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苦手な方はご注意ください。

神凪-KAMUNAGI-

作者: 蒼林 海里

(確認しましたら)2007年くらいに書いたBL小説です。サイトで頂いたリクエストを元にしています。

「……ごめんなさい」

 少女が嗚咽を漏らしながら、涙声でそう告げた。

「謝らなくてもいいよ」

 青年はそんな彼女に優しく笑いかけ、その瞳から溢れ出る涙をそっと拭っていく。

「これは、僕が決めたことだから、泣かないで。――どうか笑って、僕を送り出して欲しい」

 彼の温かな言葉に、彼女はさらに涙を流してしまう。

 青年は困ったような笑みを浮かべ、彼女を優しく抱き締めた。すると、彼女も彼を抱き締め返してゆく。

「……兄さん、有難う」

 瓜二つの容姿が、互いを抱き締め合っている。

 銀色の髪に二重瞼の赤い瞳。女性的な造形の美しい顔立ち。一七〇センチの線の細い身体つき。性別と内面のそれらを省けば、二人は見分けがつかないほどに酷似していた。

 彼らは、海の近くの村に住む双子の兄妹だ。両親は既に他界し、家族は彼らの二人だけである。

 そんな彼らが二人きりで仲良く暮らしていた折、唐突に離れ離れにならなければいけなくなった。

 原因は、村の掟にある。

 その掟とは、年に一度、海の守護神への慰み者として女をひとり海に捧げると言うものだ。海の守護神は、荒ぶる神でもある。漁などで生計を立てている村人たちは生贄を捧げることによって、荒ぶる神の心を鎮め守護して貰わなければならなかった。

 そして、その生贄に選ばれた女は、青年シーリスの妹シーアリである。しかし、彼の妹は山の村に住む青年と恋仲にあった。悲しみに暮れるたったひとりの妹に、シーリスはとある提案を持ちかける。

 それは、妹の代わりに自らが海の守護神の生贄となることだ。瓜二つの容姿は格好を取り替えてしまえば、当人たちでしか見分けがつかなくなる。村の掟を破り、神と村人たちを欺き、自分の身を犠牲にしてまでも、彼はたったひとりの妹を兄として護りたかった。

 そして、今日がその日であり、先ほどの会話へと至るのである。

 長い間抱き締め合った二人は、ゆっくりと身を離して、互いの姿を目に焼き付けるように見詰め合った。

 用意された女性の衣装を身につけ、念入りに化粧を施した妹に扮する兄。

 男性用の服を身につけ、努めて兄の雰囲気を纏い兄に扮する妹。彼女の手には、最低限の荷物が詰め込まれた小さな布袋が握られていた。

 シーリスが、ふっと優しい面持ちになる。

「いい? 僕が家を出て行ったら、お前は家の裏口から逃げるんだよ。村の外でお前の大切な人が待っているから、その彼と一緒にこの村を離れるんだ」

 何処までも柔らかな兄の口調に、シーアリはまた涙を溢れさせながら小さく頷いた。

「それから、この村のことは全て忘れて、彼の村で幸せに暮らすんだよ」

 それについては、彼女は俯きながら何度も首を左右に振る。すると、シーリスはまた困ったような表情をする。

「お願いだ、シーアリ。お前が幸せになることは、僕にとっての願いでもあり唯一の救いなんだよ?」

 彼がそう口にしたと同時に、家の扉が叩かれた。どうやら、迎えが来たようだ。

「……元気で。どうか、僕の分まで幸せに」

 それだけを彼女に告げて、シーリスは顔を隠すように俯き、ゆっくりと家の扉を開けてゆく。

 外では、松明を手にする村人たち、辛そうな面持ちでシーリスを待っていた。その表情から窺い知れるのは、彼らは好き好んで生贄を捧げている訳ではない――ということだ。妹に扮する彼と兄に扮する彼女に対して、謝罪を口にしながら頭を下げる者がほとんどだった。

 シーリスは俯いたままで外に出、シーアリを家の中に残して扉を閉めていく。

 妹を見送らない兄に、誰も不審には思わなかった。彼らもまた、肉親を生贄として捧げた経験を持っている。見送りたくても見送れない、悲しみや辛さを充分なほどに解っている。

 シーリスが、家の前からゆっくりと歩き出した。

 すると、村人たちは家の前から浜辺に向けて左右に一列に並ぶ。そして、持っていた松明を掲げ直し、列の間を歩くシーリスの暗がりの道を明るく照らしていった。

 松明に照らされた道を暫く歩き浜辺に到着すれば、シーリスは目の前に置かれている綺麗に装飾された台へと上がる。その台の上で静かに正座すると、四人の男たちがそれを持ち上げておもむろに歩き出した。四人の男たちの他に、道を照らす役割を担うふたりの女も揃って歩き出す。

 彼らの向かう場所は、そこから少し離れたところにある二隻の小舟だ。波に流されないように、小舟は縄で繋がれ陸近くの海上で漂いながら、生贄となる者を静かに待っていた。

 二つの内のひとつの小舟の前で、台がゆっくりと下ろされる。シーリスはその台から立ち上がり、小舟の上へ落ち着いた足取りで静かに乗り移った。

 他の誰も乗ることのない小舟に彼が正座すれば、男と女たちは小舟に繋いでいた縄を解いてその場を歩き去る。そこに残されたのは、シーリスともうひとつの舟に立つ彼の運び手となる男のみだ。

 男が立ちながら小舟を漕ぎ出した。その小舟に縄で繋がれた彼の小舟が、引っ張られるようにして沖へと流れていく。

 ここまで来る間に、シーリスは様々なことを考え思い返していた。

 数年前に嵐で亡くなった父。それを追うようにして、病で亡くなった母。そして、妹の代わりに生贄となり、残される悲しみを知っていながら妹を置いて逝く自分自身。

 永久の生命を持つ神々と違い、人間の生命は何と儚くも尊いのだろう。しかし、消え逝く生命はやがて、新しい生命として生まれいずる。それが神と人間の違いである。

(僕の命もまたここで絶え、そしてまた何処かで新しい命として生まれるのか)

 そう思いながら、シーリスは自分の髪と同じ色の月を見上げた。

 夜空は雲ひとつなく、その月と多くの星々が光を失うことなく輝いている。

(……願わくは、シーアリの傍で生まれ変わりたい。こんな方法でしか護ることが出来なかったから、せめて生まれ変わった時はずっと傍で見守ってやりたいよ)

 彼が思うのは、シーアリのことばかりだ。シーリスにとって、彼女は不可欠の存在である。両親が他界したことをきっかけに、彼は全てのことにおいて妹を何よりも第一に考えていた。それは、今もこれからも変わらないのだろう。

 様々な思いを巡らせていると、小舟はいつの間にか沖の深くに流れていた。見渡す限りに海が広がっており、島や村の景色は何処にも見当たらない。

 小舟の運び手である男が、小舟と小舟を繋ぐ縄を解いてゆく。それが終われば、彼はその場にシーリスを置いて村へと引き返して行った。

 遠ざかってゆく男の背中を見送り、シーリスは視線を前へ戻すと、ゆっくりと目蓋を閉じていく。

 波の音だけが、彼の耳に聞こえてくる。その他の音はなく、時間がゆっくりと過ぎて行くようだ。

 だが、暫くすると、その波の音さえもやがて聞こえなくなった。

 風が止んで波が穏やかになり、神凪かむなぎの時がやって来る。神凪の時――普段は姿を見せることのない海の守護神が、年に一度だけ姿を見せる時がやって来るのだ。

 目を閉じているシーリスの小舟の前で、海水が淡い光を放った。すると、海水が玉のように丸い形を作りながら、幾つも宙に浮き上がる。それはやがてひとつに集まり、人間の姿へと形を徐々に変え始めた。

 人間のようなそうではないような不思議な気配に、シーリスは目蓋をゆっくりと開けていく。すると、そこには長身の青年が不機嫌そうな表情で立っていた。

 風もないのに揺れる青味掛かった黒髪に、目付きの鋭い一重瞼の何処までも深い海の色の瞳。整った精悍な顔立ちは、男としての魅力に溢れている。

 彼とシーリスの身長差は、一五センチだ。一八五センチの程よく綺麗に筋肉のついた身体は、風がないのに揺らめく薄い白の布を纏っていた。

(……これが、海の守護神)

 全てにおいて自分と異なる存在を、シーリスは様子を窺うように見上げ続けている。

(見た限りでは、僕たちとあまり変わらないようだ。神々しい雰囲気もあまり感じない)

「――そなたが我の生贄か?」

 不機嫌そうな表情と相まった声音で問われ、シーリスは無言で深く頷いて見せた。

 すると、彼は更に不機嫌そうに顔を歪めていく。

「馬鹿を言え。女に上手く扮したところで、我の目は誤魔化せぬぞ。今すぐに、代わりの女を連れて参れ。――でなければ、そなたの村を滅ぼすまでだ」

 彼にそう脅されて顔を蒼褪めさせながらも、シーリスは首を縦に振ることが出来なかった。海の守護神に許しを乞うように、舟の上で深々と頭を下げていく。

「どうかお許し下さい、守護神様。私が今戻ってしまえば、大切な妹が幸せになれなくなります。……何でも言うことを聞きます。貴方様に尽くします。この命も惜しくはありません。ですから、どうかそのお言葉を撤回して下さい」

 頭を下げたままで懸命に言い募るが、彼の機嫌が直ることはない。

「我が選ぶのは、女のみだ。男に興味など、ほんの一欠片もない」

 シーリスの言葉を撥ねつけて、彼は腕を組みながらきっぱりと言い切った。しかし、それでもシーリスは食い下がる。

「そこを何とかお願いします! 慰み者ではなく、貴方様の付き人として置いて下さい」

「断る」

「……それなら、どうすればお許し下さるのですか?」

 何を言っても堂々巡りだろうと考えたシーリスは、顔を上げて真剣な眼差しで彼を見上げた。

 すると、彼は何かを考えるように押し黙る。それから暫くして、溜め息を吐きながら漸く口を開いてゆく。

「……そなたはおかしな男だな。肉親の為だとは言え、何をそこまで懸命になるのだ。だが、その愚かさに免じて許してやろう。――よくよく見ると、そなたは女のように美しい容姿をしている」

 彼の言葉に、シーリスはほっと安堵の息を吐き出した。

「守護神様。どうも有難うございます」

 そして、また深々と頭を下げる。

「顔を上げろ。そなたの名は何と言う」

 彼にそう言われて、シーリスはゆっくりと顔を上げた。

「シーリスと申します。守護神様のお名前」

「我に名はない。……ナナシ、とでも呼べばいいだろう」

「ナナシ、様?」

「そうだ。では、行くぞ」

 そう言うと彼――ナナシは、海の中へ潜り込んで行く。シーリスもその後を追い、海の中へと飛び込んでいった。

 海の中は神凪の時である為か、不思議なくらいに穏やかだ。まるで、シーリスの身体を優しく包み込んでいるようである。

 その海の中に漂いながら、ナナシはシーリスを待っていた。

「我と共に居れば、人間のそなたでもこの海の中で普通に呼吸が出来る」

 そう言って彼は、シーリスの腕を引っ張り自分の傍に引き寄せる。すると、二人を包み込むようにひとつの大きな泡が現れた。

「息をしてみろ」

 ナナシにそう言われ、シーリスはゆっくりと息を吐き出す。吐き出したはずの空気は、泡となって海上に浮き上がることはなかった。

「本当だ。……普通に話せることも出来るのですね」

 驚きに目を見開くシーリスに、ナナシは「当然だ」と頷いてみせる。

「……言っておくが、そなたはもう地上へは戻れぬぞ。我の生贄となった今、そなたの魂は永劫にこの海と共に在らねばならない」

 その科白に、シーリスは寂しげな眼差しで顔を俯かせ、小さく返事をした。その様子は、たったひとりの妹に対する別れの寂しさからなのだろう。

(……さよならだよ、シーアリ)

 届くことのない別れの言葉を心の中で告げ、シーリスはゆっくりと顔を上げた。

 それと同時に、二人を包んだ泡がゆっくりと海底へ下りていく。

 その中で、シーリスの眼前に碧を彩る世界が広がった。密やかな月の光が届かない夜の海だと言うのに、真昼のように彼の目に海の中が鮮明に映し出されている。

 彼らの横を、纏まって動く無数の魚の大群が横切っていく。

 遠めに見える、白く漂う生き物は海月くらげだろう。その頭上を通り過ぎるのは、円らな瞳の海豚いるかだ。それらに限らず、様々な種類の生き物たちが穏やかな海の中を行き来している。

 そこかしこにある岩山には、綺麗な彩りを纏う様々な珊瑚が緩やかに揺らいでいた。

 海の深くに潜ることのないシーリスは、全ての神秘的な光景に息を呑んだ。

 泡はさらに海の奥底へ下ってゆく。

 暫くすれば、今度はシーリスの目に巨大な泡に包まれた白い神殿が映った。その神殿は、幾数にも重なり広がる珊瑚礁の上にある。

「あれは……」

「我の住処だ」

 シーリスの呟きに、ナナシが当然とばかりに答えた。

「安心しろ。あの中は、地上と何ひとつ変わらぬ」

「そう、ですか」

 二人が話している内に、泡は巨大な泡を抜け神殿の中へ入って行く。そして、二人の足元が白く冷えた大理石の床につけば、泡は弾けて消えてしまった。

「そなたに皆を紹介しよう。ついて参れ」

 ナナシはそれだけを言うと、神殿の廊下を歩き出す。シーリスはその後についていきながら、神殿の中を見回した。

 神殿は彼の言う通り、地上のように呼吸が出来ている。造りも地上にある神殿と変わらないが、白い壁の左右にランプではなく淡い光を放つ珊瑚礁が奥へと連なっていた。その合間には、白い薄布のカーテンがかけられた幾つもの部屋の入り口がある。

 それらの部屋を素通りし、さらに奥へ突き進めば、目の前に天井から下へ絶えず流れ続ける水があった。その向こうには広間があり、どうやらその水は広間の扉のようだ。

 神殿の廊下は左右に分かれているが、ナナシはどちらかに曲がることはせず、その水の扉を通って広間の中へ入って行く。シーリスもそれに従い通ってみるが、何故か濡れることはなかった。

 広間は物と言うものがなく整然としており、奥で数人の美しい女が佇んでこちらを見ている。その女性たちの足元には、部屋全体に広がる魔方陣の線が淡い光を浮かび上がらせていた。

 ナナシがシーリスを振り返る。

「この部屋は神殿の要だ。あそこに居るのは、そなたと同じ生贄となった者たちだ」

 それだけを説明して、ナナシは女たちの許へ再び歩き出した。

 近づいてきた彼に、女たちが静々と頭を下げる。そして、シーリスに視線を移した。その眼差しは、どれも憂いを帯びたものだ。

 女たちの顔に、シーリスは見覚えがあった。誰もが彼の村に居た女たちである。顔見知りだけの女が居れば、友好関係のあった女も居た。

「シーアリ?」

 その交友関係にあったひとりの女が、彼に向かって妹の名前を呼んだ。

「いえ、僕はシーリスの方です。妹の代わりに……」

「……そう」

 シーリスの言葉に、女は彼の事情を察したのか目蓋を伏せた。

 彼の妹に対する親愛は、村で有名だ。シーリスのたった一言で、彼女たちは納得する。

「――話は済んだようだな。既に知っていると思うが、今年の生贄は例外の男だ。例外ではあるが、この男にそなたたちがここでの仕来りを躾けるのだ」

「はい。仰せのままに」

 ナナシの命令に、女たちがまた静々と頭を垂れた。

 彼女たちのその様を見回すと、彼はシーリスをその場に置いて、広間の出入り口へ踵を返し歩いて行く。

 ナナシが広間を出て行ったのを見計らい、女たちは漸く顔を上げていった。そして、シーリスを囲むようにして、彼女たちは彼の許に歩き寄る。

「可哀相なシーリス。シーアリの為でも、こんなところへ来てしまうなんて……」

 先ほどシーリスに話しかけた女が、彼を抱き締めながら愁いを帯びた瞳で口を開いた。

「……ウェイラさん」

 シーリスの呼びかけに、女ウェイラが抱き締める腕を離す。

「良くお聞き。ここは私たちにとって、死を望めない場所よ。過去も未来もないわ。地上の人たちが天命を全うしても、ここに居る限り永久に生きなくてはいけないの」

 「今の内に覚悟をして頂戴ね?」と、彼女はその言葉を付け足した。

「覚悟は、しています」

 彼のはっきりとした返答に、ウェイラは「そう、貴方は強いのね」とまた目蓋を伏せる。

「……ここに居る私たちは、貴方と同じように大切な人を残してしまった。でも、貴方と違って、強くは居られないわ。……永遠なんて、なければいいのに」

 まるで、ここに居る者全てを代表して言っているかのような科白だ。それを口にする彼女もその場に居る女たちも、寂寥感に満ちた表情をしていた。

 その場が静寂に包まれる。耳にするのは、ただ水の流れる音だけだ。

 慰み者として生贄にされた女たちは、一体どれ程の時をここで過して来たのだろうか。昨年に生贄となった者がいれば、十数年も前或いはそれ以上も前に生贄となった者も居る。

 大切な人がまだ生きているのなら、もう既にこの世を去ってしまった大切な人も居るだろう。そんな彼女たちは、大切な人に置き去りされる心の痛みを抱えながら、ここで過しているに違いない。

 その気持ちを、シーリスは察した。そして、憂いを帯びた眼差しになりながら、目蓋をそっと伏せってゆく。

 すると、ウェイラが寂しげな笑顔を浮かべた。

「こんなことを話してしまって、ごめんなさいね。それじゃあ、ここの仕来りとかを教えるわね」

 努めて明るく言ってみせる彼女だが、表情は何処までも寂しげだ。

「……はい。お願いします」

 シーリスは彼女に――彼女たちに気を遣うように優しい笑みを浮かべた。

 すると、女たちもつられたように微笑む。

「さてと、まずは入浴ね。その崩れた化粧に塗れた顔を洗い流さないと。――それに今夜、貴方はナナシ様と一晩を過さなければいけないの」

「……一晩を、過す?」

 その単語を鸚鵡おうむ返して、シーリスは顔を引き攣らせた。覚悟をしているものの、やはり実際になってみると腰が引けてしまう。

 そんな彼に、女たちは愉快そうにころころと笑った。

「それじゃあ、行きましょうか」

 そう言って、ウェイラがシーリスを連れて広間の外へ歩き出す。その場に残された者たちも、二人が出て行った後に広間を出て行った。

 廊下に出てきた二人は右側の廊下へ、後から出てきた女たちは左の廊下へゆっくりと歩いて行く。

 シーリスは同じ光景の廊下を見回しながら、ウェイラについて奥へと突き進む。

 暫く歩いていけば、とある部屋の前で彼女は立ち止まった。その部屋の出入り口はほかの各部屋と同じく、白い薄布のカーテンがかけられている。

「私は外で待っているわ。中でゆっくりと疲れを癒してね」

 その言葉をかけながら、ウェイラはシーリスを部屋の中へと送り出した。

 部屋の中は、広い湯気が広がっている。目を凝らしてみれば、室内は大浴場となっていた。明かり代わりの淡い光を放つ珊瑚礁が、所々に飾られてある。その他に入浴に必要なものが置かれているだけで、後は何の飾りもなく殺風景と言うよりは、物寂しい真っ白の世界だ。

 シーリスは女性の衣装を脱ぎ、黙々と全身を洗ってゆく。そんなことをしている間に、外の方から「ナナシ様」と呼ぶ声が室内に響いてきた。

 それと同時に、身体を洗い終わった彼の許へナナシが大股で近づいて来る。

 シーリスが驚きに、その場を立ち上がった。

「……私に何か?」

 努めて平静を装い問いかけるが、ナナシは何も答えずにシーリスの全身を眺めている。

 暫くして、ナナシが小さな溜め息を吐き出した。

「……判ってはいたが、やはり男か。その顔で男、とはな」

 出会った当初と同じく、その声音は何処までも不機嫌だ。

 シーリスはその科白に、何も答えなかった。ナナシの男であることの侮辱するような物言いに、怒りが湧かなかった訳ではない。ただ、冷静に怒りを胸の中に押し止めただけである。

 ここではナナシに逆らってはいけないと、シーリスはそう考えた。逆らってしまえば海が荒れ狂い、生贄の犠牲となった者たちの想いが水の泡となってしまうだろう。

 村を救いたい。大切な人を救いたい。

 そんな想いが悲しみと共に、彼女たちの心にあったに違いない。

「……申し訳ありません」

 シーリスは声を押し殺して、ただ謝った。

 ナナシがそんなシーリスの様子に、片眉をひょいっと上げてみせる。

「我に刃向かわないのか?忍耐強い男だな」

 それだけを言うと、彼は薄い白の布を纏ったままで湯船の中へ入って行く。

(この人は一体、何がしたいんだろう?)

 そう思いながらも、シーリスも湯船の中へ入って行った。湯に浸かる場所は、ナナシから遠く離れた場所を選ぶ。

 ナナシはそれを気にした様子もなく、湯船に広がる波紋を見詰めている。

 静かな時間が二人の間に流れた。そこに響くのは、何処からともなく湧く湯の泡音だ。

 湯船に浸かりながら、シーリスは先ほどのウェイラの言葉を思い出した。

(――ナナシ様と一晩を過す、か。ひょっとして、本当にそう言うことなのか?)

 そう言ったことならば、どう考えてもシーリスの方が抱かれる側に回るだろう。ナナシを抱く側へ回るとは到底思えない。

 それを想像した途端に、彼は居心地の悪さを感じ始めた。それと同時に、彼の中にあった落ち着きは崩れてゆく。

 湯の中から片手を眼前に持って行けば、僅かながらに震えを刻んでいた。

 神への慰み者とは、そう言うことなのだ。だが、ナナシは男に興味などないと語っていた。しかし、それがある一種の儀式ならば、否応なしに通らねばならない道である。

「何故、心を乱す?」

 間近から声が聞こえ、シーリスは肩を強張らせながら顔を上げた。

 いつの間にか、目の前にナナシの姿がある。水蒸気で髪が濡れているにも関わらず、彼の纏う布は濡れていない。

 シーリスは目を泳がせながら、ゆっくりと口を開く。

「……ナナシ様。貴方様と一晩を過すとは、契りを結ぶと言うことなのでしょうか?」

「そなたはそれを恐れ、心を乱しているのだな。覚悟の上でここへ来たのではないか?」

 ナナシの言葉に、シーリスは弱々しく顔を俯かせた。

「覚悟は、確かにありました。ですが、私は男です。そう易々と受け入れることは……出来ません」

「忍耐強くとも、やはり契りは耐え難いか。ならば、一先ずここで慣れておくがいい」

「――っ!」

 シーリスはその場を後退りながら、驚きに顔を上げる。すると、ナナシの顔が間近にあった。その口許は、何故か意地の悪い笑みを刻んでいる。

「冗談だ」

 それを口にしながら、ナナシはゆっくりと離れてゆく。そして、腕を組んだ。

「地上の人間は、少し勘違いしているようだな。言っておくが、我はそなたらに不埒な真似はせぬぞ」

 そう言って、ナナシは生贄の真実を語って聞かせる。

 生贄を神への慰み者と決め付けたのは、ナナシではなく人間たちの方だ。ナナシにとって、生贄は単なる生贄でしかない。

 神――特に守護神は、全てが万能に出来ている訳ではない。生贄を得ることで、守護する力を強めている。その生贄に決まって女を選ぶのは、神秘的な力を最も秘めている性別だからだ。

「――理解したか?」

「多少は。……それで、私はナナシ様の力となれるのですか?」

 シーリスがその言葉を口にすれば、ナナシがまた片眉を上げてみせる。

「そなたは、随分と協力的だな」

「……私が無理に頼んだのですから、与えられた役割は果たすつもりです」

「そうか。だが、それは答えられん。何しろ、我は男を生贄にするのは初めてなのだ」

「……そうですか」

「では、我は行くぞ。そなたとは、この後にまた会うがな」

 そう言い置いて、ナナシは湯船から立ち上がると踵を返して歩き出した。シーリスは、その広い背中を静かに見送る。

 ふと、シーリスは彼の登場時に考えていたことを思い出す。

(……結局は、何がしたかったんだろう?)

 ナナシがシーリスにしたことは、会話だけである。始めは男であることを侮辱され、次に意地悪くからかわれ、最後にシーリスの恐れていたことを安心させるように否定した。そして、ナナシの本題は最後の方にあったに違いない。

(ナナシ様は、本当に判らない方だ)

 そう思いながら、シーリスはゆっくりと立ち上がった。それを見計らったように、ウェイラの叫び声が飛んでくる。

「シーリス! 着替えが届いたわよ。取りに来て頂戴!」

 彼女の声はあるのに、姿は浴室にない。当然だが、彼女は浴室の外から声をかけていた。

 シーリスは早歩きで浴室の入口に向かい、外へ手だけを覗かせて着替えを受け取る。そして、素早く身支度を整えて浴室を出て行った。

 廊下でウェイラと顔を合わせた途端に、シーリスは呆れたような顔で口を開く。

「ウェイラさん。あの話ですけど、僕が勘違いするような態度を取らないで下さいよ。――皆さんで、僕をからかっていたんですね」

 彼の言葉に、ウェイラが口許を手で隠してころころと笑った。

「ごめんなさいね。けれど、ナナシ様のおかげで誤解は解けたでしょう?」

「はい。そう言った意味でないことは解りました。ですが、詳しくは教えて貰えませんでした」

「そうなの。きっと、ナナシ様も言い辛いのかも知れないわね。――貴方がナナシ様とこれからするのは、契約の儀式と傍に居ることよ」

「契約の儀式は理解出来ますが、傍に居るとはどう言うことですか?」

「そのままの意味よ。実際になってみれば解るわ。――ナナシ様を、しっかりと見ていて頂戴ね」

 その言葉を口にすると同時に、ウェイラの表情が一瞬だけ曇ってゆく。それを目にして、シーリスは何かの引っ掛かりを覚えた。だが、それを口にはせず頷いただけである。

「それじゃあ、行きましょうか。ナナシ様の部屋へ案内するわ」

 ウェイラはシーリスを連れて、元来た道を戻って行く。

 廊下を暫く歩くと、神殿の要とされる広間の前へ辿り着いた。だが、ウェイラはそこを通り過ぎ、奥へと前進してゆく。

 そしてまた暫く歩き続けて、二人は突き当たりにひとつだけある部屋の前に立った。どうやら、そこがナナシの部屋のようだ。

 ウェイラは、シーリスをその場に残して歩き去ってゆく。それを見送って、目の前の扉らしきものに視線を移した。

 ナナシの部屋の扉は、広間と同じような仕様だ。それに加え、広間の床に広がっていた魔方陣が流れる水の中に浮かび上がっている。

「……ナナシ様。シーリスです」

 シーリスは、その扉に向かって呼びかけた。すると、水の中に浮かび上がっていた魔方陣が一瞬だけ光を放つ。

 「入れ」とナナシの声が響き、シーリスはゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。そして、彼の後ろで水の扉がすっと消えてゆく。

 ナナシは、部屋の中央にある貝殻の形をしたベッドの端に腰かけていた。

「シーリス、こちらへ参れ」

 彼にそう言われ、シーリスは扉の前からまたゆっくりと歩き出す。そして、ナナシの前で立ち止まった。

 ナナシがそんな彼を見上げて口を開く。

「既に話は聞いていると思うが、これから契約の儀式を行う。儀式はすぐに終わるが、そなたは明日までここから出られぬ」

 その言葉に、シーリスは真剣な面持ちで頷いてみせた。

 ふいに、ナナシがシーリスに向かって片手を伸ばしてゆく。その手が彼の首と肩の間に触れた。すると、シーリスのその部分に一瞬の痛みが走る。

 ナナシの手が離れてゆけば、そこには先ほど水の扉にあった魔方陣が小さく刻まれていた。

「シーリス。我の力となり、我と永久に在り続けるのだ。その魔方陣こそが、我とそなたを結ぶ契約の証。――我が消滅せぬ限り、そなたは永久を生き続ける定めだ」

 ナナシの言葉に、シーリスはゆっくりとその場へ跪く。そして、彼の手を手に取り眼前へ持って行くとその手の甲に口づけていった。

「――貴方様と永久に」

 そう呟いて、シーリスはナナシの手を離してゆく。すると、ナナシは焦ったように急いで手を戻して行った。

「……そこまでしなくていいのだが」

 心なしか彼の表情が蒼褪めている。そんなナナシに、シーリスは深々と頭を下げた。

「あれは、私からの貴方への誓いの証です。これくらいしなければ、証になりませんので……。嫌な思いをさせて申し訳ありません」

「そうか。そなたはつくづく協力的だな。多の者は永久を嫌がり、契約を交わすのも一苦労だった」

 ナナシの言葉に、シーリスがまた顔を上げる。

「先ほども言いましたが、役目は最後まで果たします。貴方様は、私にとって妹の命を救ってくれたお人ですから」

「その代わりに、そなたの全てを奪ったがな。今頃は、そなたの肉親が我を怨んでいるであろう。……そなたの肉親だけではない。ここに居る者らの肉親は、永久に我を憎み怨んでいる」

 そう言って、ナナシは遠くを見つめるような目をした。その瞳は、微かな寂しさを宿らせていた。

「ナナシ様……」

「気にするな、シーリス。我がこうなるのはこの日だけだ。神であろうと、心が弱る時もある」

「そう、ですか」

 ナナシに対して何を言えば判らず、シーリスはただ相槌を打つだけである。

「……すまぬが、我は暫し眠りにつく。その間は、海が荒れるだろう。我が住処は暫し揺れるが、崩壊することはない。そなたは安心して過しているがいい」

「はい、解りました。――それで、私は貴方様が眠っている間に何をしていればいいでしょうか?」

「いや、特にはない。何もない部屋だが、自由に過していればいい」

「はい。おやすみなさい、ナナシ様。どうか、いい夢を……」

 深々と頭を下げるシーリスを見下ろして、ナナシはゆっくりとベッドに横たわった。そして、静かに目蓋を閉じてゆく。

 室内に静寂が訪れる。そこに、響き渡る音は、やはり何処からともなく聴こえてくる泡音だ。浴室で聴いた音とは、音色が何処か違っていた。

 シーリスは何をする訳でもなく、ナナシの部屋を見回し始めた。

 言葉通りに何もない部屋だ。あるとすれば、部屋の中央にあるベッドだけだ。扉から向かって左右の壁は白壁となっているが、奥の壁は硝子張りになっている。そこから見えるのは、神殿の支えている珊瑚と海底の神秘的な風景だ。

 それを眺めながら、彼は静かに過し始める。

 ナナシが眠りについて暫くのことだ。

 シーリスは硝子張りの壁に手を突いて、飽きることなく海底の風景を眺め続けていた。その背後で、ふいにナナシが息を詰まらせる気配が微かにする。

「ナナシ様?」

 怪訝に思いながら、シーリスは彼の眠るベッドを振り返った。

 その時、神殿が轟音を上げて揺らぎ始める。海底の風景では知る由もないが、どうやら海が荒れ出したようだ。

 神殿がまた揺らぐ。シーリスは硝子張りの壁を支えにして、貝殻の形をしたベッドに横たわるナナシを注視した

 神殿がさらに揺らぐ。すると、貝殻のベッドの蓋の部分が、揺れの反動なのか、ナナシをその中へ閉じ込めようと閉まり始める。

「ナナシ様!」

 叫ぶよりも早く、シーリスはその場を駆け出していた。そして、ナナシのベッドの上へ飛び乗り、閉まろうとする貝殻の蓋を両手で支える。

 貝殻の蓋を支えながら、シーリスは傍で横たわっている彼を見下ろした。ナナシは、眉間に皺を寄せて苦しげな表情をしている。

「ナナシ様!」

 そう呼びかけたところで、ナナシが目覚めることはない。

 神殿が続け様に揺らいだ。その揺れに反応するように、貝殻の蓋はシーリスの押さえる力をものともせず閉じてゆく。それによって、彼は膝立ちの状態でそれを支えることとなった。

「くっ……」

 シーリスが呻き声を微かに上げる傍で、神殿が追い討ちをかけるように揺れ続ける。それによって、貝殻の蓋は完全に閉じられた。彼はベッドの上へ正座をする状態で、ナナシと共にその中へ閉じ込められることになる。

 貝殻の中は――闇が広がっていた。明かりはその中になく、シーリスはただ戸惑ったように闇を見回すしかない。手探りでナナシを探せば、先ほど触った彼の手の感触がそこにあった。その水のようにひんやりと冷たい手を握り締めるが、ナナシからの反応はない。

(この状況を、どうすればいいんだろう?)

 閉じ込められた状況を打開しようと、シーリスは思案する。だが、神殿に来たばかりの身であるが為に、いい方法を思いつくことは出来なかった。

 シーリスは細く息を吐き出し、少し混乱してしまっている精神を落ち着かせてゆく。そして、暗闇の中で状況を冷静に分析し始めた。

 ナナシが目を覚ましていないと言うことは、恐らく海はまだ荒れているに違いない。それに共鳴する神殿は、未だに揺れ続けているのだろう。それにも関わらず、何故か貝殻の中は揺れていなかった。

(……ひょっとして、この貝殻はナナシ様を護る為に閉じたのかも知れない)

 その考えに行き着いて、シーリスは自分の咄嗟に取った行動に顔を蒼褪めさせる。

 漸く今になって、ナナシが眠りにつく前の言葉が思い出された。ナナシは確か、「安心して過していい」とも「自由に過していい」とも言っていた。

(僕は……余計なことをしてしまったんだ。ひょっとしたら、ナナシ様の眠りの妨げに)

 シーリスがそう思っている傍で、淡い光を放つ丸い玉が浮き上がり漂い始める。それにより、闇に閉ざされた世界が少しだけ明るくなった。

 シーリスが上へ視線を向ければ、淡い光の玉は海水で出来ているものだと判明する。 それは幾つも浮き上がり、貝殻の中を光の世界に変えた。その浮き出る場所を辿っていけば、目の前で仰向けに横たわるナナシの姿がある。だが、その身体に白の薄布はなく、ナナシは一糸纏わぬ姿であった。

 どうやら、淡い光の水玉は彼の纏っていた布のようだ。

 シーリスは安らかになった彼の寝顔を見詰めながら、一際高く鼓動を打ち鳴らせた。それは、握っていたままのナナシの手が、ふいに人肌の温かさに変わったからだ。

 唐突に訪れたナナシの変化に、シーリスは驚きに目を見開くしかない。

 空いている片方の手を今度は頬へ持っていけば、冷たくひんやりとした体温が同じように人肌へ変わっていく。まるで、シーリスが触れた箇所から変わっているようだ。

 ナナシに何が起こっているのか。また、自分が彼に何を起こしているのか。シーリスは皆目見当がつかなかった。

 ふいに、ナナシの頬へ触れていた指先に一筋の滴が掠めてゆく。

 それは、ナナシの涙だった。彼は眠りながら、何故か涙を流している。シーリスは条件反射のように、その涙を指で優しく拭っていた。そして――。

「……何が、悲しいのですか?」

 無意識の内に、その言葉を呟いていた。

「それとも、貴方様は寂しさを感じているのですか?」

 静かな声音で語りかければ、ナナシの涙が幾度も伝い落ちて耳元を濡らしてゆく。シーリスはその涙を見ていると、訳もなく切なさが込み上げてくるのを感じた。

「泣かないで下さい。――ナナシ様」

 そう言いながら、彼は自然な動作でナナシの髪をあやすように梳いてゆく。シーリスはナナシが泣き止むまで、その動作を何度も繰り返していった。


「………ス」

 心地良い振動を感じながら、シーリスは静かに眠っている。

「…ーリス」

 さらに響いてくる振動に、彼は無意識の内に頬を寄せていった。

「シーリス。起き上がれないのだが……」

 その言葉を耳にして、シーリスはゆっくりと目蓋を開ける。すると、ナナシの目とかち合った。何故かナナシは複雑な表情をしている。

 暫くの間をナナシと見詰め合って、シーリスは漸く自分の体勢がどんなものかを知った。その体勢とは、ナナシの裸の胸に顔を埋め、片手はナナシの手を握り、片手はナナシの髪に指を絡ませていると言うものだ。つまりは、正座をしながら真横から彼に覆い被さっているような体勢である。

 シーリスは一瞬だけ身を固まらせ、慌ててナナシの上から起き上がった。そして、深々と彼に頭を下げてゆく。

「申し訳ありません」

「……う、うむ」

 シーリスの謝罪にそう返して、ナナシはゆっくりと上半身を起き上がらせた。すると、淡い光の水玉がその身体へ纏わりつき、白の薄布に変わってゆく。

 それにより、そこはまた暗闇に閉ざされた。その中で、ナナシがシーリスと向き合った気配がする。

「――ひとつ訊くが、何故そなたは我の寝床に居るのだ?」

 ふいに、ナナシが口を開いた。暗闇で表情は窺い知れないが、声音は不思議そうだ。

 シーリスは謝罪を口にしてから、彼のベッドへ行き着くまでの経緯を説明した。

 「そうか」と、ナナシが相槌を打つ。

「そなたは我を救おうとしたのだな」

「はい、そのつもりで……」

「すまぬ。我が始めに説明をしていれば良かった。そなたに迷惑をかけた」

 ナナシがそう謝れば、シーリスは慌てたように首を左右に振った。

「いいえ。ナナシ様が謝る必要はありません。私に冷静さが欠けていただけなのです」

 そう言いながら、彼の体勢は自然とナナシに向かって前のめりになる。暗闇で距離の感覚が掴めないシーリスは、無意識の内にじりじりと声のする方へ近づいていた。

 ナナシはそれに気づきながらも、気にする素振りを見せることはない。そこから動くことなく、ゆっくりと口を開く。

「お前のような者は初めてだ。これまでに、あの場で我の寝床へ飛び込んだ者は居ない」

「それは、私が男だからです。あの揺れの中で、女性が思い切った行動を取るのは難しいと思います」

「そう言うものなのか?」

「恐らくは。……これは私見ですが」

「そうか。では、我がそなたを侮辱したことを詫びよう」

「……いいえ。判って頂ければそれだけで。それよりも、この貝殻はいつ頃開くのでしょうか?」

「日が昇れば開く。本来、我はそれまでは目覚めぬはずなのだが……」

「そう、なのですか?」

 シーリスの確認するような言葉に、ナナシが「そうだ」と頷いてみせた。

「そなたと契約を交わした後、我の力は著しく低下する。――その間は、人間と差ほど変わらん。故に、海は荒ぶる。海の荒ぶりを抑える為に、我は眠ることで僅かな力を温存させていた。そして、力が戻る時を静かに待つのだ」

 ナナシの話を耳にして、シーリスは顔を蒼褪めさせて言葉なく俯いてしまう。

(僕は取り返しのつかないことを……)

 その落ち込んだ雰囲気を感じ取って、ナナシは再び声を上げる。

「そう落ち込むな。そなたの取った行動は、それ程我に負担をかけてはいない。……しかし、我もこのような事態は初めてだ。その先に何があるかは判らん」

 シーリスを慰めるつもりが、ナナシは正直なところを口にしていた。だが、決してシーリスを責めている訳ではない。あまりにも予測不能な出来事に、彼は微かな戸惑いを覚えていた。

 その場に、重い沈黙が降り立つ。だがそれは、シーリスが顔を上げることで破られた。

「あの、ナナシ様」

 シーリスが、遠慮がちな声でナナシに話しかける。

「――何だ?」

「貴方様は、眠っている間の記憶を覚えていますか?」

「いや。それがどうしたのだ?」

「少し……ナナシ様のことで、気になることがあるのです」

 そう言いながら、シーリスは暗闇の中で声のする方へさらに近づいていった。そして、ナナシの存在を確かめようと腕を伸ばしてゆく。

 シーリスの指先が、ナナシの肌に触れた。その輪郭を確かめるように、それがゆっくりと肌を滑っていく。

 彼が触れている部分は、ナナシの鎖骨辺りだ。シーリスの唐突な行動に、ナナシは僅かに眉根を寄せる。

「……我に触れて、そなたは何をしようとしている?」

「貴方様の体温を、確かめているのです」

「体温? 我に体温と言うものは存在せぬ」

「……水のように、冷たい。けれど、私が触れると」

 そう言って、シーリスは指先を上の方へ移動させた。暗闇で知る由もないが、そこはナナシの首だ。

「貴方様のそれは、人肌の温もりに変わる」

「――っ!」

 その言葉に、ナナシは目を僅かに見開いた。話している合間にも、触れられた部分が微熱を持ったからだ。

 指先で感じ取れるくらいに、ナナシの身体は何かを恐れるように震えを刻んでいた。

 暗闇の中で、ナナシは息を殺しながらその場を後退る。だが、シーリスの指先はそれを追って、ナナシの存在を離しはしなかった。

 指先が彼の肌を滑って、首から頬へ流れていく。そこで頬の濡れた感触が伝わってくる。

「また……泣いているのですね」

「何を言う。我に涙は存在せぬ」

 シーリスの言葉に、ナナシは落ち着いた声音で否定してみせた。彼は自分が泣いていることを認識していないようだ。それ故に、感情の波は襲ってこない。涙で顔を歪ませることも鼻を啜ることもしなかった。ただ、ナナシの涙がそこにある。

 ナナシの存在がまた離れていくのを感じて、シーリスはゆっくりとその身を前進させた。

「それならどうして、ナナシ様は私から逃げているのですか?」

「我は逃げも隠れもせぬ。そなたは何故、我に近づくのだ」

「何故? 道徳的なことです。男の人でも女の人でも、例え守護神様でも、泣いている存在を放っておけない。ただ、それだけです」

「我は人とは言えぬ。我は人によって生まれた存在だ。……喜怒哀楽なぞ、我の中に存在はせん」

「ナナシ様は嘘吐きですね。貴方様は心が弱ると言っていたじゃないですか」

 シーリスがそれを口にしたと同時に、その身体はナナシの間近にあった。彼は膝立ちになり両腕を大きく広げて、自分よりも大きな体格を持つ彼を包み込むように抱き締める。

「――泣かないで下さい。何が悲しいのですか? 何が寂しいのですか? 私はここへ初めて来た身ですが、ここは何処よりも寂しくて悲しい所だと感じました。ウェイラさんたちもナナシ様も、ただ悲しみに暮れながらここを漂っているように見えます」

 彼の言葉を耳にしながら、ナナシはその腕の中でさらに身体を震わせた。シーリスに抱き締められた身体は、全体的に微熱を帯びてゆく。

 ナナシは彼の肩口に頭を預けて、ゆっくりと大きく息を吐いた。その涙は、まだ枯れることはない。

「……熱い。……そなたは不思議な人間だ。……会って間もないと言うのに、我の心をすぐに見透かす。……こんなことは初めてだ」

 彼の独り言のような科白に、シーリスはくすりと微笑んだ。

「ナナシ様は、初めて尽くしですね」

 そして、抱き締める腕を強めていった。

「この時がなければ、私は貴方様の心に触れることはありませんでした。――始めは、訳の判らない方だと思っていましたから」

「そうか。――永い話になるが、我の話を聞いてくれるか?」

「ええ、構いませんよ」

 シーリスの了承を得て、ナナシは静かに語り始める。

 海の守護神は、元々この世に存在し得なかった。その時代は海が荒れ狂い、人間は海を「魔界域」と恐れ、船や舟を出す者は誰一人として居なかった。

 そんな時代の中で、とある青年は海を目指した。理由は、貧困に苦しむ村を救おうと食料を得る為だ。青年の住む村は海の近くにあり、海を「魔界域」と恐れるものの、時折浜辺に流れ着く魚貝類の美味しさを知っていた。

 森に住まう村ならば、豊富な果実などで生活を賄える。だが、海に住まう村は周りに森は少なく、田畑で生活を賄い切れなかった。

 青年は村で餓死する人々を何度も目にし、やがて見るに耐え切れず海へ出ることを決心した。無論、ひとりではない。彼は数少ない賛同者と共に、死を覚悟して海へ出たのだ。

 海はやはり荒れ狂っていた。そして、彼らは荒れ狂う海に生命諸共呑まれていった。

 海中に沈みながら、青年は海の静寂を願った。父や母、兄弟、友人や仲間――全ての者たちの幸せを願い、その命を引き換えに彼らを護れるような存在を強く望んだ。

 そして、生まれたのが守護神であるナナシだ。ナナシは青年そのものである。青年は人間であることを絶ち切り、海を護る守護神であることを選んだのだ。

 それをきっかけにして、荒れ狂う海は以前よりも静まった。ナナシの存在が生まれたことによって、その村は貧困を脱し自由に海へ出、青年の願った幸せで豊かな生活を送ることになる。

 ナナシは元が人間だ。永久の生命と神としての力を得るが、他の神々と違い万能に出来ている訳ではない。守護神としての力が弱まり、一年に幾度か海を荒れ狂いさせる時期がある。

 その時期を、地上の者は勝手に「守護神の怒り」と思い込んでしまった。そして、そこに繋がるのが「生贄」である。守護神に生贄を捧げれば、荒れ狂う海は静まる――と、誰もがそれを当たり前のように思った。その起因となるものは、ナナシが守護神として生まれる日のことに当たる。

 地上の者たちにとってみれば、ナナシを含めた若者たちが、海へその生命を捧げたことにより海が静まったのだと思えた。真実を知らないからこその、彼らなりの判断である。

 ナナシは彼らの判断を受け入れた。元が人間であるが故に、ひとりで過してゆく時の中で芽生えた「孤独」に耐え切れなかったからだ。そして、海に住まう者を護る為の力を得たい思いと相まって、生贄としてひとりの女を選び取る。そこが「生贄」は「神への慰み者」と言われる所以だ。

 始めは数人の生贄を貰い受けることで、ナナシは充分に力を発揮することが出来た。余計な生贄の犠牲者を出さない為に、その女たちに永久の力を与えたのはこの時からだ。それにより、生贄と言う存在は百年ほど途切れた。

 百年の中で、数人の女たちはナナシから与えられた役割を従順に果たしてゆく。それは、大切な者たちの幸せを願う一心があったからに違いない。だが、その年月の中で、彼女たちは彼と同じ孤独感を知った。地上の全ての者が天命を全うする中で、彼女たちは死のない永久を生きることになるのだ。その悲しみに耐え切れず、彼女たちはナナシに永久を絶つことを願った。そして、同じ思いを抱える彼は、彼女たちの願いを快く引き受ける。

 ひとり、またひとりが消えてゆくことに比例して、ナナシの力もまた弱まっていった。それを補うように、彼はまた新たな生贄を必要とするようになる。そして、生贄と言う存在は再び現れた。

 無限の輪のように、それは数百年も繰り返されたことだ。だが、その中で少しだけ変化したものがあった。時代が移ろうことによって、人間の思考は変わる。疎らではあるが、女たちが役目を果たす期間は徐々に短くなっていった。

 現状は――今に至ることになる。

「……数百年、我はどれくらいの悲しみを生んだのか判らぬ。犠牲を払うことで得る力は何とも虚しいことだ。それを解っていながら、我はその輪を絶ち切ることが出来ん。……皆の幸せを願っていたと言うのに、我はいつの間にか奪う側へ存在していた」

「……ナナシ様」

 シーリスは何も言えず、ナナシに対してただ労わるように抱き締めることしか出来ない。永い時の中を生きてきたナナシの苦しみや悲しみ、寂しさを容易に受け止めることは難しかった。

「シーリス。そなたに触れられるたびに、我は人間である頃の己を思い出す。……愚かなことに、女たちと同様にこの永久の鎖を絶ち切りたいと切に願ってしまう。……やはり、そなたを連れて来るべきではなかった」

 そう言うと、ナナシは深く息を吐き出してゆく。

「……すまぬ。そなたに弱音を吐いてしまった。この貝殻が開くと同時に、そなたは全てを忘れるのだ」

 それきり、ナナシは何も語りはしなかった。シーリスの肩口に顔を埋め、そこから微動だにしない。そして、彼の耳元に届いてきたのは、ナナシの小さな寝息だ。

 シーリスの腕の中で、ナナシは再び眠りについた。

 無防備にその身を預けられ、その重さに耐え切れなくなり、シーリスはナナシと共にベッドへ横たわる。だが、その身を抱き締める腕は離すことはしなかった。そうするべきだと考えたのは、恐らくナナシに対する同情心と従者としての義務感からに違いない。

(おやすみなさい。僕が貴方様を護っているから、今度こそいい夢を……)

 ナナシを胸の中に優しく抱き、シーリスはゆっくりと目蓋を閉じてゆく。その様はまるで、海を抱く慈愛に満ちた神のようであった。


 貝殻が開くと同時に目覚めたのは、シーリスの方である。ナナシは、まだ目覚める気配がない。

 シーリスはナナシからそっと腕を解き、ベッドの上から上半身を起き上がらせた。硝子張りの壁に目をやれば、穏やかな海底の風景がそこにある。神殿の揺れも収まっていた。

 シーリスがその風景からナナシへ視線を向ければ、いつの間にか目覚めていた彼と目がかち合う。やはり、何処か気まずそうな表情であった。

 その表情を眺めて、シーリスはくすりと微笑んだ。

「ナナシ様がそんな顔をしていると、昨晩のことを忘れる訳がありませんよ。……私自身も忘れるつもりはありません」

 そんな彼に、ナナシは何も言えなかった。不機嫌そうな顔で、唇を一文字に引き結んだ。

 その様子を見て、シーリスはすぐに話題を変える。

「おはようございます、ナナシ様。……いい夢は見られましたか?」

「う、うむ。何か大きなものに抱かれたような夢を見たような気がする」

 そう言いながら、ナナシは不思議そうな表情でベッドの上から上半身を起き上がらせた。

 すると、シーリスは安堵したような笑みを浮かべた。

「そうですか。少し安心しました。――それで、力の方はどうですか?」

「大丈夫なようだ。不思議なことに、特に変わったことはない」

 ナナシの返答に、シーリスはさらに笑みを深めてゆく。

「それでは、私はウェイラさんたちに貴方様が目覚めたことを伝えに行きますね」

「分かった。ウェイラたちは、神殿の要に居る。――我も後ほど、そちらへ向かおう」

「はい。それでは失礼します」

 そう言ってナナシにお辞儀をし、シーリスはその場から踵を返してゆく。その線の細い背中を、ナナシは不思議そうな表情で見送った。

 シーリスが部屋を出れば、彼はゆっくりと息を吐き出してゆく。そして、ふいに自分の身体を護るように抱き締めた。

「……熱い」

 その呟きは、昨晩に感じたものと同じ理由だ。シーリスにそのことを語りはしないが、ナナシは未だに冷め止まない微熱に犯されていた。

 その微熱は何を意味し、彼を変えてゆくのか。ナナシ自身も知る由もない。ただ判っているのは、その微熱を与えた者は、シーリスであることだ。

「シーリス。……そなたは一体、何者なのだ? そなたは真に人間の身であるのか?」

 今は傍に居ないその存在へ向けて、ナナシは静かな声音で問いを投げかけた。

 神殿の要と言われる広間へ、シーリスは水の扉を潜って踏み入れる。

 広間の中に、ウェイラたちは居た。彼女たちは長い髪を緩やかに揺らし、魔方陣の中心部で目を瞑りながら正座している。その身体を淡い光が覆い包み、周りでは水の泡が漂っていた。まるで、彼女たちはそこに存在し得ない水の中に居るようだ。

 シーリスは声をかけることも忘れ、眼前にある神秘的な光景に凝視した。

 ふと、ウェイラが目蓋をゆっくりと開ける。その目に、こちらを見つめる彼の姿を映した。

「……あら、シーリス」

 そう声をかけて、彼女は微笑んだ。それにつられて、シーリスも微笑んでみせる。

「ウェイラさん、皆さん、おはようございます。ナナシ様は無事に目覚めましたよ」

 彼が挨拶を兼ねて報告すれば、彼女たちは目蓋を開けてゆっくりと立ち上がった。すると、彼女たちを取り巻く淡い光や水の泡が跡形もなく掻き消えてゆく。

 それを見て、シーリスは彼女たちに近づいて行った。そんな彼に、ウェイラたちが挨拶を返していく。

 彼女たちと一通りの挨拶を終えて、シーリスは先ほど見た光景を口にする。

「ところで、ウェイラさんたちは何をしていたんですか?」

「微力だけど、ナナシ様が眠っている間は、私たちも海の荒れを抑えたり神殿を護ったりしているのよ」

「そうなんですか。それも生贄の役目なんですね」

「ええ。――そうは言っても、ナナシ様が眠るのは一年に一度だけだから、こう言うのは暫くないわ」

 そう言った彼女に、シーリスは驚きに目を見開いた。

「ナナシ様は、いつも眠らないんですか?」

 彼がそう声を上げれば、女たちは苦笑を浮かべながら頷いてみせた。

 ウェイラがまた口を開く。

「……あの方は、眠らないのではなくて眠れないのよ。ベッドの貝殻が閉じるまで、ナナシ様の様子をちゃんと見ていた?」

 彼女にそう言われ、シーリスは昨晩のナナシを思い返していった。

「――とても苦しそうでした」

「そう。貴方と同じで、私たちもあの苦しそうな顔を見てきているの。始めはみんな、原因は力が弱まったからだと思っていたわ。けれど、違った。――恐怖と必死に闘いながら、ナナシ様は眠ろうとしていたの」

「恐怖、ですか?」

「ええ、恐怖よ。ナナシ様に限らず、私たちも時々眠るのが恐くなるわ。……眠れば、明日がやって来る。眠れば、またひとつ、地上の人たちから置いて行かれる。それを考えると、眠れなくなるのよ」

 ウェイラの寂しげな言葉に、シーリスは僅かに目蓋を伏せる。ふいに、彼の苦しげな寝顔と安らかな寝顔が脳裏を過ぎった。

 そんな彼に、ウェイラが寂しそうに微笑む。

「そのことを理解して、ナナシ様を支えていてね。こう言うのはきっと、男同士の方がいいと思うし。――私たちが相手だと、あの方はすぐに遠慮してしまうの」

 そう言い終わると同時に、今度は優しく微笑んでみせた。

「いつも不機嫌そうだけど、本当は心の優しい方なのよ。生贄は女性じゃないと駄目なのに、何だかんだと理由をつけて貴方を受け入れたでしょう?」

 彼女の話を聞いて、昨日を思い返しながらシーリスは優しく笑い返してゆく。

「ウェイラさんたちは、ナナシ様が好きなんですね」

「ええ、好きよ。始めは恐かったけど、ここで過している内に段々と家族のように思えてくるのよね。同じ時を過す者同士、仲良くならないと」

 「ね?」と、ウェイラは殊更明るく笑った。永久に消えない寂しさを消し去るかのような、そんな笑みだ。周りで笑う女たちも、そのような笑みだった。

 『寂しければ、笑いなさい。お腹の底から笑えば、少しは心が軽くなるから』と『それは、ここで過ごして行くには必要なこと』なのだと、まるで彼女たちはシーリスに伝えているようだ。

「僕は大丈夫です。――だから、心配しないで下さい」

 シーリスが笑いながらそう口にすれば、彼女たちは眩しそうな眼差しをする。

「シーリスは、やっぱり強いのね。とても眩しい存在。貴方ならきっと……」

「僕ならきっと?」

 何かを言いかけたそれを促せば、ウェイラはゆっくりと首を左右に振った。

「何でもないの。気にしないで」

 そう言われたところで、気になってしまうのが人の心情だ。だが、シーリスは執拗に彼女の言いかけた言葉を促すことはしなかった。そして、それは心の中に引っかかりとして残されてゆく。

 その時、広間にナナシが姿を見せた。その場に居たウェイラたちが静々と頭を下げていく。シーリスも彼を振り返り、深々と頭を垂れていった。

 ナナシの様子は、特に変わったところは見られない。

「皆の者、昨日はご苦労だった。我が眠りにつく間に、何か変わったことはあるか?」

「いいえ、特に何もございませんでした。ですが、私たちの感じるところで神殿の揺れが昨年よりも酷くなっているようです」

「それは真か?」

「はい。どうにか抑えておりましたが……」

「……そうか」

 ウェイラの淡々とした報告に、そう呟いてナナシは腕を組みながら眉を顰めた。そんな彼を、シーリスたちは顔を上げて見つめる。

「何か、原因があるのでしょうか?」

「……今は何も判らんが、調べて置くとしよう。皆の者はもう休むがいい」

「はい。それでは、お言葉に甘えさせて頂きます」

 そう言って、ウェイラたちはナナシにひとつお辞儀をすると静かにその場から歩き出した。だが、シーリスはその場から歩き出さずに留まった。

「ナナシ様」

「何だ? シーリス」

「その揺れの原因は、やはり……」

「そなたが原因とは限らん。先ほども言ったように、我の身に力は確実に宿っている。そなたが気にすることではない」

「ですが……」

「そんなに心配するな。そなたも皆と同じように休め。部屋は、ウェイラたちに訊けば判るだろう」

 ナナシの言葉に、シーリスはゆっくりと首を左右に振る。

「私は充分に休みましたので大丈夫です。何か手伝えることがありましたら、何なりとお申し付け下さい」

「いや、特にない。ここは我に任せて、そなたはウェイラたちと共に行け」

「……はい。それでは失礼します」

 そう言って、彼に礼をひとつすると、シーリスはウェイラたちの後を追うように歩き出した。その背中を見送って、ナナシは何かを考え込み始める。


「ウェイラさん、待って下さい」

 広間を出たと同時に、シーリスはウェイラを呼び止めた。その呼び声に、彼女は立ち止まり彼を振り返る。その他の女たちは、各々の部屋へ向かって行った。

 早歩きで歩き寄ってくるシーリスに、ウェイラがからかうように口を開いた。

「ナナシ様に振られたの?」

「はい。手伝うことはないと言われました」

「そう。じゃあ、私に付き合ってくれる?」

「休まなくていいんですか?」

「ええ。多分眠れないと思うから、貴方に話し相手になって貰いたいの」

「それは構いませんが、生贄の役目で何かすることはないんですか?」

「ないわ。生贄の役目は、ナナシ様の力を補うだけだからね。後は自分の好きなように過すだけよ」

「本当にそれだけなんですか?」

 驚いたようにシーリスが訊き返せば、彼女は「そうよ」と相槌を打ってみせる。

「私たちに負い目を感じているから、ナナシ様はそれ以上のことを望まないの。――さあ、私の部屋へ行きましょう」

 そう言って、ウェイラはその場を歩き出した。シーリスも彼女と並んで歩き出す。二人は廊下を歩きながら、会話を続けてゆく。

「そう言えば、シーリス。昨日の揺れは大丈夫だった?」

「……始めは驚きましたが、大丈夫でした」

 ウェイラの問いに、彼はそれだけを答えた。だが、それ以上のことは言わない。ナナシとの間にあった出来事を、シーリスは何となく話す気にはなれなかった。

「あの。ふと思ったんですが、ナナシ様と契約を交わして、どうしてその部屋に留まる必要があるんですか?」

「それは安全を考えてのものよ。広間とナナシ様の部屋は、比較的揺れの影響を受けないからね。後はきっと、眠れるようにする為かしら。……誰かが傍に居た方が、安心して眠れるでしょう?」

 彼女の話に相槌を打ちながら、シーリスはまた昨晩の彼の寝顔を思い浮かべる。そして、先ほどの「ナナシは眠らない」話を思い出した。ついで、それが頭の中でウェイラの言った「ナナシは何も望まない」の話へと自然に流れていく。

「……ナナシ様は、必要なこと以外は誰かに頼るのを避けているんですね」

「ええ、そうね。だからと言って、どうすることも出来ないわ。私たちは、あの方の望まれるままに居なくてはいけないから」

(……望まれるままに)

 心の中でそう呟けば、ふいに昨晩のナナシとの出来事が思い出された。何度も思い浮かべるのは、それがシーリスにとって忘れられない事柄だからだ。忘れろと言われて、そう易々と忘れる訳がない。

(ナナシ様が本当に望んでいることは、永久の鎖を絶ち切ること。そして、あの方が僕に望んでいることは……)

「シーリス? 突然黙ってどうしたの?」

 ウェイラの問いかけに、シーリスははっと我に返った。

「あ、いえ。……ちょっと考え事です。――望まれるままにと言っても、その全部を受け入れるのはどうだろう? と思って」

「どう言うこと?」

「僕たちは生贄と言う存在ですが、誰かの人形と言う訳ではありません。たまには自分の意思で動いてみてもいいんじゃないかと思ったんです」

「自分の意思で動く?」

 ウェイラが不思議そうな表情で、隣を歩くシーリスを見つめる。そんな彼女を見返して、彼はふわりと微笑んでみせた。

 ふいに、ウェイラの瞳が揺らいでいく。

「……シーリスは、どんな風に動くの?」

「僕ですか? そうですね。ナナシ様が安眠出来るように、毎晩部屋に通おうと思います。勿論、嫌がられたら止めますけど」

「何それ。……私はてっきり、別のことを指して言っているのかと思ったじゃない」

 そう言いながら、彼女はシーリスから視線を外して何かを考えるように俯いていった。

 ウェイラを見下ろして、シーリスは小さく問いかけていく。

「……永久からの解放ですか?」

 すると、彼女はそれに反応して勢い良く顔を上げた。その目は、大きく見開かれている。

「それを望んでも、僕はいいと思いますよ」

「……シーリス。……ごめんなさい、やっぱりひとりにさせて」

「……分かりました」

「有難う。それじゃあ、私の部屋まで一緒に行きましょう? 貴方の部屋は私の隣なの」

 そう言って、ウェイラは顔を前へ戻していった。シーリスも彼女と同じように前を見据える。やがて、二人の間に会話はなくなった。

 暫くして、二人は目的の場所へ辿り着く。

 ウェイラの部屋の前で彼女と別れて、シーリスは自分の部屋の薄布のカーテンを開いた。

 室内の構造は、ナナシのものと差ほど変わらない。恐らく、他の部屋も同じようなものだろう。

 室内の真ん中にあるベッドへ歩き寄ると、彼は仰向けになって倒れ込んだ。

(……永久からの解放か。どうして、僕はあんなことを言ってしまったんだろう?)

 シーリスは、自分の行動が解せなかった。ウェイラのこともそうだが、ナナシとのこともそうだ。

 ふいに、彼は両腕を上へ翳した。男にしては、細い腕がそこにある。その腕はナナシを抱き締めた腕だ。彼が泣いていたから、シーリスは反射的に抱き締めたくなった。

 シーリスがナナシに向けた言葉は、全てが嘘偽りのない本物だ。そして、その行動の根源が同情と従者としての義務感からだと言うことは否めない。今は、その感情だけである。彼と出会って間もない期間で、シーリスがその中に潜む感情を見つけるのは難しかった。

 ふと、シーリスは先ほど考えていたことを思い出す。

(ナナシ様が望んでいることは、ウェイラさんと同じだ。そして、あの方が僕に望んでいるのは、きっとそれに繋がること)

 彼はそれが何であるのかを、何となくではあるが察していた。

(……ナナシ様は優しくて酷い方だ)

 そう思いながら、シーリスは上に翳していた両腕をベッドに投げ出してゆく。そして大の字の格好で、真上にある白い天井を見据えた。ふいに、その双眸が優しいものへ変わる。

(シーアリは元気かな? 大切な人と幸せに暮らしているだろうか? 僕の言う通りに村を出ていればいいけれど……とても心配だ)

 シーリスの思うところは、やはり大切な妹のシーアリに向けられた。

(あの子が幸せなら、僕はそれだけで救われる。……シーアリ)

 自分に良く似た妹の幸せそうな笑みを思い浮かべながら、彼は静かに目蓋を閉じてゆく。その口許に嬉しそうな笑みが刻まれた。

 室内は静寂に満たされている。室内に限らず、神殿自体が静寂そのものである。神殿はゆっくりとした時を刻み、何処からともなく聞こえてくる泡音が時の調べを奏でていた。

 それらは全て睡眠を促すものなのか、彼は眠くもないのにゆっくりと意識を沈ませてゆく。その夢に見るのは、他でもない妹の姿だ。


 それから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。シーリスは瞑っていた目蓋をゆっくりと開けていった。

 ベッドから静かに起き上がり、室内を見回してゆく。その景色は、眠る前と何ら変わらないものだ。

(……僕はどれくらいの時間を眠っていたのだろう? 今は何時くらいになるのかな?)

 太陽があまり届かない海底は、体内時計を一度狂わせてしまえば取り返しがつかなくなる。時間の感覚が判らなくなり、やがては時間と言う概念が彼の中から消し去られてしまうのだろう。

(ここへ来て早々に、時間の感覚が判らなくなり始めるなんて)

 何も考えずに睡眠を貪ってしまったことに、シーリスは苦笑を浮かべるしかない。

(兎に角、ナナシ様の部屋へ行ってみよう)

 そう思いながら、彼は自分の部屋を出て行った。無論、ウェイラに話した通りのことをする為だ。今が夜だと言うならばの話である。

 廊下に出れば、そこは室内と変わらず静寂に満ちていた。人の気配は皆無に等しく、恐らくウェイラたちは部屋に閉じこもっているのだろう。寝ているのか或いは単に部屋で寛いでいるのか、シーリスはその判別がつかなかった。

 裸足で音を立てずに長い廊下を歩く。誰かと歩けば何も感じることはなかっただろう。ひとりで歩けば、まるでそこは別世界のようだった。変わることのない景色は、出口のない迷宮を永遠に彷徨っているようだ。

 ふいに、シーリスの心に寂しさが過ぎった。

 その時、彼の目に広間の水の扉が映る。その扉を通り過ぎようとした彼だが、そこから小さな物音が聞こえ立ち止まった。

(――ナナシ様?)

 水の扉を潜り抜ければ、シーリスの予想通りにナナシの姿がある。

「ナナシ様」

 シーリスがそう呼べば、ナナシが落ち着き払った様子で振り返ってきた。

「シーリス。我に用か?」

「はい。今が朝昼晩のどれかを教えて下さいませんか?」

「……そなたは変わった問いを寄越すのだな。今は丁度夜に差しかかったところだ」

「そうですか」

(……丸一日も寝ていたんだ)

 ナナシの答えに、シーリスは僅かに苦笑を漏らす。だが、すぐに表情を戻してまた口を開く。

「それと揺れの件の調べはつきましたか?」

「いや、まだ原因が掴めん。暫くは様子を見ることにする。……そなたは、この件を気にしてここへ来たのか?」

「それも気になるところですが、私の目的は別にあります。今日から毎晩、ナナシ様のお傍に居させて下さい」

 そう言って、シーリスはふわりと優しく微笑んだ。すると、ナナシはぴくりと片眉を動かした。

「……何だ、それは」

「ウェイラさんからナナシ様が眠れないでいると言う話を聞いたので、ナナシ様が眠れるように毎晩ついて居ようと思ったのです。――昨日の貴方様を見て、安眠にはこれが一番だと思いました」

「……断る」

 ナナシがそう否定の声を上げるも、その態度に嫌悪は見られない。それとは別の、シーリスに対する困惑が見え隠れしていた。

 シーリスはその様子を窺った後、意を決したように深く頭を下げてゆく。

「ご無礼をお許し下さい!」

 そう言うや否や、ナナシの手を掴み取ると強引にその場から歩き出した。シーリスに手を引っ張られながら、ナナシは不思議で仕方がないと言うような顔をする。

「シーリス。何故、そなたは我にそこまでするのだ?」

「……貴方様もウェイラさんたちも、放っておけないからです」

(……そうだ。僕はここの人たちが放っておけないんだ。あまりにも悲しそうだから)

「そなたは、我にもその感情を抱くのか?」

「昨日も言いましたが、それがどんな存在でも放っておけません」

「……おかしな男だ。我は涙を流してはおらぬぞ」

「そうですか? 私にはまだナナシ様が泣いているように見えます」

 そう言って、シーリスはナナシを振り返ってまた優しく微笑んだ。

「……貴方様の望みが報われない限り、ずっと心の中で泣いているでしょう? その心の中を少しでも、私に和らげさせて下さい」

 彼の言葉に、ナナシは何も言えず顔を俯かせた。掴まれた部分が微かな熱を発している。それはやがて身体中へ行渡り、ナナシを熱っぽくさせた。

 シーリスはその異変に気づくこともなく、顔をゆっくりと前へ戻してゆく。

「……お人好しだな」

 彼にそれだけを呟いて、ナナシは口を閉ざしていった。シーリスも何かを話しかけることはせず、ナナシの部屋を目指して足を進めていく。

 二人で暫く廊下を歩いていけば、目の前に目的の部屋へ辿り着いた。ナナシと一緒にいる為か、その扉はすぐに開いて彼らを招き入れる。

 ナナシの部屋へ入った途端に、シーリスは掴んでいた彼の手を離しながら振り返った。すると、先ほどとは違う様子のナナシが目に入る。

 ナナシは、微かに肩を喘がせながら全身に水滴のようなものを流していた。それは汗とはまた違いようである。

「ナナシ様?」

 シーリスが訝しげに名を呼べば、ナナシはずっと俯いていた顔を上げた。何処か困惑したような表情だ。

 その様子に、シーリスは昨日のナナシの状態を思い出した。

「……兎に角、ナナシ様はベッドへ横たわって下さい。ひとりで歩けますか?」

 自分が触れば、ナナシがその状態になる。それを思い出した彼は、そう言ってナナシを促すしかない。そんなシーリスに言葉もなく頷き、彼はのろのろとベッドへ歩き出した。

(どうして、僕が触るとあんな風になるんだろう?)

 ナナシの様子を眺めながら、シーリスはまた昨日と同じ疑問を抱く。

(……何だか、昨日よりも酷くなっているように見える。……一体、ナナシ様に何が?)

 ナナシにも判らないことを、シーリスが考えたところで答えを見出すことは出来ない。

(これは、気をつけるべきなのかな?)

 そう思っている内に、目の先でナナシがベッドに横たわる光景がある。

 シーリスはゆっくりとベッドに近づくと、ナナシから少し離れた場所に膝を突く。

「私はここに居ますから、ゆっくりとお休み下さい。いい夢を……」

「……そう言われても、我はすぐに寝られんのだが」

「そうですか。それじゃあ、何か話をしましょうか? 何がいいですか?」

「特にない。そなたの好きなように話せばいいだろう?」

「そうですね。……と言っても、私もあまり思いつきません」

「……何だ、何もないのか。それなら、外の話を聞かせてくれるか? 我は神凪の時以外は地上に上がることはないからな」

「分かりました」

 ナナシの頼みを快く引き受けて、シーリスはゆっくりと地上のことを語り始めた。その語りは悲しいものではなく面白いものや楽しいものを選び取り、ナナシが生贄となった者たちに負い目を抱かないような話題だ。その話題に織り交ぜて、彼はやはりシーアリのことも語っていく。

 そうしている内に、ナナシはゆっくりと目蓋を閉じ寝息を立て始めた。シーリスが昨日に見た、安らかな寝顔がそこにある。それを確認して、彼は静かにその場を立った。

「おやすみなさい、ナナシ様」

 ナナシの安らかな寝顔をもう一度見下ろして、シーリスはそっと囁きかけた。そして、何度目かの優しい笑みを口許に刻んでゆく。

 それから数ヶ月の時が過ぎた。だが、その経過を示す言葉は、神殿に住まう彼らにとって意味のないものだ。神殿は日々平坦に時を刻んでいる。

 シーリスの、ナナシに対する行動はずっと続いていた。毎晩彼の部屋に通い、彼が眠るまで様々なことを語ったり会話を交わしたりする。いつの間にか、それが彼らの習慣となっていた。それが、二人の関係を良好にしていったのは言うまでもない。

 その最中で、ウェイラを始め女たちの間に静かな波紋が広がっていた。そのきっかけを作ったのは、他でもないシーリスだ。「望めばいい」と口にした言葉が、彼女たちにどんな影響を及ぼしているのか、彼は知る由もないだろう。

 神殿が少しずつ揺れ始め傾き出している。

 そんなある日の晩、ウェイラがシーリスの部屋を訪ねてきた。シーリスが部屋の中へ招き入れれば、彼女は何処か思い詰めた表情で入ってくる。

「どうしたんですか? ウェイラさん」

 ベッドの近くへウェイラを座るように促し、シーリスは床に座りながら問いを投げかけた。

 彼女は床にゆっくりと座り、遠慮がちに口を開いてゆく。

「……シーリスが前に言った、望んでもいいって言うの覚えてる?」

「ええ、覚えていますよ」

「あれは、どう言うつもりで言ったの?」

 そう問いかけてくるウェイラに、彼は少しの間を置いて話し始める。

「その時はここへ来たばかりの身でしたが、どんなに明るくしてみせようと貴女たちが悲しそうに見えたからです。大切な人や村の人たちの為ではなく、もっと自分の為に我が儘になってもいいんじゃないかと思いました」

「……永久からの解放。それがどんなものか、貴方はちゃんと判っている? ナナシ様や生贄となった人たちが築いてきたものが壊れると言うことよ」

 何処か責めるような彼女の物言いに、シーリスは「判っています」と頷いた。

「ウェイラさんたちは、充分にみんなを護って来ました。そんな貴女たちが、それを望んでも罰は当たりませんよ」

 そう言って何でもないことのように微笑む彼に、ウェイラが目蓋を僅かに伏せてゆく。彼女の手が、何かを決心するように強く拳に握られた。

「……貴方のあの言葉を聞いて、色々悩んだわ。私が消えればナナシ様の力が弱まる。またあの村で代わりの生贄の子が出される。だから、それを望んではいけない。……そう思うのに、みんなのところへ行きたいことばかり考えてしまうの。……私って、自分勝手よね。ここに居るみんなは我慢しているのに」

 握った拳を震わせながら、ウェイラは自分の中にあるものを吐き出してゆく。

「ねぇ、シーリス。それでも、それを望んでもいいのかな? それを選び取って誰かが不幸になったとしても、その選択が正しいって言える?」

「それを決めるのは、他でもない貴女自身です。正しい正しくないではなく、自分にとって悔いのない選択を選べばいいと思います」

「……そう言ってくれて、ありがとう」

 そう言って、彼女は清々しい笑顔を見せた。そのすっきりしたような笑みに、シーリスは優しく笑い返していく。

「ナナシ様の所へ行くんですか?」

 彼がそう問いかければ、ウェイラは何故か首を左右に振ってみせた。

「暫くはここに居るわ。ここから居なくなる前に、みんなと色々と相談をしてみる」

「色々な相談、ですか?」

「そう。貴方が来るまで、ずっと諦めていたことを試してみようと思うの。……私たちみたいな子が、もう現れないような世界にしたいじゃない」

 ウェイラの力強い言葉に、シーリスは頷くことで相槌を打つ。

「私の愚痴を聞いてくれて、本当に有難うね。それじゃあ、私は早速みんなを部屋に集めるわ。シーリスは、ナナシ様の所へ行くの?」

「すみません」

「いいのよ。ナナシ様なら多分、広間の方に居ると思うよ。例の揺れの件で、まだ調べているようね」

 そう言いながら、ウェイラはその場から立ち上がった。それに続いて、シーリスも立ち上がる。そして、二人は並んで歩き出した。

「それにしても、本当にシーリスがナナシ様の所へ通うとは思わなかった。ただあの方の安眠を護るだけに行っているの?」

「それもありますが、ナナシ様に仕える身としてあの方をもっと知りたかったんです」

「真面目ね。それで、ちゃんと判ったの?」

「はい。多少は判りましたが、それよりも僕自身の方で知らなくてもいいことに気づいてしまいました」

「知らなくてもいいこと?」

 彼女が不思議そうな表情で訊き返せば、シーリスは「それは秘密です」と微苦笑を浮かべる。彼はそのことをウェイラに話す気はないようだ。

 そんなやり取りをして、二人は部屋から廊下へ出て行く。そして、それぞれの進む方向へ踵を返していった。

 ふいに、シーリスは遠ざかってゆくウェイラの背中を振り返る。

(……生贄の存在しない世界か)

 心の中でそう呟いて、彼は再び踵を返して歩き出した。

(もしもその世界が実現出来たら、誰も苦しんだり悲しんだりしないだろうね)

 そう思いながら、シーリスはナナシを思い浮かべる。

(そうなると、ナナシ様は……またひとりになるのか)

 そう思うと、彼の胸が切なさに締め付けられる。その切なさは、同情心や従者の義務感から来るものではない。彼自身の中にある、知らなくてもいい感情がそこにある。

 シーリスのナナシに対する感情は、いつの間にか恋心に変わっていた。何がきっかけなのかは、彼自身判別がついていない。しかし、物事の起伏のない日々の中で、その感情は鮮明に色を濃くしていく。ナナシとの三ヶ月間の接触がそれを促しているのか、或いは始めからその感情を抱いていたのか。それは曖昧過ぎて、やはり当人でも知る由もない。

 彼は広間へ向かいながら、ふいに自分の手の平を心臓に当てた。ナナシの居る場所へ近づくたびに、その胸の鼓動は早鐘のように鳴り響く。

(……どうしてだろう? 周りに女性は多く居るのに、ナナシ様から目が離せない。……そろそろ、あの方から少し離れないといけないかも知れない)

 彼がそう思うのは、男ならではの問題だ。

 女に見紛う容姿とは言え、シーリスは男でしかない。ナナシに恋情を抱けば、彼を即物的な目で見てしまうのだ。例えそれが神と呼ばれ、穢してはならない存在だったとしても暴走する欲情は抑えが利かない。

 神を冒涜すれば、罪人或いは愚か者の烙印がその身に押されるだろう。それを解っていたとしても、シーリスはその細い腕と身体でナナシを抱きたいと思わずにはいられない。

 ふいに、シーリスの脳裏にあの貝殻のベッドで見たナナシの裸体が浮かんだ。守護神と呼ばれる逞しい身体が幾度もちらついた。

(……こんなことになるとは思わなかった。おかしいのは判っているのに止められない)

 シーリスにとって、あの浴室で抱かれると思って怯えていた自分が、今は彼を抱きたいと情欲を抱くとは思いも寄らないことだ。動揺はあるものの、先走るのは他ならないナナシへの恋慕である。

 ふと気がつけば、彼は神殿の広間の前に立っていた。そこで心を平常に戻すまで、ゆっくりと深呼吸する。

 水の扉を潜り抜ければ、ナナシはやはりそこに居た。だが、彼はそこに居るものの、そこに広がる光景はいつもと違っている。

 広間に広がる魔法陣が、淡い光を放ち天井へ伸びていた。その真ん中に、筒状の透明に近い蒼水が淡い光と同じように伸びている。そして、それを魔法陣の外側の円から幾つも伸びてきた布状の光ががんじがらめに巻きついていた。

 ナナシはその中に居る。眠るように目を瞑り、髪を揺らしながら立ったままで水の中を漂っていた。その身に纏う白の薄布は、やはり濡れることはない。彼の身体を透かせることもなく、水の中で揺らいでいた。

 以前に見たウェイラたちの神秘的なものを凌駕する、神々しさが漂わせる光景である。その光景に圧倒され、シーリスはナナシの姿に釘付けになりながら息を呑んだ。

 彼の気配に気づいたのか、ナナシがゆっくりと目蓋を開けてゆく。そして、入口で佇んでいるシーリスを眺めた。

 シーリスは彼と視線を絡ませながら、誘われるようにその場を歩き出してゆく。

 ナナシの前に辿り着けば、彼はゆっくりと片腕を筒状の水の中へ伸ばしていった。すると、ナナシがその行動を制止するようにゆっくりと首を左右に振る。だが、シーリスはその制止に従わず、さらに腕を伸ばしていった。そこにあるのは、従者としての彼ではなくナナシを欲する彼だ。

 シーリスの指先が、筒状の水の中へと入っていく。その行動に、ナナシは驚きに目を見開いた。その間にも、シーリスは身体を水の中へ入り込んでいく。

 彼の身体が全て水の中へ入れば、ナナシは信じられないとばかりに呆れたような表情をしてみせた。シーリスのその行動の原因が自分にあるとは知る由もない。

 この三ヶ月間で、確かに二人の距離は縮まった。だが、それは男同士の友人としての距離である。片や友人として、片や恋情を抱いて、それらはまだ絡み合うことはない。二人の感情が交わらないのはシーリスのこれまでの徹底した従者としての態度があったからだ。

 しかし、今のシーリスは違っていた。それは、ウェイラとの会話がきっかけとした焦りからだったのかも知れない。彼はいつの間にか、抑えられない欲望に突き動かされていた。

 水の中で身体を浮き上がらせながら、シーリスは手を伸ばしてナナシの手を握り締めてゆく。彼は、三ヶ月前に触れてはならないと自分で決めた禁を破った。

 シーリスのそんな行動に、ナナシはぎくりと身体を強張らせる。身体を僅かに後ろへ引けば、二人を覆い包む水が微かに揺れた。

 ナナシが「訳が判らない」と表情を作ってみせると、シーリスはそんな彼に向かってふわりと微笑んだ。そして、ナナシの手をゆっくりと持ち上げて手の甲に唇を落としていく。

 ぴくりと、またナナシが身体を揺らした。だが、その反応を気にもせず、シーリスは更なる行動を移していく。

 水の中では体重の軽いシーリスの方が、ナナシより目線が上になる。ナナシが何かを問うように顔を上へ向ければ、今度はその唇に彼は自分のそれを落としていった。

 その行為に、当然ながらナナシは身体を固まらせる。避けることもけることも可能でありながら、ナナシはその行動を起こさなかった。ただ先ほどよりも目を大きく見開き、間近にあるシーリスの顔を凝視する。

 シーリスは彼の手を握っていない手を、ナナシの後頭部へ持って行き引き寄せた。すると、重なりあった唇が深く合わさって隙間をなくしてゆく。角度を変えていくその唇と唇の間からは、いつの間にかシーリスの赤い舌が見え隠れしていた。

 まるで時が止まったかのような感覚が、二人を覆い包んだ。

 ナナシの唇を幾度も堪能して、シーリスは惜しみながらゆっくりと唇を離していった。そして、彼の双眸を真っ直ぐに見詰める。

「ナナシ様……好きです」

 彼がそう切なげに囁けば、ナナシはそれに反応して身体を僅かに震わせた。シーリスが触れている彼の手がまた熱を帯び、その熱はやがて身体中へ浸透していく。

 ナナシが肩を喘がせた。それと共に正常な呼吸は乱れ、彼の身体から噴き出した水滴が透明な蒼水と混ざり合う。だが、今度はそれだけではない。ナナシの身体を形成する細胞の一つひとつが、水の泡へと形を変えようとしていた。

 シーリスははっと我に返って、ナナシから身を引いて行く。彼に触れている手も離し、身を翻して筒状の水の中から出て行った。

 彼は床へ降り立つと同時に、ナナシに向かって土下座をしてゆく。

「も、申し訳ありません」

 頭を深々と下げたままで、シーリスは焦った口調でその言葉を口にした。

 そんな彼の前で、ナナシの泡となろうとしていた身体が元に戻っていく。ナナシの表情は、全てを悟ったかのように落ち着いていた。

 ナナシが筒状の水の中から出て行く。シーリスの前に降り立てば、彼はゆっくりと両膝を床に突いた。

「……シーリス、顔を上げろ」

 彼にそう言われ、シーリスはゆっくりと顔を上げる。すると、こちらを真っ直ぐに見詰める柔らかな光を宿らせる瞳とかち合った。

「そなたが謝ることではない。我がああなったのは、我にも責任がある。そなたの想いを潔く認めよう。――我の想いもまた、潔く認めるとしよう」

 ナナシから紡ぎ出される言葉に、シーリスは声を上げる余裕もなく彼を見上げるばかりだ。そんなシーリスに向かって、ナナシはふっと小さな笑みをみせた。

「我もそなたが好きだ。そなたが我の心に触れてきた時から、我はそなたに惹かれていった。その証が、先ほどのあれだ。……だが、我はそなたに答えることは叶わない。許してくれ」

 そう言って、ナナシの笑みが酷く寂しいそうなものへ移ろいだ。そんな彼に、シーリスは何も言えず、僅かに目蓋を伏せてゆく。そして、顔もゆっくりと俯かせていった。

 例え、それが異性であろうと同性であろうと、神と人は色恋に心を通わせ触れ合ってはならない。その禁句を犯せば、ナナシと言う神の存在は消滅する。彼の今までの反応と先ほどの反応を思い返しながら、シーリスはそれを悟った。

 シーリスは人の身でありながら、神であるナナシを消せる唯一の存在だ。それはナナシにとって好都合であるが、彼は永久からの解放を望んでいながらそれを求めはしなかった。その答えが、シーリスに向けた言葉である。

 二人はその想いを捨て去り、これからを過ごして行かなければならない。互いに想いあおうと、決して報われることはないのだ。

「……忘れてくれ」

 落ち着いた口調で、ナナシが呟いた。主語はないが、シーリスに通じる単語である。

「……それは出来ません。この気持ちを、貴方様への気持ちを忘れたくはありません」

 そう言いながら、シーリスは顔を上げていった。すると、悲しそうな眼差しをするナナシが目に飛び込んでくる。その途端に、シーリスの胸が切なさに締めつけられた。

 悲しそうな眼差しのままで、ナナシが力なく首を左右に振る。

「シーリス、忘れるんだ。いつまでも報われないものを胸にしまっておくのは、そなたが辛いだけだ」

「ナナシ様……私は……僕は……」

 何かを紡ぎ出そうとするシーリスを封じるように、ナナシはまた力なく首を左右に振った。そんな彼に、シーリスは切なげな眼差しで唇を引き結んだ。

「……すまぬ」

 ナナシの小さな呟きに、シーリスは努めて柔らかな表情を作る。

「いいえ。ナナシ様が謝ることではありません。私の方こそ申し訳ありませんでした。――全ては貴方様の望まれるままに」

 そう言って、彼はふわりと優しく微笑んでみせた。だが、その笑みに微かな寂しさが付き纏っている。彼の心の中は、ナナシへの切なさが溢れ返っていた。

 どうしようもないことなのだと理解していても、一度自覚してしまえば簡単に消せるはずがない。それはシーリスに限らず、ナナシもまた同じである。

「……シーリス。……これが最後だ」

 ナナシは静かにそう言って、水に濡れたままのシーリスの顔を上向かせた。そして、そっと彼の唇に自分の唇を落としてゆく。

 静かな口づけ合いだ。それぞれの抱いている想いが、この時だけは重なり合えたような感覚が二人を満たす。

 これが終われば、心の距離を必要以上に置かなければならない。それを寂しく思いながら、彼らは触れ合った時と同じようにそっと唇を離していく。

「……有難う、ございます」

 瞑っていた目蓋を開きながら、シーリスは切なさに唇を震わせながら囁いた。そんな彼に、ナナシがふっと笑う。

「それは、我が言う科白だ」

 そう言ったナナシに、困ったような笑みでシーリスは首を左右に振った。だが、何かを口にすることはなかった。

 ナナシが僅かに息を乱しながら立ち上がる。

「シーリス。今宵は、我ひとりで大丈夫だ。そなたは、部屋に戻るがいい」

「分かりました。眠れない場合は、私たちをお呼び下さい。……ナナシ様、おやすみなさい。どうかいい夢を」

 優しい声音でそう言って、シーリスは深々と頭を下げていった。

「……すまぬ」

 悲しみに満ちた声音だ。それだけを言い置いて、ナナシはその場から踵を返してゆく。

 シーリスは、彼を見送ることはしなかった。頭を下げたままで、そこから微動だにしない。ナナシが広間を去っても、彼はそこから動くことが出来なかった。

 ふいに、床についていた手の平が拳に握り締められる。それはまるで、何かに耐えるかのような仕種だった。


 それから数時間の時が経っている。それでも、シーリスは神殿の要とされる広間に座り込んでいた。背筋を真っ直ぐに伸ばして正座し、ナナシの残して行った筒状の透明な蒼水を見詰めている。

 よくよく見れば、筒状のそれは柱のようだ。まるで神殿を支えるかのように、その柱はナナシが去っても掻き消えることはなかった。

「シーリス?」

 ふいに呼び声が聞こえ、シーリスはゆっくりと後ろを振り返る。

 ウェイラだ。彼女の他に、この神殿に居る全ての女たちが広間に姿を見せていた。

「……皆さん揃って、どうしたんですか?」

「貴方こそ、どうしたのよ? ナナシ様と一緒じゃなかったの?」

 問いを投げかけたつもりが、ウェイラに訊き返されてシーリスは微苦笑を浮かべる。

「振られてしまいました。……今晩は、ひとりで大丈夫だと行ってしまいました」

「珍しいわね。ここのところ、ずっと一緒に居たのに」

 そう言いながら、ウェイラは彼の横に正座をして蒼水の柱を見上げた。そんな彼女に、シーリスはまた微苦笑を浮かべる。

「……ナナシ様は、僕に気を遣ってくれたんですよ」

 そう会話を交わす彼らを余所に、他の女たちが魔法陣を囲むように各々の位置に正座し始めていた。

「それで落ち込んでいるんだ?」

「そう、見えますか?」

「充分に見えるわよ。あの方と貴方の間に何があったかは知らないけど、貴方はそれでいいと思っているの?」

「それは……」

「きっと、ナナシ様は今も眠れないでいると思うよ? 無理にでも傍に居た方がいいわ」

「……僕にその資格はありません」

 そう言いながら、シーリスは透明な蒼水の柱を見上げる。

(傍に居ると、あの方の望まないことを無理にでもしてしまいそうだ。……僕はきっと、あの方を壊してしまう)

 それは確信に近い思いだ。

「シーリス。私が前に言いかけた言葉を覚えてる?」

 ウェイラから唐突に話題を変えられ、シーリスは彼女に視線を移した。

「貴方ならきっと、全てを変えてくれると言いたかったの。貴方をきっかけに、ナナシ様も私たちも変われるのだと」

「……僕にそんな力はありません」

(ナナシ様さえ救えない僕に、誰かを変える力なんてない)

「そんなことないわよ? 貴方の言葉が、私やみんなを変えてくれた。この数ヶ月で、ナナシ様も少しだけ変われたように見えた。その証拠に、あの方の表情が前よりも穏やかになったわ」

「…………」

「この神殿に居るみんなはね、自分のことで精一杯だったの。生贄として与えられた永い時をどう生きようか、それだけを考えながら日々を過ごしてきたわ。村のみんなの為に自分の身を投げ打って、それで誰もが幸せになれると信じてた。――でも、違ったのよね」

 ふいに、ウェイラが寂しそうに微笑んだ。自嘲とも取れる、小さな笑みである。

「大切な人を悲しませて、自分を犠牲にして成り立つ幸せは、本当の幸せとは言えないよね。……私たちがここで変わらなければ、また同じような目に遭う人が出る。この永い時と同じように何度も続いてしまう」

「ウェイラさんたちがここへ来たのは……」

「ええ、そうよ。思いたったが吉日って言うじゃない。私たちの力で、全てを絶ち切る為にここへ来たの」

 そう言って、彼女はまたあの清々しい笑みを浮かべた。何処までも力強い笑みだ。ウェイラ以外の女たちも、同じような笑みを湛えている。

「ここが神殿の要と言われるのは、全ての力がここへ集まり、海の全てへ行渡る場所だからよ。私たちの力を全て注げば、生贄が居なくたってずっと海が安定すると思うのよ。試す価値はあると思って、ね?」

「ウェイラさん。それはやっぱり、貴女たちが犠牲になると言うことでは……?」

 シーリスの冷静な判断に、ウェイラを始めとする女たちが一斉に微苦笑を浮かべた。だが、彼女たちの眼差しはそれでいいのだとそう言っている。

「これは、私たちが自分で選んだ選択だもの。悔いはないわ。あるとすれば、ナナシ様のことかしら?」

 ウェイラが意志の強い瞳で、シーリスをじっと見詰めた。

「シーリス、ナナシ様のことは頼んだわよ。貴方ならきっと、ナナシ様を救える。私たちを変えてくれた貴方なら、あの方の心を救ってくれると信じているわ。これは私たちの身勝手な願いだけど、ナナシ様にも幸せになって欲しいもの」

「ウェイラさん……」

「さあ、もう行きなさい。私たちは大丈夫だから」

 そう言って明るい笑みを見せると、彼女は前方にある蒼水の柱を見据えていく。その横顔は誰よりも凛々しい。

 ウェイラの横顔を見詰めて、シーリスは言葉もなく首を左右に振ってみせた。

「シーリス。お願いよ、私たちがやろうとしていることを無駄にしないで」

 彼女はそれだけを告げて、静かに目蓋を閉じてゆく。すると、その身体が淡い光を放ち、柔らかな長い髪は風もないのにそよぎ始めた。

 シーリスがすっと立ち上がる。彼女たちから背を向けて、彼は急いでその場を駆け出していった。

(ナナシ様にこのことを知らせなければ)

 その思いが彼を走らせる。

(ウェイラさん、貴女たちが犠牲になる必要はないです。貴女たちが犠牲にならずに済む方法が、他にもきっと)

 神殿の広間を飛び出し長い廊下を駆け抜け、シーリスはナナシの居る部屋を目指した。

 暫くすると、広間と同じような仕様の扉が彼の目に入る。そこがナナシの部屋だ。

「ナナシ様!」

 部屋の扉へ辿り着く前から、シーリスは彼の名を呼ぶ。

「神殿の要へ急いで下さい! ウェイラさんたちが」

 さらにそう叫べば、ナナシが部屋から飛び出してくる。シーリスに無言でひとつ頷くと、彼は部屋の前から駆け出した。その後を、シーリスも追い駆けて行く。

 元来た経路を疾走し、シーリスはナナシと共に広間へ飛び込んでいった。

 神殿の要とされる広間は、魔法陣や彼女たちから放たれる蒼白い光に包まれていた。広間全体を優しい光に満たしながら、彼女たちは祈るように手を組んで微動だにしない。その身体が微かに透き通っているように見える。

「――遅かったか」

 数歩ほど前に立つナナシの呟きが、シーリスの耳に届いた。

(……僕の所為だ……)

 これまでの自分の言動を悔いながら、シーリスは彼女たちを見守るしかない。ナナシになす術がないのなら、彼に出来ることは何一つ残っていないのだ。

 彼らの見詰める先で、ウェイラたちがふいにその場から立ち上がる。そしてシーリスとナナシを振り返り、静々と頭を垂れていった。

「ナナシ様……共に在り続けられないことを、どうかお許し下さい。私たちは永久に続く全ての悲しみを絶ち切ることを望み、勝手ながらにこの方法を取らせて頂きました」

 ウェイラの科白に、ナナシは悲しみに満ちた眼差しを見せる。

「ウェイラ、そして皆の者。その方法が如何なるものか……充分に理解しているか?」

 ナナシがそう問えば、彼女たちはふんわりと優しく微笑んだ。

「はい。例えこの身が滅び、魂がこの広大な海に融け込んでしまおうと、後悔の念は一切ありません。これを機に、生贄の現れない世界が訪れるのなら、私たちにとって何よりの救いとなります」

 優しい表情を湛えながらそう答えて、ウェイラはナナシからシーリスへ視線を移した。

「シーリス、自分を責めないでね。最善の方法は、これしかないのよ。例え何かの拍子に地上へ戻れたとしても、あそこに私たちの居場所はもうないわ。帰れない。……貴方にこの意味が解る?」

 彼女に話を振られ、彼は考えるように少しの間を置いてから頷くことで答える。

 ウェイラの言葉に隠されたものは、生贄ならではの様々な危惧があった。例え地上へ戻ることになったとしても、彼女たちを待ち受けているのは冷たく凍えるような現実である。

 彼女たちの地上での記憶は、生贄となった当時のままだ。その容姿もまた当時のままに在り続け、老いることを知らない。そんな彼女たちが地上へ戻れば、村人たちがどんな目を向けてくるのか目に見えていた。例えそう見られなくとも、彼女たちから見た地上は当時のものと全く異なっている。年老いた或いは先立った大切な者たちを前にして、彼女たちが平常心で居られるはずもない。神殿で過したような、悲しみや寂しさに暮れる日々が必然と横たわっている。

 ウェイラがまた、ナナシの方へ視線を戻していった。

「ナナシ様。私たちは決して、貴方様を怨んではおりません。どうか、これまでのご自分を責めないで下さい。――どうか、貴方様の幸せをお望み下さい」

 ナナシにそう告げながら、彼女の目から幾筋もの涙が流れてゆく。それは頬を伝い、ぽたりと広間の床へ落ちていった。涙の雫は床に染み込まず弾かれ、粒状の雫を幾つも作り上げる。

 粒状の雫が宙を浮き上がった。彼女たちが涙を流すたびにそれは幾つも浮遊し、蒼白い光を反射して宝石のように煌いている。

「皆の者……」

「皆さん……」

 ナナシとシーリスが声を震わせながら、彼女たちへ向かって呼びかけた。

 すると、彼女たちは涙を拭いもせず泣き笑いを浮かべる。そんな彼女たちの身体が、次第に透明さを増していった。やがてそれは、足元から水泡のような姿へと変わり、蒼水の柱の中へ流れていってしまう。

 蒼水の柱が微弱な光を放ち始めた。彼女たちだった水泡が全て流れ込めば、今度は眩いまでの強い光を放っていく。

 あまりの眩しさに、シーリスは眼前へ手を翳して光を遮った。一方、ナナシは光を遮ることはせず、その行く末を見守っている。

 蒼水の柱から放たれた光が、神殿のありとあらゆる場所へ駆け抜けていった。だが、それに止まらず、神殿を中心に広大な海へ広がり疾走してゆく。一瞬の内に海が光に満ちた。それはすぐに掻き消えてしまい、またいつもの海へと戻ってゆく。

 神殿の広間に浮遊する粒状の雫が、光が止むと共に床へ雨のように降り注いだ。そして、広間は何事もなかったかのように静まり返っていく。蒼水の柱は、始めも終わりもそこに存在を主張していた。

「……逝ってしまったか」

 ナナシの小さな呟きが聞こえ、シーリスは彼の背中を切なげに見詰める。広く逞しい背中だ。しかし、その背中の力強さはなりを潜め、儚さと寂寥感を漂わせていた。

(ナナシ様……)

 シーリスは、彼を背中から抱き締めたい想いに駆られる。だが、そんな自分の感情を手の平を拳に握り締めることで押し殺してゆく。

 触れてはならないのだ。ナナシの存在を消してしまうこともあるが、彼女たちと過した日々へ想いを馳せている彼を邪魔してはならない。永い時の中で彼女たちが彼を家族と思うように、彼もまた彼女たちを家族と思っていたのだろう。その背中が、泣いているように見えた。

 ナナシを抱き締めることも慰めることも出来ず、シーリスは無力な自分に耐え兼ねて彼から踵を返していく。だが、自分の部屋へ戻ることはしない。広間の出入り口の廊下で、彼は静かにナナシを待つことにした。

 廊下の壁際へ佇んで、シーリスは神殿の天井を見上げる。

(……ウェイラさん、皆さん。僕は貴女たちの最期の願いを、叶えることが出来るのでしょうか? 今の僕に、貴女たちのような思いは抱けません。ナナシ様の本当の望みを知っているから)

 そこまでを思って、彼は辛そうに目蓋を閉ざしていった。目頭がじんわりと熱くなってゆく。


「――シーリス」

 それから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。ナナシの呼び声に、シーリスは視線を広間の水の扉へ向けた。

「……もう、良いのですか?」

 気遣わしげな声音の彼に、ナナシは微苦笑を浮かべながら頷いていく。

「気を遣わせたようだな。我は部屋へ戻るが、そなたも部屋へ戻り休め」

 それだけを言うと、彼はそこから踵を返して歩き出す。

「ナナシ様」

 シーリスは咄嗟にその名を呼び、彼の纏っている白い布を軽く掴んだ。ナナシは振り返らない。だが、シーリスの話を聞くようにその場に立ち止まっている。

「……おやすみなさい。どうか、貴方様に安らかな眠りが訪れることを」

 祈るようにその言葉を口にして、シーリスは掴んでいた白い布へそっと口付けを落とす。

「――おやすみ」

 シーリスに背中越しで告げて、ナナシはその場に止まらせていた足を一歩踏み出してゆく。すると、シーリスの手にしていた白い布は滑り落ちるように離れていってしまう。

 シーリスは屈んでいた身体を戻し、彼の背中が見えなくなるまで見送った。そして、シーリスはそこから踵を返していく。

 二人きりの神殿は、驚くほどの静寂に満ちている。廊下に響き渡るものは、ゆっくりと歩き進む彼の足音しかない。まるで、何も存在し得ない世界を歩いているようだ。

 神殿の廊下を歩きながら、シーリスは左右に並ぶ白い薄布のカーテンがかけられた部屋を眺めた。主を失った空間たちは、明かりが灯されずに暗闇だけを漂わせる。

 ふいに寂しさが込み上げて、シーリスは視線を足元へ落とした。次第に歩調は遅くなり、やがてその足は止まってしまう。

(ナナシ様は、こんな状況で眠れるのだろうか? やっぱり、付いていた方が)

 そう思うが、今の彼はナナシの許へ行くことが出来ない。ウェイラに伝えた言葉の数々が、このような事態を招いてしまった。結果的に、彼がナナシから彼女たちを奪ったようなものだ。その申し訳なさから、彼はナナシの安眠を祈るしかなかった。

 シーリスは心の中で、ナナシやウェイラたちに謝罪の言葉を何度も呟く。だが、そうしたところで、彼女たちが消えてしまった事実は拭いようもない。

(……明日、ナナシ様に話してみよう。それで、ナナシ様がどんな感情を向けてきても黙って受け入れよう)

 明日のことを考え、シーリスは俯かせていた顔を上げた。様々な事柄へ立ち向かうように、彼は再び自分の部屋を目指して歩き出す。

 部屋へ辿り着く直前に、シーリスはウェイラの部屋の前で足を止める。その部屋も他のものと同じように、暗闇がひっそりと住み着いていた。暫くの間をぼんやりと眺め、彼は漸く自分の部屋へ足を向ける。

 自分の部屋に戻ったからと言って、すぐに睡眠がやって来るものではない。ベッドへ寝転がり目を閉じたところで、脳は未だ活発に活動している。神殿でのこれまでの日々が、走馬灯のように甦ってきた。彼女たちとの過してきた日々だ。共に過した時間は決して長くはないが、彼女たちはシーリスに様々な表情を見せてきた。彼は彼女たちを決して忘れまいと思った。それが今、唯一彼が彼女たちにしてやれることだ。

『例えこの身が滅び、魂がこの広大な海に融け込んでしまおうと――』

 ふと、ウェイラがナナシに告げた言葉が頭を過ぎった。それはやはり、生まれ変わることは叶わないと言うことなのだろうか。

 翌日――とは言え、神殿での時間の流れは定かではない。そんな彼らにとって、眠りから目を覚ました時点で明日の日付となる。

 浅い眠りから目覚めたシーリスは大浴場で顔を洗い、入浴を済ませてからナナシの部屋へと向かった。

「ナナシ様、おはようございます。……起きていますか?」

 水の流れる扉を前にして、彼は部屋の中に居るはずの主へと呼び掛けた。すると、水の扉の魔方陣が一瞬だけ強い光を放ち、水を途絶えさせ彼を室内へ招き入れる。

 その中へ歩み進めれば、濡れた髪姿のナナシが貝殻の形をしたベッドの端に腰掛け待っていた。

「我に何か用か?」

「はい。貴方様と話がしたいと思い……私の話を聞いては貰えませんか?」

 「構わんが」と、ナナシの言葉は曖昧で短い。しかし、彼の示す行動は言葉よりも確かであった。

 自分の隣へ座るように促してくるナナシに、シーリスは微かな躊躇いを見せる。彼がナナシのベッドへその身を置くのは、生贄となった初日の時以来だ。これまでに毎晩の如くナナシの許へ通っていたが、彼はいつも冷たい床へ身を落ち着かせていた。ナナシへの想いを自覚した今、そこへ行くには多大な勇気を要する。例え強固なまでの理性が働こうが、ふとした拍子に触れてしまいそうで恐いのだ。

 そんなシーリスを眺めて、ナナシは微苦笑を口許に湛えた。

「シーリス、案ずるな」

 彼にそう言われ、シーリスは逡巡の末、意を決したように彼の許へ近付いて行く。そして、ナナシとの距離を人ひとり分ほど空けて、ベッドの端へ静かに腰を下ろしていった。

 沈黙が二人を包む。だが、それはすぐにシーリスによって破られる。

「――昨夜は眠れましたか?」

 ナナシの横顔を見詰めながら、彼は昨晩から気に掛けていたことを問い掛けた。

 そんな彼を見返して、ナナシが小さく笑う。

「不思議なことに、少し寝ることが出来た」

「そうですか……」

 その言葉に相槌を打ちながら、シーリスは彼の優しさに胸を締め付けた。その言葉は嘘だ。それが何となく、彼には判ってしまった。

「そなたは、寝られたか?」

 ナナシの問いに、彼は平静を装い頷いてみせる。それは本当のことだ。例え彼女たちに対する悲しみや後悔が付き纏おうと、人間としての欲求が勝り眠りへと落ちていた。

「ナナシ様。ウェイラさんたちのことで、話して置きたいことがあります」

 早速本題を切り出したシーリスに、ナナシは「何だ?」と先を促していく。

 シーリスはウェイラたちと交わした会話の必要となるものを、事細かに語っていった。その会話が下で、彼女たちをあのような行動へ走らせたことを包み隠さず有りのままに伝えてゆく。そこに弁解を含めることはしない。

 彼の話に耳を傾けるナナシの表情が、変化を見せることはなかった。そこに怒りや恨みはなく、ただ淡々としている。それは何百年もの永い時の中で、誰かが去って逝くのを幾度も見て来たからに他ならない。

 シーリスが口を閉ざせば、一拍の間を置いてナナシが口を開く。

「……そうか。シーリス、そなたが気に病むことはない。あの者たちもそう言っていたであろう。我もそなたを責める気はない。そこに善悪はないのだ。そなたの後押しがなくとも、何れはそうなっていたかも知れん」

 そう言いながら、ナナシはシーリスから視線を外して遠くを見詰める。

「あの者たちが他の者とは違い、何かを仕出かすことは判っていた。だが、我はあの者たちの意志を押し止めることは出来ん。あの者たちを追い込んでしまったのは、他ならない我なのだ。我があの者たちにしてやれることは、その行く末を見守るだけだ。それが、あのような事態を招いてしまった」

 「己の身を挺してまで、未来を願い他人を思いやったあの者たちは強いな」と、ナナシは静かに笑った。寂しさと悲しみが混ざり合った、何とも言い難い笑みだ。

 シーリスは何も言わない。ただ、彼の横顔を労りの込められた瞳で見詰めてゆく。

「奪う側の我にまで、幸福を願うとは……」

「それは、ナナシ様が好きだからですよ。ウェイラさんたちは、貴方様のことを家族のようだと言っていました。貴方様も、そう思っているのではありませんか?」

 昨晩のナナシの背中を思い浮かべ、シーリスは同意を求めるように問いを投げ掛けた。その問いに、ナナシがはっきりと頷いている。

 沈黙がまた、二人の間に降り立つ。

 ナナシが考え事に耽ってしまった。彼が何を考えているのかは、シーリスにも見当が付かない。だが、その眼差しに決意の色が帯びて行ったことで、彼はあることを予感する。

 シーリスは堪らず、ナナシの横顔からそっと視線を外して顔を俯かせた。

「シーリス」

「はい……何でしょうか?」

 ナナシの呼び掛けに、シーリスは硬い声音で答えた。顔を上げることも出来ず、手の平を拳に握り込みながら彼の次の言葉を待つ。

「我は、あの者たちの魂を救ってやりたい。これを機に、我から全ての者たちを解放してやりたいと考えていた」

 何処までも落ち着いた口調だ。その落ち着き振りが、シーリスの心を苦しめる。ナナシの言葉に震える心をひた隠して、シーリスは顔を上げて彼を真っ直ぐに見詰める。

「どのようになさるおつもりですか?」

 しっかりとした声でそう訊いているが、彼の心は違うことを幾度も切願していた。

「昨晩、ウェイラたちが何をしたのか。そなたはもう知っているな?」

「はい。海を安定させることが出来ると聞きました」

 シーリスの答えに、ナナシが「そうだ」と相槌を打つ。そして、ゆっくりと語り出した。

 昨晩にウェイラたちが施したのは、自らの魂とナナシから与えられた力を海に捧げ融け込ませることで海を安定させるものだ。それにより、彼女たちが切望していた生贄の存在しない世界が現実のものとなった。

 海が安定したことによって、最早海の守護神は必要とされなくなった。彼女たちが、ナナシの役割を引き受けたのだ。だが、彼のように神となったのではない。彼女たちは、人間の身で在り続けることを選んだ。その為、彼女たちの魂は転生も叶わず、海を永久に眠り続けることになる。

「ウェイラたちの魂を解放するには、全ての発端となる我の手で終わらせなくてはならん。我の神としての能力も命も全て、この海へ返還させる」

 そう言って、ナナシがシーリスを見詰めた。

「それには、そなたの力が必要だ」

 彼の言葉に、シーリスが弱々しく首を左右に振ってみせる。だが、ナナシに何かを言うことは叶わない。ナナシの望みは、その一点にあるのだ。

「……シーリス」

 その呼び掛けと共に、シーリスの細い身体はナナシの逞しい両腕に包まれる。驚きに目を見開く彼だが、ナナシの身体が徐々に熱を帯びてゆくのを感じ、慌ててその引き締まった胸を押し返していく。だが、その身体はびくともしなかった。

「ナナシ様、私に触れてはいけません。お願いですから、どうか離れて下さい」

 シーリスは静かにそう訴えるが、ナナシはそれに構わず、抱き締める腕に更なる力を込めてゆく。彼から吐き出される息は、微かに熱っぽく喘ぎを見せている。

「すまぬ。そなたの気持ちを知っていながら、我はそなたに酷いことを言っている」

 「すまぬ、シーリス」と、ナナシは僅かに息を喘がせながら小さな声音で呟く。

「我を許せとは言わん。だが、全てのものに償える術は、最早これしか叶わないのだ。――人はやはり、神にはなりきれん」

 「すまぬ」と尚も謝り続ける彼の身体を、シーリスは躊躇いがちに、だが優しく労わるように抱き締め返した。それとは裏腹に、彼の表情は辛そうに歪められる。

「……謝らないで……下さい」

(どうか謝らないで下さい、ナナシ様。僕が……貴方様を許さない訳がないでしょう? 僕の感情ひとつで、貴方様を苦しめたくありません)

 心の中で思うことを口にはせず、彼は目蓋を閉じて静かにナナシの微熱に犯された身体を感じ続けた。

「私の力が必要なら、全てナナシ様に捧げます。ただ、これだけは覚えていて下さい。私はずっと、貴方様と共に在ると……」

「それは我が言う言葉だ。……そなたと我の契約は途絶えることはない」

 これから待ち受ける別れを前に、二人は気休めのような言葉を語りかけ合う。その言葉は真実でありたいと、彼らは心の底から願わずにはいられなかった。

「……お身体は大丈夫ですか? 私に触れ続けてしまうと、貴方様は」

「構わん。気にするな、シーリス。今日はこのまま我の傍に居ろ」

「ですが」

 尚も食い下がるシーリスに、ナナシがふっと小さな笑みを浮かべる。

「そなたは心配性だな」

「いいえ、そうではありません。例えナナシ様が大丈夫だとしても、ナナシ様とこんなに密着してしまうと、私の方が……構わなくなります」

 シーリスの遠慮がちな小声に、ナナシは目を丸くして彼から腕を離した。それは、シーリスと目を合わせて話す為の行動だ。その行動に合わせて、シーリスも腕を離してゆく。

 そして、二人は向かい合って見詰め合う。

「そなたは、我と契りを結びたいのか?」

 ナナシから単刀直入に問われ、シーリスは恥ずかしさから視線を逸らしてしまう。

「……そう思うほどに、ナナシ様が好きなのです。私も男ですので、貴方様に申し訳ないと思いながらも、抱きたいと言う感情を拭い去ることが出来ません」

「――そうか。……我はそなたのような感情を、この身になると共に遠い昔へ置いてきてしまった。本来なら、そなたを好きになると言う感情もなかったのだ。だが、そなたと出会ったことで、我は人間に近くなっていた。それ故に、この神殿は我に呼応し、揺れを酷くさせていたのだ」

 彼の淡々とした語りに、シーリスは逸らしていた視線を戻してゆく。そして、ナナシの優しげな眼差しと出会い、彼は瞳を大きく揺らした。

「シーリス。今なら、そなたの感情が我にも理解出来る。――我が男にも拘らず、それほどまでに好いて貰い嬉しく思う」

「ナナシ様……」

「この永い時を様々な人間と出会い別れ、最期の時にそなたと共に在って、我は幸福だ」

 ナナシの言葉に、シーリスはその目から大粒の涙を溢れさせた。嬉しいような哀しいような感情が混ざり合い、それを押し殺すことも出来ず涙は止めどなく頬を伝い落ちてゆく。

「そう泣くな。今の我がしてやれることは、そなたの感情を受け止めることしか出来ん。……真は別の方法にあったが、我はそなたに包まれながら眠るとしよう」

「はい、貴方様が眠るまで大切にします」

 シーリスはその言葉と共に、ナナシの身体をベッドへそっと優しく押し倒していった。

 シーリスが涙を流しながら、自分の両腕の間にあるナナシの顔を見下ろす。止まない涙は、煌く滴となって彼の頬へと落ちてゆく。

 そんなシーリスに、ナナシが困ったような表情をした。そして、ゆっくりと腕を上げ、武骨な指で彼の涙を拭う。

「仕方のない奴だ。我に触れたいのならば、泣き止まんか」

 彼の言葉に従い、シーリスは自分の目元を手の甲で拭った。

「ナナシ様……」

 シーリスは再びナナシの顔を見下ろし、そう囁きながら女性的な造形の美しい顔を近づかせていく。それを待ち受けるかのように、ナナシが目蓋を閉じていった。

 二人の唇がゆっくりと合わさる。始めは触れ合わせるだけの口付けだったが、それは次第に深さを増して接吻へと至る。互いに角度を変える唇と唇の隙間から、絡まり合う赤い舌が見え隠れしていた。

 暫くして、シーリスは唇を離して、ナナシを気遣わしげに見詰める。

「……大丈夫ですか?」

 そう訊いてしまうのは、シーリスが触れれば触れるほど、ナナシの身体が熱を帯びていくからだ。

「遠慮は無用だ。そなたの好きにするがいい。我はそれを受け入れるだけだ」

「分かりました。……あの、実は男性とこう言ったことは初めなので、手間取ってしまうかも知れません。どうかお許し下さい」

「それを言うなら、我も初めてだ。こう言った意味で人間に触れ、触れられることも久しい。我も努力しよう」

 その言葉を聞いて勇気づけられたのか、シーリスは再び動き始める。その行動はナナシの上から身体を退け、ベッドの中央へ移動するものだった。

「ナナシ様、ここでは貴方様が落ちてしまうかも知れません。どうぞ、こちらへ」

 シーリスがその行動を取ったのは、適切である。何しろ、先程まで彼らが居た場所はベッドの端辺りだったのだ。あのままでは、ふとした拍子にベッドから転げ落ちるかも知れない。言葉で示さず横抱きに抱え上げるなどの行動に出ればいいのだが、生憎と彼らの体格差は歴然でシーリスの力では及べなかった。

 そこで微かな甘い雰囲気が途切れてしまう。

 ベッドの中央で正座をして待っている彼に、ナナシはおかしさからふっと小さく笑った。

「そなたは、真におかしな男だ」

(肉親の為に我の生贄となり、生贄となったにも関わらず我を好いてくれる。――全てのものへの償いとは言え、やはり我はそなたにすまないことをしているな)

 ナナシは目蓋を伏せ、思考に耽っていく。だが、それはシーリスによって遮られた。

 彼が我に返って顔を上げれば、いつの間に移動していたのかシーリスが目の前に座っている。その手はナナシへと伸ばされ、切なげな眼差しで彼の目元を優しく拭っている。

「……私が傍について居ますから、泣かないで下さい。何処に居ても、貴方様はひとりではありません」

 その行動で自分が涙を流しているのだと知り、ナナシは堪らず苦笑いを浮かべた。ナナシにとって、涙を流すことも数百年と久しい。シーリスと出会ってから数ヶ月間体温どころか心までも彼は確かに人間に近くなっていた。

 シーリスの遠慮がちな細い手に引かれ、ナナシはベッドの中央へと向かってゆく。

 そこで再び、彼らは唇を重ね合う。シーリスの細い腕が全てを包み込むかのように、ナナシの背中へと回された。だが、口付けはまだ終わらない。そのままゆっくりとナナシと共に身体をベッドへ沈め、甘く感じてしまう深い接吻を味わう。

 その度に、ナナシの冷たい体温は徐々に上昇した。それに呼応し、彼の身に纏う薄い白布は水の玉となって宙へ上昇してゆく。もはやナナシの身体は一糸纏わぬ姿となっていた。

 それに合わせるように、シーリスは接吻を止めないままで器用に自分の衣服を脱ぎ捨てる。それほど着込んでいる訳ではないので、その行動は容易かった。彼の線の細い、滑らかな色白の身体が露になってゆく。

 暫くして、ナナシの上に四つん這いで覆い被さり接吻を続けていたシーリスの唇が動き出す。彼の唇がナナシの唇からその顎へと移り、首へゆっくりと滑り下りていく。喉仏を辿り鎖骨へ進もうとした途端に、ナナシの身体が僅かに跳ね上がって小さく反応を示した。

 シーリスが顔を上げて、ナナシの顔を窺い見る。彼は唇を一文字に引き結び、何処か緊張したような表情をしていた。その表情を見て、シーリスは彼が反応した部分を再び唇で触れてゆく。時には舌を使い、時には唇で強く吸い、その部分を丹念に攻めていく。

「……っ……シーリス」

 ナナシが眉間に皺を寄せながら、シーリスを呼ぶ。その呼び声に視線だけを向けるが、ナナシはそっぽを向いてしまっていた。その横顔の頬は微かに赤みを帯び、羞恥の色を濃くしている。口から漏れる熱い吐息は体温の上昇が原因でもあるが、それだけではないはずだ。緩やかな快感がナナシを襲っている。

 シーリスは彼の性感帯部分に唇を押し当てたままで、今度はその引き締まった身体へと片手を這わせていく。腹部から胸部へそっと触れるような優しい手つきに、ナナシは別の緩やかな快感を覚える。唇と這う手によって二つの快感が重なり、彼の吐息は徐々に上がってゆく。

「ナナシ様……」

 肌に触れたままでシーリスに名を呼ばれ、それと共に吐き出される息が殊更熱く、堪らずナナシの口から吐息交じりの小さな喘ぎが漏れた。羞恥心に押されて、彼は咄嗟に自分の手の甲で口許を塞ぐ。

 シーリスは上体を起こし、そっぽを向いたままのナナシを愛しげに見下ろした。口許を覆い隠す彼の手を退けて、その指に自分の指を絡め、ベッドへ縫いつけてゆく。

「……貴方様だけではありません。私は、僕はナナシ様に触れるだけで……気持ちよく感じてしまいます」

 彼にそう甘く告げられ、ナナシは顔を真正面へ向かせた。すると、シーリスはナナシの唇に自分の唇を押し当て、彼の舌を絡め取りながら自分の口内へ持っていかせるとそれを甘噛みする。それに対して彼が口内へ舌を引っ込ませれば、再び彼の口内へ侵入し上の歯の裏側の部分へ舌先を幾度も擦りつけていく。

 舌のざらざらとした感触に始めこそ何も感じてはいなかったが、ナナシの中でそれは次第に快感へ直結し、彼の舌先が動くたびに身体が小さく反応を見せる。精神が快楽に従順になるにつれ、ナナシの行動が積極的になっていった。或いは、シーリスの言葉が彼を後押ししているのかも知れない。更なる快感を味わいたいかのように、空いた手をシーリスの後頭部に持って行き、唇をさらに深く合わせようと引き寄せていく。

「んっ……ん……」

 どちらのものともつかない、吐息のような声音が途切れ途切れに幾度も漏れている。その最中に、シーリスは空いた手で再びナナシの身体に触れてゆく。硬質な青み掛かった黒髪へ、整った精悍な顔へ、細くはない首へ、逞しい肩と腕へ、くっきりと浮かぶ鎖骨へ、厚めな胸元へと、ゆっくりと下へと下りていく。まるで、その手にナナシを形成する全ての輪郭を記憶していくような仕種だ。

 シーリスが順々に触れていく度に、その箇所は更なる熱が灯り広がってゆく。次第に身体から汗が滲み出て、彼の鼓動は今までにない高鳴りを見せていた。息も上がる一方だ。

 ふいに、シーリスはナナシから唇を離した。それ程強くは押さえられていない彼の腕から離れ、絡めた指も離し身体を彼の下半身へ後退させる。そして、ナナシの腰に触れ腿を辿り、足の指先まで手を這わせて行けば、最後に少し硬くなっている彼のものへ触れていく。

 その時、ナナシがその手を掴んだ。シーリスがナナシに視線を向けると、彼は複雑そうな表情で制止するように首を左右に振る。それは頑なな拒否と言うよりも、どうしたらいいのか判らないと言うようなものだ。自分のものを人に触らせるのは、ナナシの中で快楽を追うよりも羞恥の方が勝ったに違いない。

 シーリスは困ったような表情をするものの、ナナシの制止に従うことはなかった。

「シーリス……っ……」

 彼のナナシへの身も心も欲する想いは、その身体に触れれば触れるほど際限りなく深さを増していく。それは精神的にも肉体的にも表れていた。如何に容姿が女性的であろうと、彼の男であると象徴する部分は理性を撥ね退けてあからさまなほどにそれを強調している。

 シーリスの行動は強引ではあるが、ナナシに触れる手つきはやはり優しい。彼のものを傷つけないよう、だが性的な快感へ誘うように強弱をつけながら扱いていく。その度にナナシは反応を示しながら声を押し殺した喘ぎを上げ、絶頂を促すような刺激と熱に堪らず上半身を起こし彼の手から逃れてしまう。

 驚きを見せるシーリスに背を向け、ナナシは高まる欲望を落ち着かせつつ項垂れた。

「……すまぬ。あのままでは、そなたの手を汚してしまう」

 その科白に、シーリスは背後からナナシを包み込むように抱き締める。そして、彼の背に口付けを落としていった。

「ナナシ様に触れられることへの喜びに比べれば、そんな些細なことは気になりません」

(今はただ貴方様に僕だけを感じて欲しい)

 ナナシを抱き締めていたシーリスの腕が、ふいに彼のものへと滑り下りていく。再び与えられた刺激に思わず前屈みになり、ナナシは条件反射で上半身を支えるように両腕をベッドに突いた。

「そのままの体勢で、力を抜いて下さい」

 シーリスにそう言われ、ナナシが身体を安定させる為に四つん這いに近い体勢を取る。そんな彼の後ろで、シーリスは自分の唾液で指を濡らしていく。それが終わればナナシの引き締まった尻に手を這わせ、彼の後孔へ細長い指をゆっくりと慎重に突き入れていった。

 ナナシの身体が強張りを見せる。未知なる圧迫感に彼が微かな呻き声を上げれば、シーリスは安心させるようにその背に口付けを落としていく。だが、その合間にも彼の後孔を解す行為は続いていた。その丹念な指は一本から二本へ増やされ、彼がそれを受け入れられるようになれば三本目へと至る。それさえもナナシが許すようになれば、シーリスは解す指を彼の後孔からゆっくりと抜いてゆく。

「ナナシ様」

 シーリスは彼の名を囁きながら膝立ちになり、今度はその後孔へ男を強調するそれを突き入れた。全てを埋め込むように、ゆっくりと、ゆっくりと中へ腰を進めていく。ナナシと深く繋がりながら、痛みと圧迫感に震える身体を背後から覆い被さるように抱き締める。

「……大丈夫、ですか?」

 その背中に頬をすり寄せながらシーリスが問いを投げかければ、ナナシは声もなく小さく頷いてみせた。その振動がシーリスの所まで届き、彼はその体勢のままにゆっくりと静かに腰を動かし始める。

 激しさを抑えたそれは、まるで穏やかな海中の緩やかな波のようだ。だが、ナナシはその波に身も心も持っていかれるような感覚を覚えた。そして、やがて彼はシーリスと言う波に呑まれ息継ぎすることを忘れ、熱い吐息と共に吐き出される喘ぎは次第に大きくなり甘さを帯びてゆく。

 ナナシの汗ばむ全身に緊張が走る。それと共にシーリスのものはきつく締めつけられ次の瞬間彼らは共に絶頂の波へと飲み込まれた。

 絶頂の波に呑まれつつも、シーリスは辛うじて残っていた理性を強引に働かせ、即座にナナシの身体から身を引いて離れていく。それはナナシの中を汚したくはないと言う、彼なりの想いがあった。だが、その代わりに清潔なベッドは汚れてしまう。

 それは、ナナシも同じことだ。肩を喘がせつつ四つん這いに近い体勢のままで、呆然としながらベッドを汚していた。

 行為の余情を残しながら息を整え、シーリスはナナシの背中を見詰める。すると、その視線に気づいたのか、ナナシは上半身を起こして彼を振り返った。

 一瞬だけ目が合う。だが、それはすぐにナナシによって外される。途端に、シーリスの表情が切なげになった。

(ナナシ様……、怒っているのですか?)

 そう思うが、彼がナナシに許しを請う意思はない。彼にとってナナシとの行為は後ろめたさがないものだ。例え、神を穢した罪に罰を科せられたとしても、それはそれで受け止めるつもりでいる。

「……シーリス。そなたは我と契りを結んで、その胸に悔いはあるか?」

 彼に背を向けたままで、ナナシが静かな声音で問いを投げかけた。

「ありません」

 シーリスがしっかりとした声音で、全ての想いを伴わせながらきっぱりと答える。すると、ナナシはその場からすっと立ち上がり、彼へ身体ごとを振り向かせてゆく。

「……そうか。我もそなたと同じ想いだ。そなたと触れ合い、ひとりではないことを漸く感じられた」

 ナナシの言葉と嬉しそうな笑みに釘付けになりながら、シーリスもその場から静かに立ち上がった。

 ふいにナナシの姿が一瞬だけ水の波紋のように揺らめく。彼の最期の時は間近のようだ。

 シーリスは気を急きながら彼の許へ近づいていく。そして、消えないで欲しいと言う願いを胸に秘め、彼の肩口に顔を埋め自分よりも大きな身体をきつく、だが優しく抱き締める。その願いを言葉にすることは躊躇われた。

 彼の秘めた願いも知らず、ナナシはその身体を抱き締め返してゆく。肩口に感じる濡れた感触に、彼の胸に切なさが込み上げてきた。

「何だ。また泣いているのか」

 努めてそう意地悪げに話すのだが、それとは裏腹に彼の表情は今にも泣きそうである。

 その時、裸のままで抱擁を交わす彼らに、轟音を上げる大きくな揺れが襲った。ナナシの住処である神殿が揺れ動いているのだ。

 神殿の要となる広間では、床一面に広がる魔方陣とナナシの創った蒼水の柱が眩い光を放っている。その輝きは次第に強さを増して神殿の中を駆け巡る。だが、眩い光たちはそこに留まることはなかった。

 魔方陣の光は神殿を中心に広大な海の中を明るく照らしながら広がり、蒼水の柱の光は神殿を丸々包み込む蒼白い光の柱となって、天井を突き抜け空へ向かって縦に伸びていく。全てを照らし出す蒼白い光たちは、ウェイラたちの一件のようにすぐに止むことがない。

 夜の時刻となったばかりの地上では、雲を突き抜け天へと伸びてゆく神秘的な蒼白い光の柱に誰もが目を奪われただろう。そして、あまりの不思議な現象に誰もが目を疑うに違いない。

 夜空に浮かぶ月は、そんな光景と地上の民を静かに見守り続けていた。その月の遥か下、海の底の珊瑚礁の上で巨大な泡に包まれた白い神殿はまだ揺れ続けている。心なしか、神殿を包む泡が小さく縮んでいるようだ。

 揺れが酷くなる一方の神殿の中で、二人は互いを抱き合いながら身体を安定させていた。とは言え、ナナシがシーリスを支えているような形だ。そんな体勢で、シーリスは驚きに目を見開きながら光に包まれた室内を見回していた。もはや涙は乾いていた。

 シーリスの視線の先々で、神殿の内部が水の泡に姿を変え始めている。白い壁も貝殻ベッドの上蓋も、そして彼らの立つベッドも形をなくし泡となって海上へと浮き上がってゆく。足場を失ったにも関わらず、シーリスは下に落ちることはなかった。それはやはり、彼の傍に海の守護神であるナナシがいるからだろう。ナナシに護られながら、シーリスの周りで神殿となる形跡のものは全てなくなってしまった。

 そこに残されたものは、彼ら二人とシーリスの服と、蒼水の柱と魔方陣がなくなってさえ輝く蒼白い光と神殿を覆い包んでいた泡だ。その泡は、二人を覆い包む大きさへと縮んでいた。蒼白い光の中で泡に包まれながら、彼らは珊瑚礁の上で海の底を漂っている。

 シーリスはナナシから離れて、一面に広がる海の風景を見渡した。

「ナナシ様、これは一体……?」

「我の神としての力を、海へ返還しているのだ。これで海は無暗に荒ぶることもなく、我がいなくとも〝魔界域〟と呼ばれる時代は永久にやって来ないだろう。海と共に生きる、そなたらの平穏は約束された。そして、生贄の存在は今ここで消えよう」

 彼にそう説明し、ナナシは上で幾つも浮かぶ水の玉を見上げる。それは、ナナシが纏っていた薄い白布だったものだ。シーリスが上を見上げれば、水の玉はひとつに纏まりナナシの傍から離れて海に溶け込んでしまう。

 その直後だ。彼らの漂っている下の方から、淡く白い球体が無数に浮かび上がり海の中をふわりふわりと上昇していく。

 シーリスが、周りを通っていく淡く白い球体に目をやった。すると、ナナシは再び説明しようと口を開く。

「それは、この海で命を落とし海に彷徨う者たちの魂だ。ウェイラたちの魂もこの中にある。この光の柱が道標となり、皆の魂は天へと昇り、やがて再生の時を迎えるだろう」

「……貴方様は? ナナシ様は、みなさんと同じように新しい命となって、この世界に生を受けるのでしょうか?」

 ナナシを見上げながら問いかけてくるシーリスに、ナナシは微笑を浮かべて頷いた。

「元は我も人間だ。神に近い存在であってそうではない。それ故に、生贄の力を必要としていたのだ。今もまた、契約の証を通してそなたの力を借りている」

 ナナシが、ふいにシーリスの首元に手を伸ばしてゆく。そこに彼らが結んだ、契約の証の魔方陣がある。

「もう力を使うこともないだろう。我が消えると共にこれもまた消えるが、今の内にそなたを我から解放しよう」

 そう言ってその場所に触れ、ナナシはシーリスから契約の証を消そうとした。だが、シーリスは彼の腕を掴み離させることでそれを拒む。ナナシが小さく首を捻れば、彼は静かに首を左右に振ってみせた。

「これは消さないで下さい。貴方様が消えても……どうか、この証は遺しておいて下さい。いつか会えるその時の目印に、私は契約の証を遺しておきたいのです」

「……シーリス。そなたはその身に契約を宿しながら、我の再生を待つと言うのか? いつになるのかも判らんのだぞ」

 ナナシの問いに、シーリスの返答はない。その代わり、彼は愛しげな眼差しでナナシを見詰めるだけだ。

「貴方様は、私との契約は途絶えないのだと言って下さいました。ですが、私は目に見えるものも欲しいのです」

「そうか……。では、条件付きでそれを遺そう。そなたの心が我を忘れた時、契約の証は自然と消えてゆくだろう。――解ってくれ、我はそなたの枷になりたくはないのだ」

「……はい。例え私が天命を全うし、新しい命となってこの世に生を受けても、ナナシ様のことは決して忘れません」

 この時、シーリスが語ったことは嘘と真実が織り交ぜられていることを、ナナシは知らない。ナナシの最期の時が刻一刻と迫る最中で、彼の胸に秘めた願いは別のものへと変化を遂げていた。だから、別れを間近にしても、シーリスが涙を流すことはない。

(ナナシ様、僕の心はもう既に決まっています。ずっと貴方様と共に……)

 そう思うシーリスの前で、ナナシの身体が僅かに浮き上がる。

「……シーリス、時が来てしまったようだ」

 静かに語るナナシの身体が、足元から水の泡となり蒼白い光の中を上昇してゆく。

「そなたは、そこにあるものに着替えるがいい。我らを覆い包む泡が、そなたを村まで運ぶ役目を担ってくれる」

「ナナシ様……」

 そう名を呼びながら、シーリスがナナシの顔を見上げる。すると、ナナシが愛しげな眼差しで彼を見下ろした。

「そなたに、我の真の名を告げよう。我が人間であった頃の名は――カイゼルだ。いつかまた、そなたと出逢えることを願っている」

「カイ、ゼル様。……カイゼル様!」

 ナナシ――カイゼルの身体が腰元まで水の泡となった時、シーリスは彼の本当の名を叫びながらその場を跳び上がり、水の泡となっていない彼の手へ自分の手を伸ばしてゆく。

 カイゼルは咄嗟にシーリスの手を掴み、彼の行動に対して戸惑いを見せる。

「シーリス、何故……?」

「私も貴方様と共に逝きます。貴方様の生贄となった時点で、この命は貴方様と共にあるのです。ナナシ様……いいえ、カイゼル様が嫌だと言っても、私はついて逝きます」

 シーリスはそう言ってカイゼルと同じくらいに浮き上がり、愛しげな眼差しで彼の指に自分の指を絡めてしまう。彼の言動に、カイゼルが驚きに目を見開くのは言うまでもない。

「……そんな考えは止せ。何故、我にその想いをずっと黙っていた」

「言ってしまったら、貴方様は無理にでも私を生かして、勝手にひとりで逝ってしまうのでしょう? 本当は消えないで欲しいと願っていましたが、私に貴方様の意志を曲げることは出来ません。それなら、私の意思でついて逝こうと思いました」

「……そなたは、愚かだ」

 彼にそう返すことしか出来ないカイゼルの目に、シーリスの足元が同じように水の泡となってゆく光景が映る。それを見て、彼はさらに驚きに目を見開く。

(……何故だ? 例えその意思があろうと、消える運命さだめにないそなたが何故、我らのように消える)

 シーリスの不可解な現象に、カイゼルは思考を巡らす。シーリスと出会ってからのこれまでのことを思い返し分析し、とある答えへと至った。シーリスが男であるにも関わらず、カイゼルに力を与えられたのは――。

(そうか。そなたは我と同じ……いや、それ以上の神の素質が)

「カイゼル様」

 ナナシの思考は、シーリスの呼び声と唇に触れてくるもので途切れてしまう。

 シーリスとカイゼルは決して離れまいと互いの指を強く絡ませ、静かな口付けを交わしながら水の泡となって、光の中へ消えてゆく。そして、彼らの姿は広大な海から見えなくなり、二人を覆い包んでいた泡もシーリスの服と共に消えてしまった。

 彼らが消えても、まだ光たちは消えることはない。天へとゆっくりと向かう無数の魂たちを照らし、彼らの道標となって尚も光り続けている。そうして、全ての魂が天へと渡れば、光たちは徐々に力強さを失い、静かに夜空と海の中へととけ込んでいった。

 海に静寂が訪れ、海中に漂う生き物たちは何事もなかったかのように動き回る。緩やかに生き生きと、平穏を約束された世界を泳ぐ。


 広大な空と海を結ぶ地平線を背景にして、大きな石碑がぽつりと建てられている。

 石碑は海の方へ突き出たそれ程高くはない崖の上にあり、その周りでは多くの草花が広がっていた。花は綺麗に咲き乱れ、時折吹き抜ける潮風に攫われて宙を舞って流れてゆく。

 その場所に、やや長めの銀色の髪を靡かせながら、ひとりの青年が花束を抱えて向かって行く。二重に縁取られた赤の瞳を真っ直ぐ前に向け、色白の女性的な造形の顔に柔和な表情を湛えている。身体つきも線が細く、女性的と言えば女性的だが彼は列記とした男だ。彼の容姿は何処までも母親譲りである。

 石碑の前まで辿り着くと、彼はその場へ静かに両膝を突いた。手に持っていた花束を石碑の前に備え、祈るように両手を組んで目蓋を閉じていく。

 暫くして彼はゆっくりと目を開ける。その目に石碑に刻まれた苔交じりの文字が映った。

『生贄となった者たちよ、安らかに眠れ。そして、再生の時を願い再会の時を待ち望む』

 それは四十九年前に刻まれたものだ。海辺の村に住む村人たちが、生贄となった者たちへ向け様々な想いを込めて造ったものである。

 五十年前――、まだ二十歳の彼が生を受けていない頃の話だ。彼が母親から聞いた、石碑が建てられるまでの、彼女の兄と生贄の話である。

 昔、今は既にない村の掟で、彼女は海の守護神の生贄に選ばれてしまった。そんな彼女を、彼女の兄は彼女の幸せを願い身代わりとなって海へ旅立ってしまった。その後、彼女は別の村に嫁ぎはせず、恋仲にあった青年と共に村で兄を待つことにする。

 それから数ヵ月後の夜のことだ。唐突に海が光り輝き光の柱が空へと伸び、海中から無数の淡く光る球体が空へ昇っていく神秘的な現象が起きた。その翌年、村人たちは掟に従い生贄を捧げたが、生贄は消えることなく不思議な力に押し戻されてしまった。それにも関わらず、海が荒ぶることはなかった。だが、彼女の兄とそれまでに生贄となった者たちが戻ってくることはなかった。

 神秘的な現象の原因は未だに不明だが、それ以来、村人たちは悲しみを生む生贄の掟を廃止し、生贄となった者たちの分まで幸せに生きてきた。そして、全ては生贄となった者たちのおかげだと、村人たちは広大な海を見渡せるこの場所に碑石を建てたのだ。

「シーリス。やっぱり、ここに居たのね」

 石碑をじっと見詰めていた彼の元へ、その名を呼ぶ声が後ろから飛んできた。後ろを振り返れば、彼より幾分か年上の女が歩き寄ってくる。

 シーリスはその場から立ち上がり、身体ごとを彼女の方に振り向かせた。

「今日はウェイラさん。僕に何か用ですか」

「ええ、貴方のことを捜していたのよ。シーアリおばさんに、用事があるから戻って来るよう伝言を頼まれたの」

「母さんが?」

 そう言って首を傾げる彼に、ウェイラがゆっくりと頷く。

「夕方過ぎから、村のお祭りがあるでしょう? それを目当てに旅人がそろそろ大勢やって来る頃だから、人手が足りなくなっているんだと思うよ。貴方の家、宿屋だから」

「分かりました。ウェイラさん、わざわざ有り難うございます」

「これくらいいいのよ。――それより、その痣、いつ見ても不思議ね」

 その言葉と共に、彼女の視線がシーリスの首元へ移った。そこに、魔方陣のようなものが浮かび上がっている。

 ウェイラのまじまじと見詰める様に、シーリスは微苦笑を浮かべた。

「生まれた時からありましたから、僕は不思議とは思いませんよ。それに、この痣は恐い感じがしません」

 そう話しながら、シーリスは大切そうに首元の痣に触れてゆく。その眼差しが、何処か愛しげなように見える。

「シーリス、その痣に何かあるの?」

「いいえ。特に何もありませんが、どうしてですか?」

 不思議そうな表情をする彼に、ウェイラは首を左右に振った。そして、生き生きとした明るい笑みを見せる。

「それはそうよね。それじゃあ、私は舞の練習があるから先に行くよ。お祭りの時に舞を披露するから、良かったら見に来て頂戴ね」

「はい。頑張って下さい、ウェイラさん」

 彼女の笑みに誘われ、シーリスは笑みを零しながら声援を送った。その笑みと声援に見送られウェイラが彼の許から踵を返していく。

 ウェイラの背中を見送り、シーリスは再び石碑を振り向く。青い空と太陽、蒼い海と潮風、そして微かな波の音に包まれて、その場所はシーリスに不思議な懐かしさを与えながら今も昔も変わらずにある。彼は一頻りに眺めた後そこからゆっくりと踵を返していった。

 彼の村は生贄の掟が廃止された年から、年に一度だけ大きな祭りが行われるようになる。それは決まって、神凪の時に催された。祭りの目的は、これまでに生贄となった者たちの魂の再生と再会を願い、生贄を取らなくなった海の守護神に感謝と祈りを捧げると言うものだ。年月が幾度も過ぎ去り、祭りが村の名物となり見物客が多く来訪しようと、村人たちはその目的を一切見誤りはしない。それが何も出来なかった彼らにとっての、生贄となった者たちへの一種の償いである。

 石碑のある場所から海辺の村へ舞い戻ったシーリスは、その出入り口で年々と豊かになってゆく村の風景を見渡した。城下町や旅人が集う町に比べれば見劣りはするが、村全体に祭り用の手作りの飾りがつけられ華やかさを際立たせている。だが、ただ華やかと言う訳ではない。懐かしさや人の心を落ち着かせるような雰囲気も漂っていた。村の中へ歩き進みながら、今度は道行く人や祭りの準備に取りかかる村人、村中を駆け回る子供たちの表情を眺める。そこに悲しみを伴うものはなく、皆、純粋な笑顔を湛えていた。平穏な暮らしの証拠である。

 暫くして、シーリスは自分の家である宿屋へ辿り着いた。彼の両親は年老いても尚、現役として働き続けている。

「ただいま」

 宿屋の裏口から受付のカウンターの中に入って、シーリスは母親であるシーアリに自分の帰りを告げた。すると、丁度旅人の受付を終わらせた彼女が彼を振り返る。

「お帰り、シーリス。そろそろお客さんが多くなるから、受付の方を宜しくね」

「はい。暫くは僕ひとりで大丈夫だから、母さんも父さんと一緒に奥の方で休んだ方がいいよ。手が回らなくなった時は呼ぶから」

 シーリスの言葉に彼女は頷き、椅子から立ち上がるとゆっくりと奥の方へ向かって行く。そんな彼女の、年老いて少し丸まった背中を見送った。そして、シーリスは旅人を相手に宿屋の仕事のひとつをひとりでこなしていく。

 それ程大きくはない宿屋だ。祭りを目的にやって来た旅人が続々と訪れ、数時間もすれば宿泊室は満室となっていた。ここの他に、村には二軒ほど宿屋がある。宿泊料は少し高めだが、満室と聞けば旅人たちは他の大きな宿屋へ向かう。それを案内するのも、シーリスの仕事だ。

 祭りの開催時刻が目前となれば、客足はぴたりと途切れた。宿泊客も皆、祭りを見に出かけてしまっている。受付を閉める頃合いだと思い、シーリスは席を立とうとした。

 その時だ。扉が開かれると共に、来客を知らせるベルが涼やかに鳴る。

「いらっしゃいませ」

 挨拶と共に、シーリスはこちらに向かって来る客に視線を向けた。その瞬間、彼の鼓動が一際高く鳴り響く。視線は、その客に釘付けとなっていた。

 シーリスが凝視している客は、彼より七つほどは年上であろう青年だ。彼は長身の鍛えられた体躯に旅人が愛用するマントを纏い、精悍な整った顔立ちを不機嫌そうな表情にしてつかつかと大股で歩み寄ってくる。その不機嫌そうな面持ちの所為か、一重目蓋に縁取られた深い海色の双眸が心なしか鋭さを帯びていた。青年がシーリスの座るカウンターの前に立ち止まれば、青味掛かった黒色の短髪が僅かに揺れる。

(何処かで会った覚えが……)

 シーリスが彼に目を奪われながらそう思っていると、青年は訝しげな目で彼を見下ろす。

「この宿屋の部屋は、まだ空いているか?」

 彼が口にした科白は、特別でも何でもない。それにも関わらず、シーリスはその声音を耳にしただけで胸を高鳴らせた。

「おい、俺の話を聞いているか?」

 何の反応も寄越さない彼に、青年はさらに訝しんだ目を向ける。そんな彼に、シーリスははっと我に返った。

「あ……申し訳ありません。部屋は既に満室でして、宿屋他にも二軒ほどありますので、そちらの方をご利用下さい」

 シーリスが努めて事務的に説明をすれば青年は「そうか」と僅かに肩を落としてしまう。

「どうしたんですか?」

「ああ。ここへ来る前に他の宿を当たったんだが、既に満室だと断られて来た所だ。――仕方がない、野宿でもするか」

 そうひとりごちて青年は礼を述べると、シーリスから踵を返していく。遠退いてゆく広い背中を目にして、シーリスは何かに押されるようにその場を立ち上がった。

「あの!」

 唐突に上げられた大声に、青年が驚いたような表情で振り返る。驚いたのは何も彼だけではない。大声を上げた当人も、内心では驚き戸惑っていた。何故青年を呼び止めてしまったのか、シーリス自身にも判らない。だが、口は勝手に動いてしまう。

「ここは真夜中になると酷く冷えますので、野宿は控えた方がいいと思います。僕の部屋ならお貸し出来ますので、良ければ泊まって行って下さい」

「……そんなことをして、いいのか?」

「大丈夫です。折角村に来て下さったお客様を、危険な目に合わせたくありませんから」

「そうか。――すまないが、言葉に甘えさせて貰う。料金は前払いか?」

「はい。ですが、ちゃんとした宿泊室ではないので、料金の支払いは半額で構いません」

「いや、それは断る。ここの宿屋は、他の宿と違い只でさえ安い。無理に泊めさせて貰う身としては、全額の方が気楽だ」

「お心遣い有り難うございます。それでは」

(カイゼル様――)

 青年との会話の途中で、シーリスの脳裏に知らない人物の名が過ぎった。あまりにも唐突で、彼は思わず口を噤む。知らないようで遠い昔から知っているような不思議な感覚だ。何故だかシーリスにとって、とても大切で愛しい名のように思えた。

「……大丈夫か?」

「あ、はい。失礼しました。それでは、こちらにお名前をご記入下さい」

 始めは慌てたものの、シーリスは何事もなかったかのように宿泊手続きを進めていく。彼の指示に従い、青年は渡された紙に自分の名を綴り戻していった。その紙に目を通して、シーリスは微かに目を見開く。唐突に、脳裏を過ぎった名と同じである。

「カイゼル様、ですね」

 その名を読み上げながら、シーリスは顔を上げた。そして、青年に向かって無意識に愛しげな眼差しをする。

「僕は――シーリスと申します。短い間ですが、貴方のお世話をさせて頂きます。何かご用があれば、いつでもお呼び下さい」

「あ、ああ……宜しく頼む」

 シーリスのそんな眼差しを目にして、カイゼルは戸惑いを見せながら目を泳がせる。

「どうかなさいましたか?」

 自分の表情を知らずに彼が首を傾げれば、カイゼルは何でもないと首を左右に振った。そして、宿代の料金をカウンターに置く。

 それを受け取り、シーリスは代金をカウンターの中の小さな金庫へとしまう。それの金庫に鍵をかけると、彼は受付場所から離れてカウンター横の扉を開けていった。

「僕の部屋はカウンターの奥の方にありますので、どうぞこちらからお通り下さい」

「分かった。すまないが、案内を頼む」

「ええ、勿論ですよ」

 青年に柔らかく笑いかけて、シーリスは彼が中に入ってきたのを確認するとカウンター横の扉に鍵をかける。次いで、彼の先を歩き自分の部屋へと案内してゆく。その途中で、シーリスはある一室に顔を覗かせた。そこは彼の両親が休憩を取っている場所だ。

「母さん、父さん。お客さんをひとり、僕の部屋に泊めることになったから、明日の朝食はひとり分多くなるよ」

「はいよ。後のことは私たちに任せて、おまえはお祭りを楽しんで来なさいね。お隣のウェイラちゃんが舞を踊るそうだから、私たちの分まで見て来るんだよ」

「お客さんを部屋まで案内したら、見に行くつもりだよ。それじゃあ、行ってきます」

 シーアリとの会話を終わらせると、シーリスはその部屋から顔を引っ込ませた。後ろで立ち止まっているカイゼルに視線を移し、ふわりと微笑んで再び奥の廊下を歩き出す。

 それ程長くはない廊下だ。すぐにシーリスの部屋が見えてきた。その扉を開け、ランプに明かりを灯し、暗がりの整然とした部屋を柔らかな明るい空間に変える。

「宿泊室より綺麗とは言えませんが、宿泊室だと思ってご自由にお使い下さい」

 そう言いながら、シーリスがカイゼルを振り返った。すると彼は不思議そうに首を捻る。

「それは有り難いが、お前は何処で寝るつもりなんだ? ここはお前の部屋だろう?」

「僕は先程の部屋で眠りますから、心配は要りません。それより、荷物を置いて早く行った方がいいですよ。カイゼル様もお祭りを見に、この村へ立ち寄ったのでしょう?」

「〝様〟は要らない。――この村へは偶然だ。気ままな旅をしている途中で、この村を見つけて立ち寄ってみたくなった」

「そうですか。丁度いい時に来ましたね。この村では、毎年この日にお祭りが行われます。日付が変わる前まで続きますので、是非楽しんで行って下さい」

「ああ、そうする。……物は序だが、少し祭りの案内も頼まれてくれないか? この村は初めてで、何が楽しめるのか判らない」

 カイゼルの提案に一瞬だけ目を丸めるが、シーリスは目を少しだけ細めて微笑んだ。

「ええ、構いませんよ。これも何かの縁ですし、ひとりより二人の方が楽しそうです」

 彼の科白に、今度はカイゼルが驚く番だ。

「二人? 他に行く者は居ないのか?」

「はい。今年は友人のほとんどがお祭りに携わる番なので、僕ひとりで回るつもりでいました。僕のことは気にしなくて大丈夫です」

「そうか。すまないが、宜しく頼む」

「お任せ下さい、カイゼルさん」

 そこで、二人の会話が一段落を迎えて途切れた。丁度その時、静まる部屋へ村特有の何処か懐かしさのある民族音楽が微かに流れてくる。温かいような切ないような神秘的な曲調と共に祭りが始まったようだ。

 シーリスは窓の外に視線をやって、そしてカイゼルを優しい眼差しで見詰めた。

「始まりましたね。――行きましょうか?」

 その促しにカイゼルは微かに頷くと、その場に荷物を置いて先に部屋を出る。シーリスはランプを消してから後を追い、廊下で待っている彼を連れて、裏口から宿屋の外へ出て行った。途端に、二人は村中に流れ響く民族音楽に包まれる。その音楽を身体で感じながら、暗がりから明るい場所へ歩き進んだ。

 空を見上げれば太陽はとうに沈み、冷たさと温かさを併せ持った銀色の月と多くの星々が瞬いている。その夜空をさらに明るく照らすものは、祭りの為に村中の所々へ置かれた大きな松明だ。時折風で踊るように揺れる橙色の炎の明かりが、柔らかく温かく村中を覆っていた。

 海辺の村は、その村自体が祭りの舞台である。何処の家々も祭りの装いに包まれ、店を営む家は美味しそうな匂いを漂わせ道行く人々の鼻をくすぐっていった。何も、店の全てが飲食の限りではない。普段はない祭りの場限りの遊戯店も姿を見せ、人々の心を楽しませている。子供は勿論、大人たちの心を童心に自然と返してゆく。

 二人をすれ違う人々の表情は、何処までも生き生きとした輝きと満面な笑顔に溢れ返っていた。様々な場所を見て回っているカイゼルの口許に、小さな、だが楽しそうな笑みが浮かぶ。その隣を歩くシーリスは、彼の表情をちらりと見上げて嬉しそうに笑んだ。

「この先を少し進むと、僕の知り合いの女性が舞を踊る舞台が見えてきます。村のお祭りで一番有名な催しなので、見て損はないと思いますよ」

「……舞?」

「はい。〝神凪の舞〟と言って、生贄とされる女性が海の守護神様に向けて感謝と祈りを捧げる舞です。舞を踊る女性は毎年変わるのですが、今年は僕の知り合いのウェイラさんが踊ることになりました」

「……生贄と海の守護神……」

 シーリスの話を耳にして、カイゼルはその単語を呟きながら微かに目蓋を伏せてゆく。何処かで聞いたことのある言葉だと、彼はおぼろげに思う。それと共に心の何処かに陰りが生まれ、やがてその場所へ歩き進む足は止まってしまっていた。

「カイゼルさん」

 彼の様子がおかしいことに気づき、一歩先に進んでいたシーリスが彼の名を呼んだ。その呼び声にカイゼルが顔を上げれば、シーリスは穏やかに優しく微笑んでみせる。

「生贄と物騒な言葉が出てきましたが、この舞は守護神様を恐れ崇めるものではありません。先ほど、感謝と祈りを捧げる舞だと言ったでしょう? だから、そんなに難しい顔をしないで下さい」

「……そんなに難しそうな顔をしていたか」

「していましたよ。どうしてそんな顔をするのかは判りませんが、話に聞くよりも実際にその目で見た方が感じ方は違ってきます」

 「先を急ぎましょう」と促して、カイゼルが隣に並ぶとシーリスは歩き出した。

 暫くその道を歩き進めば、二人は広々とした空間に辿り着く。その空間が、舞を披露する場所だ。中心となる部分では、穏やかな波を象った高めの四角い舞台が設置されていた。その四つの角に松明が置かれ、舞台が映えるように明るく照らしている。その近くで数人の男女が様々な楽器を構えて、音楽を奏で続けていた。そこから距離を空けて、人々は舞台を囲み、その場に座りながら舞の始まりを待ち侘びている。

 神凪の舞を見に来た中で彼らが一番遅く、二人は最後尾となり立ったままで舞を眺める形となった。舞台の場所から遠いと言えば遠いが、別段気にする距離ではない。

 ふいに、村中に響き渡っていた曲が止んだ。それと共に、綺麗に化粧をして舞の衣装に身を包んだウェイラが舞台へと上がってきた。その片手には、小さな鈴が幾つもついた銀の輪が握られている。

 ウェイラがその場に両膝を突いて、目蓋を閉じながら祈るような体勢を取った。すると、旅人以外の村人たちはそれに習い、静かに手を合わせてゆく。その祈るような仕種は、これまでに生贄となった者たちと海の守護神に向けたものだ。村人たちは言葉に出来ない様々な想いを、彼らへと胸の中で伝えていく。

 静寂に包まれた空間に、鈴の鳴る音が響き渡った。それを合図にして、彼らは顔を上げてゆく。ウェイラが静かに立ち上がれば、神凪の舞の始まりだ。

 先ほど、村中に流れていた曲が奏でられる。その曲の動きに合わせて、ウェイラは鈴を鳴らしながら舞い始めた。村人たちの想いをその身に伴わせ、海の守護神に向けて穏やかに優しく軽やかに、特には切なさを帯びさせながら舞い続ける。その舞に、彼女の優しげな眼差しも相まって守護神を恐れ崇める雰囲気は微塵も感じられない。

 ウェイラの神凪の舞を目にして、カイゼルの目に涙が浮かぶ。彼は舞に見入りながら、顔を歪ませず静かに涙を流していた。カイゼルの心の奥底から、彼自身にも判らない温かで不思議な感情が込み上げてくる。それと共に、遠い昔の記憶がおぼろげに甦ってきた。だが、それは曖昧過ぎて、鮮明に思い出すことが出来ない。

 カイゼルの隣で、シーリスはそんな彼を切なげに見詰めていた。今の涙は悲しみと寂しさを伴うものではないが、彼の涙を遠い昔に何処かで目にした覚えがあるような気がしてならない。やはりそれはおぼろげで、だが彼の身体は何かに突き動かされるように動いていた。カイゼルの手を取って、シーリスはその場を足早に後にする。

 シーリスが彼の手を引いて連れて行った場所は、舞を披露する場所から少し離れた浜辺だ。そこに人気はなく、人の声や笑い声、松明の明かりも僅かにしか届かない。

 波のさざめく音に包まれながら、シーリスはカイゼルから手を離して彼と向き合った。

「……どうして、泣いているのですか?」

「判らない。だが、泣きたくなるんだ。悲しい訳でも寂しい訳でもないのに、何故か涙が出しまう。――おかしいな?」

 そう言ってカイゼルは微苦笑するが、シーリスは愛しげな眼差しで緩く首を左右に振る。

「そんなことはありません。その涙なら、気が済むまで泣いていいと思います。……それはきっと、貴方の嬉し涙だと思うから」

「俺の……?」

「はい。どうしてなのかは僕にも判りませんが、貴方の涙を見て何となくそう思いました。――泣いていいですよ。ここは誰も居ませんから、貴方をおかしいと思う人は居ません」

 優しい声音で語りかけて、シーリスはカイゼルの隣に並んだ。そして、銀の月と煌く星に照らされた地平線を静かに見詰めていく。

「……すまない、シーリス」

 カイゼルは小さく言って、涙を流しながら彼と同じように広大な海の地平線を見詰める。

 二人の間に、暫く穏やかな沈黙が続いた。だが、それはシーリスの空気が動いたことで途切れてしまう。

「カイゼルさん。おかしな話ですが、今日初めてお会いしたのに、もう既に何処かで貴方と会っているような気がしてなりません。……貴方と再会出来て、心の何処かで嬉しいと思っていました。僕こそ、おかしいですね」

 地平線から視線を外さないままで、シーリスは静かにゆっくりと告げた。そんな彼に、カイゼルも海を眺めたままで首を左右に振ってゆく。その目に涙はもうない。

「俺もそれを感じていた。この村を訪れてからお前の傍に居ると、何故だか段々と何もかもが懐かしく思えてくる」

 思いも寄らないその言葉に、シーリスはゆっくりとカイゼルを見詰める。それと同時にカイゼルも彼を見詰め、二人は言葉もなく互いを見詰め合う。

 そんな彼らを包んでいた波の音が、ふいに小さくなる。松明の炎を揺らしていた風がいつの間にか止んで、波を穏やかにしていた。

 風が止んで波が穏やかになり、神凪の時がやって来る。神凪の時――普段は姿を見せることのない海の守護神が、年に一度だけ姿を見せる時がやって来るのだ。

 しかし、生贄と海の守護神が存在しない今、神凪は全ての魂たちの再会の時を意味する。

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