圧感があった。
「あなたは、本を盗んだことがあるわね?」
私の血が、凍った。
なぜ、知っている?
三年前、私は図書館で本を盗んだ。
希少な本。どうしても欲しかった。
でも、誰にも言っていない。
「あなたは、本の価値を知らない」
老婆の声が、低くなった。
「ただ所有したいだけ。読みもせず、理解もせず」
老婆は、私の目を見た。
「だから、ここで学びなさい。本当の本の価値を」
老婆は、一冊の本を手に取った。
黒い表紙。タイトルはない。
「これを開きなさい」
私は、本を受け取った。
重い。異様に重い。
開いた。
ページは、真っ白だった。
「何も書いてない……」
「いいえ」
老婆は、微笑んだ。
「あなたの罪が、これから書かれる」
その瞬間、私の体が熱くなった。
手が、震えた。
そして——ページに、文字が浮かび上がった。
血のような赤い文字。
『田辺透の罪』
私は、本を落とそうとした。
でも、手が離れなかった。
本が、私の手に張り付いていた。
「これは、あなた自身よ」
老婆が、囁いた。
「本を盗んだ、嘘つきの自分」
私の体が、変わり始めた。
いや——元に戻り始めた。
偽りの「真面目な学生」という仮面が、剥がれていった。
気づくと、私は床に倒れていた。
本は、消えていた。
老婆も、いなかった。
私は、立ち上がった。
体が、重い。
手を見ると——皮膚が、ページになっていた。
紙のような、薄い皮膚。
そこに、文字が書かれていた。
『盗んだ本のタイトル』
私が三年前に盗んだ本の名前が、すべて刻まれていた。
「嘘だろ……」
私は、通路を走った。
逃げなければ。
でも、どこへ?
通路の先に、また老婆がいた。
違う場所。でも、同じ老婆。
「逃げても無駄よ」
老婆は、椅子に座っていた。
「あなたは、境界を越えた」
「境界?」
「読まない者が、本屋に入った。それが、罪」
老婆は、私を見た。
「本を盗む者は、書架の迷宮で永遠に彷徨う。それが、罰」
私は、膝をついた。
「どうすれば……出られますか?」
「課題をクリアしなさい」
老婆は、紙を差し出した。
そこには、問いが書かれていた。
『1818年に出版された、ある小説の主人公の名前を答えよ。ヒント:創造主の名は、作者の名と同じ』
私は、考えた。
1818年。創造主。
「フランケンシュタイン……」
「正解」
老婆は、頷いた。
「では、次」
また、紙が現れた。
『ダンテの神曲で、地獄の最下層に囚われている者は誰か?』
私は、必死に思い出そうとした。
でも、分からない。
「分からない……」
「では、探しなさい」
老婆は、本棚を指差した。
「ここにある本の中に、答えがある」
私は、本棚を見た。
無数の本。何千冊、いや何万冊。
どこに、答えがある?
老婆は、圧倒的な力を持っている。
この空間を支配している。
私には、何もない。
いや——ある。
知恵だ。
私は、本棚を観察した。
整理されていない。
ランダムに並んでいる。
でも——よく見ると、わずかなパターンがあった。
背表紙の色。
赤、青、緑、黄。
四色が、繰り返されている。
そして、ダンテの『神曲』は、中世イタリア文学だ。
私は、赤い背表紙の本が多いエリアへ向かった。
そこで、古い本を見つけた。
『神曲注釈』
ページをめくった。
あった。
「ルシファー」
私は、老婆に答えた。
老婆は、微笑んだ。
「よくやった」
次の課題が、現れた。
『シェイクスピアの戯曲で、最も多く人が死ぬ作品は?』
また、探す。
私は、今度は青い背表紙のエリアへ。
英文学。
シェイクスピア全集を見つけた。
ページをめくる。
タイタス・アンドロニカス。
死者数、十四人。
答えた。
老婆は、また頷いた。
課題は、次々と続いた。
私は、本棚の中を駆け回った。
パターンを見抜き、本を探し、答えを見つけた。
汗が、全身を覆った。
喉が、カラカラだった。
でも、止まれなかった。
そして——十問目。
『あなたが盗んだ本の中で、最も価値があるものは何か?』
私は、凍りついた。
これは、知識の問題ではない。
私自身の問題だ。
私が盗んだ本。
五冊あった。
どれが、最も価値がある?
私は、考えた。
価格? 希少性?
いや、違う。
老婆が求めているのは、そういうことじゃない。
「分かりません」
私は、正直に答えた。
「なぜ?」
「私は……本を読んでいませんでした」
私の声が、震えた。
「盗んだ本を、所有するだけで満足していました。本当の価値を、知ろうともしませんでした」
老婆は、立ち上がった。
そして、私に近づいた。
「では、答えは何か?」
「分かりません。でも——」
私は、老婆を見た。
「もし、今、その本を読めるなら……読みたいです」
老婆は、長い沈黙の後、微笑んだ。
「よろしい」
老婆は、手を叩いた。
すると、私の目の前に、五冊の本が現れた。
私が盗んだ本だった。
「読みなさい。すべてを」
私は、本を開いた。
一冊目。哲学書。
難解だった。でも、読み進めた。
二冊目。詩集。
美しかった。
三冊目。小説。
心を揺さぶられた。
時間の感覚がなくなった。
ただ、読んだ。
すべてを。
そして——最後の本を閉じた時、涙が流れていた。
「これが……本の価値……」
老婆は、頷いた。
「そう。本は、所有するものではない。体験するものよ」
老婆は、私の肩に手を置いた。
「あなたは、罪を犯した。でも、今、償った」
私の皮膚から、文字が消えていった。
元の肌に戻った。
「出口は、あそこよ」
老婆は、通路の先を指差した。
光が、見えた。
「ありがとうございました」
私は、深く頭を下げた。
「待ちなさい」
老婆は、私を呼び止めた。
「一つ、教えてあげる」
「何ですか?」
「あなたが盗んだ本、五冊。その中で、最も価値があるものは何だったか、分かる?」
私は、考えた。
五冊。どれも素晴らしかった。
でも——
「詩集……ですか?」
老婆は、首を振った。
「違う」
老婆は、私の胸を指差した。
「それは、あなたの中にある」
「私の中?」
「そう。本の価値は、読む者によって変わる。誰かにとって無価値なものが、あなたにとっては宝物になる」
老婆は、微笑んだ。
「だから、本を盗んではいけない。なぜなら、その本は、あなた以外の誰かにとっても宝物かもしれないから」
私は、理解した。
価値は、客観的なものではない。
読む者の心の中で、初めて生まれる。
「もう一度、問う」
老婆は、私を見た。
「あなたにとって、最も価値がある本は?」
私は、答えた。
「まだ、読んでいない本です」
老婆は、大きく頷いた。
「正解。行きなさい」
私は、光に向かって走った。
通路を抜けると——
古本屋「月読堂」の入口だった。
外は、夕暮れだった。
私は、振り返った。
店内は、普通の古本屋だった。
本棚は、三つだけ。
老婆も、いなかった。
私は、店を出た。
そして、図書館へ向かった。
あの時盗んだ本を、返すために。
三年遅れたけれど。
それが、私にできる、最後の償いだった。
空が、赤く染まっていた。
私は、新しい自分として、歩き始めた。
本を愛する者として。
本を尊重する者として。
書架の迷宮は、私に教えてくれた。
本の、本当の価値を。




