1-4 犬神
“現場に出たら先ずは全体を見渡しなさい。そこから細部を見れば、別の気付きが生まれて来るんです”
亡き先輩刑事の教えに倣い、小鳥遊露草は現場から少し離れた場所に立って、全体像を把握しようとしていた。
久しぶりに回ってきた一課の仕事である。
現状の報告から小鳥遊はある程度の覚悟はしていたが、現場の様子は自分の予想を超えていた。
被害者は三朝篠美、38歳。職業は不明。
自宅マンション近くの路地で、首と胴体がサヨナラされた状態で発見されている。
凶器は不明だが現場検証では、周辺のビル壁、それも5階付近に多量の血飛沫が届いている上、血飛沫の場所と胴体、首の場所が離れすぎている、という状況から、被害者はその辺りの高さまで振り回され――首が千切れ落ちたのだろう、という見立てだ。
本来ならばこれから目撃者は――とか周辺の聞き込み――とか始まるのだけど、今回は必要無いだろう。被害者が何らかの犯罪者である事が判明し次第、すぐに上から捜査終了のお触れが回るという、所謂特殊案件という奴だ。
こういった不可解な事件の背後に潜む闇の事情を知るのは――署内では私一人だ。
今回の事件は、現代に生きる闇の陰陽師“葛葉”による『祟り』である。
私はとある一件で“葛葉”と関わりを持つようになり、それからは主に私が事件の情報を提供して貰うという形で協力関係を――
――ん?
というかこれでは私の一方的な儲け話じゃあないか。
あの娘達にとっての旨みが無い。まるで無い。
ならば“表”の生業である喫茶店の常連客だから?
――細かい事を考えるのは止めにしよう。
私の存在が彼女達“葛葉”の祟り屋家業に利が無いとしても、それを理由に用済み扱いするような人達ではないだろう。
――多分。
兎に角こういった“葛葉”が関わった殺人に関しては、数日すると遥かな天上の世界から捜査終了のお達しが降ってくる手筈となっているのだ。
何故なら陰陽師という存在は途方も無い昔から日本という国の表に裏にと携わっており、それは現代に於いてより複雑に、密接に絡み合っているのだという。
しかし今回は紫苑さんも気合が入っていたのだろうか。『祟り』による現場に残る特有の負の空気というかそんな厭な雰囲気。それが傷口に沁みる塩水のように肌にピリピリと障ってくる。それにほんのりと――犬の気配がする。気配と言うべきか匂いと言うべきなのか、そんなふわふわした感じなのだけれど。
きっと犬の神様みたいな巨大な犬でも呼び出した――そんなところだろう。
――などと考えていると、隣から若く暑苦しい声が聞こえてきた。
「配属になって初めての事件ですよ小鳥遊先輩!必ず犯人を」
「あ、そういうのはいいから」
「えっ?!」
私の隣でガッツポーズを決めて無駄に筋肉量をアピールする新人刑事。反射的に私が声をかけると、訳が分からないといった様相を顔と筋肉で表現していた。
恥ずかしながらこの暑苦しい筋肉が、私の新しい相棒、ローランド西郡刑事である。
こんな筋肉ゴリラは要らないからもっと可愛い――若葉ちゃんの式神サンちゃんとか付喪神のクロちゃんみたいな“癒される系アニマル”に囲まれたいのに。だが私の周りに巣食っているのは“嫌されるアニマル”系ばかりである。
若葉ちゃんに頼めば専用の式神くらい作って貰えるかもしれない。更に欲を言えばコツメカワウソでお願いしたい。
そんな現実逃避と落胆の様子の私達に先輩刑事の土田さんが近付いてきて、そのデカい図体の割に美男子っぽい可愛らしい声で話しかけてきた。
「小鳥ちゃん、こりゃあ…アレだよな」
「特殊案件って奴ですよね、どう見ても」
「だよなぁ。ここ最近パッタリ途絶えてたのになぁ。また始まったって事なのかなぁ」
「始まるって何ですか旬でもあるんですかっての」
また始まったというのは強ち間違ってはいないのだけれど。
「まぁ今回は西郡くんの勉強会って事で、適当に捜査させて終わりにしようかなぁ」
「それも良いですけど、だったら土田さんがローランドに付いて下さいよ」
私がそう言うと、土田さんはほんの少し考え込んで、
「アイツと並んでパトカーに乗れるかなぁ」
と冗談をこぼした。
「あー…ちょっと絵面的に想像したくないです」
狭い車内に並び座るゴリとマッチョ。小さい子が見たらショックを起こすこと請け合いである。こんな想像をさせて減少したアタシのSAN値を返して欲しい。
「という訳でヨロシクねぇ」
そう言い残して去ってゆく土田刑事。
警察が市内に精神汚染の元凶を解き放つ訳にも行くまい――私は仕方なくローランドの手綱を握り直すことにした。
後で『タタリアン』に顔を出して詳細を聞いておこう。そういう所はハッキリさせなければ気が済まない。旨いケーキをたらふく食べなければ気が済まない。
――ついでに“マイ式神”の件も聞いてみよう。
『犬神』の祟りを行った翌日の昼を少し過ぎた頃の事です。
私の式神である三つ目の子狐、サンが頭の上に小さな蜘蛛を乗せて運んで来ました。
ホンモノの蜘蛛であれば飛び上がるのだけれど、これは違う――詐欺師の首を噛み切って殺した『犬神』の祟り――その残滓なのです。
あえて“残滓”と表現はしたけれど、元々は強力な“不幸の運び手”である『辻神』から生み出した祟り――妖怪です。このまま放置しておけば次第に怨みが存在そのものを浸食し、遂には手当たり次第に凶行を齎す魔物となってしまいます。
なので葛葉の陰陽師は、役目を果たした『祟り』を、喜怒哀楽どの感情にも染まっていない純粋な魂である“御霊”に戻す必要があるのです。
「相志さん、『犬神』の祟りが戻ってきました。紫苑さんに伝えて頂けますか?」
平素であれば紫苑さんは2階でゴロゴロと惰眠を貪っている筈である。私が行くより相志さんに任せた方が良いと思い、相志さんに声をかけました。
相志さんが2階へ行って暫くすると、白いワンピース姿の紫苑さんが店先に降りてきました。
裸は不味いけどとりあえず簡単に着替えられるから、という選択なのだろう。ある程度の着替えが出来るようになったのは喜ばしい限りなのですが、今度は狙って楽な方へとシフトしてきているような気がしないでもない。しかしその姿がまた美しいのだから注意をする気も萎えてしまうのだ。
「ありがとうございます、若葉さん。サン――『犬神』をこちらに」
紫苑さんの呼びかけに、サンが紫苑さんの掌へと蜘蛛の姿をした『犬神』の祟りを乗せる。その蜘蛛を愛おしそうに指で撫でる紫苑さん。
私がその様子を眺めていると、紫苑さんが語り出した。
「元々犬神というのは、外法の術により生み出された、犬の式神の事を指したのです」
「外法の…術ですか?」
「はい。“四方院”に連なる事を拒否し私欲の為に術を奮った陰陽師――外法師。彼等が『犬神』を作るその方法とは…犬を首だけ出して土に埋め、飢えと渇きとその怨みが狂気へと変わるその瞬間に、犬の首を切り落とすんです」
と、物騒な事をさらりと言ってくれる紫苑さん。
「その身を苛む飢えと渇き、狂気…それが一点に集中された犬の首を触媒にして作られる式は強力にして従順、しかも造り易い。なので外法師に重宝されていた歴史があるのです」
安くてお手軽、しかも効果はお墨付き、という事か。
「私や若葉さんは気軽に『辻神』や『歳神』を呼び出し、それを触媒として強力な術――祟りを起こせますが、並の術者が強力な術を使おうとするには、そのような“代償”が必要なのですよ」
「可哀相ですね…術の為にただ殺されるなんて…」
私がそんな感想を漏らすと、紫苑さんはそれを見越していたのか「なので…」と話を続けてきました。
「それを外法師が使えないように葛葉がかけた呪いが――この絵なのです」
「絵が――呪いって…どういう事ですか?」
私が訪ねると紫苑さんは「『画図百鬼夜行 前篇 陰』 に記された犬神の絵を覚えていますか?」と聞いてきました。
「はい…『犬神』は貴族みたいな格好をしていました。その傍では、童子って言うんでしたっけ?子供がなんか遊んでいて…」
と私があやふやな記憶のままで答えると紫苑さんは嬉しそうに、
「烏帽子に狩衣――高貴な存在である『犬神』と、膝の元で遊ぶ童子。つまり人間…『犬神』は位の高い存在であり、外法を使う人間よりも位が上であり使役できる存在では無い。と世間に広める。それだけです。
「世間に広める――それだけで呪いになるんですか?大半の人は意味も分からないと思うのですが…」
私がそう言うと、
「犬神は人よりも偉い。そう世に広まる――それだけで良いのですよ」
ほんの少しだけアブなそうな表情を浮かべながら紫苑さんが言いました。
「知らずの内に世を身を縛る――それこそが“呪い”の真骨頂なのです」
うん。紫苑さんが言うと洒落になりません。恐ろしさが半端じゃない。呪いも恐ろしいが、たったそれだけの情報――呪いで外法の術を封じるという葛葉の凄さが垣間見える話である。
「それは『神』と呼ばれる存在にしてもそうなのですよ」
「そうなんですか?」
私の食いつきが良かった所為だろう。上機嫌で語る紫苑さんである。
「いくら自分独りで神だと叫んだところで崇める者が居なければ神は成り立ちません。世に広まる――そうなのかと人々に植え付ける事で神は神たり得るのです」
「妖怪と似ているんですね」
ふと思った事を口にしてみる。すると紫苑さんはその瞳を更に輝かせて食い付いてきた。
「――といいますと?」
「暗がりの更に奥、見えない背後――何か居る、という人の思いがそれを形作ってゆくんですよね」
私が素直な感想を述べると、紫苑さんは自分の両腕を抱いて恍惚そうに身体を震わせていた。
「そうです――正にそうなのです。人の上に立つ『神』といえど人無くては存在し得ない。それは影の存在もまた然りなのです」
「人に認識される事で生まれる…神も悪魔も人のこころ次第…」
私がそう溢すと紫苑さんは、とても穏やかな、嬉しそうな表情で私を見ながら、
「若葉さん、それこそが陰陽師の本質でもあるのですよ」
と言ってくれました。なにやら物凄く褒められているような気がします。
「確かに『犬神』は外法師に重用されてきました。ですが、それだけでは犬の魂が『犬神』と呼ばれるには至りません。犬を神として奉る逸話があったからこそなのです」
そうして嬉しそうに話し始める紫苑さん。こと妖怪に関する話をする時はとても楽しそうである。弟子として同じ妖怪を扱う身としては良い勉強にもなるし、なにより楽しそうに語る紫苑さん、という尊いモノが拝謁できるのである。断る理由は何処にも無い。
ひとつ間を置き『むかしむかし…』と紫苑さんの昔話が始まりました。
「深山に猟犬を連れて踏み入った猟師が居ました。猟師が歩き疲れ一休みしようと腰を下ろします。けど何故か犬は狂った様に猟師に向けて吠え続けていました」
――その後の展開が読めるようになって来た。
「怒った猟師は犬の首を跳ねました」
――やっぱり。
「相変わらず斬る基準が低いんですね」
思わず声に出る。
「すると断たれた犬の首は猟師の背後へと飛んで行き、猟師を狙っていた大蛇を噛み殺していました。自分の浅はかさを思い知った猟師は、その犬を神として奉ったそうです」
どうみても人間の身勝手さに溢れるお話なのだけど、その勝手さを外法師は利用してきたのだろう。それでも犬の首を切る、という行為には嫌悪感を抱かずには居られない。
「それだけ、犬という生き物は主人を思うものだという事なのでしょうね。言葉も通じず、心も通わせられない。けれど尽くそうとする…それを人間が悪用してきたのでしょう」
そこまで言うと紫苑さんは『犬神』の祟りであった蜘蛛を両手で優しく包み込んだ。
そして――祈りを捧げるかのように呪文が唱えられました。
「仇成せば 沢の蛍もうらみより あくがれ出づる 御魂となりける」
そしてゆっくりと両掌を広げ――紫苑さんの掌から『犬神』の祟りが強く光を放つ蛍となって夜空に登り――消えていきました。
そして紫苑さんはこちらに向き直ると、
「この祟り、まだ終わっては居ませんよ」
と言いました。それに無言で頷く私。
「身を尽くしたあの子の最後の願い、叶えてあげて下さい」
そう言ってあの子が唯一遺して逝ったものを手渡してくれました。
疲れた様子を隠そうともせず、夜の公園のベンチに一人俯いて座る女性。
私はその女性の声をかけました。
「失礼ですが…もしかして犬を探していませんか?大きくて毛並みの良い――」
『怨みの記憶』で見た、犬の飼い主あった女性である。私はその人に声をかけていた。
この公園は、あの子がご主人といつも散歩に来ていた公園でした。近所には手作りであろう「犬を探しています」の張り紙が貼られている。しかしそれだけでは居ても立っても居られず、ここならばあの犬が戻ってくるかもしれない。そう思って探しに出てきた…という所だろう。
「はい!…チャコを知っているのですか?!」
突かれたように立ち上がり迫ってくる女性。私よりは確実に年上なのだけど、何処と無く頼りない印象を受ける女性でした。
「これを預かっていましたので――お返ししようと」
そして私は、あの犬が『祟り』に吸い込まれた跡に遺された、血の付いた首輪を女性に渡しました。赤い皮製で、ぶら下がる銀色のプレートには“チャコ”と刻印がされている。
「預かってって――これを何処で?あの子は?大丈夫なんですか?!」
私の言葉の意味を理解したのだろう。私は無言で首を振りました。
「まさか死んだって言うんですか?どうして!?何で助けてくれなかったの?!見殺しにしたの?!」
女性は私に向かい、掴みかからんばかりの勢いで声を上げてきた。
全てが他人任せの言葉に聞こえました。
何より辛いのは愛を裏切られたあの子の方だろうというのに。何も知らず見ようとせず流される割に、後から文句を言い、他人にばかり結果を求めるその言い方に苛ついた私は、眉間に皺を寄せて静かに呟きました。
「何度も刺された…それでもバッグを――命を賭けて取り戻そうとしたあの子を信じられず身を退いた貴女がそれを言うんですか?あの子はずっと前から何度も貴女を止めようとしていたのに?」
あの時覗いた“怨みの記憶”をそのまま語る私。
「どうして…何でその事を…」
私の言葉に驚き、困惑する女性。それも当然だ。当人しか知る事の無い情報なのだから。効くかどうかは賭けだったけど、今回は上手くいったようだ。女性も私の話を聞いてくれるだろう。
「それでも――」
私は女性が落ち着くのを待って、そしてもう一度言い直しました。
「それでも助けたいから――あの子はそう言っていました」
本当は分かっているのだろう。愛犬が既に死んでいるであろう事には。けれど自身の結婚詐欺を見抜き阻止しようとしてくれた英雄的行動が、あの子の死という現実から目を逸らさせる原因となっていたのだろう。崩れるようにベンチに座ると、女性はポツリポツリと語り出した。
「あの子は…最初から気付いていたんでしょうね――彼が詐欺師だという事に」
膝の上に置いた、首輪を握る腕が震えていた。
「本当に…あの子には悪い事を…」
手の甲にポタリとしずくが落ちている。
それを見たサンがピョンと飛び跳ねて女性の肩に乗ると、俯くその頬にすりすりとしはじめた。
勿論一般人である女性には、サンが肩に乗っている事、頬ずりしている事すらも分からないだろう。
だが彼女の嗚咽は止まり、ほんの少しだがクスリと笑う声が聞こえた。そして、
「今…あの子が頬擦りしてくれた気がするんです…ここにいるよって…」
俯いたままそう話し、彼女は首輪を強く握り締めた。
「ありがとう…ござい…」
そして彼女は、再び溢れだしてくる嗚咽にその身を任せ始めていた。
私は一度だけ夜空を見上げると、黙ってその場を後にしました。
次のお話は『小袖の手』。無念の思いが袖から伸ばす手が手繰り寄せる祟りとは?
ご期待下さい。