1.幸せな日々の終わり
それはわたくしとあなただけが知っている約束。
あなたが林檎をわたくしに差し出す。
もしも、もしもよ。
わたくしがそれをそのまま齧ったら…
あなたが差し出す、その林檎をわたくしが齧ったら、わたくしは永遠にあなたのもの。
全てを振り捨てて、あなたにわたくしを捧げるわ。
***
パシン!!
鋭い音の後、衝撃で横ざまに倒れたわたくしの頬がかっと熱くなる。その熱が痛みであることに気づいたのは数秒後。
わたくしは母に扇で左頬を叩かれたのだ。
目に涙が湧いてくる。
「みっともない!すぐにお立ちなさい!」
母は七歳になったばかりの娘であるわたくしに、容赦なく命じた。
「泣くのではありません!エランダル侯爵家の正統な娘であるあなたが、なんとはしたない。林檎をそのまま齧るなんて」
あなたと林檎を齧っていたのは幼い頃の保養地。地名は覚えていない。
いいの。あなたが全て覚えていてくださるから。
わたくしは生まれてすぐその保養地に送られて、七歳の時に王都へ帰ってきた。
楽しい日々だった。
あなたと出会ったのはそこだった。
あなたは、わたくしより一歳上。
わたくしグリセルダは、乳母と乳姉妹のキャシィと共に保養地に送られ育てられた。
わたくしはあなたのことをあまり知らないわ。
なぜそこにいたのかとか。
保養地の管理人の関係者だということは、後になって知ったけれど、あなたの身分は誰も教えてくれない。
そんなことはどうでもいいの。
保養地の館の隣の館に住んでいて、よく遊びに来てくれたわ。
わたくしを「リシー」と呼んでいたわね。
あなた、グィードと名乗ったあなたとわたくしとキャシィは、よく一緒にすごしたわ。
あの頃は何にも知らなくて、三人で林檎を分け合ったものだった。
ひとつの林檎を三方向から齧り合うの。
あの頃でさえ、あなたの唇はわたくしの唇を求めていたわ。もちろんわたくしも。
林檎を齧った終着点は、甘いあなたの唇だった。
いつも唇と唇がぶつかって、二人で笑い合った。
あの頃はくちづけの意味なんて知らなかった。ただただ、あなたが好きだった。
楽しい子供時代は、七歳で終わりを告げた。
母セアラが保養地へやってきたのだ。
後で知ったことだが、私が生まれた時、母はわたくしに失望しまた激怒した。
男児ではなかったから。
あっさりと乳母へわたくしを引き渡し、首が座ると保養地へ送った。
母は女児なんかいらなかった。男児をもうけるために邪魔だったから。
しかし七年経っても、子供は一人も授からなかった。
苛烈な性格の母は公爵家から嫁いで来たこともあり、貴族女性の矜持が強く、父は安らぎを求めて第二夫人を囲った。
第二夫人の存在は、わたくしが六歳になるまで隠されていた。母が第二夫人に辛く当たることをわかっていたから。
第二夫人にはわたくしと二歳違いの娘がいて、父は大層可愛がった。
そしてわたくしが六歳、腹違いの妹アデライードが四歳の時、第二夫人は男児を産んだ。
喜んだ父は、第二夫人を王都の館の敷地内の離れに迎え入れた。
当然母は怒り狂った。
しかし離れに迎え入れてすぐ、男児は名づけもされないうちに命を落とした。
当初は母が手を下したのではないかと囁かれたのだが、それは冤罪だった。
ただし、母は外聞も気にせず喜んで高笑いしたとか。
父はますます第二夫人にのめりこみ、母を顧みなくなった。
そしてアデライードを第一王子の婚約者にしようと画策し始めた。
それは母の耳に届き、はっとわたくしの存在を思い出させたのだ。
「正統な娘をさしおいて、あの卑しい女の子供を王子妃にですって?あなたはどうかなさったのではございませんか!?」
母は父を責め立てた。
母が「卑しい女」と言ったのには理由があった。
第二夫人エラの祖母が庶民だったからだ。エラの祖父は子爵家の嫡男だったが、庶民の女性を愛し、一時期市井に下っていたのだ。
父親が急な病で亡くなり、連れ戻された時には子供が三人いた。子爵家では仕方なくエラの祖母を妾として迎えることを条件に、エラの祖父に子爵家を継がせることができた。表向きは正妻を据えたが、エラの祖父は見向きもしなかった。
数年後エラの祖母が亡くなった時、正妻はその子供を正妻の養子としたのだ。
父は怯んだ。
「正統な娘とは保養地のグリセルダのことか。いつまでも田舎で育った娘に務まるだろうか」
と弱弱しく抵抗を見せたが。
「先の侯爵が名付け親の正統な娘ですよ!?グリセルダの方がふさわしいに決まっています。早速呼び寄せて教育しますわ」
そうして母は保養地へやってきて、林檎を齧っているわたくしをみつけたのだ。
貴族の、エランダル侯爵家の、そして自分の娘が卑しい子供達と共に地べたに座って林檎を丸のまま齧っているなんて!
母は激怒して、有無を言わせず使用人に命じて、わたくしをグィードとキャシィから引き離させた。
そして自分の前に立たせて、扇でわたくしの頬を打ったのだ。
「すぐにお立ちなさい!」
衝撃で横ざまに倒れたわたくしに命じた。
涙が溢れて止まらないわたくしは、乳母を求めた。
「もうあなたは乳母など必要ありません!さっさと立って泣き止みなさい!侯爵家の娘としての矜持をお持ちなさい!」
乳母ミランダはわたくしを庇った。
「まだ七歳のお子様です。どうかご容赦を」
そんな乳母に母は冷たく聞いた。
「まさかお前はその辺の子供のように、野放図にわたくしの子を放っておいたのではないでしょうね?教育はどこまで進んでいるの?」
「お嬢様は大変お聡く、すでに読み書きは習得なさっていらっしゃいます」
「お作法は?」
聞いてからフフンと嗤った。
「今の様子から見てわかります。野育ちのままなのでしょう」
ミランダは
「今はお遊びのお時間でございます。旦那様から作法の先生が派遣されて、お嬢様は大変優秀とのことでございます」
「優秀ね…」
母は冷たくわたくしを見た。ミランダに抱き起されていたわたくしに母は命じた。
「母に挨拶をしてごらんなさい」
わたくしは涙に濡れたまま、淑女の礼をしてみせた。
その肩を、再び扇で殴打した母が告げた。
「あなたは今日限りでここから離れて、王都へ行くのです。王太子妃になるための教育を致します」
わたくしは目の前が真っ暗になった。