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  作者: 和鏥
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番外編1 明晴という男

番外編 明晴という男


 虚ろ山になっている。と、師が言っていた。

 虚ろ山とは山の主がいない事。不安定で最悪の場合、山が死ぬ。樹は枯れ、実らず、数年の間深い深い眠りについてしまう。

 だから新しい主を――……生贄を準備する。

 といっても、代替「白い動物」を見つければ良い話なのだ。

 山も山で生きたいのだから主を探すのに必死になっている、もしくは既に目をつけているだろう。それを師は人として見抜いて山へ誘導する。種子を運ぶ動物の役割をするらしい。

 俺と兄弟子は師が戻る間、山に残りどこまで山が眠りにつきそうなのか調査する。



「明晴はそっちを」

 兄弟子の声に、いつものように頷く。

 それが命令なのか、ただの思いつきなのか、いちいち問い返したって意味は無い。

 大抵の場合、これはただの八つ当たりで意味なんて特にないのだ。

 最初は草を刈れだの水を汲めだの、軽いものだったのが、気づけば崖の側、湿地の中や獣の巣に足を突っ込むような役回りが増えていた。

「俺がそんなに憎いのか?」

 俺の質問の答えとしては「はい、そうです」なんだろう、きっと。

 それくらいは解かるが、それでも証拠はないし言ったところで誰も困らない。

 俺が黙って動いて、上手く切り抜ければそれで済む。

 ――……仕方が無いのだ。

 兄弟子たちは最初から輪の中にいたが、俺は違う。所詮は余所者だ。

 師は俺を拾ってくれた。

 ただ拾っただけではなく、道具の使い方や薬草の見分け方、星の読み方、生きていく知恵を教えてくれた。

 全ては名前も思い出せないあの子の為だった。

 初めて師に会った時、確かに俺は彼女の名前を伝えたいた。なのに、師はついぞ忘れてしまった愚かな俺に名前を教えてくれる事も、思い出させてくれるようなことも何一つとして無かった。

 …………。あれから八日、師は戻ってこない。



「……このままじゃ、山は死ぬ。俺たちは一度下山し、対策を練ってくる」

 そう言われて、すぐに兄弟子達が本当は何を言いたいのか理解した。

 ――……疲れてしまった。

 怒るのも嘆くのも今の俺には気力が足りなかった。だから、ただ頷いた。

 兄弟子たちは戻って来ないだろう。

 あの人たちが何を思って去って行ったかなんて、もうどうでもよかった。

 少なくとも、俺に手を差し伸べてくれる気なんて毛頭無かったろう。

 ――……この山に長居するつもりもなかった。

 師が俺に与えた知識と手順は、ちゃんと身についてる。だから、いずれ一人でも歩けるはずだった。

「今夜くらいは、少し休もう」

 焚き火でもして、落ち着いて思い出せないあの子のことを考えよう。

 そんな風に思いながら、林を抜けるとそこに、屋根があった。

 立派な梁。

 磨かれた敷石。

 砂粒ひとつ落ちていない、静かな玄関。

「……こんな家があるなんて知らなかった」

 師や兄弟子とこの山を歩き回っていた頃にも、こんな建物は一度も見た覚えがない。

 地図にも無かった。

 まるで、今日だけそこに現れたような錯覚にさえ陥った。

 狐か狸の仕業か? あるいは虚ろになりつつある山の、何かか?

 足が、止まらなかった。

 玄関までの数歩が、妙に短く感じた。

 気づけば、手が勝手に扉へと伸びていた。そこで我に返り慌てて手を引っ込める。

「……お邪魔します。誰か、いますか」。

 鍵は、かかっていなかった。

 それだけで入って良いというわけでもない。

 勝手に他人の家の扉を開けるなんてそれこそ礼節を欠く。だから、もう少しだけ待とう。

 家主が戻ってきたら、ひと声かけて、事情を話して、それから――……。

 背後、門の辺りで音がした。

 反射的に振り返る。

 誰もいない。風も吹いていない。野生動物の音だろうか?

 ただ、静かな空気にポツポツと水の音が混じっていた。

 雨だ。

 最初は気のせいかと思う程度だったが、じきに確かな雨脚となり、地面を濡らした。

 みるみるうちに景色が滲んで、髪も、肩も、背中も、ぬめるように湿っていく。

「……最悪のタイミングだな」

 早くどこかに移動しようと、思った瞬間だった。

 玄関の戸が、いつの間にか開いていた。

 誰もいない。音も無かった。けれど、そこには確かに、人が通った痕跡があるように感じた。

 冷静に考えれば、罠と思うには十分すぎる。確実に俺は今、明確にこの家に招かれている。俺は確かに疲れているし、悲観に暮れている。けれど、自ら罠に入る程愚かではない。

 それでも雨音がさらに強まっていく。

 家主の挨拶が都合よく聞こえない。というのは、こういうことなのかもしれない。けれど、そう思うにはどう考えても前向きすぎる。

「……お邪魔します。すみません。少しだけ、雨宿りを……」

 返事は無い。自分の声は吸い込まれるように奥へ消えていった。

 そのまま飲み込まれて、どこかで誰かが聞いていたような、そんな錯覚だけが残った。

 家の中は、驚く程整っていた。

 雨漏りも無いのだろう、廊下は濡れてもいない。まるで、誰かがこの瞬間の為に雑巾がけを終えたばかりかのような、整然とした空気があった。

 ここは俺の家ではないし、家主の声もない。

 その気配に甘えてこの家に上がるのは、少し怖かった。

 玄関端に、そっと腰を下ろす。

 濡れた裾が冷たくて、膝に触れるたびに現実感が戻ってくる。

 たった今ここに来たばかりのはずなのに、ずっと前からいたような感覚があるのは何故だろう。

 雨の音だけが、変わらずに鳴っていた。

 ぽつ、ぽつ、ぽつ。

 その音を聞きながら、俺は早く止んでくれないかと願いながらボンヤリと昔を思い出す

 あの子は、俺の為に森へ行った。

 俺が言った訳じゃない。ただ「薬草が無いな」と、ただ何とはなしに呟いただけだった。そんな独り言を聞いて、きっと彼女は気を利かせてくれたのだろう。

「明晴は、お父さんのあとを継ぐんだもんね」

 記憶の遠いどこかでそう言って笑っていた。その笑顔だけが、やけに鮮やかに残っている。はずだった。

 俺の父は、病に触れて死んだ。

 俺の母は、父の浮気を許せなくて、まだ俺が幼い頃にどこかへと消えていった。

 独りになった俺は、あの子がいればそれでもいいと思っていた。

 ……いなくなったのは、俺のせいなのだ。

 黙っていれば良かったのだ。

 あの時、あんな言葉、口にしなければこんな事にはならなかった。

「……これは、罰なのかもしれないな」

 ポツリと落とした声が、自分の物じゃないように聞こえた。

 気付けば、瞼が重い。

 冷えた廊下に座ったまま、意識が遠退いていく。

 このまま眠れば、雨も音も全部消えるんじゃないかと思って俺は、目を閉じた。


 家主は、結局、現れなかった。

 それでも、いつの間にか飯が出て、風呂が湧いていて、布団は一度も冷えていたことがなかった。

 おかしいとは思ったが、ありがたいとも思った。

 今までの心労と疲労があまりにも深くて、不安を感じる余裕がもう無かった。

「少しだけ休んだら、また探しに行こう」

 そう言い続けながら、夜も朝を何度も見送った。

 夢も見ない夜を重ねる度に、身体から何かが落ちていくような感覚があった。


 ある日、側頭部に違和感を覚えた。

 髪を掻くと、そこだけ皮膚が硬い。たんこぶかと思ったが、左右揃って膨らんでいた。

 薬草でも塗りこもうと思ったが、触れる度に皮膚が押し返してくる。

 数日後、左右とも、同じ角度で小さな突起が生えていた。輪郭が曖昧で、皮膚が引きつるような違和感がある。

 鏡を見た瞬間、胃がギュッと縮んだ。

 目を逸らしたかったのに、何度も確かめてしまう。

 その奥、髪の内側で、何かが硬く、骨のように膨らんでいた。

 触れた指に、じり、と確かな重さが返ってくる。それに、人の耳が小さくなっている。

「……冗談じゃない」

 そう吐き捨てる声が震えた。

 俺じゃない、誰かの声のようだった。

 こんな物願った事も無い。

 それなのに、よりによって――……よりによって、俺なんかを……。

 この山は、俺を選んだのか?

 この何もない俺を?

 冗談じゃない……。

 冗談じゃない。

 冗談じゃない!

 気づけば、裸足も気にせず走っていた。

 濡れた石が痛いはずなのに、足の感覚が薄れていた。

 枝を掻き分け、霧に包まれながらも必死で陽の位置を追いかける。

 月の向きを目印に、森を裂くように、息も絶え絶えに走った。

 出られる。

 この山を出られさえすれば、戻れる。

 こんな夢、無かったことにすればいい。


「は?」


 逃げ出したはずの屋敷がまた目の前にあった。

 遠ざかったはずの縁側。

 追い越したはずの柱。

 間違いようの無い、同じ構図の屋敷がそこにある。

 あれだけ必死になって走り回ったはずなのに、葉の泥も汚れすらついていない、それに足元は濡れていない。

 息が荒いのに眩暈がする。頭が痛い。心臓が五月蠅い。

 出られない。

 どれだけ走っても、喚いても、枝を折って進んでも抜け道は見つからなかった。

「だったら、誰かに代わってもらうしかない……よな」

 この山の主になるのが、俺じゃなければそれでいい。

 そればかりを考えながら、誰か山にいないか目を凝らしていた。

 誰でもいい、とは思いたくなかった。でも、誰かを見つけたら、俺はその時どうすればいいのだろう。なんと声をかければいい?

「俺の代わりに苦しんでくれって?」

 馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。

 そんなことを面と向かって言えるのだろうか。けれど、こちらとしても必死なのだ。馬鹿らしいと思いながら何度も何度もその時のことを考え、言葉を考え、そして謝ることを考えた。

 そんな時だった。

 濃霧の向こうで人の声がした。気が付ければ、俺は慌てて走り出した。

「すみません……子供を探していて……」

 振り返ると、やせ細った顔に焦燥が張りついている男だ。

 着古したコートを引きずるように、その男は、必死で言葉を絞り出していた。

 名前、年齢、服の色、靴の種類。

 まるで呪文のように、何度も自分の子供の行方を繰り返していた。

 彼はこんなに必死なのに。成り代わりたいだなんて俺は一体何を考えていたんだろう。

 変わってもらうなんて、言えるはずがない。

 言った瞬間、俺の中の何かが死んでしまう。

 何か俺に出来ることは無いかと賢明に考える。けれど、ただの俺に何が出来るのかすら分からない。

「三キロ先に、男の子が足をくじいて泣いてるよ」

 誰かが、そう言ったのを確かに耳にした。

 咄嗟に振り返ったが、そこにいたのは枝の上でこちらをじっと見つめている小さな鳥が一羽。

(……そんな訳が無い)

 けれど、その情報だけが、妙に真実味を帯びていた。

 情報はそれしかない。

 何もしないよりは良いだろうと思い、泣き続ける男にそれを告げた。

「一緒に行きましょう」

 と、言ってしまうのは「変わってくれ」と少しでも考えていた俺のせめてもの償いだった。

 はたして三キロ先確かに男の子はいた。

 泥で汚れた膝を抱えて、声を上げて泣いていた。

 そのすぐ傍らに鹿が一頭、子どもを守るようにそっと座っていた。

 少年はその鹿すら恐れているようで細く痩せた肩が震えていた。

 父親は子供を抱きながら何度も、何度も、俺に礼を言った。

「ありがとうございます」

「本当に、ありがとうございました」

 言葉の端々が再会の喜びで震えていた。久々に人が喜ぶ顔を見た。

「よければ、一緒に下山を」

 そう言われた時、俺は思わず頷いていた。

 やっと、人の営みがある所に戻れる。

 ここから出られる。

 そう思った。


 濃霧が、道を塞いだ。

 一歩進むたび、視界が削られていく。親子と近くにいるのに声が届かなくなっていく。

 暫くしなくても父親は何かを感じ取ったのだろう。

 彼の目が、少しずつ変わっていった。何も言われなかったが、その奥に疑いが混じり始めた分かった。

 何も言わないまま、彼は少しずつ距離を取った。

 言葉数も少なくなり、目も合わせない。そして、彼の息子の顔色が悪くなり震えが出てきた。

 そんな様子を見て父親は俺を置いて行くべきか迷っていたようだ。それでも、少しでも良心があるのだろう。だからこそ見ていて余計に心が痛む。

「――……先に行ってください」

 そう言ったのは、俺の方だった。

「このご恩は、忘れません」

 そう答えた父親の顔には、感謝もあったが、それ以上に安堵の方が強く見られた。

 嗚呼、それは何度も見た景色だ。

 俺から、離れられるということが余程嬉しいのだろう。

 そうして、二人の背中は、霧の中へ溶けて行き、二度と振り返られる事は無かった。

 傷心と疲労と、そして今までとこれからの事に嘆き俺は川に身を投げようと歩き出して、――……そしていつの間にか目の前には例の屋敷の玄関があった。

 山は自死さえも許してくれない。

 悔しくて、悲しくて、叫ぼうにも暴れようにも体力も気力も使い果たした。



 その晩、眠りの途中で妙な気配に目が覚めた。

 静かなはずの夜の屋敷の廊下で、ヤマガラたちの鳴き声がけたたましく警鐘のように響いていた。

「やめろ!」

「触れるな!」

 俺の物では無い、誰かの怒鳴り声がする。

 俺は裸足のまま駆け出し、廊下を曲がる。

 そこにいたのは、見知らぬ男だった。

 ヤマガラたちを追い払い、飛び交う羽音を手で叩き落とそうとしている。

 ヤマガラたちは部屋の中を必死に旋回しながら、男の手のひらや腕が、羽根を振り払うように振るわれていた。けれど、その内のひとつの翼が打たれ、床に落ちた。

 跳ね、転がり、畳の上で止まる。

 小さな羽が宙を舞い、空気の中に散っていった。

 ……ちい、ちい、とか細い声が、濁った空気をかき分けて俺に届いた。

「やめてくれ!」

 俺は咄嗟に叫ぶと、呼吸の荒い男がこちらを向いた。

 その目にあったのは、明らかな嫌悪だ。

 俺はその顔に、かつて見たことのあるものを見つけた。

「兄弟子か?」

 思わず呟いてしまう。いや、違う。兄弟子に似た誰か。けれど、その目だけは酷似しているようにさえ錯覚する。

「欲しい物があるなら、勝手に持っていけ!」

 俺の言葉を無視した男は柄を握り直し、重心をずらして一歩ずつこちらへ向かってくる。何か言っていたようだったが、半狂乱に陥った鳥の鳴き声に上書きされていた。

「バケモノが」

 言葉にならない唸り声が喉から漏れている。

 その時だった。

 一頭の鹿が、怒り狂う男の腹に体当たりを食らわせた。

 男の身体が畳に転がり、呻き声が上がる。鹿は立ち上がることを許さず続けて二度、三度、踏みつけるように跳ね上がった。その勢いに、障子が音を立てて揺れる。

「やめろ!」

 本来ならそう止めるべきだろう。だが、俺は全真教に映った己の姿を見て息が止まった。

 立派なシカの角が頭部から生えている。

 ヒトの耳を失い、伸びているのはシカの耳。

 目も鹿のように瞳孔は横に寝て、髪は色を失い、腰まで伸びている。

 「バケモノ」と呼ばれて当然だった。

 震える手で打ち落とされたヤマガラを拾えばまだ温かい。

 まだ生きている。

 まだあたたかい。

 この小さな命が、奪われて良いはずが無い。死ぬべきではない命に涙が溢れそうになる。

 その間に、男はむくりと起き上がると脳髄を垂らしながら奇声を発し、人としておかしな動きのまま屋敷を飛び出し二度と帰ってこなかった。

 それを黙って見送っていると、手の中にいた小鳥が「ちい」と嬉しそうに鳴いた。



 あれから、どれくらい経ったのか定かではない。

 日付も、月の形も、あまり覚えておらずまるで夢の中のようだった。

 気づけば鳥と喋り、鹿と歩いて、山の空気を吸っていた。

 とくにヤマガラたちというのは結構なウワサ好きのお喋りでよく迷子や人の噂を教えてくれた。

「もう来ないんだって」

「山の怒りってなあに?」

「山に嫌われたんだって」

「もう大丈夫」

 沢山の羽音の中で、みんなが一人になった俺を励ました。

「そうか」と、言葉が漏れた。

「誰も来ないのか」

 誰も来ないなら――……もう、ここで生きるしかないのだろう。そう、腑に落ちてしまった。

 一方で、律儀で、真面目で、だけど頑固な鹿はずっと俺の側を歩いていた。

 俺がいくら客人に「好きなだけここに居れば良い」と言っても、必ずあの鹿は玄関まで案内して、客人のその背をそっと角で押していた。

 何度か、女性を閨に誘ったことがあった。

 霧に迷って、雨に濡れて、誰かを必死になって探していた。

 それが名前も忘れた彼女の裏切りと分かっていた。けれど、それでも寂しさには勝てなかった。

「ここにいてくれたら、出られるかもしれない」

「ここで家族になれば、独りじゃなくなるかもしれない」

 そう思うのは俺の勝手だったが、けっして強くは言っていない。ただ、隣に居てくれたらと願っただけだった。

 女性を抱こうとする度に、いつものように鹿が割って入った。

 鹿の邪魔が入る前、ふと女が俺を振り返り目を逸らす。

「すまない。仕切り直そう」

 と問う俺は、笑っていたと思う。笑っていたはずだ。出来た筈だ。けれど、彼女は俺を見て、目を伏せて、震えながら首を横に振った。

 不思議に思って手を伸ばそうとするが、「ごめんなさい」と、小さな震える声で言われてしまえばこの手は下げるしかない。

 角が、重たくて。耳の奥が、ぼうっとしていて。

(嗚呼、俺が人じゃないから断られたのだ)

 と、そこで改めて納得した。



 山に来る人間の流れには、ある程度の規則があった。

 季節。天気。方角。そして「誰かを失った者だけが来れる」そういった重なる条件が見えてきた頃には、餞別の用意も、迎えの言葉も、もう手慣れたものになっていた。

 そうやって日々を過ごしていたある日、

 喉の辺りに、妙な感覚を覚えた。

 ひどく冷えるのだが、風は吹いていない。

 触れてみて、そこで初めてこぶし大の穴が、開いている事が分かった。裂けたわけでも、切られたわけでもない。ただポッカリと、空間だけが抜け落ちていた。

 皮膚も、筋も、痛みも、出血も何も無い。ただ、空っぽで向こう側の景色が透けて見えた。

 角も、耳も、もう隠せるようになっていた。山の力に馴染み、どうすれば人の形を保てるのかも、分かってきた。

 なのに、今度はこれだ。

「……趣味が良いな」

 笑って言ったけれど、声が震えていたのを自覚する。必死になって家族を持とうとしていた俺のたくらみがを山にバレたのだろう。

 角も耳も隠してもう一度、人間の形で誰かと交わろうとしたから。そんな俺を見て山は拒んだ。

 これはたぶん、最後の警告だったんだろう。

「俺が子孫を残さなくたって、お前らには何の関係が無いもんな」

 誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。けれど、そう言って鹿の頭を撫でなければ、俺の気が触れてしまいそうだった。

山には、代わりがいる。

 いざとなれば、白い鹿が白い蛇が相応にして現れるのだろう。

 山にとって、俺は唯一じゃない。

「本当に良い趣味をしてるよ」



 今日も今日とて、親指と人差し指で輪を作って、山を覗く。

 指先の小さな窓から、山の端から端まで、木の根の下で眠る虫さえも見通せる。かつてはただの遊びだったこの仕草も、今は山と繋がる目になった。

 霧が深く、光の届かない見慣れた山の中で一人の男が、歩いていた。

 そのバックパックは、雨にも日にも晒され、角は擦れ、色は褪せ、縫い目には泥が固まっている。

 背負う姿には、登山者の気軽さなど見えなかった。

 彼は、山菜取りの老人に声をかける。

「妹を探していて――……」

 そんな声を聞いた。とするならば、彼は立派な俺の客人だ。

 客人ならば、迎えなければならない。

「客人だ」

 久しぶりの訪れに、嬉しさが込み上げてそんな独り言が漏れてしまう。

「飯の支度に、風呂の準備に――……」

 人に会うのは、人と話すのは、人と時間を共にするのは何日ぶりだろう。

 誰かを歓迎するこの感覚に思わず笑いが零れていた。

 噂好きのヤマガラたちが、好き勝手鳴きながらひと足先に彼の元へ向かう。あるいは、俺の角に止まって一緒に迎えようとする。

 鹿も、黙って先行したヤマガラたちの後を追う。

 先に道を探ってくれるつもりなのだろう。

「急げ、急げ」

 俺も急いで迎えに行かなければ。

「ああ、ええと、カナメだ」

 頼りなさげな声が、風に乗って届く。

 分かるよ。

 俺も最初この山に来た時は、ひどく心細かったんだ。


 だけど、今夜はきっと寂しくない。

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