4-3 縊れ鬼(中
沼底から漸く這い出てきた様な酷い呼吸音が寝室内に響く。
それが自分のものだと気がつくまで、私はベッドから起き上がる事が出来なかった。
ふらつく足取りで洗面台へ行き、鏡に映る自分に目を遣る。
汗で濡れた額に前髪がだらしなく貼り付いている。
背後には勿論自分の首にも、おかしなところは見られない。
安堵の溜息とともに、手が自然と首を擦ろうと伸び――無理矢理その手を引き止めた。
何を弱気になっている。ただの夢だ。
後ろに何か立っていようが手出しして来ないのなら居ないと同じ。所詮ただの夢だ。
すべては偶然。偶々首吊り自殺が身の回りから連続で出ただけ。それだけの事。
私には恐れるモノなど何も無い。いや――あってはならない。
そして翌朝。私は沈んでいるであろう事務所の空気を変えようと、いつもより早く事務所に顔を出した。
だが、既に業務は開始して居る筈の時間であるというのに、事務所には中年の事務職員が一人しか居なかった。
話を聞いてみると、理由は様々だが『しばらく休む』という電話連絡が朝から相次いでいるという。更に、
「中には『この事務所は呪われているよ』と憚らずに言うスタッフも居るんです」
と教えてくれた。
「でも君は出勤してくれたのか」
その気概を褒め称えたい。そう思ったのだが彼女は、
「連休明けで事情を知らなかったんです。知っていれば来ませんでしたよ」
遠慮なく不機嫌そうにそう告げた。
それから1時間しても出勤してくるスタッフは居らず、結局私はその一人も出勤扱いで良いから帰るよう言いつけた。
誰も居ない事務室の適当な安い椅子に腰掛け、私は腕を組んで考え始めた。
いったい誰が。何の目的で、どうやって私の側近達に首を吊らせているのか。皆目見当がつかない。見当がつかないから手の打ちようが無い。
――今度は誰が首を吊っているのだろう。
そんな、嫌な考えばかりが脳裏をよぎる。そうだ小坂。小坂はどうなった。すっかり忘れていた。
その時、事務所の入口の方からから若い男の声が聞こえた。よく通る大きな声で誰か居ませんかと声を上げている。
応対するスタッフも居ないので私が出ると、いつだったか訪れた巨乳の女性刑事とごつい体格の男性刑事の2人が立っていた。
「あれ、先生自らですか」
私が出向いた事に軽く驚く男性刑事。その背後では巨乳の女性刑事が即座に視線を私から外していた。
「良いニュースを持ってきた訳ではなさそうだね」
「えぇ、実は――」
聞くと、うちのスタッフである小坂が、自宅で首を吊って死んでいるのが発見されたのだという。
「申し訳ありませんが、少しお話を伺わせて頂いても宜しいでしょうか?」
私の顔色を伺いながら丁寧に問いかけてくる男性刑事。
「構わんよ。この分じゃあ今日は仕事にもならない」
二人を応接室へ通し、ソファに腰掛ける。茶を淹れてくれるスタッフも居ない、もてなすような客人では無いが、誰かが居るという事がこれだけ在り難い事だとは思わなかった。
「あれ、どなたもいらっしゃらないんですね」
事務所の中を見回しな男性刑事が零す。
「みんな休んでいるよ。なんでも祟りが怖いそうだ」
我ながらできた皮肉に口の端が片方だけ歪む。だが刑事の方は二人とも変わらずの仏頂面だ。特に女性の方などは決して私の方へと顔を向けようとしない。
応接室に通すでもなく、事務室のソファに2人を通す。
私の向かいに男性刑事が腰を下ろした。巨乳刑事は部屋の端で明後日の方へ視線を向け続けている。明白に避けられている。
そんな相棒には気にも留めず、向かいの男性刑事が話を始めてきた。
「小坂さんが自宅マンションで首を吊っていた、と先ほどお話ししましたが、驚かれないんですね」
顔色を変えずに男性刑事が問いかけてくる。
「驚いた方が良かったかね。これでもう3人目だ。またかという気分だ」
「本当は首を吊っていると分かっていたんじゃあないのですか?」
「それはどういう意味かね?」
「菅田さん、どうして貴方の周りだけでこんなに首吊りが起こるんでしょうね」
「それは此方が教えて欲しいよ。そもそもこれは本当に自殺なのかね?」
これは本音である。
「それを今、調べているんですよ」
「こういう時は『不審者は見かけなかったか』とか『何か怨まれるような心当たりは?』とか聞くのではないのかね」
「あるんですか?心当たり」
「ある訳が無かろう。これでも清廉潔白な政治家のつもりだ。感謝されこそすれ、怨まれるような覚えは無い」
「そう言い切れる神経が無いと政治家って務まらないんでしょうね」
「感情を揺さぶって饒舌にさせようとする作戦は嫌いではないが、相手が悪いと思うよ」
「お見通しでしたか」
その後もしばらくあれこれと質問をされた。刑事達には、理沙とは愛人関係にあった事も隠さず話した。時折生々しい性行為の内容についても語ってみたが、女性刑事の方は相変わらず私の方に目を向けようとはしなかった。
「ご協力感謝いたします」
やがて質問が終わり、若い男性刑事がソファーから立ち上がった。そして背を向けて歩き出そうとして「あっ」といかにもな声を上げて振り返った。
「そうそう。先生が先日、小坂さんの家に様子を見に行かせたスタッフさん。榊さんと言うんですけど、その後自宅に戻っていなかったという話は聞いていますか?」
古い刑事ドラマでよく見た『最後に一つだけ』というアレか。それとも本当に言い忘れただけなのか。きっと後者だろう。
「いや…聞いていなかったが…まさか?」
「いえいえ、大丈夫です。ちゃんと生きてらっしゃいますよ」
思わず安堵の溜息が出る。
「ただちょっとですね…その」
「どうしたのかね?そこまで言っておいてはぐらかすのは宜しくないぞ」
「入院しているんですよ。いえ怪我とかではなくてその…酷く不安定でしてね。怯えているようなんですよ」
「怯えて?何にだね。ぶら下がった所を見た訳ではないのだろう?」
私がそう尋ねると男性刑事は「そうなんですけどねぇ…」と腕を組んで唸り始めた。
「それで何があったの聞いても、ただひと言『くびれおに』としか話して下さらなくてですね」
「くびれ?おに?何だねそれは?」
「それが分からないんですよ。博識である先生なら何かご存知かと思ったのですが」
「赤鬼とか青鬼とかならまだしもくびれって何だね。くびれた鬼か?ウエストのくびれたマリリン・モンローみたいな鬼か?君は私が絵本作家にでも見えるのか?」
最後に持ってきた話だから、何か重要な事なのかと思えば“鬼”だって?からかっているのかと声を張り上げようとしたその時だった。
「縊れ鬼というのは――妖怪ですよ、先生」
事情聴取の間ずっと明後日の方へ顔を向けたままだった女性刑事が口を開いた。
だが今までひと言も話さなかった巨乳刑事の彼女がようやく口に出した言葉が、こんな奇天烈な内容を自信満々に語るとは想定外である。
「よ、妖怪だと?」
「た、小鳥遊先輩…?」
思わぬ先輩刑事の言葉に若い刑事も驚いている。先程までは見るのも嫌だといった素振りだった彼女が今は、まるで人が変わったように地獄の審判者のような背筋も凍る眼差しを私へと向け、語り始めた。
「人の背後に憑いて怨みの籠った声で『首を括れ、首を括れ』と唆すんですよ」
「妖怪とか君、こ――」
このご時勢にそんな。と紡ごうとした言葉が出てこない。
到底信じられない話だが――腑に落ちてしまうのだ。それでなければどうしてこうも連続で、しかも首吊りだなんて物騒な出来事が起こるのか。
全て、その『鬼』の所為にしてしまえるのだ。
常識が枷となって飲み込めない出来事を、こいつの所為でこんな事が起きた。と 超常的な存在の所為にする事で無理矢理に納得する事ができてしまう。
だが我々は日が昇ることや月の満ち欠けを神や悪魔の所業にするような未発達の文明に生きている訳ではない。それを良しとする訳にはいかないのだ。
小鳥遊と呼ばれた女刑事は私が何も反論しなかったので「こんなお話があるんです」と昔話を始めた。
「――長い太平の世の時代のこと。ある同心を酒宴に誘ったのだけれどなかなかやって来ない。暫く待って漸く来たと思ったら急用が出来たのですぐに帰らなければと言い出した。理由を尋ねると『首を括る約束をした』と物騒な事を言いだす。馬鹿な事を言うなと引き止めるけれど同心は頑として『首を括る』と譲らない。仕方なく酔い潰してどこにも行けぬようにしてしまうと、翌日近所で首吊り自殺が起きたと報せが入った。もしこの同心を酔い潰していなければ、首を括っていたのはもしかして――」
そう言うお話です。と彼女は締め括った。
符合する。気持ち悪いほどにぴたりと符合する。「首を吊らなければならない」と言い出すくだりなんかは昔話のそれと不気味なまでに合致している。
だが。
「き、君達は警察であって講談師では無いだろう」
それを認めるわけにはいかない。
「怪談噺は落語ですよ、先生」
「似たようなものだろ。興味深いお話だったが私の趣味では無いね」
それを認めてしまったら――
「そうですか、なら最後にこれだけ聞かせてください」
小鳥遊と呼ばれた女性刑事はここでようやく厳しい目つきで私の方を向いて、
「鬼に祟られるような――心当たりは?」
と言った。
「覚えが無いね。私は清廉潔白だ。その言葉に嘘偽りは無い」
私がそう答えると巨乳刑事は、
「そうですか――最後にお話が出来て良かった。では先生、失礼致します」
そう言って軽く頭を下げ、男性刑事を伴い事務所を去っていった。
刑事二人が事務所を去ると、事務所の中がひどくがらんとしたように感じた。
その夜、映像会社に勤める息子が孫を連れてきた。こいつは我が息子ながら『大物政治家の息子』という肩書を最大限に利用して各所に顔を売り、それを武器に仕事をもぎ取ったりしている、年齢の割にチャラチャラした格好をいつまでも続け、それをステータスと錯覚している所謂“下衆の小物”である。
「帰ってもらえ」
妻にそう言い放つ。こんな面倒な時にそんな男の所為で余計面倒な思いをしたくない。
「そう言わないでお会いになったら?近頃お疲れのようですし。きっと気分も晴れますわよ」
孫の顔が見たい妻が上機嫌でそう言ってきた。こういう時に妻の言う事を聞いておかなければもっと面倒なことになる。それを長年の夫婦生活で身に染みている私は渋々ながら息子達を家に招き入れた。
「久しぶりだな親父。なんだかやつれてないか?」
そう言って安っぽい笑みを浮かべてくる息子。安っぽい装飾品で首や指を飾り付け、それを恥ずかしげもなく価値観の違う人間に見せつけてくる。気を遣うような発言は全て自分に利益を運ぶ為である。
「ご無沙汰しております」
居心地の悪そうな愛想笑いを浮かべる息子の嫁。息子とは正反対でおとなしく控えめな、それでいてそそる身体をした女だ。
そして――
「おじいちゃんこんばんわ」
小脇にぬいぐるみを抱え、私を見上げる小さな子供。小さい頃の息子に似て可愛らしい、と妻は言う。だが私から見れば、笑った顔が幼い頃の私と瓜二つである。
「だ、大丈夫なのか?お前たち――」
息子夫婦を一目見て、思わず零してしまう。
「大丈夫?そりゃあこっちのセリフだろ親父」
そんな話をしている間に孫は家の奥へと駆け込み、息子の嫁がそれを追いかけてゆく。それを微笑ましく見守りながらゆっくりと妻がその後を追っていた。
「…お前が気にする事じゃあない」
虚勢でもない本音。こんな男に心配されたところで事態が動く事は無いのだ。
「こんな時にまで邪険にするなよ」
「どうせ閣僚の誰かに口を聞いてくれとでも頼みに来たんだろ」
「そいつぁ今んとこ間に合ってるよ。つーかちゃんと火消しくらいしろよ。こっちにまで噂が流れてきてるぜ」
息子の言う“こっち”――つまりメディア関係という事である。
「噂?」
「あぁ。菅田は祟られたってな」
「た――祟られたって」
どういう事だ――そう尋ねようとして
「じゃあな、先に行ってるぜ親父」
息子はそう言うと家の奥へ、帰るぞと声を掛けた。
「あら、もう帰るの?夕食くらい食べていけばいいのに」
その声に素直に従う孫、その後を追ってくる息子の嫁。
「いや、今日は顔を見に来ただけなんだ。急ぐ用事があるからさ、俺達」
用事がある。その台詞にどきりと大きく心臓が脈打った。
「よ――用事?」
私がそう言うと息子家族は揃ってこちらへと向き直り。
「あぁ――首を括らなきゃいけねぇからさ」
そして、笑った。
「お前たちも…それが、そうなのか?それの所為なのか!?」
私は息子達の首筋にもう一度目を遣った。
それは彼らが我が家に来た時からそうだった。
息子とその嫁、孫に至るまで。その首は。
何かの掌にぎゅっと握り潰されていたのだから。
まるで水風船を握り潰しているかのように細く握り潰されているのだ。
そのような光景を私に見せつけながら、彼らは平然と話し、走り、笑っていた。
「それの所為って何の事だ?俺達ぁこれから高い所に縄を掛けて、そこで首を括らなきゃいけねぇんだからさ。結構手間なんだぜ」
それじゃあな、と背を向ける息子家族。
「ま、待て…待ってくれっ」
声が聞こえた3人が足を止める。
「何だよ?親父。ウゼぇんだけど」
「やめてくれ…首を括るのは止めてくれ!」
必死に叫ぶ声に、息子達3人の足が止まり、そして長男だけがゆっくりと振り向いた。
「そいつぁ無理だよ、親父」
息子の眼差しが私に投げつけられる。そこには強要された悲しみも、そこまで追い込まれた悲しみも見えず、ただ私へと向けられた侮蔑と哀れみがそこにあった。
「アンタ――俺の嫁…いや、この女とは、いつからの関係だ?」
「な、なぜ――」
何故それを知っている。
「息子の嫁だぜ?そこにまで手ぇ出すかよ普通」
この女から漏れる事は無い筈だ。絶対に。ならば何処から。
「ち、違うんだ。これは」
私からじゃあないんだ。お前達が付き合っていた頃に彼女の方から金目当てで。
「ドコが違ぇんだよ。どっちからとか鬼がどうこう言う理由じゃあねぇ。俺は終わらせてぇんだよ。ずっとお前の人形だった、このクソみてぇな人生をよ」
そう言って息子は私の足元に唾を吐き捨て、
「お前とこの女が地獄に落ちていく様を特等席から見届けてやるよ」
じゃあな屑野郎。そう言い残し、私の前から去っていった。
3人を見送った後、私はテーブルに肘を付いて頭を抱えていた。
「どうなっているんだ。どういう事なんだ…どうすればいいんだ…」
訴えられるのか。そうなったら議員生命が終わる。いやその前にあいつは『首を括る』と言っていた。ならそのまま死なせてしまった方が良いのか。
「どうしたんですか、あなた…具合でもお悪いんですか?」
何も事情を知らない妻が暢気に声を掛けてきた。
「…放っておいてくれ」
急ぎ何らかの手を打たねばならないが、悪い意味で注目を集めている現在の状況下で、しかも使える手駒というものが存在しない中で自らが動くのは、鴨が葱どころか鍋と出汁までを背負って現れるに等しい。
これは詰んだかもしれない――と気持ちも視線も落ちてゆくだけの中、妻は。
「そう仰られても…困りましたわね」
そんな私の気持ちも知らず、私の後ろでウロウロと右往左往している気配が伺える。こういう様子の時は、何か言いたい事がある時でもある。
「いい加減にしろ、どうしたっていうんだ一体」
イラつく態度を隠しもせず、顔も上げないままで妻に声を掛けた。すると、
「――わたくし」
その一言に背筋を悪寒が走った。
その言い方は。
まさか。
ゆっくりと顔を上げ、声を掛けてくる妻の首を見る――
「これから首を括らなきゃいけませんのに」
自分がどんな表情をして妻を見ていたのかは分からないが、困った顔をして私を見る妻の首には。
長男家族と同じ様に、ぶつ切りの手首が食い込んで居た。
「――好きにしろ」
私はそう言い捨ててその場を離れ、浴室へと向かった。
洗面台の鏡に自分の顔を映す。くいと顎を挙げ己の首筋を見るが、おかしなものは見当たらなかった。さらに上着を脱ぎ、背中を映し見る。
萎びて染みの増えた自分の背中が鏡に映る。
例の手は映っていなかった。
だが。
鏡の向こう、私の背後。ドアの隙間から覗く薄闇の中に仕立ての良いスーツ姿が立っているのが見えた。
俯いているので顔は見えないが、その襟元には明らかにスーツとは合わない異質なものが見える。
縄が見える。
首元で輪を作った縄がぶら下がっている。それはまるで首吊りの――絞首台から降りてきたばかりのような様相で――男がそこに立っていた。
「おま、お前は――そうかっ!覚えているぞっ!だが貴様はっ!」
振り向く。だがドアの隙間にアイツの姿は見えなかった。
「どんな手を使って生き延びた!今更現れたのは意趣返しのつもりか!」
ドアを勢いよく開け放つ。暗い廊下が左右へと伸びている。
「どうやってあいつらを殺した!どうやって秘密を暴いたっ!一体どうやってっ」
奴の姿は見えない。だが居る筈だ。奴さえ。奴さえ始末すれば――
「この私を陥れたぁー!この死に損ないがっ!」
見えない奴の影を追い、外へ向かう。
玄関のドアを開け、外へと踏み出し――
そこで何かが首にしゅるりと巻き付いた。それに気づいた瞬間、首から上をグンと吊り上げられるような衝撃と共に、電源スイッチが切れるようにくるりと意識が闇に落ちた。




