4話 桃とイヌ
1
暑い。だるい。湿気も怠い。
肩のベルトが皮膚に食い込んでくる。バックパックの中で、桃がぬるくなっている気がする。バックの中で物とぶつかり、ひとつ潰れてたとしても――……
(まあ仕方ないでしょ)
そんなことをぼんやり考えながら、カナメは街へと戻っていた。
「……桃を渡すって言っても、本人が場所を移動してたら分からないしなあ」
ひとりごちて、なんとなく空を見上げる。雲はあるような、ないような。どこまでも曖昧だった。
その時、少しの衝撃と共に何かが脇をすり抜けた。
「いた」
「あ、ごめーん」
謝ったのは十五歳ほどの少年だった。
ぼろぼろのシャツに短いズボン、靴の紐もほどけかけている。日焼けした腕には泥がこびりつき、生活の荒れがそのまま染みついているようだった。
カナメは特に気にするでもなく、足を進めようとした――……。
「ああ、ちょっとストップ」
どこか飄々とした声がして、カナメが振り向くより早くその少年の襟首を誰かが力強く掴んだ。
「うっかりでも観客の目はごまかせないよ」
白と茶の耳がピクリと動いた気がした。昨日の、犬耳の男だ。
彼は片手だけでその少年の動きを止めている。それどころか少年の足はいつの間にかつま先立ちになっていた。
「その財布、返してもらおうか」
声だけは優しい。口角もあがっている。しかし、その目は、カナメの立ち位置からはっきりとわかる。彼はなにひとつ笑っていない。
少年は襟首を掴む手から逃げようともがいていたが、この獣人は予想以上に力があるのか微動だにしない。
(……へえ、すご)
カナメはぼんやりそんなことを思いながらこの光景を見ているしかない。
「俺の息子になんの用だ!」
通りの向こうから怒鳴り声が響、カナメと犬耳の男は反射的にそちらを振り返る。
昨日、屋台で怒鳴っていた、見覚えのある男だ。しかし、昨日と違うのはその頬に鮮やかな痣が一つ広がっている。
「へえ、再演かい?」
獣人の顔を見た瞬間、昨日のケンカ相手だと認識したのだろう。男はピクリと動きを止めた。その恐怖をを裏付けるよう、さらに男はわずかに後ずさる。
犬耳の男は笑顔を崩さず、口を開けた。
「喜んで受けて立つよ。勿論、キミの大事な息子君諸共ね」
その一言で、少年の表情がこわばる。そして、どうにか逃げられないかと、彼の目が、獣人の腰のホルスターにちらりと吸い寄せられた。
何が仕舞われているのかまでは分からない。でも、それがただの道具じゃないことは、なんとなく伝わってくる。
少年の腕が伸び――……。
鈍い音がして、空気がまたひとつ沈んだ。
犬耳の男が、無表情のまま少年を地面に叩きつけていた。
その勢いは少年を一瞬海老ぞりにさせるほどに容赦がない。
(……は?)
あまりの非現実感にカナメの思考がうすく途切れた。
怒鳴りも、警告も、何もない。ただ、人の顔面が地面にぶつかる音だけが周囲に響いた。
それは野次馬根性丸出しで見ていた人たちにも十分恐怖が伝染された。蜘蛛の子が散らすように逃げていく。
それでも獣人の表情は一切崩れず、ただ静かに倒れて動かない少年を見ている。
店主の顔から血の気がよりいっそう引いて青くなっていくのが遠目にも分かる。
「ボクの武器に触れようとした。……戦いたいって、そういう意思表示なんだね?」
獣人の声は穏やかで、まるで天気の話でもしているように軽いものだった。
「だったら、嬉しいな」
獣人の目が太陽光を反射し爛々と輝く。
「違う?」
そう問われた少年の喉が恐怖に鳴った。
必死に手を伸ばして、自分のポケットに手を突っ込んでいる。何かを取り出して落とす。
ジャラジャラと財布や小銭入れがいくつか地面に転がった。
その中に、カナメの財布もまぎれている。
何かを差し出せば許されると思っているのだろう。あるいは、そういう場面に慣れているのかもしれない。
少年の父親と言えば。足元が縫いとめられたかのように、まったく一歩も踏み出さない。
「素直でいるのが一番だよ」
獣人は、緩やかにそう言った。
「反骨精神でも見せてくれたら少しは演目になったけど、幕引きだね」
それは赦しであり解放なのだと、判断した少年はすぐさま父親の方へ駆けていった。
父親はそれを無言で抱きしめ、何の迷いもなく背を向け視界から消えていった。
犬の獣人はただ、わずかに口元をほころばせただけで追わなかった。
怒っていたようにも見えたし、そうでなかったようにも見える。なにせ笑顔ばかりで判断が付かないのだ。
(……こわ)
カナメは同じ言葉を、もう一度だけ頭の中で繰り返した。
2
「配役は良かったのに、台本が甘かったね」
そう言い残し、犬の獣人はくるりと背を向けた。
その足元には、先程落ちたままの財布が転がっている。
カナメはひと呼吸おいてから、その中から自分の物だけを拾い上げた。それを今度こそポケットにねじ込みながら(もう失くさないぞ)とやんわり心に誓う。
「ボクはウラクライ。昨日はキミの舞台に混ぜてくれて、ありがとう」
カナメが立ち上がった頃合いを見て犬の獣人はそう名乗った。
キミの舞台というのはおそらく巻き込まれた喧嘩の事なのだろうか?
「うん? はい……どうも」
先程、あのスリをした少年に暴行をしたと思えない爽やかさにカナメは驚きながらも軽く会釈する。
ウラクライは、落ちていた別の財布のひとつを手に取っていた。
「アンタ、それ、届けるのか?」
思わずカナメは聞いてしまう。
「届けるべきなんだろうけど、……どうしようか。ここは、届くべき物が届かないおかしな所みたいだし」
ウラクライはその財布を弄っていたが、ふと静かに立ち上がった。
「昨日の、見物させてもらったよ」
ポツリと漏れるように、ウラクライが言った。
「ああ、やっぱり昨日の。えぇと、助けてくれて――……」
カナメの言葉を待たずに、ウラクライは静かに重ねた。
「あの男がキミを殴ろうとした時、まるで見えない布でもあったみたいに軌道が逸れていたね」
カナメはふとウラクライを見てギョッとする。金色の爛々とした目とあった。
「キミの異能?」
尋ねられたカナメは、わずかに首を傾ける。
否定は出来ないが、肯定するのも気が引けた。
何かを操るわけでも、使いこなせるわけでもない。ただ、自分の周りで、風が動くだけ。
自分の周囲だけを、わずかに風が逸れていくだけの守るというには程遠く、戦うなんてもっての他の、守るための力というよりは、なんとなく遠ざけるだけの、弱くて頼りない。そんな気休めのような力。
「……うん、まあ。あるにはある。うちわ以下だけど」
「うちわ以下だろうが、異能は異能さ。観客が見ているなら、それはもう演目だよ」
ウラクライの笑顔はカナメにとってとても眩しい、声も軽やかだったのが余計に眩しく感じさせているのだろう。
(笑ってるし、危ない人では……ない、のか?)
そう思いかけた、その瞬間だった。
「――……じゃあ、戦おうよ」
唐突な言葉だった。
あまりに突拍子もなさすぎてカナメは思わず目を瞬かせた。
「……は?」
「ボク、言葉なんて信じていないんだよ」
ウラクライは笑顔のまま、淡々と続けた。
「戦闘の中でだけ人間は嘘をつかない」
その手が、ゆるやかに腰のホルスターへと伸びていく。そして、片方の剣を、ゆっくりと抜いた。
「“うちわ以下”なんて、観客向けの即興台詞なんだろ?」
言葉の意味だけは分かる。けれど、その温度が分からない。
(本気なのか⁈)
視界に入る剣は奇妙な形状の刃をしていた
ねじれた螺旋が刃そのものを構成している。ナイフとも剣とも呼び難いその造形には、ただ恐怖という言葉が先に立った。
柄の奥で、何かが忙しなく動いている。
――……目玉。
そうしか言いようがない。
血の気を含んだ球体が、刃の内側で生きているようにその瞳孔を動かしている。
(見ているのか? なにが? なんで? どうやって?)
理解しきれない展開に、理解しきれない玩具のようなグロテスクな武器、非現実感しか覚えられない。
「本気、出していいよ」
ウラクライはその剣を片手に、楽しげに微笑んだ。
「観客も待ってる」
「ちょ……っと、待って――……っ」
言い切る前に、一閃。
風が走った。
斜めに滑った一撃が、風に押されて軌道を外れた。
カナメが避けた訳ではない。ただ、働き続ける異能のせいでそうなっただけだった。
(……戦闘慣れなんて、してないのに)
カナメは、思わず両腕で顔をかばった。
次が来たら防げない、そう直感した故の行動だったが、やはりカナメの周囲を走る風が、皮膚をなめようとした刃を受け流した。
自身の両腕の隙間から見えたのは、異様なまでに尻尾を揺らしているウラクライの姿だった。
白と茶の毛並みが弾むように、ぶんぶんと大きく振られている。
「やっぱりうちわ以下だなんて嘘じゃないか!」
ウラクライの明るい声が上がった。
「ボクの攻撃を二度も受け流した。たしかに吹き飛ばす程の強い力は無いかもしれないけど――……」
ウラクライは一歩踏み出すと、肩を揺らして笑った。
「そういうの、大好きだ」
その目が、明らかに輝いている。
「面白いよ! 風で攻撃を受け流す異能なんてさ、ボクの国ならきっとスポットライトがキミに向かうだろうね!」
そのまま、剣を軽く構え直す。
「いいね。こういうのが対話だ」
ウラクライはまるで新しい遊び道具を前にした子供のように生き生きとしていた。
(……何が“対話”だ)
カナメは、内心でそう毒づいた。けれど気圧されているのか声も出なければ、ただ身を引くことしか出来ない。
「さて、まだ舞台は続いているよ」
ウラクライの声音は軽く、まるで試すような声だった。
カナメが止めるより早く、ウラクライの足が一歩、踏み出された。
ウラクライへの拒絶がさらに風を強くする。
先程と同じようにあの剣は風に乗って押し流されるはずだった。
だが、次の瞬間――
「――ッ……?!!」
何かが皮膚を裂いた。
それが視覚として理解される前に、脳が、焼けるような痛みを喚いた。
腕が落ちた。
明確に、はっきりと、絶対に、そう思った。
鈍い衝撃と、全身に走る痺れが膝を砕く。
地面が近づいているのが分かる。空気の位置が変わる。
ようやく、呼吸が戻った頃には、カナメは両膝を地面につけていた。
どうにか片手で自分の身体が地面にぶつからないよう抑えていることが出来る。震える両膝はそれでも身体を支えていた。
「腕……が」
恐る恐る腕を見たが、腕が落ちたであろう激痛こそあるというのに、その肩には、入る視界には落とされたはずの腕はしっかりと身体と繋がっている。
切られた場所といえば、猫にでも引っかかれたような、細く浅い傷跡がひとつ。
赤い筋が一本、じわりと滲んでいるだけだった。
(……幻覚……じゃない……よな)
傷は、ある。けれど、それだけの傷で、こんな痛みがでるはずがない。
何が起こったのか、まったく分からなかった。
「普通の演者なら、ここで崩れて幕引きなんだけどね」
その隣で、ウラクライが声を弾ませる。
「キミがまだ立つほど傷も浅い、最高の防御じゃないか」
「喧嘩なら……よそでやってくれよ!」
嬉しさで微笑を崩さないウラクライにカナメは叫びながら叫びながら、燃えるように痛みを発する腕をおさえて後ずさった。
足元を見れば、あの時落ちたままの小銭袋が目に入る。
カナメはその小さな袋を掴み、ためらいなく投げた。
布越しに詰まった金属の重みが手に伝わり、風に乗った瞬間、袋は不規則な軌道を描いて宙を飛んだ。
ウラクライは当然のようにそれを避け、声を弾ませ賞賛する。
「投擲も完璧! 旅の中で鍛えられたんだね?」
その声を頼りに次の袋から小銭を取り出し投げつける。けれど、やはり風に乗って早さが加算されたそれをもよけられる。
「風に乗って速度もあがってる。……そっか………だったら、こちらも礼儀を尽くさないとね。この演目に、手加減は似合わない」
ニッコリと微笑みながら、ウラクライの手がもう一本の剣にかかる。
カナメは目を見開きながら、怒鳴るように声を上げた。
「じょ、冗談じゃない! なんで戦うんだよ! 意味がわからない……!」
掠れた声と同時に、カナメは露店の隅に転がる壺に手を伸ばした。
中には胡椒が詰まっている。湿った粉がざらりと手のひらに触れる。
それを一気に掴み、即座に払う。身体を起点とした風がそれを周囲にばらまく。
粒子が散り、視界が白く霞む。
さらに足元の砂を蹴り上げた。
視界がさらに乱れ、誰かが咳き込む音が聞こえる。
カナメは、それ以上を確認することなく、その場から転がるように走り出した。
走るというより、滑るように。足の裏、足先から、かかとから出る風が地面さえも接触を拒絶させ、足を速くさせる。
そして、カナメは視界の外へと逃げていった。
・・ ・
咳き込む声がいくつも上がる。
胡椒の粒子と砂煙が舞い上がる中、ウラクライは軽く一歩踏み出した。
たかが調味料と少量の砂塵で呼吸を乱される訳がない。
通りの端でこのやりとりを抑えようと仲間に指示を出そうとしていた衛兵の首筋に、そっと指を添える。力を最小限にしなければ彼らはウラクライの異能によってショック死してしまうだろう。ウラクライの動作は手慣れており静かで、躊躇すらなかった。
そのまま振り返らずに通りを抜けようとした時、背後から肩を掴まれた。
足音のリズム、歩幅、体重のかけ方。聞き慣れたそれは見なくても誰だか分かる。
「いないと思ったら……また暴れたのか。ウラクライ」
呆れ声に振り返らずとも、誰だかすぐに分かる。
「あははっ、暴れただなんて酷いな。ほんの少しの対話さ。でも、逃げられちゃった!」
ウラクライは肩越しに笑う。
「風の異能持ちだってさ。キミの興味も引けそうだし、寄り道して正解だったね ロー」
ウラクライは自分の部下にそう言いながら、目はしっかりとあの男が去って行った方向を見ている。すでに視界からは消えたが、犬の耳は、まだそのリズムを聞いていた。
「足音が軽いなあ。異能がちゃんと彼を運んでる」
満足そうに犬の尻尾がゆっくりと左右に揺れる。
「次、会う時まで壊れないでいてね」
3
「……なんとか、逃げられた」
息が荒い。喉がひりつくように痛い。胸が上下しているのが自分でも分かる。
カナメの足がようやく止まったのは、街の境界に近い石畳だった。
複数人でなにやら話をしているらしく、全体が騒がしかった。
「獣人が暴れたらしい。東地区に行くには気を付けた方がいい」
「だから言ったんだ、獣人との居住地は分けるべきだって」
「あの占い師も獣人がやったの?」
「いや、あれは旅行者。人間だってウワサだけど……」
「獣人を信じるから、こうなるんだ」
まるで責任を押しつけ合うように飛び交う声を聞きながら、カナメはウラクライに攻撃された自分の腕をそっと見下ろした。
そこには細く赤い線が一本、皮膚をなぞるように走っていた。
(……たったのこれだけ?)
傷は、ただの擦り傷にしか見えない。触れなくても、血は滲む程度で止まっており、痛みも今はほとんど感じない。
だが――……。
(あの時、腕が落ちたと思った)
膝が折れ、視界が裏返るほどの衝撃だった。なのに今は、紙で手を切った時のような、乾いた痛みしか残っていない。
思い返すたび、繋がった腕や小さな痛みだけを主張する傷が身体が否定する。けれど、記憶は鮮やかに残っている。
(……じゃあ、あれはなんだった?)
理由のない痛み。説明の出来ない衝撃。
そうしたものがこの町には、いくつも転がっているように思えた。
ふと、視線が横に逸れた。
昨日、言い争いのあった屋台が目に入る。
看板は出たままだったが、屋台そのものには鍋も、油も、何も置かれておらず、人の気配がなかった。
(……そりゃ、出せないか)
さっきの喧騒とは別の意味で、その屋台だけが妙に浮いていた。
もう昼時のはずだが、空腹はあるはずなのに、食欲がどこかへ消えていた。
「昼飯代は浮いたかもねえ」
誰に向けるでもない自嘲にもならない言葉が、勝手に唇から零れる。
カナメは、ひとつ息を吐いた。
見上げた空に、陽射しが白く揺れている。眩しさに目を細めながら、ふと足を止めた。
(……ということは)
昨日、占い師がいたのはちょうどこの露店の反対側だった。
視線をそちらへ向ける。
そこに昨日言た筈の占い師の姿はなかった。しかし、その代わりに、衛兵が二人、腰を屈めて地面に触れていた。
声は小さく、抑えられている。けれど、風に乗って断片だけが耳に届いた。
「……身元確認……」
「……暴行の……」
音が空気の奥へ吸い込まれていくように声がぼやけている。
占い師がいたはずの場所には、ただ、乾いた地面があるだけで他は何もなかった。
カナメは、それを特に引き留めることもなく、ゆっくりと歩き出した。
街の外れへ向かって、足を運びながらバックから、桃をひとつ取り出した。
重さは変わっていない。みずみずしいそれは手の中にすっぽりと収まる。
(……よく無事だったな)
あの一方的な戦闘で倒れなかったとはいえここまで無事だと奇跡だ。
「甘いのかな」
呟いて、一口かじった。
「すっぱ」
4
「既定の時刻です。帰還します」
黒く細長い生物が、フードをかぶった人物の左肩で囁く。
声はまるで少女のように明るく淀みはない。
「アルシラが待っています。帰還します」
もう一度、同じ言葉を繰り返すが、その人物は応じなかった。
風が一筋、通り過ぎるレースと金色の刺繍で縁取りされたフードの縁が、わずかに揺れる。
紅の片眼が、ただ一方向をじっと見据えていた。
「英雄、か」