2話 ツノ
1
この世界には、生まれながらにして人のままの者と、獣の形質を宿したものがいる。
あぜ道を歩きながらカナメはのんびりと周囲を見ていた。
田んぼが広がっているので誰がいるのかすぐにわかる。
例えば、少し離れた所には猫耳を持つ男の獣人がいる。
例えば道端で大泣きをして蹲る人間の男の子がいる。
猫の獣人は、人間に治療しているらしい。おそらくその男の子は転んだのだろう。顔を真っ赤にして泣きながら擦れた膝に消毒液をかけられてさらにわんわんと泣いていた。
穏やかな昼下がりだが、ふと山の方を見ればカナメは少し目を細める。
「早く雨宿り出来る場所を見つけないとな」
真っ黒い雲が、じわじわと山の端から染み出してくる。
どれくらい持つだろう――……嗚呼、だめだ、持たない。必ず降る。そう確信する。
カナメは歩幅を少し広げた。
(走るほどでもない。……というか、走ってどうにかなるもんでもなさそうだしなあ)
走りながらそんな無意味なことを考える。
田畑ばかりが広がる道を進むたびに、地図の上では距離が縮んでいるはずだ。しかし、体感ではまるで進んでいない。
湿気を纏った風がふく。空気は重く、靴の底ばかりが地面に擦れていく。
不意に近くでゴンッという鈍い音が聞こえ、カナメは足を止めた。
ほんの数歩後方、牛の角を持つ少年が額を押さえている。
おそらく石を投げられたのだろう、みるみるうちに額に血がにじんでいる。
「やーい」
それに答えるかのように更に離れた所で先程顔を真っ赤にして泣いていた少年が手をふっていた。
「ツノ付き!」
それは明らかに攻撃的な物言いだった。
「バーカ! 牛みたいにトロいくせに、泣きもしないの?」
さらに石を拾い上げて、ニヤリと口をゆがめる。
「どーせ頭に当たっても気づかないだろ? もう一発、いっくよーっ!」
このような光景は何度も見てきた。
人間の成りそこないと言われている彼らにとって、それは日常で、いつものことだろう。けれど、その日は少し違った。
「やりすぎなんじゃないの?」
不意に、カナメが少年の間に割って入った。
一応、カナメは大人の男――……のはずだが、その頼りなさは隠しようがない。
背にはくたびれたバックパック、姿勢は気怠げで、半分眠たそうな目をしている。
その姿に威圧感などあろうはずもなく、むしろ、どこか無防備だった。煽るには十分だったのだろう。
少年の手にある石は強く握られる。
「なんだよ、ツノ付きの味方か⁈」
少年が再び石を振りかぶった、その時だった。
「……ほう」
カナメの背後から低く、乾いた声が降ってくる。
声の主は、先ほど少年を手当てしていた獣人の男だった。
藍の髪が風に揺れ、少年の声を拾ったであろう猫耳が微動だにしない。
その目が、今度は少年をまっすぐ射抜いていた。
「まるで別人だな」
薄く笑んだ口元に、あからさまな皮肉が混じる。
「さっきまで、ギャンギャン泣いてたくせに」
ぐっと肩をすくめた少年が、顔を真っ赤にする。
「バーカ!」
そう捨て台詞を残し、逃げ出すのに時間はかからなかった。
「逃げ足だけは立派か」
猫の獣人が、ふっと肩をすくめて背を向ける。
カナメは、二人のやり取りをぼんやりと眺めたまま、ふと思いついたように声を漏らす。
「……親御さん?」
軽い調子だった。冗談とも、ただの独り言ともつかない。けれど、それは明確に不興を買った。
猫の獣人が、ゆっくりとこちらを振り向く。
その瞳には、猫によくある縦に裂けた瞳孔が――……無かった。
まるで人間のような、丸く広がる虹彩。けれど、頭には藍色の獣耳、腰にはしっぽがある。
(遺伝しなかったんだろうな)
そんなことをカナメはぼんやりと考える。
「通りすがりだ」
短く放たれたその声には、明らかな苛立ちがあった。けれど、睨まれていることに気づいていないのかカナメの表情は変わらない。
ふわりと掴みどころのない空気を纏ったまま、彼は半笑いで「そですか」と答えた。
その隣では、牛のツノをもつ少年が、じっと地面を睨んでいた。
額ににじむ血はそのままに、ぎゅっと拳を握りしめている。唇もきつく噛みしめすぎて、歯の跡が残りそうだった。
「……やり返さなくていいのか?」
カナメが、ふと問いかける。
少年は顔を上げず、小さく呟いた。
「いい。獣人だから」
ぽつりと落とされたその言葉は、反論も説明もなく、ただひどく乾いていた。
なにか言うべきだったのかもしれない――……。
けれど、カナメの口は動かなかった。
そのかわりに、先に落ちてきたのは、空からのひと粒だった。
冷たい雫が、額を打った。
「……雨だ」
カナメがぽつりと呟く。
空を仰げば、もう逃げ場などなさそうなほどに、雲が空を覆っていた。
その直後、猫の獣人が口を開く。
「……放っておいてもいいが。治療は、したい」
目は空ではなく、少年の額の血を見ていた。
「移動するぞ」
その言い方には、誰かの同意を求めるような含みはなかった。
カナメはまだ空を見上げたまま、何も言わない。
その沈黙の中、ふいに少年が「あ」と短く声を上げた。
「それなら、いい場所あるよ!」
唐突に、ぱっと顔を上げてそう言った。
ためらいも、迷いも、何もない。
教えていいかどうかなんて、考えたこともないのだろう。
その提案に大人二人は首を傾げた。
2
「……狭っ」
思わず零れたのは、カナメの正直な感想だった。
草が覆い重なる茂みの奥に、ぽっかりと空間がある。
洞窟ではない。ただ、大きな葉や蔓が複雑に絡んで、たまたま風が吹き込まないだけの、草でできた仮初めの壁とでも呼ぶにふさわしい。
大人がふたり、子どもがひとり。
しゃがんで肩をすぼめれば、なんとかギリギリ入る。
腕も、膝も、ぶつかる距離感。それでも、雨を凌げるだけマシだった。
空が低く唸った、と思った瞬間だった。
怒鳴るような音を立てて、大粒の雨が一気に地面を叩き始めた。土が跳ね、風に巻かれた葉が、何度も枝にぶつかる。
「……こりゃ、しばらく止まらなさそうだねえ」
カナメは抉れていく地面を見つめながら、誰か別の場所の話でもするように呟いた。
そのすぐそばで、猫の獣人は無言のまま動いている。
手つきは冷静で、雨もカナメすらも気になっていないのだろう躊躇がない。
「お医者様なの?」
牛の少年がぽつりと尋ねた。
けれど猫の獣人は、ちらりとも視線を寄越さずに言った。
「それに近い」
それっきり、彼は黙り込むが手は止まらない。
牛の少年は静かに治療を受けていたが、手持ち無沙汰だったのだろう。
そのうち、ちらちらと大人ふたりの顔を見比べ、首をかしげた。
「お兄さんたち、友達?」
問いの意味も意図も、ただの興味なのだろう。牛の尻尾がゆっくり揺れていた。
「はじめましてだよ」
カナメが先に口を開いた。
少年はきょとんとした顔のまま、首を傾げた。
「なんでここにいるの? ……こんなとこ、面白くないでしょ」
ほんの少し間を置いて、付け加える。
「俺みたいに、出稼ぎ?」
「違うなあ」
カナメはのらりくらりと応じ、ひょいと顎で横を指した。
「あっちのお兄さんは、そうかも」
治療を終えた猫の獣人が、ちらりと視線を寄越す。
「“お兄さん”と呼ばれる覚えはない。仕事の途中で立ち寄っただけだ。……子供を相手にしたから遅刻だろうがな」
「スナオじゃないねえ」
カナメがニヤニヤと声を漏らすと、猫の獣人はさも不愉快そうに眉をひそめた。
「そういうお前は、何者だ」
低い声に、ほんのわずかだけ刺が混じる。
「妹探しの旅人?」
「うさんくさいな」
「ひでー」
そう言いながら、カナメは飄々とした笑みのまま肩をすくめた。
「そんな顔されると、上司の顔がチラつく。腹が立つ」
猫の獣人は淡々としたまま、何ひとつ動じた様子を見せなかった。
その長い耳も、背に垂れる尻尾も、雨音にさえ反応しないほど静かだった。
怒っていないのか、それとも余程冷静なのか。どちらにせよ、その沈黙は、他の誰とも違って見えた。
「あのさ」
ぽつりと、思いついたように少年が声をかける。
「大人になったら、旅に行ける? ……楽しい?」
突然の問いに、カナメは一瞬だけ目を瞬かせた。けれど、すぐに、いつもの調子で答える。
「まあ、色々あるよぉ。自由だけどね」
何も断言せず、何も否定もしない、答えになっていないような返事だったが、少年はそれでも「いいなあ」と呟いた。
膝を抱えて、小さく丸まった背中。
あごを腕に沈めて、垂れた耳を揺らしながら、ぽつりと続ける。
「……こんなとこ、早く出ていきたいのに」
言葉の調子は軽かった。けれど、その尻尾は、雨の音とは違うリズムで揺れていた。「今すぐにでも出来る」
外を睨んでいた猫の獣人が、ぽつりと口を開いた。
その声は静かだったが、どこか強い意思があった。
少年が、わずかに目を丸くする。けれどすぐに目を逸らし、肩を落として呟いた。
「……ダメだよ。妹がいるし」
その声には、諦めと、それを隠すための強がりが混じっていた。
「……妹がいなければ、外に出られるんだ」
口にした瞬間、自分でも気まずくなったのか、少年は少しだけ涙をためて視線をさらに外へ投げた。
猫の獣人は、少しだけ視線を逸らし、言った。
「誰かのために残るなら、それはもう自分の選択だ」
ゆっくり、言葉を噛みしめるように続ける。
「妹のせいじゃない」
その言葉を聞いた瞬間、カナメの中で何かが、ひとつだけ確かに揺れた。
深く、重たく、静かな水の底。
ぼんやりとした色の中で、自分の輪郭だけがゆるくほどけていく。
立っているはずなのに、立っている感覚がない。
「――あなたのせいじゃない」
誰かの声。
すぐそばから届いたはずの声なのに、耳の奥で遠く反響するばかりだった。
肩に触れたはずの手も、濡れていたような気がする。けれど、その温度は思い出せなかった。
肌の感触も、声の高さも、何もかもが膜の向こうにある。
色も、風も、意味を失って、ただの「存在しない何か」のように滲んでいく。
「生きているだけで、いいの」
顔は見えなかった。まるで夢を見ている気分だ。
「だから――」
「キツすぎやしません?」
カナメが、ぽつりと呟いた。
雨音が遠のいたあとに落とされたその一言は、やけに軽かった。
ぽん、と空気の中心に石を落としたような響きがして、場の沈黙に妙な揺れを生んだ。
牛の少年は、じっと地面を見つめて、何も言わないまま草の根をいじっている。
顔は見えないが、小さな肩が少しだけ、縮こまっているように見えた。
「フラっと生きて、ヘラッとしましょうよ」
「戦っても、疲れるだけだし」
カナメは続けた。冗談のような言い方だったが、誰も笑わなかった。
「……無責任め」
猫の獣人が、短く言い捨てる。
カナメはその反応にも気に留めず、相変わらずの調子でふにゃりと笑った。
「ずっと力んでたら、疲れるでしょ」
カナメの声は緩く、笑顔もヘラヘラとしたまま頼りない。
「よく分かんない」
少年がぽつりと呟いた。
納得でも反発でもない。ただ、そう言っておけばいいような、どこか宙に浮いた言葉だった。
「ですよねー」
カナメもまた、ふわりと笑った。
声には調子があったが、感情の重みはなかった。
「俺だってわかんないや。大人って案外、テキトーよ」
その瞬間、ふと視線を感じた。
猫の獣人が、こちらを見ている。
怒っているのかと思ったが――……そうでもない気がした。
「どしたの?」
カナメが軽く問いかけると、猫の獣人はほんの一拍おいてから言った。
「……いや、なにも」
そして、ふいっと視線を外へ向けた。
3
どれくらい時間が経ったのか。
ひっそりとした空間の中で、雨の音だけがずっと耳にあった。
「いたた……さすがに腰が痛くなってきた」
カナメがぼやくように呟き、そっと手を伸ばす。触れた先に冷たいものはない。
見上げた空には、もう雨粒の影はなかった。
「……雨、やんだ」
カナメがそう呟いた、ほぼ同時だった。
「おーい!」
遠くから、誰かの声が跳ねるように届いた。
「迎えらしいな」
カナメがまだ声の主を探そうと目を動かすより早く、隣にいた猫の獣人が低く言った。
その視線を追うと、少し離れたあぜ道に、小さな影がいくつも揺れていた。
あぜ道に並ぶ子どもたちは、五人。角と、しっぽ。みんな牛の獣人だった。
遠くからでも、尻尾がわずかに揺れているのが分かる。その動きは、なんとなく――嬉しそうだった。
牛の少年が、ぱっと顔を上げた。そして、何も言わず、ただ立ち上がる。
「……孤立していないなら、まだ考えようがある」
隣で猫の獣人がふいにそう言った。
抑揚はないが、どこか、安堵のようなものが混じっている気がした。
「信用できるなら、まずは話せ」
その言葉に返事はなかった。
少年は、振り返らずに駆け出した。
けれど、その背中は――さっきよりも少しだけ、軽く見えた。
「マジメだねぇ」
カナメが呟く。
猫の獣人は、無言で顎に手を当てたまま、鼻を鳴らした。
面倒そうな表情。目つきもどこか刺々しい。
「適当にあしらうよりは、いい」
その言葉には皮肉の色が濃かったが、それでもどこか優しかった。
カナメは、ぐっと肩にかけたバックパックを引っ張りながら、ゆっくりと立ち上がった。
ずっと同じ姿勢だったせいか、腰に鈍い痛みが走る。
「……オレも出る。アンタは?」
問いかけると、猫の獣人は小さく首を振った。
「まだ、堪能する。静かな場所は貴重だ」
「そっか。じゃあな」
カナメはそれ以上何も言わず、軽く手を上げて、その場を後にした。
振り返ることはなかった。
4
男が去っていくのを見届けてから、ローは深く息を吐いた。
肺の奥に残っていた緊張が、ようやく少しだけ抜けたような呼気だった。
「……で?」
外に向かって問いかける。
声に驚きはない。ただ、予想どおりの面倒ごとが、やっぱり片付かないことへの諦めが滲んでいた。
「なぜ隠れていた、ウラクライ」
茂みの向こうから、乾いた笑い声が返ってくる。
「やあ、フローレンス」
本名をわざわざ引っ張り出してきたその声には、親しげな響きと、軽妙な皮肉がたっぷりと乗っていた。
「今日の君は、ずいぶんと“善良な白衣”っぽかったね」
楽しげな間を置いて、肩をすくめるように続ける。
「まさしく、医療従事者ってやつ?」
ローは何も返さず、ただまたひとつ、重たいため息を落とした。
「ボクは人の劇場を潰す下品な客じゃないよ」
ウラクライは肩をすくめ、ふっと笑った。
そのまま、先ほど二人が去っていった方角を、わざとらしく振り返る。
「それどころか、キミたちの意見に賛同しているんだ」
目線の先には、もう誰もいない。
けれど彼が見ていたのは、そこにいた子どもたちでも、”妹探しの旅人”でもなかった。
もっと陰鬱で、悲惨な何か。彼が“処理”してきた者だろう。
「仲間を殺した口で、よく言う」
ローが低く、切り捨てるように言うと、ウラクライは鼻で笑った。
「仲間? ボクらから逃げたのに?」
そこに怒りはなかった。
ただ、心底つまらなそうに、ゴミを見るような声音だった。
哀れだ、とローは思う。
あんなに膝を擦りむいただけで泣いていた子どもが、父親の死を前に――……何をどう感じられるというのか。
ウラクライは、おそらく、ただ手首を切っただけだろう。
ほんの一動作。
ほんの一瞬。
それでも彼の力は、それだけで死を与えるには十分すぎる。
「逃げるのも一手だ。詰まなければいい」
その口ぶりは、まるで何気ない世間話のようだった。
「それか……飛車がする大番狂わせの奇跡を待つしかないね」
「大それた言い草だ」
ローの呟きに、ウラクライは楽しげに笑った。
「仕事とはいえ、素敵な必然だよね。……これからあの子たちは、少し楽に生きられる」
――……一体、どの口が言うのか。
だが、ローは黙っていた。
牛の獣人が楽になる?
――……否。そんなはずがない。
父親の不在は、痛みになる。痛みはやがて、怒りになる。
怒りの矛先が見つからなければ、目についた誰かに流れ込んでいく。
それがどんな結果を生むか――考えるまでもない。
それでも。罪を問うには、あまりに幼く。罰を与えるには、あまりに弱い。
その分だけ、余計に哀れだった。
不意に、ウラクライが手を伸ばした。
「さあ、帰ろう」
その声は穏やかで、いつも通りだった。
陽が落ちかけた空を背に、彼の顔は陰になって見えない。
けれど、ローは想像がついた。
きっと、機嫌よく笑っている。
「今日は随分と、“良いこと”をした気がするよ」
差し出されたその手を、ローは見なかった。
ただ、そのままやり過ごす。
「……気持ち悪い。そう言うのは“アイツ”だけで十分だ」
それを聞いたウラクライは、「つれないなあ」と言って笑った。
・・・・
(「無責任」ね……)
ぬかるんだ道を歩きながら、カナメは猫の獣人の言葉を思い返していた。
(そうかも)
否定する気にもなれず、胸ポケットにしまった似顔絵に指が触れる。
いつもの癖だ。考えていると無意識にそこに手が伸びる。
(なにがあったかなんて、覚えてないし)
思い出そうとするが、どうも不思議なことにどれもぼんやりとした印象しかない。
何も言わず、前を向いた。
遠くの方では、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。立派な角と、楽しそうに揺れるしっぽ。もう、大丈夫そうだった。
「まあ」
小さく息を吐いて、ぽつりと呟く。
「そういうこともありますよ」