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文車妖妃 03

 紫苑も相志も、夢見でさえも、その時何が起こったのか理解が出来なかった。

 気が付くと、雲を見下ろすほどに巨大なクトゥルフはおろか、ラヴクラフトの姿さえも消えていたのだ。津波によって破壊された街の惨状は同じであったが、その元凶となった怪物――旧支配神とその作者は巫力どころか文字通り影も形も消え失せていた。

 白昼夢でも見ているのだろうか、といった様子の紫苑たちに、幾分顔色が良くなってきた若葉がサンに寄り掛かったままで説明を始めた。 


「本を、閉じてもらったんです」

「…本を…閉じてもらった?」

頭の上に“?”を浮かべる一同。

「はい。ラヴクラフトは事在る毎に“読者”を意識する発言をしていました。まるで本やモニターの向こうに居る読者たちの顔色を窺う様に」

「読者?」

「はい――かくあらんと読者に願われ、そう生まれた。クトゥルフの仔による新しい世界の支配こそ読者の望む新世界――彼はそう言っていました。そこで私は彼の事を、世界など自分の執筆作品に過ぎず、だからこそその中で『彼のホラー』を追い求めているのだろう。純粋に、ただひたすらに“恐怖”を求める狂人――そう思っていたんです。けど――」


 真実は逆だったんです。


「彼こそが、読者たちが至る事の出来なかった狂気の向こうに夢見た世界崩壊(カタストロフ)の物語の登場人物だったんです。彼こそが物語だったんです」

「ラヴクラフトが…物語…」

紫苑の溜息とも思えるひと言に若葉が頷く。

「ラヴクラフトが自らの世界を『小説』つまり『本の世界』と認識しており、彼自身も物語であるのならば、それは外部が本を閉じる事で終わる世界、つまり彼自身も『ページが変わるだけで全てが変わる可能性のある存在』でもあるという事です」

ここまで話したところで、全裸だった若葉に相志が自分の上衣をそっと肩から掛けた。若葉は相志に小さく頭を下げると、解説を再開した。

「文車妖妃は(ふみ)を――文書とそれに纏わりつく想いを支配する妖怪です。つまり――」

彼女は相手の力――想いの力が大きい程、その力も増すんです。

「文車妖妃はラヴクラフトの“本”を閉じることで彼の『物語』を終わらせたんです。その本は今こうして彼女の『文箱』に『保管』してあります」


 文車妖妃が文箱を差し出す。若葉がそれを受け取ると、文車妖妃は上品に微笑みながらゆっくりとその姿を消した。

「どんなに面白い小説でも、手に取って、読んでもらえなければ存在しないのと同じ事。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。読み手が居なければ本も存在しないのと同じ事。もちろん彼の小説はこれからも書店に並ぶことでしょうし、信者の祈りやクトゥルフ神話の流行り廃りも有るでしょう。でも『彼の物語』は“ここ”にあります。再び始まる事はありません」

ページを捲らない限り、ですけどね。


「つまり、『ラブクラフトとクトゥルフ神話』はこの中の本に閉じ込められた。これを開けばもう一度『彼の物語』が再開する――という訳ですね?」

紫苑の確認に、こくりと頷く若葉。

「紫苑さん、こういった危険物の管理も葛葉の仕事、なんですよね?」

「その通りです。相志――お願いします」

若葉から受け取った文箱を相志に任せる紫苑。手慣れた様子で従う相志。

 難局を乗り越えひと段落――といった所であったが、紫苑は若葉が見せた『祟り』の結果に驚愕し、恐れすら感じていた。


 本を閉じる事で相手の“物語を終わらせる”という能力。

 人は誰しもが自分という物語の主人公であると考えるのならば、それはつまり相手が誰であろうと何であろうと一瞬にして“無かったことに”させられる。という事でもある。

 概念を具象化してしまう。それは相手の武力、巫力を一笑に付す事の出来る代物という、桁違いの恐ろしい能力を持っているという事でもある。


 百器徒然袋――日用品のガラクタが妖怪に化したその滑稽ともいえる姿に隠された真の恐ろしさに改めて背筋にヒヤリとしたものを覚えた紫苑は、唯一の弟子に向け――

 ニコリと笑った。

「よくやりました、若葉さん――さすがは私の愛弟子です」

「はいっ!」

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