「私の言うことだけ聞いてくれればいいから」って笑った美少女に逆らえなくなったけど、別に困ってはいない
宮間 純は人と話すのが苦手だった。
昼休みはいつも屋上で弁当を食べ、誰とも目を合わせずに下校する。クラスの中で彼を覚えている生徒がどれほどいるかも怪しい。
そんな彼に、峰原つばきが声をかけたのは放課後の昇降口だった。
「ねえ、君って確か、C組の宮間くんだよね?」
峰原つばき。学校で知らぬ者はいない、才色兼備の完璧超人。美人で成績は常に上位、スポーツも万能。どこをどう間違えば、そんな彼女が地味な宮間に話しかけてくるのか。
「……はい」
純は蚊の鳴くような声で答えた。彼女はにっこりと笑った。
「私の家、来ない?」
それがすべての始まりだった。
つばきの家は、学校から少し離れた高台の洋館だった。クラシックな玄関扉、大理石の玄関床、そして広々とした応接間。住んでいるのは彼女一人だという。
「お茶、飲む?」
純が頷くと、彼女は紅茶を淹れてきた。ほのかに甘い香りが立ちのぼる。
「ねえ、宮間くん。少しだけ、私の目を見てくれる?」
つばきの瞳は、不思議な赤みを帯びていた。彼女が微笑むと、どこか温かく、しかし芯に冷たいものを感じる。
「ゆっくり、息を吸って──そう。吐いて。何も考えなくていいの。ただ、私の声を聞いて」
紅茶の香り。柔らかなソファ。彼女の静かな声。
何かがゆっくりと純の中に沈み込んでいく。
気づけば彼は、彼女の言葉に従ってまばたきをし、手を動かし、頷いていた。
次の日から、彼は変わった。
つばきの机を拭き、彼女の靴を揃え、彼女の持ち物を代わりに運び、食堂では隣の席を確保する。周囲はざわついたが、純の表情は常に穏やかで、何を聞かれても「彼女に頼まれたから」と答えた。
それは、忠実だった。まるで訓練された使用人のように。
数日が経ち、彼はつばきの家で夜も過ごすようになった。
掃除、洗濯、料理の手伝いまで。彼にとって、それは苦ではなかった。彼女のそばにいるだけで、満たされた気持ちになれるのだ。
「君って、ほんとに素直で可愛いね」
つばきが頬を撫でると、純は微笑んだ。言葉を失った子どものように、ただ静かに。
一週間が経ったある日。純が廊下を歩いていると、別の男子が話しかけてきた。
「お前さ、最近つばきと仲良いんだって? なんか、前にも似たような奴いたよな」
「……前?」
「ああ。去年、あの女とずっと一緒にいた奴がいた。で、気づいたら転校してた。体調崩したとかで。ま、偶然かもしれないけどさ」
純は笑った。それは、ぎこちなく、まるで“笑いなさい”と命令されたかのような表情だった。
その日の放課後。
「ねえ、宮間くん。君に話しておきたいことがあるの」
つばきは、紅茶を淹れながら言った。
「私ね、人の心をちょっとだけ動かせるの。たとえば──“怖い”って思わせること。“好き”って感じさせること。もちろん全部、自分の力じゃない。ちょっとしたコツと知識。だから安心して。君が変わったのは、君の中にもそういう気持ちがあったからだよ」
「はい」
「ねえ、君は今、幸せ?」
「はい」
「そっか──よかった」
翌朝。純の机の上に、一通の封筒が置かれていた。中には短い手紙。
「ありがとう。とても、役に立ったよ。次は誰にしようかな」
月曜日、つばきは別の男子生徒と楽しげに話していた。
純は再び一人になったが、その目には虚ろな笑みが浮かんでいる。
──彼女に選ばれた者たちは皆、笑っていた。
どこか遠くを見つめるような、その目で。