会長としてすべきこと。 ④
「――ただいまぁ!」
「お帰りなさい。……あら、早かったじゃない。何かあったの?」
普段より早いわたしの帰宅に、 母は目を丸くしていた。
本当は何かがあったけれど、それをごまかすようにわたしはこんな答え方をした。
「ううん、特に何もないけど。通知表、会社で見せるわけにいかなかったから早めに帰らせてもらったの」
母もお昼まではオフィスにいて、それから交代したのだけれど。さすがに会社で学校の成績について何かコメントされるのは会長としてのプライドが許さなかったのだ。
……もっとも、わたしの成績は母にどうこう言われるほど悪くなかったけれど。
「でも、そのわりにはご機嫌じゃない? そんなに成績よかったの?」
「うん、まあね。――というわけで、これ」
わたしはリビングのソファーに座ると、スクールバッグから学校の通知表を取り出して母に手渡した。
「はい、じゃあさっそく見させてもらいます。どれどれ……」
母はわたしの通知表を開き、内容を確認し始めた。――二学期から少し下がっていた教科もあったので(もちろん体育だけだった)、わたし自身は気にしていたのだけれど……。
「……どう? ママ」
「うん。絢乃、よく頑張ったわね。お疲れさま。特に三学期は大変だったものね。少しくらい成績が下がっても仕方ないと思ってたけど、体育以外は大したもんじゃない! あなたは十分努力してたわ。親として、偉いと思う」
「……ホントに!? よかったぁ」
母からの高評価に、わたしはホッと胸を撫で下ろした。
よくよく考えてみたら、わたしの頑張りをいちばん側で見ていてくれたのは母だったのだ。そんな母が、成績が多少落ちたくらいで怒るはずがなかった。
「――お嬢さま、お帰りなさいませ」
「ただいま、史子さん。ちょっと小腹がすいてるんだけど、今何か軽くつまめるものってある?」
別の家事が片付いたのか、リビングに顔を出した家政婦さんにも、わたしは声をかけた。
「ええ、焼きたてのマドレーヌがございますよ。ただいまコーヒーをお淹れしましょうね」
彼女はそう答えて、バスケットいっぱいに入ったお菓子を出してくれた。たっぷり使われたバターのいい香りがしていたのを今でも憶えている。
「いいよ、自分でやるから。ありがとね」
わたしは自分でキッチンに入り、ドリップ式のコーヒーをカップにセットしてお湯を注いだ。
オフィスでは貢の淹れてくれるコーヒーが美味しすぎるのでやらないけれど、家では朝目覚めの一杯も含めてだいたい自分で淹れるようにしているのだ。
「――あ、そうだ。実は、わたしから二人にもう一つ報告があるの」
マドレーヌをお供にお砂糖たっぷりのカフェオレをすすっていたわたしは、思い切ってあの話を二人にも聞いてもらうことにした。
「わたしね、……桐島さんとお付き合いすることになりました!」
これを聞いた二人の反応はそっくりだった。両目をパチパチと瞬かせたあと、嬉しそうな表情で(驚いているというよりは「ああ、やっぱりね」と納得しているのに近かった)、口々に祝福してくれたのだ。
「あら! よかったじゃない絢乃! おめでとう! 桐島くんとならお似合いよ」
「お嬢さま、おめでとうございます! わたくしも、桐島様は感じのいい方だと思っておりました。あの方がお相手でしたら、わたくしも大賛成でございますよ!」
「ママ、史子さん、ありがとう! 二人にも認めてもらえて安心したわ」
わたしの恋をずっと見守り、応援してくれた二人。そんな二人に「おめでとう」と言ってもらえて、わたしは感無量だった。
「だって、桐島くんの態度ってすごく分かりやすかったものねぇ。絢乃のことが好きだっていうのが見え見え」
「……うん。わたしも何となくは気づいてた。桐島さん、もしかしてわたしのこと好きなんじゃないかな、って」
母くらいカンの鋭い人なら、気づいていなかった方がおかしいのかもしれない。
わたしでさえ、前日のキス事件で確信が持てたけれど、その前から薄々はそんな気がしていたのだから。
「っていうか、絢乃も初めて会った時からずっと桐島くんのこと好きだったんでしょう?」
「え…………、ママ……どうしてそれを」
思いっきり急所を衝かれ、わたしはうろたえた。
わたしが彼に恋をしていることは母も知っていたとしても、いつから彼を好きだったのかまで知っていたとは思わなかった。
「あなたも分かりやすいもの♪ ねえ、どうしてもっと早く告白しなかったの?」
「……………………それは……、えーっと」
答えに詰まりながら、わたしは思い出していた。以前から何度も、里歩からも同じような質問を受けていたことを。
そして多分、それらの答えはすべて同じなのかもしれない、と自分でも思っていた。
「……告白して、もしうまくいかなかったら、彼とこれまで築き上げてきた信頼関係が崩れちゃうんじゃないかと思って。彼とオフィスで顔を合わせるたびに、気まずい思いをすることになっちゃうんじゃないかって心配で……。だから告白できなかったんだと思う」
言ってしまってから、わたしってなんてネガティブシンキングなんだろうと思ったけれど。
「まあ、その気持ちは分からなくもないわね。ママも昔、恋愛に関してはけっこう奥手な方だったから。……パパと結婚する前の話よ」
「えっ、そうだったの?」
結婚前の母の話なんて、思えば聞くのはこの時が初めてだった。
父とのなれそめや、結婚後のこと、母がわたしの弟か妹を身ごもった時に子宮の腫瘍も見つかり、その子を諦めるしかなくなってしまったことは聞いたことがあったけれど。
「ええ。それに、あなたは初恋だものね。だから、どうしたらいいか分からなかったっていうのもあるんじゃない?」
「……うん、そうかも」
わたしは素直に頷いた。
初めて好きな人ができたうえに、わたしの立場は特殊だったため、お手本となる人がいなかったというのが大きかったのだと思う。
「――じゃあ、わたしは部屋に行ってるね。着替えて夕食の時間までのんびりしてるわ。里歩にも報告してあげたいし」
マドレーヌを食べ終え、マグカップも空になると、わたしはようやくソファーから腰を上げた。
それに、ひとりきりになって、貢と両想いになれた喜びやキスの余韻に浸っていたいという気持ちもあった。
「ええ、分かったわ。この三ヶ月、ホントにお疲れさま。明日から朝出勤でしょう?」
「うん。明日はさっそく早朝会議なの。――あ、史子さん。カップは片付けた方がいい?」
わたしは史子さんに訊ねた。
使った食器を片付けるのも家政婦さんの仕事で、彼女の仕事をとってしまうのは申し訳ないのだけれど。わたしは自分の使ったカップくらいは自分で片付けたいと思った。
「いえいえ、わたくしが片付けておきますのでそのままで」
「ありがとう。じゃあお願いね」
イやな顔ひとつせず、笑顔でそう答えてくれた史子さんにわたしはカップの後片付けを任せ、二階への階段を上って行った。
* * * *
――部屋に戻ったわたしは、まず私服に着替えて制服のポケットからスマホを取り出した。それをデニムスカートのポケットに突っ込むと、制服をしまってからベッドの上に腰掛けてカバーを開いた。
「――さてと、さっそく里歩に報告しなきゃね☆」
わたしはメッセージアプリを起動し、彼女宛てにメッセージを送信した。
〈里歩、聞いて聞いて! わたし、桐島さんと付き合うことになったの♡
やっぱり彼、わたしのこと好きだったんだって。
初めて好きになった人が初彼氏♡♡ キャ(照)〉
「……ちょっとノロケすぎたかな」
送信する前に打ち込んだ文面を読み返し、自分でも呆れて苦笑いしてしまったけれど。初めて恋が実った時というのは、誰だってそういうものなのかもしれない。
〈あらあら! よかったじゃん!! 絢乃、おめ~~♪
だからあたし言ったじゃん? アンタら両想いだよって。
っていうか、初めて好きになった人が初カレってスゴいよね。マジでおめでと♡〉
里歩からの返信には、バンザイをした可愛いネコのスタンプが添えられていた。
〈ありがと、里歩! わたし、すっごく嬉しいの!!
そういう里歩の方は彼氏さんとどうなの?〉
そういえば、彼女の恋愛事情についてその頃あまり訊いていなかったなぁと思い、チャット画面で質問してみると。
〈電話とかメッセージのやり取りはしてるけど、最近なかなかデートできてないんだぁ……
絢乃はいいなぁ。桐島さんに毎日会えるもんね。羨ましい(泣)〉
という、なんとも切ない返事が返ってきた。
「そっか……。毎日好きな人と会えるのって羨ましいのか」
思えば、わたしは父の跡を継いでからほとんど毎日のように彼と顔を合わせていたけれど、それは決して当たり前のことではなく、本当はすごく幸せなことだったのだ。
だからこそ、余計に彼の存在を大切に慈しんでいかなければ、とわたしは思うことができた。
〈里歩の言葉、すごく身に沁みたよ。ありがとね。
わたし、これからも彼のこと、うんと大事にするよ〉
最後にこの文面と、わたしからも可愛いウサギのスタンプを送信してアプリを閉じた。
「――それにしても、貢ってば冷たいんだから。ハグくらい返してくれてもよかったのに……」
わたしは別れ際のキスを思い出しながら、独りボヤいた。
当時は高校生だったわたしより恋愛経験が豊富だったはずなのに、彼はわたしにキスされるとうろたえるだけで、何も返してはくれなかった。
別にキスを返してくれる必要はなかったし、わたしだって見返りがほしくてしたわけではなかったけれど。いい歳をした大人の男性が、キスされてあのリアクションはどうなのよと思ったのだ。
本当は恋愛経験がなかったりして? それとも、経験と恋愛偏差値は別モノということなのかな……?
「…………まあ、考えても仕方ないか」
わたしは勝手に納得して肩をすくめた。彼に恋愛経験がなかろうと、恋愛偏差値が低かろうと、彼を好きだという気持ちは一生変わらないのだから。
「――さぁて、明日はどのスーツを着ていこうかな……」
わたしはウォークインクローゼットへブラブラと入っていき、数種類あるビジネススーツとインナーの組み合わせを考え始めたのだった。




