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雨降れば…… ⑤

 気がついたら、わたしはしゃくりあげていた。父を亡くしてからずっと泣くまいと決めていた反動だろうか。

 神戸出張の夜には、部屋でひとり静かに泣いた。でも、もう限界だった。


「あ、絢乃さん!?」


「……わたしがどうして今まで、貴方の前で泣かなかったと思う? 泣いたら貴方は責任を感じちゃうから。『自分が泣かせたんだ』って自分を責めちゃうから。それにね、貴方の前ではいつも強い女でいたかったの。わたしは貴方のボスだから。わたしの笑顔が好きだって貴方が言ってくれたから。……でも、もうムリ……。もう限界」


 泣いている間、わたしは一度も運転席の方を見なかった。多分メイクはボロボロになっていて、みっともない顔を見せたくなかったというのもあったけど、彼の顔を見たらきっと言わなくてもいいことまで言ってしまいそうだったから。


 外の雨は本降りになっていて、まるでわたしの心とリンクしているように見えた。

 表面上だけの薄っぺらい交際を続けていたわたしと貢との関係は、雨が降ったらあっけなく流されてしまうくらいのものなんだと思った。


「…………もう、やめよっか。付き合うの」


「え…………?」


「貴方にとってこれが重荷になってるなら、もう別れよう。これからはただの上司と部下の関係になろう?」


 わたしだって、貢がいつまでも苦しんでいるのを見ていたくなかった。極端な結論かもしれないけれど、その時のわたしにはもうそれしか解決方法が見つからなかったのだ。

 恋愛自体が初めてだったわたしには、こじれてしまった時にどうすればいいのかなんて分かるはずもなかった。


「絢乃さん……、それは」


「別れたくはないのね? じゃあもうちょっと譲歩して、しばらく顔を合せないようにする? さしあたり、わたしは月曜日は出社しないことにするから」


 彼は「別れる」というフレーズが出た途端、泣き出しそうな顔になった。彼もわたしのことが好きなのは本心で、別れるという選択肢はなかったらしい。

 それなら、しばらく離れてみるだけでもいいかもしれないと思った。近すぎてお互いの大切さに気づけないなら、少し距離を置くことで見えてくることもあるかもしれないな、と。


「…………その方が、いいかもしれませんね。別れるよりは」


 彼は渋々ながらも納得してくれた。納得するしかないと思ったのかもしれないけれど。


 雨がどんどん激しくなる中、車はもう篠沢邸のすぐ近くまで来ていた。

 わたしは顔もグチャグチャだったけれど、心の中はもっとグチャグチャだった。あんな心理状態のまま、彼に家の前まで送ってもらうのは耐えられないと思った。


「――貢、ここで降ろして。ここからなら歩いて帰れるから」


「…………えっ? 大丈夫なんですか? 外はひどい雨ですけど」


「大丈夫。わたしも貴方にこれ以上負担をかけたくないから」


「……………………分かりました」


 彼はわたしの家の目と鼻の先にあるコンビニの前で車を停めた。


「――じゃあ、今日はお疲れさま。貴方も風邪引かないようにね」


「はい、…………お疲れさまでした」


 わたしは自分でドアを開けて車を降り、彼の顔を見ないまま勢いよくドアを閉めた。


 傘を差して家までの道を歩いていると、一度は止まったはずの涙がまた零れ始めた。


 ……わたし、一体何をやってるんだろう。自分から好きになった人を自分から突き放すなんて。別れを選ばなかったとしても、彼と離れていちばん苦しい思いをするのは自分自身だと分かっていたはずなのに

。 父を亡くしてからずっと、わたしは貢に寄り添うふりをして実は彼に依存していただけだったのだ。ずっとあんなことを続けていたら、彼の負担を重くしてしまうだけ。だったら少しだけでも離れて、彼を解放してあげようと思ったのだけれど……。


 ――テラコッタの敷き詰められた玄関アプローチに、わたしのすすり泣く声とハイヒールの音が雨音とともに吸い込まれていった。




   * * * *




 ――家に帰り着いて、母の顔を見るなりわたしは声を上げて泣きじゃくりながら、支離滅裂ながらも彼との間に起こった出来事を母に打ち明けた。

 母はその時、呆れていたのか笑っていたのか、今となってはあまり思い出せない。


 翌日曜日、わたしは朝から高熱を出して寝込んでしまっていた。会社はともかく学校もお休みの日でよかったなと思う。


 その頃には個人で内科医院を開業されていた後藤先生が、母に呼ばれてわざわざ往診に来て下さった。


「――頭が割れるように痛い、と。他に喉の痛みとかはないんだね?」


「はい……」


「う~ん……、ストレスと過労から来る発熱かなぁ。小さいお子さんでいうところの知恵熱みたいなものだね」


「知恵熱…………」


 先生の診断に、わたしは茫然となった。自分では体調を崩すほどストレスを溜め込んでいるとは思っていなかったのだ。


「うん。他に気になる症状もないみたいだし、ちゃんと栄養のあるものを摂って解熱剤を服用して、ゆっくり休めば熱は下がると思うよ」


「はい」


 あれだけ病院嫌いだった父が、最期まで頑張って後藤先生の治療を受けていた理由が分かった気がした。この先生が主治医なら、どんなにつらい治療でも受けるのが苦にならなかっただろう。


「――後藤先生、わざわざありがとうございました。夫に続いて娘までお世話になって」


 診察を終えた先生に紅茶を出しながら、母が頭を下げた。ちなみにそこは、まだわたしが寝ていた部屋の中。二人の会話もわたしには丸聞こえだった。


「いやいや! これが医師である僕の使命ですから。絢乃ちゃん、ご主人が亡くなってから相当ムリをしてたんじゃないですか? 加奈子さんも薄々は気づいておられたでしょう」


「そうですね……。この子は夫に似て真面目で責任感が強いから、夫の跡を継いでから〝強くいないといけない〟ってずっと突っ張っていたみたいです。私の知る限りじゃ、昨日みたいに大泣きしたこと、夫が亡くなってからは一度もなかったんじゃないかしら。もう母親として、見ていて痛々しいくらいでした」


 ……わたし、ママにまで心配かけてたんだ。父の死から約一年間、母がわたしのことをどんな想いで見守ってくれていたのかと思うと心が痛んだ。



「――三十七度二分……、だいぶ下がった」


 昼食に史子さんが用意してくれた玉子粥とフルーツヨーグルトを食べ、市販の解熱剤を飲んで寝ること数時間。夕方四時ごろに体温を測り直したわたしは少しホッとした。朝の段階では三十八度以上あったので、一度下がるだけでだいぶ楽になっていた。


 まだフラフラしながらベッドの上に起き上がり、スマホを確かめると彼からの電話もメッセージも一件も入っていなかった。


「…………まぁ、仕方ないか。わたしの方から『距離を置こう』って言ったんだもんね」


 それなのに、連絡が一件も入っていないだけで心にポッカリ穴が空いたように感じるなんて、わたしって何て勝手なんだろう。


 ……と、電話が鳴り出した。わたしは惰性で番号も確かめずに応答ボタンをタップした。


「――はい、篠沢です」


『あ、絢乃ちゃん! オレオレ。分かる?』


「…………はい?」


 何だか〝オレオレ詐欺〟みたいな電話だなと思い、眉をひそめたけれど、その声には聞き憶えがあった。


「もしかして……悠さん!?」

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