2.「淑女は.林檎を齧ってはなりません」
「すぐに必要なものを荷造りしなさい。明日のうちに発ちます」
ミランダ命じる母は、保養地をさもいやそうに見回した。
「お前の役目もこれ限りです。お前も荷物をまとめて去りなさい」
これも後で知ったことだが、母が保養地へ行くのを知った父が、保養地の家令にミランダの今後の身の振り方を任せていた。ミランダはそのまま保養地に残り、家政婦長の補佐になった。
母はわたくしを見下ろして告げた。
「あなたはこれから王都の館に戻って、淑女の教育を受けるのです。今日のように林檎を齧るなんてもってのほかです。淑女は林檎を齧ってはなりません。はしたない」
そして続けて言い渡した。
「あなたは王子妃になるために努力なさい。絶対に王子妃になるのです」
その時のわたくしは、乳母のミランダやキャシィや保養地の使用人、なによりもグィードと引き離されることに絶望していた。
そんなわたくしにおかまいなく、荷造りは進み、それを行う使用人が涙ながらに別れを告げる。
それを見咎めた母が、ぐいっとわたくしの髪を掴んだ。
「エランダル侯爵家の正統な娘が、使用人と馴れ馴れしく言葉を交わすとはなにごとですか!恥を知りなさい!」
そして客間へと引きずるように連れていかれた。
「さ、ここで何を学んだか見ましょう」
そして一冊の本を渡した。
「読んでごらんなさい」
それは歴史書で、わたくしとグィートとキャシィの三人で、何度も読んだことがあるものだった。この館にある歴史書や物語の本は読みつくしていた。
わたくしには難しい単語もあったが、執事に聞いて理解していた。
しかしその時のわたくしは、悲しみと当惑でまともに頭が動いていなかった。
時々どうしてもしゃくりあげてしまい、たどたどしい読み方になってしまった。それは母を苛立たせた。
パシっと扇が鳴って、わたくしの手を打ち、本が床に転がった。
「なんて無様な読み方なの?帰ったら家庭教師に厳しく指導してもらいます」
そして扇で落ちた本を指した。
「拾いなさい」
わたくしは少し震えながら本を拾った。
「頭に乗せて」
おとなしく従う。作法の授業でやったことだ。これで歩くのだ。
「歩きなさい」
わたくしはしゃくりあげないように我慢して、部屋の中を指示されるがまま歩いた。上手にできたと思う。
しかし母は満足せず、一定の間隔で肩や腰や背中を扇で叩いた。そのようなことはされたことがないので、驚いた。そして体がぐらついた。その度母は嬉しそうに笑ったのだ。
わたくしは混乱の中に落とされた。
母親とは乳母のミランダのような、優しく慈しみ深い人だと夢見ていた。いつか会える日には、自慢に思ってもらいたいと、作法も勉強もがんばっていたのだ。
なぜわざわざ失敗させて、それを笑うのかわからない。
いつしかわたくしの顔は涙で濡れていた。
「やはり思った通り、野育ちね。厳しく躾けますから、そのつもりでいらっしゃい」
一通りわたくしを嬲った後、母は満足そうに言った。
「お前に付き合ってつかれました。夕食までわたくしは休みます。邪魔をしないように」
わたくしはほっとした。しかし母はドアで振り向いて告げた。
「お前は部屋にいるように。誰とも会ってはなりません。あの汚い子供達とは二度と会ってはなりませんよ」
ああ、ミランダやキャシィ、そしてグィードとも別れの挨拶もできないのか。わたくしは絶望した。
部屋に帰って泣いていると、窓をコツコツと叩く音がした。
窓を見やると、そこにグィードがいた。わたくしは急いで走り寄って窓を開けた。
「グィード、グィード、わたくし、明日王都に行かなくてはならないの。もうあなたと会ってはいけないと言われたの」
泣きながらバルコニーに立つグィードに縋ってしまった。
「リシー」
グィードが抱き返す。
「ほら、林檎を持ってきたよ。君の好きな真っ赤な林檎だよ」
グィードは真っ赤でつやつやの林檎を差し出す。
「わたくし…」
戸惑いながら言う。
「もう林檎を齧ってならないと…」
わたくし達は少しの間黙り込んだ。
「もし僕が大人だったら…」
悔しそうにグィードが言う。
「君をここから連れ出して逃げるのに」
「わたくしもよ。大人だったら逃げ出したわ」
顔を見合わせた。
「逃げよう」
「逃げる…」
わたくしが心を決めたその時、ドアが開いた。
びくりとして振り返ると、そこには母ではなく執事がいた。
「いけません、お嬢様」
執事は母に命じられて見張りについていたのだ。
「お嬢様達がお逃げになってもすぐ捕まります。どうか今は大人しく奥方様に従ってください」
わたくしはかぶりを振った。
「いやよ。林檎も齧れない生活なんて!グィードともう会えないなんて!」
シーと言って執事はわたくしを宥めた。
「今は我慢なさいませ。大人になるまでは。大人になれば道が開けるかもしれません」
それは優しい嘘だった。それでもわたくし達はその嘘に縋りついた。
「大人になったら迎えにいくよ」
グィードがわたくしだけに聞こえるように、小さな声で言った。
「なるべく早く、君の元へ行く。君に会うたびに林檎をあげるよ」
「でも、わたくし」
シーと言って。今度はグィードがわたくしを宥める。
「君の心が僕にあるなら、林檎を受け取って。受け取ってくれるうちは諦めない。そして…」
林檎をわたくしの両手に押し付けて続ける。
「渡した林檎を君がそのまま齧ったら…」
「齧ったら?」
「君を連れていく」
約束は結ばれた。
「その林檎をわたくしが齧ったら…絶対よ?」
「約束だ」
グィードは林檎を残して、バルコニーから去って行った。
執事はわたくしの手の中にある林檎を取り上げた。
「これはそのまま齧らなくても、召し上がることができるように取り計らいましょう」
そう言って去って行った。
一人部屋に残されたわたくしは、涙に濡れたまま夜を迎えた。