戦闘服は制服! ④
――こうしてわたしの会長就任は株主のみなさんからの承認を得ることができ、株主総会は無事終了した。
「――絢乃、桐島くん。私はこの後、今後のことについて村上さんや山崎さんと打ち合わせしなきゃいけないから。あなたたちは先に会長室へ行ってて」
最上階の三十四階までエレベーターで上がると、母はわたしたちにそう言って社長室に入ってしまった。会長室はそのさらに奥にあり、重役専用フロアーの中でいちばん広い。
このフロアーには他に専務室、常務室、ミーティングルームなどがあるけれど、常務は秘書室長の広田さん、専務は人事部長の山崎さんが兼務することになったため、実質未使用となった。
そして、彼がこの日から在籍することになった人事部秘書室もこのフロアーにあって、給湯室を挟む形で会長室の隣に位置している。
「――会長、こちらが会長室です。ロックを解除しますので少々お待ち下さい」
グレーのカーペットが敷き詰められた広い廊下の突き当りに面した、ドッシリと重厚感のある木製ドアの前で止まった彼は、ドア横のセンサーパネルに自身のIDカードを読み取らせた。
「……すごく厳重なセキュリティね。わたしも話には聞いてたけど、実際に見たのは初めてかも」
このオフィスビルは祖父が会長だった頃に建てられたらしく、まだ十年かそこらだろう。このフロアーだけでなく、全館のどの部署も同等の厳重なセキュリティで守られていて、社員証(もしくは重役専用のIDカード)がなければどこの部署にも入れなくなっているらしい。
「まあ、一昨日の取締役会に使われた大会議室は、会長たちが到着された時にはすでに開いていましたからね。あの時は、村上社長のⅠDで開けられたそうですよ。――会長、開きました。どうぞお入りください」
彼はドアレバーに手をかけ、笑顔でわたしを促した。けれど。わたしの足はなかなか動いてくれなくて、立ち止まったままドア横に取り付けられている〈会長室〉と彫られた金色のプレートをじっと見つめていた。感慨深く、そして――ためらう気持ちも半分で。
父が、祖父が、そして百年以上前からの歴代の会長が守ってきたこの部屋の新しい主にわたしがなれたことへの喜びはもちろん大きかったけれど、それと同時に自分は果たしてそこに並んでいいのだろうかという畏怖みたいなものもあったのかもしれない。
「……会長? どうされました? さ、中へどうぞ。ここの主は間違いなくあなたです」
彼はドアを半分開けたまま、わたしを待ってくれていた。後半の言葉は間違いなく、彼がわたしの気持ちを察してくれていたことを物語っていた。
「うん……、ありがと」
やっと一歩踏み出す勇気が出たわたしは、室内へ足を踏み入れた。室内も廊下と同じくカーペット敷きの床で、足音が響かないようになっている。
彼はその後から入室してそっとドアを閉めた。もし音を立てて閉めたとしても、その音はカーペットの床に吸い込まれていたと思う。
「――今日からここが、わたしの仕事場になるのよね……」
わたしはしばらく目を細めながら、室内のインテリアを眺めていた。
まず、西側の壁には大きなはめ殺しのガラス窓があり、日差しを調節するためのブラインドもついている。ちなみに、このガラスは遮光・断熱ペアガラスになっているらしい。
「……なるほど。これなら真夏でも暑くなさそう」
その窓に背を向ける形で会長専用のデスク、ゆったりと大きな背もたれのあるキャスター付きチェアーがあって、デスクには備え付けのデスクトップパソコンも完備されている。
ドアのすぐ側に、貢が使用する秘書のデスクとOAチェアーが配置されていて、このデスクにもデスクトップパソコンが設置されている。
南側の壁面には横長の大きな壁掛け式の飾り時計が取り付けてあり、その下には木製の大きな本棚が置かれている。壁の一部には給湯室と繋がる導線が確保されていて、これは秘書思いの祖父が工事業者にムリを言って設けてもらった通路らしい。
本棚にビッシリと並ぶ蔵書は、父の愛読書だったらしい経営学の本やビジネス書など。これは後にわたし自身の愛読書にもなった。
デスクの横には、ちょっとしたミーティングに使えそうなテーブルと数脚の椅子のセットがあり、 L字型になっている部屋のいちばん奥が応接スペース。
黒や茶色の革張りではなく、ペパーミントグリーンの布張り(しかもベルベット!)の二人掛けソファーが一対と、木製のローテーブルがセットで置かれている応接スペースは堅苦しさやいかつさを感じさせず、ゆったりと来客をおもてなしできそうだ。
結婚前に営業であちこちの企業の応接スペースに通された経験のある父らしいセンスだなとわたしも思った。
「――絢乃会長、お疲れになったでしょう。とりあえずお座りになってはいかがですか?」
「うん、そうね。午後からは記者会見もあるし、余計に忙しくなるもんね。今のうちに休んでおこうかな」
わたしが彼の勧めに従って会長の席に着くと、彼は自分の席に着くことなくわたしのところへやってきた。
「? どうしたの? 桐島さん」
彼は何だかそわそわと落ち着かない様子で、わたしも落ち着かなくなって思わず訊ねてしまった。
「……あの……ですね、よかったらお父さまの葬儀の日にお約束したこと、今日果たしてもよろしいでしょうか?」
「えっ? 約束って……、あれのこと?」
「ええ。絢乃会長、おっしゃっていましたよね。僕が淹れたコーヒーをいつか飲んでみたいと。ですから、今日さっそく淹れさせて頂こうかと」
わたしも忘れかけていた、たった数日前の約束。でも、彼はちゃんと憶えていてくれたのだ。あんなに些細な約束だったにも関わらず。
本当に、この人はもう……! どこまでわたしの心を奪ってしまうのだろう。
「――えーと、お味の好みを伺ってもよろしいですか?」
「ありがとう! すごく嬉しい! じゃあお願いしようかな。味はねぇ、お砂糖とミルクをたっぷり入れて甘めにしてくれる?」
数日前、わたしが火葬場の待合ロビーでカフェオレを飲んでいたこともちゃんと憶えていてくれた彼は、すぐに理解してくれた。
「……ああ、なるほど。かしこまりました。では少々お待ち下さい。そうですね……、十分くらいお時間を頂ければ」
「分かった。楽しみに待ってるね」
彼はそのまま例の通路を抜けて、給湯室へ入っていった。
「――パパ、わたしの声、聞こえてますか? さっきのスピーチ、聞いてくれてたかな? わたし、ちゃんと株主のみなさんに会長として認めてもらえたみたい。だから安心して見守っててね」
ひとりになったわたしは、父の温もりが感じられる席で、心の中で父に話しかけていた。
父はもういないけれど、この室内では不思議と父の気配が感じられた。
わたしが不安がっていたから、「お前なら大丈夫だよ」とそっと背中を押してくれたのかな? ――わたしにはそう思えた。
あれから二年以上経った今でも、わたしは何かに悩んでいたり、壁にぶつかったりした時には時々父の気配を感じることがある。
わたしは父を尊敬するあまり、ついつい父と自分を比べては「まだまだだ」「父はこうではなかった」「わたしにはまだ何か足りない」と落ち込んでしまう。自分に何が足りないのか考えて、考えて、考え抜いても答えは見つからなくて、また落ち込む。まさに、負の連鎖。
でも、父ならきっとこう言ってくれるだろう。
「お前はお前なんだから、何もお父さんと同じようにする必要はない。比べる必要もない。お前らしく、やりたいようにやりなさい」と。
〝わたしらしく〟って何だろう? 父もまた、祖父の後継者になった時、わたしと同じように悩んでいたのだろうか――?
「……ううん、パパはわたし以上に悩んでたかも。だってパパ、婿養子だったもん」
父が〝入り婿〟という自分の立場に居心地の悪さを感じていたかどうかは分からない。母も祖父母も、父が肩身の狭い思いをしないよう気を遣ってくれていたとは思う。だから少なくとも、家ではそんな思いはしていなかったはず。
でも親族があれだから、会社ではさぞ苦労していただろう。父が会長に就任するまでは、このグループは一族経営で幅を利かせていたらしいから、よそ者だった父は彼らにとっては迷惑な存在だったのだろう。当然、嫌がらせもいっぱいされただろう。
父が一族経営の方針を撤廃しようとしたのは、父自身の苦い経験からだったのかもしれない。
それ以外にも、この会社内やグループ内には改革すべきポイントがまだまだたくさんあった。
この際だから、思い切って古い慣習などは取っ払ってしまおう。……さて、どこからメスを入れようか? ――と考えごとに浸っていると、給湯室との通路からほのかにコーヒーのいい薫りがしてきた。
わたしも父も、コーヒーの味にはけっこううるさい方だと思う。インスタントもたまに飲むけれど、やっぱり豆から丁寧に淹れられたコーヒーは味も薫りも全然違う。彼は豆にも拘りがあると言っていたので、否応なく期待値のハードルは上がっていた。




