覚悟と恋の自覚 ③
髪と体を丁寧に洗い、キチンとヘアートリートメントもして、ゆったりと広いバスタブに浸かった。
ポカポカと全身が温まってから、わたしは入浴を終えた。
『湯冷めしないようにして下さいね』
――フカフカのバスタオルで髪の水分を拭き取っていた時、ふと入浴前に電話で聞いた彼の一言が頭をよぎった。
わたしの髪は長いので、乾かすのに時間がかかる。そのため、疲れている時や面倒だと思った時には根元だけにドライヤーをかけ、あとは自然乾燥で済ます、ということが今でもたまにある。その方が髪もダメージを受けにくいのだと、美容師さんから言われたことがあるのだ。
でも、湯冷めしないためにはそんなことを言っていられなかった。
せっかく彼が心配して言ってくれたのだから……と、その夜は毛先までしっかりドライヤーをかけて、自慢のロングヘアーを乾かすことにした。
「――桐島さんって、自分の恋人に対しても同じように言ってるのかな?」
思わず口をついて出たそんな疑問が、わたしの胸をチリリと焦がした。
彼に恋人なんていませんように。そして、わたしのことだけを考えていてくれますように……。自分が何故そんなワガママなことを願うのかも分からずに、わたしの心の中は彼のことで占められていた。
そんな自覚がない恋の始まりと、父の病状への心配とが複雑に混ざり合う中で、わたしはあまり眠れない夜を明かした。
* * * *
――翌日、朝食を少し残したわたしは制服である赤茶色のブレザーを羽織ると、ダイニングテーブルの下に置いてあったスクールバッグを手にして席を立った。
「――ごちそうさま。じゃあ、学校に行ってくるね」
「お嬢さま、もうよろしいんですか? ――こちら、お弁当でございます」
史子さんが心配そうに眉をひそめた後、持っていた保温のランチバッグをわたしに手渡してくれた。
「ありがとう、史子さん。ゴメンね、残さずに食べられなくて。――ママ、パパのことよろしくお願いします」
「ええ。……あ、胸元のリボン、曲がってるわよ」
同じテーブルで紅茶を飲んでいた母は、立ち上がってわたしのところへやってくると、制服の赤いリボンを直してくれた。
このリボンは、茗桜女子学院の制服のシンボルみたいなもので、お気に入りだという子が多い。わたしもその一人だった。
初等部と中等部から上では制服のデザインが違うのだけれど、このリボンだけは初等部からずっと同じなのだ。
「……ありがと。じゃあ、里歩と待ち合わせしてるから」
中川里歩は、初等部からのわたしの大親友だ。彼女は中等部からバレーボール部に入っていて、高等部二年生の秋からはキャプテンを務めていた。
「ええ、行ってらっしゃい。里歩ちゃんにあんまり心配かけちゃダメよ」
「うん、分かってる。――じゃあ、行ってきます」
父の病状が気になっていたわたしは、後ろ髪を引かれる想いだったけれど。「父はわたしが普段どおりに学校へ行った方が安心するだろうから」と彼からも言われていたので、父のことは母に任せることにしたのだった。
* * * *
――自由が丘駅から渋谷・新宿駅を経由して、わたしは初等部の頃からずっと電車の乗り継ぎで通学していた。
「――絢乃っ、おはー!」
京王線の新宿駅、八王子方面行きホームで里歩がわたしに手を振ってくれた。
彼女は背が高く、ショートボブカットでちょっとボーイッシュな女の子。新宿区内に住んでいて、ご両親は経営コンサルタントの事務所を構えられている。
彼女とわたしは、バレー部の朝練がない日にはいつも、このホームで待ち合わせをしていた。
「……おはよ、里歩」
「おは。……ってあれ? 絢乃、今日はなんか元気ないじゃん。どしたの?」
わたしは精一杯の笑顔で挨拶を返したつもりだったけれど、里歩はその笑顔から敏感にぎこちなさを感じ取ったらしい。さすがは親友のカン、というべきか。
「そんな深刻そうな顔してたら、せっかくの美人が台無しだよ? 何か困りごと?」
自分では鼻にかけたりしないけれど、里歩曰くわたしは「美人でスタイルがいい」らしい。――彼女はそのことを軽く茶化しながらも、親友としてわたしを気遣ってくれた。
「……あ! もしかして、初めての恋わずらい?」
「……えっ?」
「だってほら、昨日はお父さんの誕生パーティーだったんでしょ? もしかしてそこで、ものすごいイケメンに出会っちゃってたりとか!?」
彼女は何を思ってか、唐突にトンチンカンなことを言い出した。……そういえば、その前の夜は疲れ切っていて、里歩に連絡するのをすっかり忘れていたのだ。
「ち……っ、違うわよ!? 何言ってんの、もう!」
わたしはとっさに否定したけれど、内心ではヒヤッとしていた。その前日彼に出会い、知らないうちに惹かれ始めていたのは紛れもない事実だったから。
「わたしが気になってるのは、まったく別のことよ。パパのこと」
「お父さん? なんでまた」
ため息まじりに答えたわたしに、里歩が少し釣り上がっている目を丸くした。まさかその話の流れで、父の名前が出てくるとは思わなかったらしい。
ちょうどホームに滑り込んできた電車に乗り込んでから、身長が百六十センチに少し足りないわたしは自動ドア横のバーにつかまりながら、前日の出来事を里歩に話した。
「――えっ!? お父さん、倒れたの!? そりゃ大変だったね……」
身長が百六十七センチもある里歩は、余裕で吊り革につかまって声をひそめた。同時に眉もひそめていた。
ちなみに後から知ったことだけれど、貢の身長は百七十八センチだそうである。
……それはさておき。
「うん、そうなの。だからわたしもパパのことが心配で、ホントは学校どころじゃないんだけど……」
「そっか……、そりゃあ心配だろうねぇ。連絡待ちの状態っていうのももどかしいだろうし……」
「うん……。分かってくれる?」
わたしは頷いた。里歩がその時のわたしの気持ちを理解しようとしてくれて、ものすごく嬉しかった。
「でもさぁ、絢乃が一緒に行ったところでよ、お父さんの余命宣告とか聞いて冷静でいられんの?」
「……う~ん、それ……は…………、ムリかなぁ」
唸ったわたしに、里歩も「でしょ?」と言った。さすが、わたしの性格を知り尽くしている親友である。
「だったらさ、多少落ち着かなくたって、学校行ってる方が気が紛れていいんじゃないかな? あたしもついてるんだし、お父さんもお母さんも安心すると思うよ?」
独りで重い事情を抱えて悩んでいるより、こうして温かく励ましたり慰めたりしてくれる親友が側にいてくれる方が気が楽かもしれないな。――わたしはそう思った。
「……うん、そうかもね。桐島さんからも昨夜、電話で同じようなこと言われたし」
「桐島さんってダレ?」
独りごちたつもりだったのに、里歩にバッチリ聞かれていた。「あ……」と慌てて口を噤んだけど、時すでに遅し。耳たぶまで真っ赤だったわたしの顔ともあいまって、もはやごまかしきれなくなっていた。
「えーっと……、パパの会社の人。昨日、パパの病院行きを勧めてくれたのも彼でね、歳は……二十代半ばくらいかなぁ。すごく誠実な人で、パーティーの帰りも車で送ってくれて。すごく親切な人だった」
わたしはしどろもどろになりながら、何とか彼の親切さだけをアピールしようと頑張ってみたけど、それだけではないということを里歩はとっくに見抜いていた。
「ふぅ~~ん? やっぱ昨日、いい男性に出会ってたんじゃん♪ ねえねえ、その人イケメンなの? 身長は高い? 低い?」
わたしから恋バナの気配を感じ取ったらしい彼女は、スッポンよろしくこの話題に食らいついてきた。……というか芸能レポーターに近いような気がする。
「え……? えっと、イケメン……だとは思う。清潔感があって、優しそうな人で、身長は……そうね、わたしより二十センチくらい高い感じかなぁ」
わたしはつい、彼と連絡先を交換したことまで言ってしまった。
「うんうん。――で? そこまでしてるってことはさ、アンタもその人と付き合いたいって思ってるわけね?」
「それは……、まだ分かんないけど」
思いっきり痛いところを衝かれ、わたしはうろたえた。
「連絡先を交換したのは、パパのことで彼にお世話になったからで……。送ってもらったし、いつかはちゃんとお礼もしたいなぁって思ってるだけで」
何とも苦しい言い訳だけれど、要するに、「また彼と会う口実がほしくて」ということだった。……こんなこと、里歩には口が裂けても言えなかったけど。
「……っていうか! だいたい、父親が倒れて大変な時なのに、こんな話題で盛り上がるなんて不謹慎でしょ!?」
そして、そんな話で盛り上がっている場合じゃなかったと我に返ったわたしは、胸のざわつきをごまかすように里歩をたしなめた。もちろんTPOをわきまえて、小声で。
「あ……、ゴメン。つい調子に乗っちゃってさ。悪気はなかったんだけど」
里歩はばつが悪そうに、長身の肩を縮こませた。
「いいよ、里歩。分かってるから」
彼女はわたしが落ち込まないように、気を遣ってくれていたのだ。彼女がわたしの性格を熟知していたように、わたしも中川里歩という女の子の性格は知り尽くしていた。何せ、わたしたちの友情は、当時ですでに十年続いていたのだから。
彼女はわたしの変化にものすごく敏感で、少しでも様子がおかしいと「何かあった?」と訊いてくれる子だ。きっとこの時も、そうだったのだろう。
それに、わたしだって別に怒っていたわけではなかったし……。
「――お父さん、大した病気じゃないといいけどね」
里歩がわたしを慰めるように、そう言ってくれた。
「うん……。でもね、わたしもママも、もうある程度は覚悟できてるの。パパがもし重病で、余命いくばくもなかったとしても、その事実をちゃんと受け入れよう、って」
逃げたところで、その事実が消えてなくなるわけではないから。どんなにつらい現実だって、受け入れなければ前に進めないのだ。
「絢乃……、アンタは強いね。あたしだったらそんな現実、つらすぎて受け入れらんないよ」
凛としたわたしの答えに、里歩は「自分にはマネできない」と軽く首を振った。
「買いかぶりすぎだよ、里歩。ただ、これも名家に生れた子供の宿命かも、って思ってるだけ」
わたしは肩をすくめて見せた。わたしは強くなんかないよ、と。
大好きな父に何かあった時には、わたしが跡を継ぐ。――そう決めたのはわたし自身だった。
ただ、父はまだ若かったので、そうなるのはもっと先、自分が成人を迎えてからだろうなと、父が病に倒れるまでは漠然と思ってもいた。早くても、高校を卒業してからになるだろうな、と。
だから、その現実にぶつかった時、「まだ早すぎる」と思った自分がいたことも事実だった。