血戦 05
『天の不浄、地の不浄、人の不浄、内外不浄にして、六根悉く不浄なり』
夢見の声が闇夜に浸み込んでゆく。これは山岳系修験者が山を巡る時に唱える『六根清浄』か。いや――似ているが違う。『六根清浄』は身体内外の清浄を唱えるものだがこれは逆だ。不浄を唱えている。
背後に立てた小さな鳥居から氷の針のような視線が背中を貫いてくるのが感じられた。
危険な何かが――背後に居る。
夢見の声はさらに続く。
『目に諸々の不浄を見て
耳に諸々の不浄を聞きて
鼻に諸々の不浄を嗅ぎて
口に諸々の不浄を言いて
身に諸々の不浄を触れて
意に諸々の不浄を思ひ
六根不浄 六根不浄
我ら幽世に此岸の門を開くなり
いざや躍り出よ兵主部 いざやまろび出よ兵主部
今こそ浄めの時なるぞ――』
するとすぐ背後から、濃密な深緑の匂いが漂ってきた。
背筋を粟立てる何かが近付いてきた。
背後から足音が聞こえた。
ひたり ひたり
湿った足裏が大地を踏みしめる音がした。
そうして。
相志のすぐ横に。
大きな猿のような、山の匂いを纏うなにかがひょこりと現れた。
細い手足。身体には枯れた針葉樹のような体毛。疎らに毛が生えた頭部。
ガニ股で、おどけるように手を両脇でブラブラさせながら。
鼻をヒクヒクさせ辺りを伺っているようだ。
一歩、一歩。何かを探す様に左右に首を向けている。
「こいつが“ひょうすべ”――山で生まれ、海へと還る山の災い」
夢見の声に相志は思わずひょうすべの後頭部に目を向けた。
刹那、凄まじい勢いでそれの首がぐるりと回転し――相志は慌てて視線を宙に飛ばした。
気が狂いそうなほどの純粋な邪悪が瞬時に相志へと視線を向けてきたのだ。
暫くの静寂――そして足音は次第に紫苑達の視線の先と進んでいった。
「目も向けるなよ、相志。奴等は視線に敏感なんだ」
背中が見えなくなってようやく紫苑の腰から、相志を嘲笑う様な夢見の声がした。
「そういう事は早めに言いませんか?というか夢見殿こそ、そのナリでも障りを貰うのか試してみては如何ですか?」
「もう試したよ。ブルドッグとムツゴロウを足したような醜い顔だった。だが鋼のボディも割れてないし魂も持って行かれてない。肉体が無ければ障りは受けないようだな――っと。そろそろ本隊が来る。気を引き締めろよ」
夢見の言葉通り、相志達の背後からぺたぺた、ばたばたという足音が幾重にも響きはじめ、やがて先程通り過ぎた“ひょうすべ”と同じモノたちが葛葉一行の脇を通り過ぎ始めた。
目を合わせれば死――そんな濁流の中、清流の中で微笑む女神のように、紫苑は悦に浸っていた。
その様子を見て上機嫌な夢見が、こちらも上機嫌で相志へと向けて解説を始めた。
「相志、ひょうすべっていうのはな、山が溜め込んだ穢れを海に運んで清める役目を持った、れっきとした神使なんだ。ただ問題なのは善悪の概念が無い事。“顔を見ただけ”の生き物に悉くその恵みを分け与える――つまり殺してしまうんだ。出会っても生き残るには奴らに背中を向けて追い越させる事。つまり顔を見ない事だ。四方院北の司、山神は山で生まれた『ひょうすべ』が人里に出ないよう“隠れ里”に隔離してゆっくりと浄化する役目もあるんだが、俺はさっきの鳥居で巣箱に“非常口”を作ったんだよ――無断でな」
魂だけになった事で倫理観も吹っ飛んだのか、物騒な事をサラリと言ってのける夢見。
「という訳で相志ぃ!見るなよぉ!貰っちまうからなぁっ!あっははははっ」
「貴様に言われずとも振り向くかっ!」
そうして、ひょうすべの群れが市内へと解き放たれていった。
葛葉一行の周りには静寂が戻っていたが、鳥や虫の声一つせず、ただ時折木の葉の揺れる音が聞こえるだけだった。
「これで街中の『深きもの』が一掃され、さらに『深きもの』の穢れで満ちた海の中では浄化されないと知った『ひょうすべ』がその恵みを半魚人達へと分け与えている事でしょう。陸上から『深きもの』を一掃出来て、そのまま本拠地でもある海まで殴り込む――これ以上の尖兵は居ないでしょ?お寝坊さんなタコ助のモーニングコールには十分だと思いますが、如何でしょう?」
「よくやったぞ、夢見」
「有難き幸せ。では今夜は一緒の布団に入れてくれるなんて事は」
「ない」
「ですよね」
その辺には固執しない夢見。調子のよいところは死んでも変わらないようだ。
「では『深きもの』共の屍を踏み越えて海へと向かいましょう!」