雨降れば…… ⑥
『大正解♪ っていうか絢乃ちゃん、オレの番号登録してあったよな? もしかして画面ちゃんと確認しないで出た?』
「はい。実は朝から高熱出して寝込んでて……、今もまだちょっと頭がボーッとしてるんです」
後藤先生から〝知恵熱〟と診断されたことを話すと、悠さんは「子供かよ」と笑っていた。
『なんか具合悪い時に電話しちまってゴメンな? ――実はさ、貢が昨日から実家に帰って来てんだけど様子おかしくて。オレ、アイツに八つ当たりされまくってるワケよ。んで、アイツは言いたがらんけどもしかしたら絢乃ちゃん絡みかなーって』
彼の話し方から、これは貢の耳に入れたくない話のようだとわたしは気づいた。
「実はそうなんですけど……。あの、貢さんは今お家にいますか?」
『うんにゃ、今出かけてる』
「そうですか……。――実は昨夜、貢さんとちょっとあって、わたしから『しばらく距離を置こう』って言ったんです。そしたら、あれから何の連絡も来なくなって。もしかしたら、まだそのこと引きずってるのかも」
言い出しっぺのわたしですらあの後大泣きして、挙げ句知恵熱で寝込む羽目になってしまったのだ。言われた方の貢はもっとつらかったに違いない。
『ガキかよ、アイツは』
長い溜めの後、悠さんはそう吐き捨てた。
「ホントはもっと詳しい話もしたいんですけど、電話じゃちょっと長くなりそうなので……」
『そうだよなぁ、オレがこれから見舞いに行くっつうのも家の人に迷惑かかるだろうしな』
母や史子さんたちはまだ、悠さんの顔も貢との関係も知らなかった。だから突然「絢乃ちゃんの見舞いに」とウチへやって来ても不審がられるだけだった。
『んじゃ、こうしようか。明日オレ、午後から仕事の研修会で新宿にいるんだわ。それが四時ごろには終わるからさ、キミは学校帰りに新宿までおいで。その時に改めて詳しい話聞かせてもらうってことで』
「はい、それで構いませんけど……。悠さん、〝仕事の研修会〟って?」
『あれ、アイツから聞いてない? オレさ、この十月からバイト先のひとつで社員に登用されたんだわ。つまり店長候補ね』
「ああ、なるほど。貢さん、わたしにはそんなこと一度も教えてくれませんでした。それだけじゃなくてヘッドハンティングの話も」
貢はあの夏の夜以降、わたしに大事な話を何ひとつしてくれなかった。不満を言い出せばキリがないので、とりあえずそこまででストップしたけれど。
「でも悠さん、学校がある八王子から新宿まではいくら急いでも一時間近くかかりますよ? 少し遅くなっても大丈夫ですか?」
『うん、大丈夫☆ オレ待ってるし、絢乃ちゃんは学校終わってから「今から行きます」ってメッセージ入れてくれればオッケー』
「分かりました。じゃあ明日、新宿で。……あ、このことは貢さんに内緒でお願いします」
『了解♪ 絢乃ちゃん、お大事に。アイツ帰ってきたみたいだから切るわ。じゃな』
電話が切れる前に、玄関のドアが開く音と貢の「ただいま」という声がわたしにも聞こえてきた。「貢には内緒で」とわたしが言ったので、悠さんも彼の帰宅に気づいて慌てて切ったのだろう。
――スマホを閉じたわたしは、ふと窓の外に目を遣った。前日から降っていた雨は、勢いこそ弱まっていたけれどまだ降り続いていた。
でも、弱くなっているということは、わたしの心も少し楽になったからなのかな、と思うことにした。
* * * *
――翌日、月曜日の朝。お天気はやっぱり雨。 わたしはまだ少しだるさが残っていたけれど、熱は下がったので学校へ行くことにした。
「じゃあ、学校行ってきます。ママ、会社の方はよろしくね」
「はいはい、任せといて。まだ本調子じゃないんだから、あんまりムリしないようにね。行ってらっしゃい」
母は心配しながらも、「いつもどおり電車で行く」と言ったわたしを送り出してくれた。
新宿駅に着くと、京王線のホームで里歩と唯ちゃんが待っていてくれた。三年生になってからは唯ちゃんも待ち合わせに加わったのだ。
二人には心配をかけたくなくて、できるだけ気丈に振る舞い、「今日はちょっと体調が悪いから会社はお休みするの」とだけ言っておいた。
* * * *
――そして放課後。
「絢乃、もう帰るの?」
終礼が終わると同時に席を立ったわたしに、里歩が訊ねた。
「うん。ちょっと人と会う約束があって急いでるから。じゃあまた明日ね!」
その後、彼女と唯ちゃんとの間に一体どんな憶測が飛び交っていたのか。わたしは今も知らない。
「――悠さん、遅くなってごめんなさい!」
精一杯急いで四十数分後、わたしは悠さんが待っていたJR新宿駅の東口に着いた。
「いやいや、オレもちょっと前に研修会終わって来たばっかだから」
悠さんは穏やかな表情でそう言って、近くにある分煙式のカフェで話そうとわたしを促した。
「――へぇ……、絢乃ちゃんとアイツがそんなことになってたとはねぇ」
わたしの話を最後まで聞いた悠さんは、タバコの煙を吐き出しながらそうコメントした。 セルフ式のこのお店で彼が注文したのはブラックコーヒー。そういえば、オフィスを訪ねて来られた時にもブラックを飲んでいた。
「はい。わたし、今思えば自分のことしか考えてなかったんだなぁって。彼を追い詰めてたなんて、一昨日までは考えてもみませんでした」
そう言ってから、わたしは少し冷めたカフェラテをすすった。
「んでも、絢乃ちゃんは『少し距離を置こう』って言っただけなんだろ? それをあのバカタレは、キミに愛想尽かされたと解釈したワケだ」
「そう…………みたいですね」
わたしは悠さんの辛辣な意見に唖然となった。このご兄弟は仲がいいはずなので、悠さんがここまで辛口になるということは相当頭の痛い問題だったということだろうか。
「……でも、わたしって勝手なんですよね。彼に自分からそう言ったのに、彼から連絡が来ないだけで淋しくなっちゃって。二日会えなかっただけで、心にポッカリ穴が空いたみたいになっちゃってるんです。やっぱりわたしは、貢さんがいないとダメなんです」
前日、熱に浮かされながら「あんなこと言うんじゃなかった」と激しく後悔したのだと、わたしは悠さんに打ち明けた。
離れてみて分かったことは、やっぱりわたしには彼が必要なのだということ。もう、彼はわたしにとってかけがえのない存在となっていたのだ。
「うん、分かった。それだけ絢乃ちゃんは、アイツのこと本気で好きだってことだよな。アイツだってきっとそうだよ。オレには言わないけど、兄弟だから言わなくても分かる。絢乃ちゃんを好きだって、大事だって思ってるのバレバレだもんな、アイツ」
悠さんはそこで、ご自分のスマホを取り出した。電話機能を起動して、通話履歴からある番号を選び、発信した。
「……悠さん、誰に電話してるんですか?」
「貢のケータイ。さっきオレに言ったこと、アイツにもチョクで言ってやんな」
彼はそう言って、スピーカーフォンにしたスマホをテーブルの上にそっと置いた。わたしは「はい」と頷き、それを自分の前まで引き寄せた。
『――兄貴!? 何だよ仕事中に!』
「貢、わたしだよ。絢乃」
『絢乃さん!?』
お兄さまからの電話だと思って不機嫌だった貢は、わたしが通話相手だと分かると困惑の声を上げた。
『どうして絢乃さんが兄のケータイから……』
「ビックリさせちゃってゴメンね。今、新宿のカフェでお兄さまと一緒なの。それで、お兄さまがご自分の電話から貴方にコールしてくれてるのよ」
わたしは彼に事情を話してから、改めて彼に伝えたいことを頭の中で整理しながら口を開いた。
「……貢、ゴメンね。わたし、最近ずっと独りよがりだったよね? 貴方の気持ちも考えないで、ひとりで結婚のこととか突っ走って進めようとしてた。そんなの、貴方も疲れちゃうよね。ホントにゴメンなさい」
『……………………いえ』
「でもね、わたしも貴方のことを困らせて喜んでたわけじゃないの。この二日間貴方に会えなかっただけで痛いくらい身に沁みて分かった。わたしはやっぱり、貴方がいなきゃダメなんだって。これから先もずっと、わたしの人生には貴方が必要不可欠なんだって」
『絢乃さん……』
ここまでのわたしの言葉を聞いた貢が、ハッと息を吞んだ。やっぱり悠さんがおっしゃっていたように、わたしに愛想を尽かされたと思い込んでいたようだ。




