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4-3 縊れ鬼(後

 目の前に妻が立っている。

 いや、これは立っていると言ってよいものか――首に掛けられた縄に両手で縋り、爪先が付くか付かぬかの高さでどうにか立っているという様子だった。

 黄昏時の空の下、名も知らぬ雑草が生い茂る荒れ野の小道。

 うねうねと気味悪く曲がりくねった松の木。その枝に縄が括りつけられ、その先に妻がぶらさがっている。

 私はとりあえず妻に近付いてみた。

「あ、あなた…」

妻が声を掛けてきた。長い間水も飲まずに居たような、皺枯れた声だった。

「そんな所で何をしている。その物騒なものをさっさと外して来い。そもそもここは何処なんだ」

気を失った後で夢でも見ているのだろう。こんな土地に見覚えは無いし、こんな状況にも心当たりがない。

「は、外れないんです」

しかし妻は怯えて竦み上がり、震える声でそれを拒否した。

「巫山戯るのも大概にしろ。さっさとそれを」

「自分では外せないんですっ!」

知らずにおぉっと声が出た。大人しく物静かな妻が大声を張り上げた事に驚いた。

「どこかで見た事のある男の人が私の首に縄をかけたんです。その縄は他人の手でしか外せなくって、じゃないと助からないって!だから!あなた!助けて!」

顔を涙でぐしゃぐしゃにした妻が必死な形相で叫んでいる。私はそれがどうしても汚いものにしか見えず、大きな溜息を吐いた。

「阿保らしい――ならさっさと死んでしまえ」

「なんでそんな事が言えるの?!私は貴方の為にずっと支え続けてきたのにっ!」

首の縄に掴まりながら必死の形相で叫ぶ妻。私はその顔がいよいよ卑しい獣に見えて仕方がなかった。

「お前みたいな生き物、死んで貰った方が清々するよ」

私がそう返した途端、絶望したような妻の顔からすぅー。っと色が消えた。

 そして、何処かで“がこん”と絞首刑台の踏み板が外れるような怖気の走る音が聞こえ、松の枝が持ち上がって目の前にいる妻がぎゅううんと上に飛んだ。


 ぐうううううういいいいいいーっ


 着く筈の無い両足をバタつかせながら、首の縄を緩めようと両の腕に命懸けの力を籠め。目を剝き、歯を食いしばり――

「し、しょうもない悪戯は止めろ。巫山戯るのも大概に――」

そして、ぎぃぎぃと縄の結び目が揺れて軋む音。


 いーっひいいんん――


 そして唸り声も止み、バタつかせていた足もピクピクと震えるだけとなり――

 妻の体から、何かが抜けた。見えた訳ではないが、そう感じたのだ。

 ぶらさがる足の股間が次第に濡れ、嫌な臭いが辺りに漂った。

 まさか本当に――

「し…死んだのか?」

 死んだ。本当に死んだ――夢ではないのか?

「冗談じゃあ…なかったの…か?」

 地面にへたりと座り込むと、死体の爪先が目の前で揺れていた。漏れた排泄物が足先から雫になって垂れている。

 その爪先がびくりと大きく痙攣し、鼻先を掠めた。

 それに弾かれた様に、きっと動物のような悲鳴を上げていたのだろう。二本足なのか四つ足なのかも分からない格好で転がるようにそこから離れた。

 しばらく走り続け、手を滑らせて地面に思いきり顔面を擦った。

 そしてフラつく手足でどうにか立ち上がると、目の前には――。

 人の背を軽く超えるお立ち台。その上には左右に聳える柱。柱を繋ぐように渡された横木。そこからぶらりと垂れ下がる縄――

 これは絞首台だ。そしてその上には、縄に首を通された、息子の嫁が立って居た。


 女の名前はよく憶えていない。

 ただこの女は息子の嫁としてしおらしく、従順な風を装って居るが、化けの皮を剥がせば金銭目当ての女狐だ。

 最初は私の事務所のスタッフとして働きに来ていた。

 その当初から私の趣味と性癖を見抜いていたのだろう。事あるごとに私を誘惑し、気が付いたら深い関係になっており、そしてこの女は妊娠を訴えてきた。

 私は堕ろすよう言ったのだが、あの時はこの女の方が一枚上手だった。私の息子とも男女の付き合いをしており、彼の子なのかも知れませんよ、と言ったうえで、息子と結婚する、と言い出したのだ。

「――何が望みだ」

金銭を握らせて黙らせよう、いう事を聞かせようとした。だがこの女は、

「私はアナタの息子の彼女。つい最近、息子の子供を妊娠した。それだけの話よ」

と、私には理解しきれない事を言い始めた。

「捨てられるかもしれんぞ」

「それは無いわ。あの人ね、あぁ見えて女の人にも家族にもすっごく真面目なの――貴方と違って」

「ただの好き者かと思ったら、政治家の家族の妻という座を狙う女狐だったとはな」

私がそう言い捨てると、あの女はこの私を――狼狽える若輩者を見下すような眼をして言ったのだ。

「どうとでも言って。けど――こうでもしないと彼は子供を抱くのも難しい体だったの。だから」

真相は闇の中。お互いに口を噤むだけ。それだけで“世は事も無し”なのよ。




「どうしたの――あの時の事でも思い出した?」

私より僅かに高い絞首台の上から、あの時と同じ――覚悟を決めた人の眼で、首に縄をかけた彼女が私を見下し、笑っていた。

「先生はあの時から私を避けていたようだけど、互い様よ。私もお義父さんに抱かれるのはこりごりだったから」

お義父さんと呼ばれるのも癪に障るがそれを口に出すのも面倒だ、と私は黙って話を聞いていた。それよりもあの男を見なかったか。それだけを教えてくれれば十分だというのに。

「間違っているのは分かってる――けど、私はあの人と血の繋がりの無い子供を“子供”と呼んで育てるなんて真っ平御免だったの」

男の人には分からないだろうけどね。

 そう言って。

「私、嫌われちゃったよね。もうあの人の顔、見られないから。そんなの生きてる意味なんて無いからさ。私も逝かせて貰うね」

そして穏やかに笑い。静かに目を瞑り。

「でも母親だけが分かる感覚ってあるの。あの子は本当に彼の子。アンタなんかの子供じゃあない。それだけは信じてって、貴方の口から伝えてね」

 足元の板がばんと落ちて彼女の体が落ち、一度大きくバウンドし――

 揺れが収まっても二度と動く事は無かった。


 止める間も無く、言いたい事を言って一人で満足して、一人で勝手に首を吊って死んでしまった。どういう事だ。首吊りは強制されていたのではないのか。

 如何してだ。

 如何してこんなことになっている。

 ――これが奴の復讐なのか。

 全てを奪われても死にきれなかった男が十年の時を経て姿を現す、か。

 誑かし、弱みを握り、唆し――人を殺める。

 そうやって私も殺されてしまうのか。

 冗談ではない。

 早く逃げなければ。

 縺れる足を殴りつけながら這いずるようにその場を離れた。

 逃れたかった。やがて来るであろう復讐による死から逃れたかった。

 だが今、私の目の前にあるのは息子と孫の2人が乗る絞首台だった。

 そしてあろうことに。

 息子が既に孫――自分の息子を自分の手で縊り殺していた事だった。孫の体の中で何かの糸がぷつりと切れたように、私の目の前でことりと動かなくなった。

「遅かったな、親父。丁度弟に死んで貰ったところだよ」

生命を失い、だらりとする幼い屍を掲げて私に見せつけてくる。

「早まった事をしたな。まんまと踊らされおって。愚か者にも程があるわ。殺人くらいどうとでもしてやるからさっさと首の縄を外して降りてこい」

「この期に及んでまだそれか。余程頭の中がおめでたいみてぇだな」

「話を聞けっ!ここを出て奴に」

「聞けるかよぉ!」

孫の死体を絞首台の床に叩き付ける息子。

「…手前にゃ分からねぇだろうな。何処に行っても『大臣の息子』って言われて勝手に持ち上げられて、勝手にヘーコラされて!向こうから勝手に仕事が舞い込んで!それを『お前のおかげだ』って知らない所で持ち上げられてよぉ!」

「それの何処が悪いというんだ。それもみな私のおかげだろうが!感謝されこそすれ怨むのはお門違いというものだ。四の五の言わずに私を手伝えっ!」

「そしたら仕事だけでなく、挙句に女まで持っていかれて子供まで勝手に作られて!」

「あれは向こうから誘ってきただけだ。たかが女の事でいつまで駄々を捏ねる!」

「息子の嫁を“たかが”呼ばわりかっ!そんな手前の所為で俺は――」

こちらが質問しても全く有効な回答が得られない。これでは会話も成立しない。声を張り上げたが負けじと息子も叫び声をあげた。

「私の言う事を聞けと言っているんだこの屑め!」

「俺はお前の影の中から出られねぇんだよ!」


 私の影から出られない?――そんな、そんな事でお前は。

「一体何が不満なんだ?この恵まれた環境が不満だというのか?!今のお前はお絵描きを褒めて欲しいと駄々を捏ねる幼稚園児並みの低能だぞ」

「俺がお前から解放されるにはこれしかねぇんだよ」

「だからと言って実の息子を!殺していい理由にはならん!」

「これぁ俺の子供じゃねぇっ!それに手前だって殺してるだろうが!10年前にっ!」

「私は今の話をしている!」

「その今ってのはっ!ずっと昔からの地続きだろうがっ!」

互いに肩で息をしながら叫びあい、罵りあっている。これではだめだ。感情的になりすぎて相手の意見を受け止めようという余裕が無い。

 きっと奴は人の心の隙というか、痂疲を探すのに長けるのだ。小さな傷をこねくり回して大きく拡げ、そこから他人の心を乗っ取っているのだろう。それでなければ目の前で駄々を捏ねているこの大きな小僧にここまでの不満を植え付けられる訳が無い。 

「俺がまだ小さい時によく遊んで貰ったり、宿題をみてくれた。進学の相談に乗ってくれたのもあの人だったよ」

「それは私が一般人より忙しかっただけだ。母さんも居たし金には困らなかったろう。何処に不満がある」

「それがある時からぷっつりと来なくなって。そしたら死んだってTVでよ…」

「だが奴は生きていた。そしてお前達を唆し、首を絞めて殺した…そうだな?奴は支援者に献金を強要し、それを着服していた犯罪人だ。裁きを受けずに勝手に死んだ卑怯者だ。お前も賢い大人なら、それがどういう事か分かるだろう!」

しかし、私がどれだけ理を説いたところでこの男の耳には届いていないようだ。我が息子ながら何という愚か者なのだと情けなくなる。

「俺達をここに連れてきたのは橋場さんだよ」

橋場――奴の名前だ。献金の強要と着服の罪を背負わせて家族諸共死んで貰った、死んだ筈の男の名だ。ようやく関与を認めたか。


「やっと白状したか。奴は今何処に居る?さっさと答えろ」

だが目の前の愚かな男は私の問いに答えようという様子が全く見えない。

「手前は自分が助かるために家族を見捨ててきたみてぇだな」

「見捨てるだと?妻もあの女も勝手に死んでいったんだ。人聞きの悪い」

「こんな所でも外聞かよ」

「それが政治家というものだ。中枢に携わるものならば尚更だ」

「政治の中枢ってのは母さんや息子を見捨てても取るべき場所なのか?」

「当然だ。地位と金さえ得られれば何だって思い通りになる。お前だってあの女よりもっと若くて美人の女が選び放題だぞ?誰を蹴落としてでも手に入れるべきは権力だ」

ようやく私の言葉が届いたようだ。息子も落ち着いてきたようで、私の話の半ばで目を瞑り、一切の邪魔をせず私の話に耳を傾けていた。

「口答えせずさっさと白状するんだ。私達をここに連れてきた男――橋場は今何処に居る?」

 そして大きく深呼吸をするとゆっくり目を開き、

「そうか。手前が」

思った通りの屑で良かったよ。

「じゃあな。手前もくたばりやがれ」

そう言って私に向かって中指を立てる仕草を見せ、床の板を強く蹴り付けた。

「早まるなっ!やめろ――っ!」

自ら床板を外し――私の目の前で首を吊ってしまった。


 目の前の絞首台には、息子の首吊り死体がぶら下がっている。

 その床には本当の父親に殺された、孫の死体が転がっている。

 孫の首を吊ろうと準備されていたのだろう。輪を作った縄が一本、息子の生きた振動が残っており、ゆらゆらと揺れている。

 知らない土地に唯一人。周りには死体がぶらぶらと揺れている。それが不意に恐ろしくなって。

 ざりりと一歩後退る。

 その時。


 ――首を括れ


 すぐ後ろから声がした。家族ではないどこかで聞いた男の声。墓石の下から響いてくるように足元から背中を這い登り耳を穿つ、冷たい声。

「はっはは橋場かっ?!何処に居る!」

辺りを見回す――だが姿は見えない。当然だ。声はすぐ背後から聞こえるのだから。

 だが振り向けない。

 自分の意志とは無関係に。何故だ。何故だどうしてだ。これも橋場の所為なのか。

「いっ今なら許してやる!殺人も全て揉み消してやる!家族を殺したことだって見逃してやる!」


 ――首を括れ

 自分の足なのに。自分の意志とは無関係に歩き出す。

「仕事にも復帰させてやる!地位も保証してやるぞ!」


 ――首を括れ

 何処へ行かせようというのだ。私をどうするつもりだ。そっちは。そっちは嫌だ。

「そうだっ!お前も出馬させてやろう!この私が全面的に援助する!」


 ――首を括れ

そして目の前には絞首台の階段が見えている。

「私とこの日本を支配しようではないかっ!」

骨が軋むような音を立てて、自分の足が階段を一歩一歩登ってゆく。

「だからっ…お願いだから殺さないでくれ。絞首台を登らせないでくれ!」


 ――首を括れ

 とうとう絞首台を登りきった。目の前には未使用の首括りの縄がある。

「やめて…やめてください…」


 ――首を括れ

 右手が伸び、縄を掴んで引き寄せる。左手が伸び、輪っかを広げて首に通してゆく。

「お願いだ…助けて…助けてください…お願いします助けてください…」


 ――首を括れ

 絞首台のぱっくりと開いた床板へと右足が。左足が一歩ずつ前へ進み。

 誰かの小便で濡れた台でつるりと足が滑った。

「たすっ――」

思い切り前へと倒れ込む。前は絞首台の穴。落ちれば死ぬ。私は全身を強張らせた。

「ううううぐうううう」

穴からの落下は免れたが、倒れ込んだ事で首に縄が鈍角に食い込む。。

台から足を離せば楽になれるのだろうが、頭が爆発しそうな苦しくて体が硬直し、足が落とし穴の縁に引っ掛かったままで絞首台の穴から落ちることができない。

「ぐううううううううんっんんむうううううう――」

死にたくない死にたくない死にたくない死にた――

 やがて両手がだらりと垂れ下がり、足の突っ張りも失せ、漸く菅田の死体がぶらりんと絞首台の穴に落ちた。



 苦痛に顔を歪ませ、紫色に変色し唾液と鼻水で汚れた菅田の顔。

 首から縄を提げたスーツ姿はその顔の前に立つと漸く顔を上げ、菅田の死に顔を見据えながら呟いた。




「私は縊れ鬼。絞首台までの道を誘う祟りです――先生、地獄へようこそ」

先日見物してきた海自護衛艦の8番艦の名前が『羽黒』でした。ちょっとニヤニヤ。

内部見学はできませんでしたが、イージスの小窓から箒がニュッと突き出てきて、息子と

「ほうき出てきた!」「あれは“イージスのほうき”だ」と盛り上がってきました。

港から離れる時の「帽振れ」と、遠く離れてもずっと外に立ち続けてくださる皆様の姿に感動。

そんな親子に「あれはバルカン砲です」なんて丁寧に説明して下さった上に

息子ちゃんにラス1の8番艦羽黒バッジまで下さった隊員の方に感謝を。

そして自衛隊の皆様にエールを。

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