表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

全編

 その少女は小学生だが、高校の制服にあこがれていた。そのせいで、制服を模した洋服ばかり着て学校に通っていた。団地の階段を駆け下りて最後の3段を飛んで降りるので、毎朝スカートがふわりと浮いた。見る人によっては仮装・衣装に近いと思われるかもしれないが、同じ区画の団地に住む人たちには見慣れた光景であり、少女は外交的で快活な性格でもあったから、むしろ少女を示す記号として機能していた。どれだけ駆けていても、朝夕に知った顔を見れば急ブレーキをかけて止まり、神社の参拝でもしない角度のお辞儀と挨拶をして、そのあと両手を顔の前に伸ばしていっぱいに振るのが、癖みたいな子だ。

今年で5年生になった。夏休みの宿題は夏休みが始まる前に終わらせるタイプの子だったので、8月は悠々自適だった。

少女・金子詩穂乃は、計画を立てることに8月1日のすべてを使った。母親としたお買い物の約束をした日、家族で伊豆旅行に行く日、いとこのお姉ちゃん3人とプールにいく日、お盆に愛媛のおばあちゃんのところに行く日をまずははめ込んだ。スケッチブックの一枚に定規で枠を引いて作った詩穂乃だけのスケジュール表は、カラフルに埋まっていった。塗りたての色鉛筆を袖でこすって、夏服の制服風のブラウスに水色が散っていた。スケッチブックの枠が空白になることは許せなかった。あっちの神社でお祭りがある、こっちの公園でイベントがある、少し離れた図書館の朗読会も、と埋められるものは次々と埋めていった。だんだん苦しくなってきて、終いには「パン屋さんで新作が出る」という予定まで入った。

そうして作ったスケジュールを驚くほど全て、詩穂乃は完遂していった。一度も行ったことのない教会のミサにも参加した。「パン屋の新作」は口に合わなかったらしいが、そのパン屋のイギリスパンの美味しさにひかれて、セーラー服調の洋服にパン粉を落としながら一斤をそのままほじって食べた。天気も驚くほど詩穂乃に答えた。祭りや盆踊り、友達とのピクニックの日には晴れて、図書館の朗読会やホットケーキを作る日を狙って雨が降った。詩穂乃はそれをひとつひとつこなす度、スケッチブックのスケジュール表にニコニコマークを赤いフェルトペンで書き足していった。予想外に嬉しいことがあった日だけ、ニコニコマークはオレンジ色になるらしかった。

事件は唐突に起きた。プールに行くはずだったいとこのお姉ちゃんのうち、一番上の高校生が、プールの2日前、ラクロスの部活動中に足の靭帯をやってしまって、歩くことも困難になってしまった。ほかのいとこは「お姉ちゃん」といっても、小学6年生と中学1年生だったので、プールに行くのは不可能になってしまった。お母さんに頼めばついて来てくれるかもしれないが、その日の前日は仕事で帰りが遅い日だと詩穂乃は知っていた。そもそもスケジュール表には「いとこ3人とプール」と書いてあったので、もう完遂できるはずがなかった。

でも、詩穂乃は悔しがるそぶりも見せず、いとこの高校生の心配ばかりしていた。団地の階段をまた今日も3段飛び降りて、チェックのスカートが浮くのを合図に駆け出して、今日のスケジュール表をこなしに行った。友達と学校の校庭で一輪車の練習をする日だ。もちろん晴れていた。見知った人に会うとまた深く頭を下げて挨拶をし、手を振った。そして、いとこのお姉ちゃんがケガしたことを言いふらしていたので、夕方にはその団地の区画の住人みんなが知ることになった。濃いブルーのリボンをブラウスの首元に揺らして帰ってきた詩穂乃は、ご機嫌にニコニコマークをオレンジで書き足した。

プールに行く予定だった日は皮肉なほど晴れて暑かった。行けないと分かっているけれど詩穂乃はプールバックを出してきてタオルと水着と水筒を詰めた。夏空に生えるカラーの白いセーラー服を着て、麦わら帽子を被った詩穂乃は、その格好で朝ごはんのイギリスパンを食べた。詩穂乃はプールにバックを肩から提げて扉を開けた。まだ眠っている母親が起きないように、金属の軋む音をなるべく出さないようゆっくりと扉をしめてカギをすると、駆けだした。最後の3段を飛び降りてコンクリートの床にローファーの音が軽く響いた。

詩穂乃はプールではなく広い公園に向かった。谷になっている公園には、大きな池と清水の流れる沢があった。詩穂乃は沢の脇にある大きな平たい石に腰かけると、プールバックから水筒とプラスチックの使い捨てコップを4つ取り出して、その全てに麦茶を注いだ。円形に並んだ麦茶入りのコップを一つ手にして、一気に飲み干すとバックをもって木々の間に消えた。ゴソゴソと不器用に水着に着替えた詩穂乃はまだ高くない夏の日に照らされて白く反射していた。平たい石に戻るとその上で襟の白いセーラー服を丁寧に畳んだ。4つ角が完全に整っている正方形に畳まれたセーラー服は横向きにしたプールバックの中に崩れることなくしまわれた。振り向くと、水着には似合わないローファーと紺のハイソックスを脱ぎ、これを石のそばに揃えた。周りに人がいないことを確認して詩穂乃は沢に飛んだ。ソックスの跡が浸かるくらいの深さくらいだった。足の裏から底の細かい土が巻き上がって清水を濁らせたが、すぐに清らかなもとの沢になった。詩穂乃は5秒ほど胸の前で両手の拳を握って水の冷たさに耐えた。プールの水を頭に描いて飛んだので、予想外に水が冷たかった。冷たさに慣れて3歩足踏みをしたらまた水が濁って、そしてすぐにまた澄んだ。振り返ると公園の外周を取り囲む道をランニングしていた夫婦がいたので、ハキハキとした発音で挨拶をし、水面に顔を突っ込む勢いでお辞儀した。夫婦が驚いた直後、ふっとタイミングを合わせて笑顔になり、挨拶を返した。詩穂乃は手を前に出して力の限り振った。また夫婦はタイミングを合わせてほほ笑んで、外周を走って去った。

詩穂乃はさらに沢の奥へと進行した。一歩を踏むほどに深さを増して、水は詩穂乃の膝を越えるところまできた。そこで、この清水は足元から自噴していることに気づいた。ポコポコと湧く冷水がたまに泡部句をはいているのが見えた。詩穂乃はその泡を両方の手のひらで捕らえたが、すぐに手の中ではじけた。つまらなく感じた詩穂乃はその足元から自噴する泉に目掛けて体全体で覆いかぶさった。まだ乾いていた水着のすべてが冷水に濡れた。むくりと体を起こして長座で座ると、詩穂乃のへそまで浸かった。伸ばした足は浮力で自然と浮き上がりつま先だけを水面に覗かせる。そのままひっくり返りそうになった詩穂乃は腕を突き出して尻の筋肉でバランスを取り戻そうとした。しかし、バタつかせたつま先に波紋を残して頭まで水に沈んだ。すぐに起き上がるとおばあさんと散歩をしている柴犬と目が合った。犬が首をかしげるので可笑しくなって笑ってから、ざぶんと立ち上がった。髪の先から雫を落としながらおばあさんに挨拶してから、深くお辞儀をすると、髪の先から雫が飛んで柴犬の眉間が濡れた。おばあさんは笑っていた。体を起こして手を振ると腕から指からまた雫が飛んで、柴犬の鼻先を濡らした。柴犬は体を震わせたが、それが終わるとまた首を傾げた。おばあさんのリードの合図で柴犬は散歩に戻ったが、10足に1度振り返って、それを3回続けた。詩穂乃は柴犬が振り向くたびに腕を上げて手を振った。柴犬が見えなくなってから、詩穂乃は頭の先まで水に沈み、そのまま浮力に任せて浮上した。ぷかりと浮かべば木漏れ日が詩穂乃の顔とお腹をまだらに照らした。そのままいとこのお姉ちゃんのことを想った。今頃は何しているのだろうか。歩くのに苦労しながらも、おうちのお手伝いをしているんだろうな。そういうお姉ちゃんだから。おでこにシオカラトンボが止まって、すぐに飛び立ったのを合図に起き上がり、水から上がると、芝生の広場にタオルを敷いて横になった。自然乾燥だ。

夏の日にしては優しかった。湧いた汗もさわやかに即座にタオルが吸い取った。またシオカラトンボがおでこに止まって今度は留まった。トンボの羽が脱力しているように見えた。そのまま飛び立つまで待とうと思ったら、もう一匹のシオカラトンボが止まった、入れ替わりで最初のトンボは飛び立ち、あとから来たトンボはすぐに飛んでいった。詩穂のはそれを合図に立ち上がって、ほとんど乾いた水着を雑にタオルで拭ったら、水着の上からセーラー服を着た。スカートの裏地が乾ききらない肌に吸い付いたような違和感があったが、すぐに乾いた。注いだままの麦茶3杯をことごとく飲み干して荷物をまとめたら、高校生カップルと目が合った。いたずらでスカートを思いっきり捲ったら、女子高生は笑って、男子高校生は気まずそうな顔をした。挨拶して手をブンブン振ったら女子高生は振り返してくれたが男子高校生はまだおどおどしていた。

そのまま団地に戻ろうとしたが、途中で小学校の中を突っ切ったときに、校庭にいた同級生の男子に呼び止められて、そのままドッジボールをした。身をかわすたびにセーラー服が揺れて、中の紺の水着がチラリと見えた。男子の一人がふざけて歓声を上げていたが、気にせずボールを投げてその男子の膝に当てた。3試合して、4回ボールに当たり、6回ボールを相手に当てた。チームは全部負けた。そのまま校門前の駄菓子屋で糸付きの飴と何味かよくわからないスナックを買って男子たちと食べた。何が原因か結局はわからないけど、一人がほかの学年の男子と喧嘩して泣いて帰った。詩穂乃は少し追いかけたが、とんでもない速さで自転車がすっ飛んでいったので、悲しかった。

お昼の12時のチャイムが鳴って、詩穂乃も団地に帰った。水着は乾いていたが、洗濯ばさみで留めてベランダに干した。母親は仕事に出ていたので、冷麦をゆでて氷水でキンキンにしてから啜った。午後は家で本を読んでいたら寝落ちして、起きたらもう母親が帰ってきていた。

夕日は雲を焼いて一日を無かったことにしているみたいだった。母親は今日の話を全部聞いてくれた。男子高校生にしたことはまあまあ怒られた。スケッチブックのスケジュール表にはニコニコマークがどの色でも付かなかった。


8月31日はなぜか最初からスケジュール表が空白だった。詩穂乃は夏休み最後の日に予定のない日をわざと作っていた。しかし朝は6時に起きた。プール以外はすべてが計画通りで、スケジュール表にはすべてにニコニコマークが付いていた。唯一マークのないプールに行くはずだった日の欄が、赤とオレンジの笑顔が並ぶ中にいる、空白の一日として目立っていた。母親は荷物を入れた段ボールをせっせとトラックに運んだ。詩穂乃のお気に入りのブレザーもあの日の水着もセーラー服も段ボールの中だ。詩穂乃と母親の部屋から何もなくなった、リビングにあった詩穂乃と母親の物も次々とトラックに送られてテレビとダイニングテーブルの大きさが目立った。スケジュール表もこうなってみると、大きいものだと気づかされた。明日から、新しい小学校に行く。名前も新しくなる。そして、父親とはもう合わなくなる。詩穂乃は母親からは“詩乃”と呼ばれることになるだろう。彼女の名前は父親が詩穂が良いと言い、母親は詩乃が良いと言って、合わさって詩穂乃になったからだ。穂は枯れ落ちるが、乃は強く立って真っすぐに生きていける、父親は最後の日なのに家にいなかった、詩穂乃はすべての荷物をトラックに詰めたあと、スケジュール表の四角のテープを外して、床に置いた。

一枠ずつを指でさして思い返していた。家に父親がいると母親と声を張り上げて争うのが嫌で毎日何かしらの理由をつけて外へ出た記録だった。父親は夕方から仕事に行くので、うまく8月は1度も合わずに済んだ。プールに行けなかった日は、男子にドッジボールに誘ってもらえて安堵した。お陰で早い時間に家に帰らなくて済んだ。でも、団地の階段でこれから仕事に行く父親と鉢合わせたので、ニコニコマークは描けなかった。これから母親と引っ越して新しい家に移るというのに、あれだけ味方してくれた空は少し雨が降っていた。母親が、出発するから降りてくるよう窓の下から呼んでいる。わざと明るく返事をして、ブンブン手を振った。窓のカギを閉めて、詩穂乃は咆哮しながらスケジュール表をぐしゃぐしゃに破り、床に投げつけた。ニコニコマークは顔が歪んだか、切り刻まれた。急いでローファーをはき、ハイソックスを引っ張って直した。ドアを開けて少し乱暴に締めた。奥歯を強くかんで駆け、階段の最後の3段を飛び降りた。紺の無地のプリーツスカートとセーラー服の襟やスカーフがふわりと浮いた。

再び駆けだそうと腕を構えたら同じ棟のおばあちゃんが自転車を止めようとしていた。詩穂乃はいつも通り笑顔を作って、挨拶をして立位前屈をいっぱいにしたようなお辞儀をした。起き上がると、腕を前に突き出し首をかしげながら腕を振った。おばあちゃんはただ一言、行ってらっしゃい、と微笑みながら言った。詩穂乃は、行ってきます、と返して笑顔で母親の車に駆けていった。

雨が少し強くなってきていた。 【完】


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ