5-3 ティンダロスの猟犬
『3月8日の道』から『夕闇の境』へは、羽黒に直通ルートを開けさせて移動しました。
見上げれば夕焼けの紅と闇夜の黒が頭の上で互いに蕩けあっており、前を向けば黒い板塀に囲まれた道が延々と続く、寂しくて、ちょっぴり怖い道。
私達が移動してきたのは葛葉の陰陽師が依頼人から祟りの依頼を受ける時に使う建物『祟り庵』の正面でした。
「――文句なしです。ここならぬっぺふほふの仕事を間近で見物できます」
紫苑さんはそう言って3匹のぬっぺふほふを店の前に放置し、自らはそこから数メートル程離れた所へ現れた縁台に腰を下ろしていました。
「若葉さん、お露さんもどうぞ楽になさって」
そして、
「あ奴が粉砕されるさまを高みの見物と参りましょう」
と言って笑った。
…あ、いつもの静かな雰囲気だったのでつい忘れていましたが紫苑さん、これ静かにブチ切れてる奴ですね。
私とお露さんが縁台に腰を下ろすのとほぼ同時に『祟り庵』を囲む黒い外塀の“角”が同時に泡立つように煙りました。
そのまま煙を外套の様に身に纏い『夕闇の境』へと足を踏み入れる“ティンダロスの猟犬”3匹と、それらを従えたオーガスト・ダーレスが現れました。
それらの眼前には3体の『ぬっぺふほふ』がプルプルしています。
「逃げ切れぬ事を悟ったか!“猟犬”はどの次元に居ようと標的の喉を食い千切るまで執念深く追いかける!」
と、何故か道の真ん中でプルプルする『ぬっぺふほふ』に向かい威勢よく啖呵を切るオーガスト・ダーレス。そして牙を剥き地響きのような唸り声をあげるティンダロスの猟犬たち。ですがその数メートル横で縁台に座ってそれを見物している私達には全く気が付いている様子がありません。
(あの…)
恐る恐る小声で紫苑さんへと声を掛ける私。
「気にせずとも大丈夫です」
だが紫苑さんは声を潜める様子も無く、至って普通に返してきました。
「あ奴らは既にぬっぺふほふの術中」
「ぬっぺふの術中?」
「奴らには3体のぬっぺふほふが“求める者の都合の良い姿”に見えているのです」
「都合の良い、姿…?」
「求める相手が望む姿と振舞い、望む声を見せるです。差し詰めあの俗物の前には、泣いて命乞いをする我らの声と姿でも見えているのでしょう」
左右にティンダロスの猟犬を従えるダーレスはそのカラクリに気付いた様子も無く、ぬっぺふほふに対して罵声を浴びせ続けています。ちょっと面白いかも。
「髪を植える事でよく分からないけれど不吉なものを姿形のある不吉なものに変えるのです」
「今更の命乞いなど通用するとでも思ったかぁ!行けぇい!」
猟犬達は迷わず私達の方――ではなく、目の前の『ぬっぺふほふ』へと一斉に飛び掛かりました。
「――ですがそれこそがぬっぺふほふの恐ろしさ」
口蓋にまでびっちりと牙の並ぶ猟犬の顎が、まるではんぺんに齧り付くようにがぶりと『ぬっぺふほふ』の肉を齧り取る。そして飲み込む。そしてまた齧り取る。
「はっはっはっ!泣け!喚け!そして惨めに死ねぇ!」
『ぬっぺふほふ』達が一方的に蹂躙されている。今までの犠牲者たちもこのように襲われたのだと思うと背筋がうすら寒くなってきます。だがきっとダーレスの眼には私達の血祭りが見えているのだろう。
この辺りでようやく気が付いた――ぬっぺふほふの食べかけの中に、物凄い勢いで巫力が充填されている事に。
「気が付きましたか」
紫苑さんが極悪人の笑みを浮かべて私を見た。
「ぬっぺふほふの中には受けた苦痛や罵倒が巫力となって充填されるのです。そしてそれが許容量を超えると」
「こ、超えると――?」
すると紫苑さんはとてもさわやかな笑顔で、
ぼんっ
と弾ける様を手のひらで見せました。
「あの大量の牙で肉を抉られたら、相当痛いでしょうねぇ。噛んで振り回しても居ましたし、残虐性も高いですよねぇ――ふふふふ。楽しみです」
まるで新年のカウントダウンも今かと待ちわびるような可憐さで大爆発を待ち望んでいるとは仏様でも分かるまい。
そんな紫苑さんの横顔を眺めているとき。
「あっ――」
「えっ」
お露さんの何気ない声がして、その直後――
きゅいん――と音がした。と思った瞬間、鼻先でミサイルが炸裂したような地響きと爆音が私達へと届きました。
急いで顔を向けると、まるで目の前に見えない壁があるかのように爆炎と粉塵が遮断されています。
「式神の防護です」
さも当然の様に話す紫苑さん。エッヘンと胸を張るサンに天色。
でも、いくら『夕闇の境』とはいえ、地面も壁も球の形に抉れているんですけれど。しかも地表面なんかガラス化しているんですけれど。どれだけの高熱だったんですか。
というかそんな高熱の中でも肉片が残っているって、ダーレスって本当に何者なんでしょうか。
球の形に抉れガラス化した地面の上には、ダーレスの物であろう青い瞳孔の目玉とその周辺の肉や視神経らしき紐っぽいものがウネウネと蠢いていました。
…まだ生きてるの?
本当に不死という事なのだろうか――
とんでもない相手に喧嘩を売られたものだ。そう思い身が震えそうになりましたが、私の背後から静かに、ですが力強い足音が近付いてきた事でそんな恐れも吹き飛んでいきました。
紫苑さんがつかつかとダーレスの眼球に歩み寄り、破裂させない程度にギリギリと踏みつけました。
「これで我と貴様では役者が違う事が身に染みたであろう?」
言葉が聞こえているのか、残った視神経をピチピチとさせるダーレスの肉片。
「だが放置しておけば意外と早く復活しそうじゃからの。肉片ひとつ残さずこの世から消し去ってくれる」
そして懐から何かを取り出した。
それは小さな鬼の面でした。獅子舞の獅子頭の様に、自分で顎をカパカパと上下出来る絡繰面でした。
「相志の腕を奪った事、あの世での自慢と、そして最大の過ちであったと魂に刻め」
そして草履の先でダーレスの肉片を空へと蹴り上げ――右手の鬼面を上に向けた。
「喰らえ――鬼一口」
紫苑さんの手の先に、黄ばんだ歯牙を備えた大きな口が現れ、がおんという咀嚼音と共に、ダーレスの肉片は消失していました。
「紫苑さん、今のって…」
「鬼一口。私の護身道具です。可愛い子でしょう?お気に入りなんです」
「さっきの“鬼一口”で消えたモノは何処に行くんですか?」
「何処でもない、という事は知っていますが調べた事はありませんね」
「これで終わったの…ですか?」
「いえ、奴はしぶとく復活してくるでしょう。そして私達へと再び戦いを挑んでくる筈です」
「文字通り肉片一つ残さず消し去ったのに、ですか?」
すると無言で頷いた後、
「愛読書ってありますか?」
曖昧にではあるがえぇ、と答える私。マンガとはちょっと言い難い空気なのです。
「若葉さんは、読者全員の心から、その作品への思いを全て消し去れる事が可能と思いますか?」
「それは…」
「えぇ。全ての心から全ての記憶、思いを消し去る事など到底不可能です。それはつまり、ダーレスという作者の存在も同様、という事になるのです」
「それってつまり不死って事ですか…?」
「いいえ、この世に“永遠不滅”など存在しません。必ず弱点はあります」
「それを見つけられるかが、対ダーレスの鍵になるのでしょう」
そう言って踵を返し――何かに気付いたようではっとする紫苑さん。
「あの…」
「はい、どうしましたか?」
そして恥ずかしそうに俯きながら上目遣いで私達の方を向いて言いました。
「急ぎ相志の見舞いに行きたいのですが…着替え、お手伝い頂けませんか?」
まだ狩衣は自分で脱ぎ着出来ませんでしたか…
次回は腕を失った相志くんがメインです。