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  作者: 和鏥
1/7

1話 山声

 

 霧が深い山の中、一人の男が歩いていた。

 そのバックパックは、何度も雨に打たれ、日差しに焼かれたのだろう。角は擦れ、色は褪せ、縫い目には泥が固まっている。

 それを背負う男の姿には、登山者に似た気軽さなど見えなかった。

 彼は一度、空を見上げて今何時かを大体知ろうとしたが、鬱蒼とした木々のせいで青空すら見ることはゆるされなかった。

 道を歩いていると、ふと老人の姿が見えた。

 竹籠の隙間から、土の香りを纏った山菜が顔をのぞかせる。山の緑に馴染むようなその光景は、嗚呼山の近くに住んでいる住人だなと確信させる。

「迷子か?」

 老人は男を見るとそう声をかけた。山菜泥棒と思っているのだろう。

「いや、違う。妹を探していて――……ああ、ええと、カナメだ」

 男、カナメはそう言うと握手を求めようと片手を伸ばす。しかし、老人はそれに応えない。カナメは自身のシャツの胸ポケットから一枚の紙きれを取り出した。

 紙の上にいたのは、不機嫌そうな少女だった。

 けれどその拗ねた目つきや頬の丸みは、描いた者の記憶がどれほど鮮やかだったかを語っていた。描かれた少女は、何かに拗ねたように唇を尖らせ、じろりと睨み返してくる。その視線は、紙の中からでもなお、閲覧者を責めているようにも思えた。

 ひどく拙い絵。しかし目を凝らせば愛しさが滲んでいる――……そんな絵だった。

 どことなくカナメと似ていることから、成る程兄妹なのかと老人は納得した。

そんな老人をよそにカナメはどこか気まずそうに頭をかきながら「ちょっと年を食ってると思うけど」と言葉を付け足す。

「知らないな」

 記憶を辿りながら老人は答えた。

 山道には踏み跡も多く、季節のたびに人が訪れては消えていく。けれど、それと同じように――……

「あまりこの奥の山に行かない方がいい」

 老人はこの余所者にそう告げた。

「迷った挙げ句に屋敷に招かれて帰ってこれなくなる。この山は人の寂しさを好むからな」

 老人の口からこぼれたそれらの言葉は、今までも幾度となく嘲笑に塗れてきたのだろう。誰も、山の恐ろしさなど観光客は誰一人として信じていない。けれど、カナメは小さく頷いた。

「気を付けるよ」

 そうは言うが、結局、カナメは忠告を無視して山の中に入っていった。

(嗚呼、ダメだ)

 老人はそう思いつつも心の隅では(やっぱりな。誰も聞きやしねえ)と毒づく。

「山に食われても知らんぞ」

 それでも――……行方不明になった誰かの名前を、また聞くのは耐えられなかった。だからこそ、たとえ笑われても忠告を口にする。それが山近くに住む者の祈りのようなものだった。


 2


 異能――それは、ある日、理由もなく人に宿る。

火を操る者もいれば、獣の声を聞く者もいる。

けれど、得た者自身がその意味も意図を知らぬのは決して珍しいことではない。



「やっぱりダメですか」

 カナメはそう言って、再び広がる霧を見て落胆した。

 彼にもまた異能がある。

 自分を起点にした風を生み出すことができる。そうはいっても、吹き飛ばす程の強力ではないし、自分が起点なので涼しさを作ることもすら出来ない。

「これで霧でもはらえたらと思ったが――……、まあ、現実はそこまで甘くないよな」

 広がる霧はもはや牛乳をこぼしたかのような濃さを持ち、視界を覆った。

 それよりも先程から気になることがある。

「……見られてるなあ」

 草陰からのぞく多量の目は、おそらく動物のものだろう。

 山に見られている。そう思うだけでも居心地が悪い。

「テントを張るにも、場所すら見つからなさそうだ」

 とうとう歩くことも難しいほどに濃霧は彼を包み込んだ。

 ちちち。

 と、鳥が鳴いているのに気が付いた。そして初めて森に入ってから動物の鳴き声を聞かなかったことを思い出す。

 カナメを監視する目、鳥の鳴き声。

 山が息を吹き返した。

 ……と、いうのは少し詩的だろうか。しかし、そうとしか言いようがない。停滞していた空気に動きがうまれる。

 そして、濃霧の奥からガサガサと草陰が揺れた時カナメは目を見開いた。

 そこにいたのは、一人の背の高い男だった。

 腰まで伸びた薄茶色の髪に、利発そうな顔、目は茶色に輝いている。それがどうしてか怪しいとさえ思えてしまった。

「やあ、君も山菜取りに?」

 男は親し気にそう言うと、片手をあげ挨拶をする。

 ちちち、と小鳥が鳴いて男の方にのった。

「……ええと、まあ。そんなもんです」

「村の人じゃないな。こんな所でゆっくりしていいのか? もうすぐ日が暮れるぞ」

 男はそう言いながら指を上にさす。きっと空模様を伝えたいのだろうが、残念なことに木々が生い茂っており見ることはかなわない。

「そうしたいんですけど、霧が。ね」

 カナメがそう答えると、男は苦笑した。

「ああ、この山はすぐ濃霧にのまれるからな。……ああ、自己紹介が遅れた。俺は明晴(あきはる)。この山で暮らしている。よかったら家に泊まると良い。すぐ近くだ」

 ――……いいえ、怪しいのでお断りします。

 と、言えればどんなによかっただろうか。

 いつの間にかカナメは頭を小さく下げて「ありがとうございます」と応えていた。

 しまった、口が滑った。

 そう思ってももう遅い。

 明晴について行きながらふとカナメはあれだけ厄介だった濃霧が散っていくのに気が付いた。


 3


「古い家だが、ゆっくりしていってくれ」

 古い、と明晴はそう言っていた。その言葉をうのみにし、てっきり廃墟に近いかと思っていたが、それは予想をはるかに上回っていた。

 豪華な食事。

 綺麗に掃除された客間。

 絶景の露天風呂。

(あとで請求されるんじゃないだろうな……)

 そう怯えながらも一度山菜のてんぷらを食べてしまえば、その悩みは吹き飛んでいた。

 ――……美味しい。

 ずっと野営続きだったので、その味は格別だ。

 腹も満たされ、湯につかれば極楽はここにあったのかとさえ思ってしまう。

 タオルを肩にかけ、廊下を歩いているとふと、声が聞こえた。

「秋ならもっと豪華にやれたんだ。……いや、つまらない食事ではないはず。多分」

 声からして明晴だ。しかし、それに応える声はない。ただちちち、ちちちと鳥がひたすら鳴いている。

(一体、誰と話をしているんだ?)

 そう思いながら音を出さないよう細心の注意をはらいながら障子を開けると、目の前には大きな茶色の目玉があった。

 障子の向こうにいたのは、人影ではなかった。

暗がりの中、立っていたのは――堂々とした体躯(たいく)の牡鹿だった。

その瞳が、カナメをまっすぐ見つめていた。

 短く悲鳴をあげてカナメは尻もちをつく。それを見た明晴は怒ることも無く「ははは」と明るく笑い飛ばした。

 驚くカナメを無視し、牡鹿は明晴のもとへ駆け寄った。

その仕草はまるで甘える仔犬のようで、角を傾け、頭を差し出す。撫でて、とでも言うように。先程、ないていたらしい小鳥が三羽、牡鹿の角にとまった。

「すまない、聞こえてしまったか」

「いや、こちらこそ。盗み聞きする予定はなかったんですけどね……」

 カナメは慌てて言い訳を試みる。

けれど、明晴の表情は変わらなかった。むしろ、「些細なことだよ」とでも言うように、微笑みすら浮かべていた。それどころかカナメをたたせようと手を差し出す始末だ。

「客人を招くのは久しぶりで不安になってしまった」

 そう眉を八の字に垂らせば、どうやら本当に孤独だったのだろうことを滲ませた。

「風呂も、飯も、良かったですよ」

 カナメが本心を伝えれば明晴は「本当か? それはよかった」と声をあげる。そして、すぐに部屋に戻ると一本のとっくりを掴んできた。

「酒はいける口か? 肴もあるんだ」

 その嬉しそうな顔を見て断れる者は、きっといないだろう。

 注がれた酒は澄んだ香りとともに喉を通り、あとにはほのかな苦味が残った。

湯と膳の余韻の上に落とされたそれは、心の隙間に静かに沁みていく。

 椅子ではなく床に直接座るのが礼儀なのはここの家でも同じなのだろう。

 二人は向かい合うようにして酒をたしなむことにした。

「ここに来る客は大抵この山で迷子になっていてな。俺の出す酒も怯えて飲む始末だ」

 明晴は、言葉と共に杯を傾けた。その口ぶりは語るというより、ゆっくり吐き出すようにというべきだろう。

 その姿は、どこか誰かに聞いてほしかった昔話をようやく誰かに託せた人のようだった。

「俺は、別に取って食おうとしてるわけじゃないよ」

 声には冗談めいた調子を混ぜていたが、その裏にある言いようのない寂しさのようなものをカナメはなんとなく感じとっていた。

「歓迎したいんだ。秋は山の幸が豊富でもっと豪華にやれていたんだけれど、今日もなかなか旨かっただろう?」

 カナメは静かに頷きながら、音に意識を向ける。

この広い屋敷に、響くのはただ一つの話し声と、動物たちの息遣いだけだった。。

 この屋敷は大きいのに明晴しかいないように感じられる。

 足音や人間の気配などまるでない。あるのは、明晴の隣で伏す鹿と、彼の肩や頭に止まる小鳥くらいだろう。

「アンタは、ここにずっと住んでいるのか?」

 カナメの疑問に明晴は酒を呑みながら首を振った。

「二年前、くらいだな」

 そうして慣れた手つきで牡鹿を撫でながらわははと明るく笑う。

「動物にも好かれるし、ここで迷う人間も後を絶たなくて、出ていくにも出ていけないんだ。それに、ここの動物は相当賢い。屋敷内で排泄はしないし、暴れもしない」

 たしかに、言われてみれば動物がいると言うのに屋敷は清潔そのもので、不自然なほど埃や塵も無い。鹿が室内にいるのに日に焼けたどこか美しい畳はそのままを保っている。

「そりゃすごい」

 と、応えるカナメに、明晴ははじめてふと寂しげに笑った。

「なにより、人よりよっぽど信じられる」

 その言葉には重さがあった。明晴に何かあったのだろうと直感させるが――……。

「なんてな! 一度強盗されかけて疑心暗鬼になったことがあるんだ」

 と、明晴に言われてしまえば納得せざるを得ない。

 明晴は再度酒を口に含み、にこりと笑った。

「よかったら、君の話をしてくれないか? 外の人間が持ってくる話は大好きでね」

 それを聞いた明晴は少し悩んでから、肌身離さず持っている妹の絵を取り出した。

「何も面白い話なんてない。だけど――……」

 そう前置きをして、紙を明晴に渡す。

「この子を知らないか?」

 そう尋ねれば明晴はその絵を鹿や小鳥と一緒に見て、首を傾げた。

「いや、山には来ていないな。この子は誰だい?」

「妹だ」

 カナメは酒を一口含み答える。

「少し絵と違うかもしれないけど――……」

「それは心配だな。何日前、彼女は迷子に?」

「十三年?」

 カナメは酒を呑みながらなんとなしに答えた。

「あ、えーっと、十五年前か? よく覚えていないけど」

 その言葉はけっして、嘘ではない。

 本当によく覚えていない。

 どれも断片的で、思い出そうとすると、途端に眠気が差す。

「【青岩鏡(せいがんきょう)】にいたんだ」

 それでもようやく土地名を思い出して言う頃には、明晴は俯いていた。

 酒のせいで眠たくなってしまったのかと、カナメは一瞬動揺したが彼はゆっくりと口を開いたた。

「……そうか……」

 そう呟き、明晴は暫くの間自分が持つおちょこを見つめていた。そして、ゆっくりと顔を上げ、

「しばらく此処にいないか?」

 と、静かに提案するのを、カナメは呆れた様子で明晴を見た。

「探してるって言ってるんだけどなあ……」

 その非難に明晴は面白いほどに動揺を示した。何度もどもりながら結局「いや、まあ、……あの、うん。そうなんだが」と言葉を濁すだけで理由さえ言えない。

 ウソが付けない男なのだろう。

「ありがとう。でも、ごめん」

 そんな男を見て、カナメは静かに答えた。

「明日発つよ」

その言葉に、明晴は深々と顔をさげた。

「すまない」

 かみ締めるようにつぶやく姿はどこか心が痛いと思わせる。

「……それでも、どうか今日は休んでくれ」

 そんな優しい声は今にも消え入りそうだった。

 


 疲れていると嫌な夢を見る。

 裸足のまま、ひたひたと濡れたあぜ道を進んでいく。

足の裏に冷たい水と柔らかい泥がまとわりつき、夢の中なのに、妙に現実味があった。

 どこもかしこもビショビショで、おそらく雨が降っていたのだろうと結論付ける。

 いつの間にか、片方だけ草履が脱げていた。

 むき出しの足の裏が、小石を踏むたびにじんと痛む。

 それでも自分は歩むのをやめない。

 何故だろう。

 夢だからだろうかと、そう思うのに足は歩みを止めない。

 息を切らしていつの間にか走っている。

「なぜ?」

 

 その変哲もない子供の声はカナメを飛び起きさせるのに十分だった。

「最悪だ。上等な布団で悪夢だなんて」

 頭を押さえながらカナメは布団から半身を起こした。頬に違和感があり、触れてみれば泣いてもいるらしい。

 今さらどんな夢を見たかなど覚えていないがそれでも心はざわつかせるのに十分だった。

 二度寝するのは少し恐ろしかった。

 とはいえ、このまま身を起こしているのも居心地が悪い。

「便所……」

 自分に言い聞かせるかのように呟いて廊下を歩けば、すぐに蹄の音がしカナメのすぐ横に牡鹿がやってきた。

 その牡鹿は、まるで「ついてこい」とでも言うように一歩先を歩き出した。

「へえ、案内役を買って出るつもり?」。

 感心と恐怖を否定するための軽口。けれど、それを肯定するかのように牡鹿は数歩歩いては立ち止まり、振り返る。

 その仕草が、言葉以上に「こちらへ」と先程よりも強く訴えていた。

「便所にまで案内されるとはね……」

 賢いよ。と言いながら、カナメはその牡鹿について行くことにした。

 屋敷の暗がりに恐怖におびえて逃げてもおそらくこの牡鹿はついてくるだろう。どこか人間よりも意志の強い眼差しだった。拒んでも無駄だと、彼の存在そのものが静かに告げていた。

 けれど、不意に牡鹿は足を止め一か所を見つめた。

 障子。

 そこはおそらく明晴の部屋だろう。

 蹄を打つ音もなく、牡鹿はじっとその場に立ち尽くしていた。

 まるで、そこにある障子の先に用事があるかのような姿勢。そこで、初めて案内されたのは鹿の要件だったからだと理解した。

 カナメはそっと、障子をあけ――……。

「あ」

 声がした。

 けれど、そこにいたのは明晴であり明晴ではなかった。


 この世界には――生まれながらにして人のままの者と、獣の形質を宿した者がいる。

それは境界ではなく、ただ“差”と呼ばれる壁を築くだけのものだった。

 耳、尻尾、時には角。獣人と呼ばれる者たちは、そうした“証”を身体に刻まれて生まれてくる。

人と異なるのは、その外見だけではないと、世の中は勝手に決めつけてきた。

 人の成りそこない。

 評価はまさしくそれだった。


「鹿の獣人?」

 思わず出た言葉に、明晴は力なく笑った。

 立派な角、鹿の耳。

 頭部から蔦も生えているのか、それは立派な角に絡まり、より神秘的な印象を与えた。。

 けれど、一番気になったのはその喉元だろう。こぶし大の穴がぽっかりと開いていた。

「違うよ」

 それでも明るく笑いながら明晴は答えた。

「俺はここの山の主さ。……まあ、された。と言った方がいいかもしれんがな」


 5


「俺が人を探しているんだ」

 再び向かい合って座り、カナメがどう切り出すか迷っているよりも先に明晴が話をしだした。

「恋人が行方不明でな。ケガをしていたようだが、死体が見つからなくて諦めきれなかった」

 明晴は虚空を見つめるように言葉を落とした。

まさに鹿のような目には深い悲しみの色が沈んでいる。

「俺は修験者について行って、彼女を探し回った。だけど、まあ、仲間に疎まれてな。――それも、無理はない。よそ者の言葉は、どれだけ真剣でも、輪の外では“雑音”でしかなかったのだろう。そうしている間に、主のいない山に置いて行かれた」

 それが二年前だよ。と、明晴は懐かしそうに言う。

「今やこの山は、俺の庭さ」

 そう言った明晴の声には、誇りとも諦めともつかない、曖昧な響きがあった。

「全てを観測し、動物たちも使役させられる。濃霧を出して君をここに誘ったのも俺だ。悪かったな」

 そう聞かされれば、カナメもようやく合点がいった。

 あの視線の正体も、静けさの理由も、すべてがこの男ひとりに結びついていた。

「道理であの濃霧も、アンタが来たと思ったら消えたわけだ。でも、便利じゃないのか?」

「まさか」

 明晴はそう言って笑い飛ばす。

「山の主は人間ではいられない。その内俺は山に喰われてしまう。わずかだが身体が女体になりつつあってな。……それに、山の主ってのは“女”であることが決まりなんだ。それで男をつるんだと!」

 明るく笑う明晴が痛々しく、カナメは思わず聞いてしまう。

「逃げないのか?」

 すると、明晴は笑うのを止め静かに俯いた。

「何度か試みたが、山に邪魔されたよ。俺が人を惑わせるように濃霧を撒いてね」

「……山を出たいから人を招くのか?」

「それもある。情報収集も、とにかく理由はいくつもあるんだ。……だが、困ったことに俺はすでに山に喰われ始めていて当初と思惑が変わりつつある」

 明晴は眉根を下げてじっとカナメを見つめた。

 鹿のような目に、カナメは思わず息を飲む。その目はもう、人のものではなかった。

鹿のように静かで、深く、どこか遠くを見ていた。

そして――もう戻れない場所を、確かに見つめていた。

「……でもな、皆、俺を残して山を降りるんだ」寂しげな笑いに混じる声は、淡々としていながらも、どこか幼い諦めに似ていた。

「それはそうだ。――それも、当然のことなのだろう。彼らには“探す人”がいて、歩む道があって、戻る場所がある。『逢いたい人がいる』『探している人がいる』そういった人間なら招けるという山との約束でな。君が下山するのを俺は止めないよ」

 明晴は、そう呟くように言った。

「……わかってるさ。愛する人を探してる。……邪魔なんて出来るわけがない」

 鹿の耳を伏せたまま、明晴は言う。

「大丈夫。……明日の朝には、霧は晴れる。恐がらせて悪かった。今日はおやすみ」

 明晴はそう言って、今度こそ客間を出て行った。

 カナメはただ彼の背中を見つめるしか出来なかった。


その夜、カナメは不思議な夢を見た。

 枯れた草木を見た男が小さく呟いた。

「明晴。この山は主のいないうつろ山になっている」

 男の後ろに立っている――……あれはきっと、2年前の明晴なのだろう。

 今とは違い、栗毛色の短髪をもつ彼はどこかつらそうな表情で草木を見つめていた。眠れていないのか、それとも恋人を思うあまり心が病んでいるのか、目の下には隈がある。

「……このままじゃ、山は死ぬ。俺たちは一度下山し、対策を練ってくる」

 この時点で明晴はきっと兄弟子たちは戻ってこないと直感したのだろう。

 彼は笑って俯いた。

 置いて行かないでと泣くことも彼にはとうにできなかった。

「明晴」と呼ぶ思い人の声も顔も、すでに明晴は思い出せないでいた。

 まるで墨をこぼしたかのように曖昧になった彼女の存在は、明晴を諦めさせるのに十分だった。

「ああ、わかったよ」

 明晴は屋敷に残ることにした。

 諦めて自嘲の色さえ浮かぶ顔。それを映す鏡は明晴の頭から鹿の角と耳を彼にもう逃げられないのだと残酷に告げていた。

 置いて行かれた時と同じ顔で、諦めてほほ笑む明晴は、いつも同じことをここから去る旅人に言う。


 ――……君も人を探しているのか?

 ――……そうか、そうか。

 ――……せめて、霧が晴れるまでは、ここにいればいい。

 

 旅人を見送るたびに、彼は同じ言葉を繰り返す。

 自分では、もうその霧の外に出られないと知っているからこそ。

 俺にはもう出来ない。

 濃霧は山は俺を許してくれない。

 だから、どうか連れ去ってはくれないか?


 その気持ちは聡明な明晴自身が潰していく。


 ――……無理だ。

 ――……諦めろ。

 ――……顔も思い出せないのだから。

 ――……俺は人でなくなってしまったのだから。


 酷くつらい夢を見た。

 けれど、目が覚めたらどんな夢を見ていたのかカナメは覚えていなかった。

 朝食さえ完食すれば「今日は良い日になるといいけどねえ」などと、声に出たのは信じられないほど調子のいい軽口だった。


 6


翌朝。

山の空気は、昨夜の夢をすっかり洗い流したかのように澄んでいた。

  

「なにこれ?」

 出発しようとし、明晴に呼び止められてまさかとは思っていた。

 カナメは置かれた二つのつづらを見つめた。

 片方は大きい。

 片方は小さい。

「お土産だ!」

 明晴は目を輝かせながら、大きさの違う二つのつづらを並べてみせた。

「遠慮なんかいらないぞ。君の手で好きな方を選んでくれ」

「大きい方を選んだら、幽霊が出たりする?」

「あはは! 大丈夫。これは返礼品なんだ。山の主の家を訪れた者は富を授かるが二度とは此処に来ることができない。それが規則でね」

 寂し気にほほ笑む明晴を見て、カナメは、つづらに向けていた目を明晴に向けた。

「選ばない」

 明晴の顔が、ほんの一瞬、見たこともないほど動揺で揺らいだ。

 彼は慌てて大きいつづらの蓋を開けて中身を示す。

「中身がわからないと不安か⁈ こちらは反物だ。こちらの小さい方は山菜だぞ」

 その動揺具合にカナメもつられながら「違う、違う」と訂正を入れる。

「次来た時、二つ貰おうと思うんだ」

 それは酷く強欲だな。とカナメ自身でさえでも思った。そう思いながらもカナメは言葉を続けていく。

「オレはまだ妹を探して放浪する予定だし、こんなに沢山貰っても旅先で活かしきれないと思うんだ。だめかな?」

「……それは、欲張りだな」

そう言いながら、明晴は――……小さく笑った。

昨夜の、どこかぎこちなさを帯びた作り笑いとは違う、少しだけ肩の力が抜けた、素朴な笑顔だった。

「山が粧う頃……秋になったら、また来てくれ」



「まさか、出口まで見送りとは。律儀な鹿だな」

 カナメはお見送りの牡鹿の頭を撫でながら言った。

 霧はすっかり引き、空はやけに澄み切っている。

 歩けば歩くほど、山菜がぽつぽつと目につき、少し失敬させてもらった。「よし」

 次の村までは遠いだろう。

 けれど、歩みを止めるわけにはいかない。

「さっさと進みますかね」

 そう言ってカナメは、霧の晴れた山道をゆっくりと歩き出した。


 ・・・


離れていく背中を、しばらく見送っていた明晴は、指先に止まった小鳥を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「……強引にでも引き留めるべきだったのかな」

風に溶けるような小さな声は、陰りに満ちている。

「“青岩鏡の厄災”。まさか、その生還者に会えるなとは思ってもみなかった。彼の妹さんは――……」

言いかけた言葉を途中で飲み込み、明晴は小さく首を振る。

「彼はまだ、諦めていないもんな」

小鳥の羽毛にそっと触れながら、目を細めた。


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