表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

書架の迷宮

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/22

古本屋「月読堂」の扉を開けた瞬間、鈴が鳴った。


私——田辺透、二十二歳、大学生——は、店内に足を踏み入れた。


埃の匂い。古い紙の匂い。


天井まで届く本棚が、狭い通路の両脇にそびえていた。


「いらっしゃい」


誰もいないのに声だけが聞こえた。


店主は、いないのか?


私は、奥へ進んだ。


探していたのは、絶版になった哲学書だった。


卒論のために、どうしても必要だった。


通路を曲がった。また曲がった。


本棚が、延々と続いている。


おかしい。


外から見た店は、こんなに広くなかった。


振り返ろうとした時——


背後の通路が、消えていた。


本棚に、塞がれていた。


「何……?」


私の心臓が、激しく打ち始めた。


前に進むしかなかった。


通路を進んだ。また曲がった。


本棚。本棚。本棚。


どこまで行っても、本棚だけだった。


私は、叫んだ。


「誰か!」


声が、本の間に吸い込まれた。


返事はなかった。


汗が、背中を伝った。


喉が、渇いた。


私は、走った。


でも、通路は終わらなかった。


右に曲がっても、左に曲がっても、同じだった。


本棚。本棚。本棚。


そして——


ふと、通路の先に、人影が見えた。


老婆だった。


小さな椅子に座って、編み物をしていた。


白髪。深い皺。でも、目だけが黒く光っていた。


「あの……」


私が声をかけると、老婆は編み物の手を止めた。


「ようこそ、田辺透」


私の名前を、知っている。


「ここは、どこですか?」


「書架の迷宮よ」


老婆は、周囲の本棚を見回した。


「本を愛する者が迷い込む場所」


「出口は……」


「ないわ」


老婆は、私を見た。


「ただし——課題をクリアすれば、出られるかもしれない」


私の喉が、詰まった。


「課題?」


「そう」


老婆は、立ち上がった。


小さな体。でも、威圧感があった。


「あなたは、本を盗んだことがあるわね?」


私の血が、凍った。


なぜ、知っている?


三年前、私は図書館で本を盗んだ。


希少な本。どうしても欲しかった。


でも、誰にも言っていない。


「あなたは、本の価値を知らない」


老婆の声が、低くなった。


「ただ所有したいだけ。読みもせず、理解もせず」


老婆は、私の目を見た。


「だから、ここで学びなさい。本当の本の価値を」


老婆は、一冊の本を手に取った。


黒い表紙。タイトルはない。


「これを開きなさい」


私は、本を受け取った。


重い。異様に重い。


開いた。


ページは、真っ白だった。


「何も書いてない……」


「いいえ」


老婆は、微笑んだ。


「あなたの罪が、これから書かれる」


その瞬間、私の体が熱くなった。


手が、震えた。


そして——ページに、文字が浮かび上がった。


血のような赤い文字。


『田辺透の罪』


私は、本を落とそうとした。


でも、手が離れなかった。


本が、私の手に張り付いていた。


「これは、あなた自身よ」


老婆が、囁いた。


「本を盗んだ、嘘つきの自分」


私の体が、変わり始めた。


いや——元に戻り始めた。


偽りの「真面目な学生」という仮面が、剥がれていった。


気づくと、私は床に倒れていた。


本は、消えていた。


老婆も、いなかった。


私は、立ち上がった。


体が、重い。


手を見ると——皮膚が、ページになっていた。


紙のような、薄い皮膚。


そこに、文字が書かれていた。


『盗んだ本のタイトル』


私が三年前に盗んだ本の名前が、すべて刻まれていた。


「嘘だろ……」


私は、通路を走った。


逃げなければ。


でも、どこへ?


通路の先に、また老婆がいた。


違う場所。でも、同じ老婆。


「逃げても無駄よ」


老婆は、椅子に座っていた。


「あなたは、境界を越えた」


「境界?」


「読まない者が、本屋に入った。それが、罪」


老婆は、私を見た。


「本を盗む者は、書架の迷宮で永遠に彷徨う。それが、罰」


私は、膝をついた。


「どうすれば……出られますか?」


「課題をクリアしなさい」


老婆は、紙を差し出した。


そこには、問いが書かれていた。


『1818年に出版された、ある小説の主人公の名前を答えよ。ヒント:創造主の名は、作者の名と同じ』


私は、考えた。


1818年。創造主。


「フランケンシュタイン……」


「正解」


老婆は、頷いた。


「では、次」


また、紙が現れた。


『ダンテの神曲で、地獄の最下層に囚われている者は誰か?』


私は、必死に思い出そうとした。


でも、分からない。


「分からない……」


「では、探しなさい」


老婆は、本棚を指差した。


「ここにある本の中に、答えがある」


私は、本棚を見た。


無数の本。何千冊、いや何万冊。


どこに、答えがある?


老婆は、圧倒的な力を持っている。


この空間を支配している。


私には、何もない。


いや——ある。


知恵だ。


私は、本棚を観察した。


整理されていない。


ランダムに並んでいる。


でも——よく見ると、わずかなパターンがあった。


背表紙の色。


赤、青、緑、黄。


四色が、繰り返されている。


そして、ダンテの『神曲』は、中世イタリア文学だ。


私は、赤い背表紙の本が多いエリアへ向かった。


そこで、古い本を見つけた。


『神曲注釈』


ページをめくった。


あった。


「ルシファー」


私は、老婆に答えた。


老婆は、微笑んだ。


「よくやった」


次の課題が、現れた。


『シェイクスピアの戯曲で、最も多く人が死ぬ作品は?』


また、探す。


私は、今度は青い背表紙のエリアへ。


英文学。


シェイクスピア全集を見つけた。


ページをめくる。


タイタス・アンドロニカス。


死者数、十四人。


答えた。


老婆は、また頷いた。


課題は、次々と続いた。


私は、本棚の中を駆け回った。


パターンを見抜き、本を探し、答えを見つけた。


汗が、全身を覆った。


喉が、カラカラだった。


でも、止まれなかった。


そして——十問目。


『あなたが盗んだ本の中で、最も価値があるものは何か?』


私は、凍りついた。


これは、知識の問題ではない。


私自身の問題だ。


私が盗んだ本。


五冊あった。


どれが、最も価値がある?


私は、考えた。


価格? 希少性?


いや、違う。


老婆が求めているのは、そういうことじゃない。


「分かりません」


私は、正直に答えた。


「なぜ?」


「私は……本を読んでいませんでした」


私の声が、震えた。


「盗んだ本を、所有するだけで満足していました。本当の価値を、知ろうともしませんでした」


老婆は、立ち上がった。


そして、私に近づいた。


「では、答えは何か?」


「分かりません。でも——」


私は、老婆を見た。


「もし、今、その本を読めるなら……読みたいです」


老婆は、長い沈黙の後、微笑んだ。


「よろしい」


老婆は、手を叩いた。


すると、私の目の前に、五冊の本が現れた。


私が盗んだ本だった。


「読みなさい。すべてを」


私は、本を開いた。


一冊目。哲学書。


難解だった。でも、読み進めた。


二冊目。詩集。


美しかった。


三冊目。小説。


心を揺さぶられた。


時間の感覚がなくなった。


ただ、読んだ。


すべてを。


そして——最後の本を閉じた時、涙が流れていた。


「これが……本の価値……」


老婆は、頷いた。


「そう。本は、所有するものではない。体験するものよ」


老婆は、私の肩に手を置いた。


「あなたは、罪を犯した。でも、今、償った」


私の皮膚から、文字が消えていった。


元の肌に戻った。


「出口は、あそこよ」


老婆は、通路の先を指差した。


光が、見えた。


「ありがとうございました」


私は、深く頭を下げた。


「待ちなさい」


老婆は、私を呼び止めた。


「一つ、教えてあげる」


「何ですか?」


「あなたが盗んだ本、五冊。その中で、最も価値があるものは何だったか、分かる?」


私は、考えた。


五冊。どれも素晴らしかった。


でも——


「詩集……ですか?」


老婆は、首を振った。


「違う」


老婆は、私の胸を指差した。


「それは、あなたの中にある」


「私の中?」


「そう。本の価値は、読む者によって変わる。誰かにとって無価値なものが、あなたにとっては宝物になる」


老婆は、微笑んだ。


「だから、本を盗んではいけない。なぜなら、その本は、あなた以外の誰かにとっても宝物かもしれないから」


私は、理解した。


価値は、客観的なものではない。


読む者の心の中で、初めて生まれる。


「もう一度、問う」


老婆は、私を見た。


「あなたにとって、最も価値がある本は?」


私は、答えた。


「まだ、読んでいない本です」


老婆は、大きく頷いた。


「正解。行きなさい」


私は、光に向かって走った。


通路を抜けると——


古本屋「月読堂」の入口だった。


外は、夕暮れだった。


私は、振り返った。


店内は、普通の古本屋だった。


本棚は、三つだけ。


老婆も、いなかった。


私は、店を出た。


そして、図書館へ向かった。


あの時盗んだ本を、返すために。


三年遅れたけれど。


それが、私にできる、最後の償いだった。


空が、赤く染まっていた。


私は、新しい自分として、歩き始めた。


本を愛する者として。


本を尊重する者として。


書架の迷宮は、私に教えてくれた。


本の、本当の価値を。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ