初めての大仕事 ③
「――あたし、そろそろ仕事行かないと。すみません、会長さん! 何のお構いもできなくて」
奥さまが出かける用意を済ませて玄関に現れた。
「ああ、気をつけてな」
「いいえ、それは構いませんけど……。奥さま、これから出勤ですか」
わたしは申し訳なさそうな奥さま(お名前は萌さんとおっしゃるらしい)に答えてから、どちらにともなく問いかけた。
「ええ、パートですけどね。子供はもう保育園に行ってます。夫も派遣で働いてはいるんですけど、今日はたまたまお休みで。あたしも働かないと生活が苦しいので。子供もこれからお金がかかりますし。――それじゃ、行ってきます!」
せかせかとわたしの質問に答えてくれた萌さんは、そのまま出かけられた。
「――野川先輩、大変ですね。お子さんを保育園に預けて、ご夫婦共働きなんて」
わたしよりも先に、彼の後輩だった貢が口を開いた。
「ああ、……まあ。すみませんね、会長。今お茶を淹れますから」
「いえ、すぐに失礼しますのでお構いなく」
気を遣う野川さんを、わたしはやんわりと断った。それよりも、彼と話をすることの方が大事だったから。
「そうですか? ……そういえば、会長さんって僕が知らない間に代替わりしてたんですね」
「えっ、ご存じなかったんですか? 父は三ヶ月近く前に病気で他界して、わたしが後継者として会長のポストに就いたんです。新聞やネットニュースに載ったり、TVでも報道されてましたけど」
あれだけのニュースだっただけに、世間のみんなが知っているものだと思い込んでいたわたしは、彼がこの事実を知らなかったことに驚きを隠せないでいた。
「そうだったんですか……、すみません。僕は会社を辞めてから新聞も経済面は読まなくなりましたし、ニュースもあまり見なくなったので。精神を病んでしまってから、『自分は社会で何の役にも立たないお荷物なんだ』と思うようになって、そういうニュースが目に入ると気持ちが落ち込んでしまうんです」
「そんなことありませんよ! だって貴方には、ステキなご家族がいらっしゃるじゃないですか! 社会のお荷物って言われるような人は一人もいないはずです!」
わたしは思わず、野川さんを叱責してしまった。
それは彼に怒っていたからではなく、悲しかったから。彼がそこまで思い詰めていたことも、そこまで彼を追い詰めたのが、自分の会社の人間だったということも。
「会長! そのくらいで」
「あ……、ごめんなさい。ちょっと言いすぎました」
貢に諫められ、わたしは 冷静さを取り戻した。
「でもわたし、会長としてはまだまだ半人前で……。彼や周りの人たちに助けられてやっと〝会長〟が務まってる感じなんですよね。だから、貴方にもあんまり偉そうなこと言えないですよね」
ちょっとだけ肩をすくめてから、わたしは本題に入った。
「――ところで、今日こちらに伺ったのはですね。貴方も被害に遭われた総務課のパワハラ問題について、今年度中に公表することになったので。貴方からもお話を伺いたいからなんです。協力して頂けますか?」
「僕の話ですか? そりゃあ……、協力できるものならしたいとは思いますが。会長にお話ししたことで、島谷課長から恨まれるなんてことには……」
「そこはご心配なく、野川さん。大丈夫です! 貴方のことは、わたしたち幹部が責任をもってお守りしますから。安心してお話し下さい。その証拠に、桐島さんも自分がどんな目に遭っていたか話してくれましたよ」
「……そうなのか?」
彼は貢の顔を凝視した。
「はい。絢乃会長は信頼できる方ですよ、先輩。先代だったお父さま譲りですごく正義感が強くて、社員思いの優しい方です」
「そうか……。ではお話しします」
――彼は自身が被害に遭っていたパワハラについて、克明に語ってくれた。
その内容は貢から聞いていたのよりもひどいもので、果ては人格を否定されるようなことまで言われていたらしい。ここまでくるともう、〝パワハラ〟どころか〝モラハラ〟である。
「…………それは、精神的にもおかしくなりますよね。気持ちお察しします」
貢も相当ひどい目に遭っていたらしいのに、そこまで精神的なダメージはなかったみたい。どうしてだろう?
「――あの、野川さんは現在、派遣で働いていらっしゃるそうですけど。もうフルタイムでの勤務は厳しいですか?」
「ええ……、まあ……そうですね。絶対にムリ、というわけでもないんですが。それが何か?」
「会長? 何を――」
貢は眉をひそめたけれど、わたしは前もって言おうと決めていたことを言葉にして伝えた。
「もし、貴方を苦しめた問題が無事に解決したら、また会社に戻ってきませんか? わたしは貴方にまたウチで働いてほしい。貴方と一緒に仕事がしたいです」
「それ…………は、考えさせて下さい」
「分かりました。貴方からいいお返事が頂けるよう、わたしたちも頑張りますね。――じゃあ、わたしたちはこれで失礼します。急に押しかけてきてすみませんでした。桐島さん、行きましょう」
「いえ……。会長、わざわざありがとうございました」
………お? 野川さんはわたしに「ありがとう」と言って頭を下げてくれた。ということは、前向きに考えてくれるのかな? ――わたしはちょっとした手応えを感じていた。
「先輩、僕もまたあなたと一緒に働きたいです。もう部署は違いますけど」
「ああ。お互いに頑張ろうな。会長のこと、よろしく頼む」
「はい! じゃあ失礼します」
貢もまた、わたしと同じくらい……いや、もっと大きな手応えを感じたようだった。
* * * *
「――そういえば、貴方はよく精神的におかしくならなかったよね」
コインパーキングへ戻る道すがら、わたしは野川さんのお話を聞いた時に浮かんだ疑問を口に出して言った。
「僕には会長がついていて下さいましたし、多分元々神経が図太くできてるんだと思います。でないと、あの兄の弟なんてやってられませんよ」
「……確かにそうかもね。じゃあ、お兄さまのおかげでもあるわけだ」
「そうなりますかねぇ………」
彼の反応は嬉しさ半分、不本意さ半分という感じだった。でもやっぱり、彼はお兄さん大好きなんだとわたしは思った。
* * * *
――そのあと数軒を訪問したけれど、不在だったのか居留守を使われていたのか空振りのお宅も二~三軒あった。
「やっぱり、お宅訪問の前にはアポ電必須ね……」
気合いを入れて呼び鈴を押しても応答がないと、ものすごく体力も気力も削がれてしまう。わたしはグッタリしていた。
「ですが、話を聞かせてくれた人たちはみんな、会社に戻ることに前向きな返事をくれたじゃないですか。それだけでも無駄足にはならなかったですよね」
「……そうだね」
彼の言葉を聞くだけで、わたしのHPはみるみるうちに回復していった。
――グゥゥ~~ッ……。
元気になった途端、わたしのお腹の虫が鳴いた。――時刻は十一時五十分前。気がつけばもうお昼ゴハン時だった。
「お腹すいたね。そろそろお昼にしよっか」
「そうですね。どこで昼食にします?」
その時、わたしたちは月島のあたりにいた。少し行けば築地場外市場が近い。
「築地場外市場で美味しい海鮮丼食べよ。支払いはわたしが持つから心配しないでね」
「了解です。それじゃ、築地に向かいますねー」
――こうして貢の愛車は、築地方面に向かって走り出したのだった。




