【40話】スライム物語
彼は、
もともと人間だった。
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研究室は、
いつも静かだった。
白い壁。
白い床。
白衣。
顕微鏡の向こうにあるのは、
細胞。
増えて、
分裂して、
壊れて、
また生まれる。
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「……綺麗だな」
誰にも聞こえない声で、
彼はそう呟いた。
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彼は、
細胞の研究者だった。
再生。
修復。
溶解。
「壊れる」ことを、
どうすれば「戻せるか」。
それだけを考えていた。
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家に帰ると、
娘がいた。
まだ小さい。
「おかえり!」
抱きついてくる。
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妻が笑う。
「今日は早いね」
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彼は、
少し照れながら言う。
「実験がうまくいったんだ」
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それが、
最後だった。
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——事故は、
本当に一瞬だった。
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警告音。
ガラスが割れる音。
床に広がる、
透明な液体。
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「あ……」
声を出そうとして、
出なかった。
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皮膚が、
溶け始めていた。
痛みはない。
ただ、
感覚が消えていく。
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(溶解……)
(こんな速度で……)
研究者としての思考が、
最後まで残っていた。
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床に崩れる。
手が、
形を保てない。
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彼は、
液体になった。
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それでも。
意識だけは、
残っていた。
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「……帰らなきゃ」
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どれくらい時間が経ったのか、
分からない。
彼は、
床を這っていた。
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べちゃ。
べちゃ。
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形はない。
重さもない。
ただ、
意識だけがある。
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家に着いた。
ドアの隙間から、
中に入る。
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リビング。
娘の声。
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「パパ?」
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彼は、
声を出そうとした。
出ない。
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代わりに、
床に落ちた。
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「きゃあああ!!」
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妻の悲鳴。
娘が泣く。
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「なにこれ!」
「気持ち悪い!」
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彼は、
理解した。
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(……あぁ)
(この形じゃ……)
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家族は、
彼を知らなかった。
ただの、
べちゃべちゃした何かだった。
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追い出される。
箒で。
モップで。
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ドアが閉まる。
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彼は、
外に残った。
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雨が降る。
自分が溶けるのか、
雨が混ざるのか、
分からない。
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(……違う)
(この形が、あかんのや)
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(もっと……)
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(もっと、ぷるんと……)
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(可愛かったら……)
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(迎えてくれたかもしれない)
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彼は、
形を真似た。
丸く。
崩れないように。
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鏡はない。
でも、
触感で分かる。
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少しだけ、
マシになった。
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そのまま彷徨う。
街を離れ、
森を越え、
知らない場所へ。
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——光。
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気づけば、
異世界だった。
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モンスター。
人。
戦い。
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彼は、
学んだ。
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「弱いと、消える」
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誰も、
べちゃべちゃなものを
守ってはくれない。
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彼は、
強くなった。
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速く見せる方法。
重く当たる方法。
溶かす方法。
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「可愛くて」
「頼れる存在」
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それを、
目指した。
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でも。
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どれだけ強くなっても、
どれだけ賢くなっても、
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家族のいる世界には
戻れなかった。
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夜。
森。
小さなスライムが、
静かに揺れている。
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それは、
誰も知らない。
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研究者だったことも。
父だったことも。
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ただ。
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「近づくものを溶かす」
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それだけの存在として、
そこにいた。
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——そして今も、
誰かに触れようとして、
触れられずにいる。
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【40話】スライム物語




