雨降れば…… ④
「……はぁ、実はまだ迷っていまして……」
ビュッフェコーナーで料理を選び、テーブルに着いてそれを味わいながら彼に訊ねると、彼はフォークを握ったまま困ったようにまた唸った。
「そりゃあ、大好きなコーヒーに関われる仕事だもんね。断るのはもったいないって気持ちもあるでしょ。でもウチの会社を辞めたくないっていう気持ちもある、と」
彼に退職の意思がないことは、その日までの間にわたしも分かっていた。それはそれで、企業のトップとしては嬉しいことだったけれど、こんないい話は二度とないかもしれないのに……と思うと何だかもったいないなとも思った。
「貴方がそういう仕事に関わりたいなら、ウチのグループで新しく事業を始めてみてもいいかなって思ってるの。それなら貴方もウチを辞めなくて済むでしょ?」
他社さんでできる仕事が、ウチのグループでできないはずがない。ないならイチから始めればいい。そのために必要な資金も設備も人材も、ウチほどの大財閥ならいくらでも確保できるのだから。
「えっ、いいんですか!? 絢乃さん、ありがとうございます! じゃあ僕、あの話はお断りします。今決めました」
「そう、よかった」
決意を語ってくれた彼の表情は晴れ晴れとしていて、わたしもやっと心穏やかになれた。これで最悪の事態だけは避けられたわけだ。……とりあえずは。
「――あれ? 君、篠沢グループの会長さんでしょ?」
「…………はい? そうですけど……」
唐突に馴れ馴れしく話しかけてきた若い男性に、わたしはたじろいだ。
「あの、貴方は?」
そう訊ねながら、その男性の風貌をまじまじと見つめた。
悠さん以上に明るい茶色に染められた髪、両耳には大きなシルバーのピアス。イタリアかどこかの派手なブランドスーツに真っ赤なシャツ、エナメル素材のテカテカした靴。そのチャラチャラした外見は、馴れ馴れしい声色と見事に比例していた。はっきり言って、わたしがいちばんキライなタイプの男性だ。
「ああ、ゴメンね? オレはこういうモンでっす☆ 一応自分で会社やってんだよね。よろしく」
「有崎昇さん……。ああ、〈有崎グループ〉のご子息ですね」
差し出された名刺を見て、わたしにはその男の素性が分かった。
「うん。まあ、兄貴がいるから跡取りってワケじゃないけどねー。オレの会社も親父に資金出してもらって立ち上げたようなモンだし」
「…………はぁ、そうですか」
わたしはただただ呆れるしかなかった。初対面の人間に対して、親の脛かじり自慢をする人がどこにいるのだろうか。そんなのを聞かされたところで、わたしには何の興味も湧かないというのに。
「……あの、絢乃さん。この方のことをご存じなんですか?」
隣から貢がこっそり訊ねてきた。
「この人、っていうかお家のことをね。〈有崎グループ〉っていうのは、ここ数年で業種を増やして飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長してる企業でね。いつかはウチにも追いつかれちゃうかも。だからうかうかしてられないのよね」
「へえ……」
一般的な家庭に育ち、煌びやかなセレブの世界とは縁のなかった(あったかもしれないけれど、少なくともわたしは聞いたことがなかった)彼はいまいちピンとこないような表情でそう相槌を打っただけだった。
「……で、アンタはこちらの会長さんとはどういう関係?」
「は? それって僕のことでしょうか」
唐突に値踏みをするような口調で訊ねてきた有崎さんに、貢はムッとしていた。わたしもこの態度にはカチンときていたのだけれど。
「他に誰がいるってんだよ。あ、もしかして彼氏とか? んなワケないよなぁ、こんな冴えない男が」
「…………それ、どういう意味ですか」
大好きな彼のことを「冴えない男」呼ばわりされたのは、わたしも聞き捨てがならなかった。
「だってさぁ、地下駐車場に停まってるシルバーの安っぽい国産車、アンタのだろ? あんな安物の車に乗ってる男、この会場にはアンタしかいないって」
「安物……!?」
わたしは怒りで体が震えてくるのを感じた。
有崎さんは鼻で笑ったけれど、あの車は貢が自分の貯金の中から頭金を出し、ローンを組んで購入した努力の結晶なのだ。
確かに高級車じゃないし、国産車の中でもごく一般的な車種かもしれない。でも、それを「安物」なんて軽々しく言ってほしくなかった。
「あんな車に乗ってる男が、よく絢乃お嬢さまの隣に立ってられるよな。少しは分をわきまえろよ。ここはアンタみたいなのが来るところじゃねえから」
「生憎ですけど、彼に同伴をお願いしたのはわたしなんです。彼はわたしの大事な人なので」
彼のイヤミが聞くに堪えなくなってきたので、わたしは挑むような視線をぶつけながらここぞとばかりに貢を庇った。
「ふぅん……、あっそ。なあ、篠沢会長さん? こんなヤツと別れてオレと付き合わねえ?」
「謹んでお断りいたします。――行こう、桐島さん」
貢へのあからさまな宣戦布告をさらりと受け流し、わたしは次の料理を取りに彼をビュッフェコーナーへと引っぱって行ったのだった。
* * * *
「――あー、やっぱり降ってきたなぁ……」
帰りの車がホテルの地下駐車場を出た途端に降り出した雨に、わたしはウンザリと肩を落とした。
パーティー会場に向かう時からどんよりした曇り空ではあったけれど、家に着くまでどうにか天気が保ってほしいと思っていたのに……。一応傘は持参していたので、濡れる心配はなかったけど。
「…………そうですね」
ハンドルを握る彼は、素っ気なく返事を返してきただけだった。普段ならわたしと積極的に話したがっていただけに、寡黙な彼はどこか不気味だった。
「ねえ貢、なんか機嫌悪くない? 今日来なきゃよかった?」
わたしから質問をしても、返事がない。もしかしたら、この日無理矢理同伴させたわたしに怒っているのかも、と思った。
「ゴメンね、今日はムリに引っぱって来ちゃって」
「いえ、絢乃さんのせいじゃありませんよ。ですから謝らないで下さい」
「そう……? じゃあ……、わたしがお手洗いに行ってる間に有崎さんとまた何かあった?」
わたしに対して怒っているわけではないなら、原因はあの人しか考えられなかった。大勢の前で貢を小バカにしてコケにしていたあの男――有崎昇しか。
「……………………はい」
長い沈黙のあと、彼が吐き出すように小さく頷いた。……やっぱりそうか。
「僕と絢乃さんとは住む世界が違うから、釣り合うはずがないと言われました。あと、僕の実家のことも『大した家柄じゃない』と笑われて。でも僕、悔しいですけど反論できなかったんです」
「え、どうして? 反論すればよかったじゃない」
「できませんよ。僕自身もそう思ってますから。実家のことをバカにされたのは許せませんけど、あなたにふさわしい男は僕なんかじゃなくて、あの人みたいにいい家柄で育った方なんじゃないかと」
「…………ちょっと貢、それ本気で言ってるの?」
わたしは耳を疑った。彼の自虐癖は前々から気になってはいたけれど、ここまで自分を卑下する人だとは思わなかった。
「どこがいいのよ、あんな人。いい歳していつまでも親の脛かじってチャラチャラしてるだけじゃない。確かに家柄だけはいいけど、わたしはああいう人がいちばんキライ。あんなのお話にならない」
言っているうちに段々腹が立ってきて、悲しくなってきて、何だか自分でもよく分からない負の感情が噴き出してきそうになった。
「わたしがいちばん好きなのは貢だよ? どうして信じてくれないの? どうして自分のこと卑下ばっかりするの……?」




