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1-3 犬神

 あのバカ犬に腕を噛まれた上に500万円まで持ち逃げされてしまった。

 たかが犬ころに“仕事”を邪魔された――ヤキが回ったとは思いたくないが、失敗だったのは確かである。だが、あの女は現金はもう一度準備するし、治療費も準備するから、と平謝りで俺に言ってきた。今回ばかりはカモの馬鹿さ加減に救われた形になる。

 もう少し時間をかけてしゃぶり尽くすつもりだったけれど、向こうから『カネを払いたい』と言ってきたのであれば断る理由もないだろう。それに縁を切るのに十分な理由も出来た。


 三朝(みささ)篠美(ささみ)は包帯の巻かれた腕を擦りながら、自然と持ち上がってゆく口角を抑えきれずにいた。

 腕の傷は思ったより深くなかった。そういう事に慣れていない犬なのだろう、と診療所の藪医者は面倒そうに話していた。毛の長い品種は元より性格が大人しいからな、とも言っていた。診断書もいいように書いてくれると言っていた。

 とにかく()()()が一着ダメになったのは残念だ。

 しかし“犬に噛まれた”とは言ったが毛の長い品種とまでは説明していなかった気がするのだけれど。

 多分犬の毛が服に付いているのだろう。やはりこの背広は捨てなければならないか。

 そんな事を考えながらタクシーに揺られ、ようやく自分のマンションに戻ってきた。

 鍵を開け、暗い部屋に入る。


 途端――

 土埃と皮脂が発酵したような、鼻の奥に沁みこんでくる様な臭いが部屋から吹きだした。

 思わぬ不意打ちに眉を顰めて顔を背ける――まともに嗅いでしまった。

 今までに自分の部屋からこんな匂いはした事が無い。しかし何処かで嗅いだような気もする。

 そうだ。まるであの女の家に初めて立ち入った時に嗅いだ。

 ――獣臭いのだ。

 けだものの毛と皮の臭い。涎の臭い。だがあの女の部屋と比べようも無い程に強烈に匂っている。

 しかし何処からだろう。このマンションはペット禁止だ。ならば誰かが隠して飼ってその臭いが――いや、そんな生易しい臭いではない。

 どう考えてもこの部屋で臭っている。

 部屋の鍵は問題ない。窓も閉めて出た筈だ。

 ならば一体何が――と其処まで考えて、ようやく思い当たる節に辿り着いた。

 あの女の犬――五百万円を首から提げて逃げたあの女の犬だ。

「おい、居るのか?犬っころ?」

声を上げてみるが、勿論反応は無い。

 我ながらバカらしいと思いながらも、ポケットから犬の返り血が付着したナイフをそっと織り出した。

 何度も刺したのだ。生きている筈が無い。

 生きていたとしてもマンションの部屋に入れる筈が無い。

 だが――もしそうだとしても、部屋に満ちるこのけだもの臭さを否定する材料にはならない。

 とにかく、こう暗くては話にならない。明かりを点けようとスイッチに手を伸ばし――

 何かに躓いた。

 小さく悲鳴を上げて倒れこむ。

 何に躓いた?柔らかくて湿り気のある――まるで犬の腹を蹴った時の様な感触だった。

 気を取り直して立ち上がり、玄関の明かりを点ける。

 あの犬が床に転がっていた。

 見間違える筈も無い。俺が何度も刺したあの犬だ。体毛は血だらけで、首からピンクのバッグもぶら下げている。

 でもどうやって入り込んだ?

 それはこの際どうでも良い。諦めていた五百万円が手に入ったのだ。このままあの女から五百万円のおかわりも頂けば怪我に見合う儲けというものだ。

 屈んで犬の首にかかるバッグに手をかけ、そのまま引っ張り上げる。

 犬の死体は思っていたよりも重く気味が悪かったが、バッグの紐はスルリと難なく外れた。

 バッグを開いて中身を確認するが、確かに五百万円入っている。血で汚れてもいない。

 よかった――


 ほっと一息吐いて顔を上げると

 目の前に犬がお座りしていた。


 吠えるわけでも。

 牙を剥いて唸るでもなく。

 舌を出して息もするでもなく。

 ただ――

 どよりと澱んだ死体の目をこちらに向けて座っている。

 人形か置物のように微動だにしない犬が、起き上がって顔を見つめている。

 思わず足が出た。足の裏で首の辺りを蹴り飛ばしていた。

 犬は逃げる事も吠える事もせず、部屋の奥へと転がった。

 確かに奴は死んでいた。いや――確認はしていなかった。

 じゃあ生きていたのではないのか――それは無い。抵抗の無いぐにゃりとした蹴りの感触。生きている時の張りが無かった。それに…あの犬は息をしていたか?

 それこそありえない話だろう。

 死体が起き上がるなんてありえない話だ。

 ――そうだ。バッグを引っ張り上げた時に立ってしまったのだろう。そうに決まっている


 ならば何故あの犬はまた立ち上がっているんだ。

 ならば何故あの犬は私の顔を見ながら歩いて来るんだ。

 ならば何故この犬は目の前に座って俺の顔を見ているのだ。

 ならば、未だ生きていたのだろう。

 もう一度蹴り飛ばす。今度はつま先で顎の下を蹴り上げた。

 犬は大きな身体を宙に浮かせ、ぐるりと一回転して床に落ちた。


 そして


 ゆっくりと起き上がっては床に腰を下ろし。

 外れた顎をだらりと垂らしながら。

 俺の顔を見ている。


 叫び声を上げた気がするけれどよく覚えていない。

 犬を部屋の奥まで蹴り飛ばし、手近にある物を総動員して奴の頭に何度も何度も振り下ろしていた。それはよく覚えている。

 そのはずなのだけれど――

 確かに目の前に三度座っている犬は、顔が判別できないほどに叩き潰れている。

 目玉が潰れ窪んだ眼窩を俺の方へと向けている。これで生きていられる訳が無い。

 ならどうして立ち上がってくるんだ。

 冗談じゃない。こんなことやってられるか。

 思わず背後へと一歩後ずさりする。


 すると犬が腰を上げ、一歩前へと踏み出した。けれどそれ以上動く気配が見えない。

 まさか距離を――保とうとしているのか?

 これなら逃げられるかも知れない。

 あれこれ考えるのは後だ。兎に角今は逃げなければ。

 犬を刺激しないように、とゆっくり後退する。

 すると顔の潰れた犬もゆっくりと歩きだした。既に眼は潰れて見えない筈なのに、砕けた頭をこちらに向けながら、後を追ってくる。

 静かに靴を履き、ゆっくりとドアロックに力を入れ――

 ガチャン。

 その音に犬が顔の潰れた頭をビクッと動かした。

 ――ヤバい!

 急いでドアを少しだけ開き、隙間から身体を躍らせて力いっぱい閉じ――ようとした所で犬がその首を隙間に捩じ込ませてきた。

 先程までの様子とは違い、砕けた口から轟々と唸り声を上げ、潰れた首を振り回しては外に出ようと必死に足掻いている。

 このまま外に出したら殺される――

 そう思った三朝は、犬の首を挟んだドアを必死に押し返した。

 そして――

 力強くドアの閉まる音と共に、ばきぐちゃりという砕けたような千切れたような音がした。


 ドアは閉まっている。急いで鍵を掛けた。

 ――助かった。

 大きな溜息を吐きながらドアに頭をこつりと乗せ、足元に視線が落ちると――

 最早元が何だったのか分からないような、犬の首らしき肉塊がごろりと転がっていた。

 思わず飛び退くが、さすがに首だけでは動きようも無いのだろう。今度こそ死んだように動かなかった。

 犬というのはここまで執念深いのか――あれだけやっても生きて向かってくるとは。

 けれどバッグを持ったままだというのは不幸中の幸いだった。

 今日は少し酒でも飲みながら遊んで帰るとしよう。

 まさか――と思い千切れ落ちた犬の首に目を遣るが、潰れ砕けた首は廊下に転がったままだった。

 首はそのまま放置してマンションを飛び出ると、タクシーを停めて最近お気に入りの女の子が居る店まで向かった。

 店のドアを開けると着飾った女達の甘い匂いと「あら――三朝さん、お久しぶりぃ」と嬌声が出迎えてくれたが――俺を見て鼻をひくつかせると眉を顰めた。

「どうした?」

「…犬飼ってんの?」

どきりとした。

「いや?――飼ってねぇよ。前に部屋見せたろ」

「うん。そうなんだけどね…」

「どうしたよ。言ってみろって」

「ものすごく――ケモノ臭いのよ。何日も洗ってない犬みたいな酷い臭い」

しまった――あの部屋の臭いが服に移っていたのか。

「ってか顔も酷い汚れてるよ?野良犬にでも襲われた?」

怪訝そうな顔をしながらも、上客の為にと会話を続けるホステス。

「みてぇなもんだ」

とりあえずそう答える。部屋で遭遇した出来事を話したとしても、どうせ信じて貰えないだろうし、酔客の戯言と水にながされるのは目に見えている。

「とにかくこのままじゃあお店に入れらんないヨ。おしぼりくらい出してあげるからサ、とりあえず顔拭きな。んでフロ屋に行ってきた方がいいよ」

「悪ぃな。サンキュ」

相当酷かったのだろう。それでも顔を拭かせてくれるだけでもマシだと思わねば。

 かすかに漂白剤の臭いが残るおしぼりで顔を拭い、ようやくほっこり一息ついたところで

 目の前の犬におしぼりを手渡した。


「どうしたの?」


 さっきまで俺が話していた女の身体をした

 犬の首が

 おしぼりを受け取ってこちらを見ていた。


 足の力が抜け、上半身がストンと地面に落ちるのが分かった。

「ちょっと!どうしたの三朝さん?!」

女の身体をした犬の首が女の声で近付いてくる。

 どうにか逃げ出した。犬の様に四つん這いになってどうにか逃げ出せた。


 どのくらい逃げ回っていたのか分からないが、気が付くと夜の店が立ち並ぶ賑やかな通りに出ていた。

 適度に酔いが回り、大声で会話しながら歩く若い男達の集団。

 連れ歩く女の腰に手を回しながら、もっと下へと手を伸ばそうとしている中年男性。

 そしてそんな中年男性の所持金にしか興味の無い若い女。

 そんなオブラート一枚に包まれた欲望が渦を巻く、居心地の良い夜の街。

 気が付いた時には立っていて良かった。

 こんな所を四つん這いで駆け抜けていたら、最早人を騙して金を掠め取る商売は出来なくなるだろう。

 ()()()が悪い方に入ったのだろうか。きっとそうだ。

 そうして何食わぬ顔で歩き出そうとした時。

 右足首に激痛が走った。

 まるで――犬に噛み付かれたような痛みだった。

 叫びそうになりながらも周りの眼を気にして耐え、転びそうになりながら足首に目を落とすと――

 何も居なかった。

 だが痛みは続いている。

 何故――考える暇も無く左太腿にも激痛が走る。 

 立っていられず歩道に倒れこんでしまう。

 するとすかさず右手首、左上腕、右大腿、左脇腹――と全身に同じ様な激痛が襲ってきた。

 耐え切れずに路上をのた打ち回って悲鳴を上げる三朝。

「やめてくれ!もうやめてくれ!助けてくれ!お願いだ!」

 だが勿論通行人はそんな三朝を奇異の眼で見ては指を差し、スマホを向けるだけである。

 そんな時間がどの位続いたのだろう。激痛に声も出せず、釣り上げられた魚の様に身を痙攣させるしか出来なくなった頃――ふと激痛が消えた。

 豚の様な声で喘ぎ、四つん這いになってようやく顔を上げた三朝は


 自分が何人もの犬に囲まれ、見下ろされている事に気が付いた。

 いや、厳密に犬とは呼べない代物だった。

 ヒトとイヌの顔をCG合成したような混ざり物。そんな顔が

 自分を見下ろす通行人が全て――

 そんな顔をしていた。


「うわあああああああああ」


 逃げなければ。でも何処へ?何処へ行っても犬に追い立てられる。

 許してもらわなければ。でも誰に?誰でもいいからとにかく許してくれ。

 近くに居た犬と混ざった顔にしがみつく。

「お願いだ!もう許してくれ!この通りだから」

だが犬と混ざった顔は三朝を突き飛ばすと知らぬ存ぜぬと歩き去っていった。


 こいつらでは許してもらえないのか――だったら。


 震える足をどうにか動かし、三朝はとある家のチャイムを鳴らした。

 インターホンから聞こえる誰何に震える声で答えると、すぐに玄関のドアが開いた。

 現れた女性は三朝の姿にひどく驚いた様子だったが、同時に心配そうな表情を見せていた。

 だが、三朝にはそれを気に留める余裕も無ければその気も無かった。

「お前、その犬の飼い主だろ?だったら止めさせてくれよ!俺を襲うのを止めるように言ってくれよ!」

「え?」

言われた女性は訳が分からないと言った顔を三朝に向けている。

「お前から金を騙し取ろうとした事を怒ってるんだよ!」

「えっ…なに?どういう事?」

理解が追い着かず狼狽するだけの女性。

「俺はなぁ!お前を騙して金を巻き上げようとした詐欺師だっつってんだよ!いい加減気付けってんだよこのバカ女ぁ!だぁから俺みてぇな男に騙されるんだろぉが!」

潰れそうな喉で叫ぶと、三朝は金の入ったバッグを玄関先に叩き付けた。

「この金も返す!警察にも自首する!だからそいつを――」

女の背後を指さす男

「その犬をどうにかしてくれって言ってんだよぉ!」


わんっ


 声が聞こえた。女にも聞こえていたようだ。けどそんなのは当たり前だ。黒い毛並みに変わったあの犬が、ずっとあの女の後ろに居たんだから。

 三朝は踵を返すと弾かれたように走り出した。自分が何故四つん這いで走っているのか、そんな事も気になら無い程にひたすら走っていた。


 あの声は確かに『失せろ』と言っていた。

 金も返した。ならばもうこれで――

 きっとあの犬を殺したのが良くなかったんだ。殺した犬が俺を怨んで化けて出たんだ。そうとしか考えられない。

 けれどこれで終わった。ようやく家の近くまで帰って来られた。

 安堵の溜息を吐きながら、暗い路地をヨロヨロと歩く。

 これからは真面目に生きよう。どこか田舎に引っ込んで慎ましく暮らそう。

 今までには考えた事も無いような事を弱りきった思考回路

 向こうの明かりに長く影を落とす何かに気が付いた。

 顔を上げると、目の前には、あの女の背後に居た、あの黒い毛並みの巨大な犬が立っていた。


 まだ――まだなのか

「なんだよ…白状もしたぞ!金も返したぞ!自首しろってんならそうするよ!だから」

もうおわりにしてくれ


 そう口にしたつもりだった。


 だが途端に頭全体がぬめりとしたなにかに包まれ、首には鋭いモノが何本も突きたてられている事に気が付いた時には、残された選択肢は存在しない事に気が付いた。

 本当に終わりが来た事に気が付いた。


 男の首に頭から齧り付き、その感触を楽しむように数回振り回すと、首を噛み千切って身体を路上に放り投げる、獅子のような体躯の黒い犬。

 残った首をぺっと吐き出し、転がる首に向け、


「我は『犬神』…主人に仇成す輩を成敗する――祟りなり」

 

 転がる首と身体にそう言うと、その黒い身体をビルの影の中へ溶け込ませ――消えていった。

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