6-3 しょうけら
割引シールの貼られた鮭弁当の空容器を床に出しっぱなしのビニール袋に放り込み、石川隆一は医師会報が乱雑に散らばったソファに倒れ込むように座った。
食事に贅を尽くす事に楽しみを見出せなかったのか貧乏舌なのか、石川は東京に出張に出た時ですらレストランや料亭へと足は向けず、ホテルへコンビニ弁当を持ち込む男だった。
そんな石川も趣味は無いのか、と聞かれたことがある。見合いの時だ。
遊ぶ時間などありません。と答えた相手からは丁寧なお断りの定型文が届いた。
その分だけ仕事をしています。と答えた相手が今の妻であった。
金を稼ぎ、ステータスの高い妻を迎え、大きな家に住み、高級車に乗る。
およそ模範ともいえる上流な生活。幸せな生活。
そのはずだった。
稼いだ金は訴訟で奪われる。職員の給料と消えてゆく。
勤務医ではあるが内科医師であった妻は女性の権利擁護を旗頭に怠惰な暮らしを送る無能だったので離婚した。
高級車は自損事故で修理費用の方が本体価格を上回る結果になり結局手放していた。
手に入れたつもりが思い通りにならないものばかり。
唯一思い通りに出来ている大きな家は、それでも結局居住エリアよりも物置エリアの比率の方が高くなっている。
石川はテーブルに出しっぱなしのブランデーの瓶に直接口を付け、舌を濡らす程度口に含むと元の位置に戻し、漏れる溜息に纏わりつく香りを楽しんでいた。
ようやく手に入れた、静かな時間を石川は楽しむつもりだった。
つい最近まで心休まらぬ事態だったのだが、それが漸く沈静化の兆しを見せ始めてきたからだ。
自分が経営する病院内での新型コロナウイルスクラスター発生である。
あの時石川は熱発の患者にいつも通り転棟の指示を出していた。それだけである。
同じ病棟で新型コロナ陽性と診断され休んでいる職員が居るという話も聞いていたし覚えてもいた。
だが関係ないと高をくくっていた。他にも数人熱発者が居るという報告も目には入れていたが関連して考えていなかった。
だが院長である自分がミスを認める訳にはいかない。
医師の判断ミスは格好の訴訟、賠償ネタになる。しかもその予想される人数は何十人にも及んでいる。
石川は考えた。学生時代から誰にも叱られた事の無い人間が、世間から叱られる事を避けるために必死に考えた。
その結果が。
――話を拡大させず秘密裏に院内で処理すればいい。
そうすれば誰にも咎められない。誰にも文句を言われず隠蔽する事が出来る。
検査をしなければコロナにはならないのだ。
保健所の目さえ搔い潜れば――自分は無実を通せる。
その筈であった。
だが病院の職員達は自分の命令を聞かず、保健所の命令に従ってPCR検査を受けていた。
これではバレてしまう――石川は激怒した。
お役所の職員が我が物顔で見回りに来て上から目線で“検査して下さい”と言ってくるのだ。また検査をして陰性か陽性かをはっきりさせないと働くのが怖いのも理解できる。そう納得しながらも石川は、結果として自分の命令を無視したことに怒りを禁じえなかったのだ。
そして石川は激昂に任せたまま指示を出した。
職員に対し個人の独断でPCR検査を受けることを禁じ、院内の患者に対し行われた検査には、検体をすり替えるよう命令した。
そしてある程度冷静になってきたところで再び指示を出した。
保健所からのPCR検査指示は了承してよい。但し保健所から指定された、陽性が疑われる患者からは検体採取をせず、確実に陰性と思われる患者からしか採取させなかった。また職員が熱発した場合は医療機関に通院させず、自宅待機を命じるよう通達したのだ。
さらに一番入退院の激しい内科病棟には職員に対しPPEの使用を禁じ、『感染は拡大していない』という保健所へのアピールとする。
コロナの所為であろう熱発と呼吸状態のよろしくない患者に対しては点滴と酸素吸入のみでの対応とし、コロナとしての治療は行わない。そうやってさっさと死亡退院させ、感染源を根本から減らしてゆく。
今後のPCR検査への対策についても石川は妙案を思いついていた。
鍵となったのはPCR検査の検査結果報告書だ。
PCR検査の結果は一般的な血液検査等の様に数値が表記されたりコロナウイルス(+)と出るようなものではない。結果表には波型のグラフと“新型コロナウイルス疑陽性”と記入されているのみで、陽性かどうかは医師がそのグラフを読み取って判断しなければ『新型コロナウイルス陽性』とはならない。
つまり、コロナウイルス陽性、と診断しなければいいだけの事なのだ。
そうすればPCR検査は受けた事にもなるし、万が一本当に陽性だったとしても俺が陽性だと判断しなければ“疑陽性”のままで通せる。そうすれば感染者数を増やさないで済む。
死亡診断書には“新型コロナ疑陽性”と記入すれば、葬儀屋も新型コロナウイルス陽性の遺体と同様の対処を取らねばならないため、遺体から外部に感染が広まったと騒がれる事も無い。
そうすればいずれ収束する。ここさえ騙し切れば――
批判されたくない。訴えられたくない――怒られたくない。
石川は必死だった。
そうした結果として保健所からは、41人のクラスター発生を的確に封じ込め被害も拡大させる事無く見事に収束出来たと評価を受けている。
職員の勝手により感染拡大が表沙汰にはなったが、結果的には良好な評価を得る事が出来ている。そして今後流行が再拡大の兆しを見せた際には優先的にワクチンを手配してくれるという確約も貰っている。
PPE(個人用防護具)一式に掛かった費用はひと月でおよそ百万円にも及んでいるが、それは勉強代と思って腹に収めることにした。
保健所の指導による院内での感染経路追跡が行われるのではと不安になり眠れない事もあったが、実際にはそんな事などありはしなかった。今になって冷静に考えればある意味当然ともいえるかもしれない。
保健所とて本当の感染数が公になってしまえば大問題になるのは目に見えている筈だ。
掘り下げればヤバい結果が出るのは目に見えているし、それをやってしまえば医療現場が崩壊し収拾がつかなくなってしまう事は明白なのだから。何よりそこまでの面倒を事なかれ主義のお役所が先導しようとする訳が無い。
やはり俺が思い通りに出来れば何の問題も無い事なのだ。
他所からの口出しなど無しでも十分に結果を出せる。
まだ俺は上を目指せるという事だ。
石川はソファにもたれながら目を瞑ったまま頭を反らした。
コロナ禍による運動不足で弛みだしてきた顎周りの組織がピンと伸びて心地良い。
このまま寝てしまうのも気持ちよいと思っていたその時だ。
はぁああああああああ
石川の耳に何かが聞こえた。
痰の詰まった吐息のような音。そして悪臭。石川は気管挿管の時によく嗅がされた、歯垢と痰、薬液の混ざり合った、どろりと甘ったるい鼻にこびりつくあの臭いを思い出した。
眼を見開いて飛び起きる――いつもと同じ、乱雑に散らかった自分の家だ。
いや。何か居る。視界の左端に黒いものが居る。
石川はサッと首をそちらに向けた。だが黒いものも同じように同じタイミングで視界の端に移動した。
飛蚊症――ではない。糸くず状でないしなにより視界の端で猿の様な格好をした黒い影がゆさゆさと揺れている。
「誰だ!」
大声をあげて勢いよく振り向いた。黒い影はほんの一瞬だけ視界に入ったが、まるで石川の視界を把握しているかのように再び視界のギリギリ端へと居座っていた。
猿だろうか――だが大きい。腕も異常に長く見えた。気取られないようにとソファの横に置きっぱなしの雑誌をゆっくりと掴む。
「出ていけ!」
大声で振り向きながら雑誌を投げつけた。だが雑誌が打ち付けた場所には何も居らず、黒い影は上――天井へと移動していた。
石川は核心した。確実に何か居る。何かは分からないが天井にへばりつくような何かが。
背中の毛が一瞬で逆立つ恐ろしさを感じ、品の無い叫び声をあげながら、あちこちに積み上げられたゴミや食器、会報誌の山を薙ぎ倒して部屋を出ようとドアノブを握ったところで――
ドアノブを握る石川の右手に、細く真っ黒な腕が添えられた。
瀕死の老人の様に細い。けれど黒猫の様に艶やかな黒毛が覆っている。
そして明らかに人外だと主張する、節くれ立った冷たい三本指が手の上に添えられていた。
すぐうしろ。
ゆっくりとした、だがひゅうひゅうとした呼吸の音が頭の上で聞こえる。薄くなった石川の頭髪を湿った生臭い吐息が揺らしている。
動けなかった。
頭では逃げろと警報が鳴りまくっているのに。心臓は激しく暴れているというのに。
足が――手が。凍り付いたように動き出さなかった。
「これより裁定を始める」
下手糞なバイオリンを掻き鳴らすような不快な音がして、それが声かと気付いた瞬間、石川は宙を飛ばされ反対側の壁に叩き付けられていた。
投げ飛ばされた際にシャンデリアが壊れたのだろう。室内の照明が消え、無駄に広い窓から差し込む月光が、室内に舞う埃と異形の姿を浮かび上がらせていた。
細い体躯。バランスが悪い程に細長い手足。顔は歪な四角形で不釣り合いな耳がピンと立っている。
知性の欠片も窺えない小学生の粘土細工のような顔をしているがその目は野生とはかけ離れた冷厳な光が宿っていた。
「か……は…(か、かいぶつ…)」
驚きの所為か衝撃の所為か言葉が出ない。
「悪を隠す者に災いあれ」
怪物の口が動き、耳障りな音が言葉となって石川の耳に届く。
「かく……な……(かくすってなんのことだ)」
背中を強打して呼吸もままならず、満足に喋ることも出来ない石川。四つん這いになり豚の様な喘ぎ声で酸素を求めていると再び声が掛けられた。
「罪を隠しているだろう。ん?」
挑発するようなその喋り方に苛つきを覚える石川だったが、それは一瞬で掻き消えた。
細い腕からは想像もつかない程に太く大きな3本の指が石川の頭を掴んだ。そしてそれを理解する事もなく石川は床へと仰向けに叩き付けられていた。
視界が擦れる――呼吸が詰まる――のた打ち回ることも出来ず、ただ只管に目を見開いて空気を求める石川。
そこへ無造作に何かの粒が石川の顔にかけられた。石川が怪物と認識する何かがその掌から粒状の物体を石川に振りかけたのだ。その粒は鼻や口、気管、目に入り込む。
「返答は求めていない。求めるのは」
ひっくり返された亀の様にジタバタしている処を、胸元をドンと踏み付けられる石川。
「――お前の花だ」
怪物が言い終えた途端、目の表面にあった異物が、それが自らの意思であるかのように瞼の内側、眼球の奥へ。まるで視神経をさかのぼるかのように奥へ奥へと入り込んでいった。
「さぁ。お前は何を咲かせる?」
途端、石川の右目が奥から押し出されるように膨れ上がり――ぶちゅりと湿った音を立て、視神経をだらりとさせたまま顔から落ちた。痛みは無いのだろう。石川は自分の身に何が起こっているのか把握していない様で、怪物に胸を踏み付けられたままでようやく落ち着いた呼吸を貪っていた。
目玉の落ちた眼窩から何かがせり上がってきた。
紐のようにも見えるそれは眼窩から溢れ出して石川の顔にぐるりと巻き付き、縮れた5枚の花弁を持つ純白の大きな花をぽかりと空いた眼窩へ咲かせた。
「夕顔――『罪深い人』が咲いたか。花弁が大きい。罪も大きいようだ」
「つ、罪って何の事だ。何が起きているんだ。何かが顔に巻き付いているのか?み、右目が見えない――お前は誰なんだ?私に何をしようというんだ?」
興奮、混乱、怒りと恐れ――執拗に話しかけてくる石川に怪物は辟易したように、石川の胸を踏み付ける足へほんの少し力を込めた。
パキパキと何かが砕けるくぐもった音に続き、石川が咳と共に血を吐く。
「罪の種類を見せてみろ――咲け」
怪物の声に反応したかのように、踏み付けられていた石川が悲鳴を上げた。
「い、痛い!刺さる!何かが俺の身体に刺さって!あぁ!奥まで入ってくる!助けてくれ!」
石川に振りかけられたのは“植物の種”だった。それが怪物の一言で根を石川の身体を大地として根を張り、茎を伸ばし急激に成長を続けていた。
根が肉を裂き、芽が衣服を貫いて咲いたのは、丸っこい葉っぱ。直立した茎の先が5,6つと分かれ、それぞれに血を吸ったように真っ白な5枚の花弁。それが顔を除く体表のあらゆる場所から咲いていた。
「ゼラニウム――『詭計』か。他人を騙し、苦しめているな。それも数え切れぬほどだ」
怪物が石川の胸元から足を離した。だが石川は身動きが取れなかった。
文字通り全身を貫くゼラニウムの根の痛みにより、全身が痛みそのものと化したような錯覚に陥っていたのだ。
「私がお前を殺すのではない。お前に向けられた怨みがお前を殺すのだ」
怪物が身動きの取れない石川に声を掛ける。だが石川は動かない。
「では――仕上げといこう」
途端、人の形をしたプランターと化していた石川が全身をビクンと痙攣させた。続けて手を、足を癲癇発作の様に突っ張らせてガクガクと震えさせ、死んだ甲虫の様に手足を掲げ――
脇の下、股関節から何かを飛び出させた。
蔓だ。頭だけに咲いていた夕顔の蔓が全身を駆け巡り、胴体を突き破って飛び出したのだ。
石川の身体から飛び出した蔓は四肢を巻き付けながら部屋中に蔦を伸ばし、やがて石川の身体を磔のように宙吊りとした。
すると。
蔦に咲いた夕顔の花弁から。
身体に繁茂するゼラニウムの花弁から。
ぽたり、ぽたりと血が滴り始めた。
白い花弁がゆっくりと血に染まる。赤い花弁が艶やかさを増す。
そうして全ての花弁が血で濡れた頃――
「私はしょうけら。隠した悪を裁く――祟りなり」
宙吊りのプランターと化した石川の口の中から一本の草が伸びてきた。
それは30センチ程の高さまで伸びると、茎の頂に小さな黄色い花を咲かせた。
弟切草。花言葉は――“怨み”である。
しょうけらがようやく、秘匿していた残虐性を顕わにするかの如く狂ったバイオリンのような声で、ケケケケケと声を上げて、笑った。