4-1 縊れ鬼
――キミは政治に命を賭ける覚悟があるかい?
爽やかに笑みを浮かべながら私に語りかけたその人は
私の為に死んでくれ
その言葉ひとつで、顔すら見せずに私の全てを――
私が初めて菅田先生にお会いしたのは、大学は卒業したものの、就職難の荒波に放り出されどうしたものかと頭を悩ませていた時だった。
その頃の私は政治などというものに全く興味を持っておらず、ただ町内の世話焼きなおばさんから『人手を欲しがっている所があるから』という、それだけで市議会議員の選挙事務所を紹介されたのだった。
勿論近所に選挙事務所があった事も、議員選挙が行われる事も知らなかった当時の私は、次のバイトまでの繋ぎ感覚でその事務所の扉をくぐった。
将来を有望視されているという、政治家の中では若手といわれる年齢の男性だったが、明らかに市井の人々とは違う“大物のオーラ”を持っている人だった。
ここで『大物のオーラ』とは何だと言われるのかもしれないが、そのようなものとしか表現のしようが無かったのだ。見た目と言うか纏う雰囲気とでも言うのか。5メートルの範囲内に居るだけで空気が変わるような“明らかに普通の人とは違う”存在感、とでも言えば分かるだろうか。
しかし先生は初対面の青二才である、しかもただのバイト希望である私の顔を見ると手を強く握り、そして言われたのだ。
「キミは政治に命を賭ける覚悟があるかい?」
私は当然首を振った。
「そうだよね。だから僕の様な人間がキミ達の代わりに命を賭けるんだ」
だから僕の手助けをして欲しい。僕の死に場を見つける手助けをして欲しいんだ。
その言葉と力強さに、他の人とはまるで違う“大きさ”を感じた私は、先生が無事に当選され、バイトが終了になったその後も自ら願い出て、彼に付き従った。
そして私は先生の為に昼夜を問わず、寝食も忘れて働いた。
はじめはスケジュール管理から後援者、支援団体の相手を任されたが、口下手な私に対し苦情でも届いたのだろう。ある日から金銭管理の仕事に回された。元々人付き合いが苦手で帳面と向き合っている方が好みだった私にはうってつけの仕事だった。
そこでは色々な事を教わった。
政治活動には何かとカネが掛かる。
政党活動費として配給される金額など雀の涙にもなりやしない。
そして思想や活動理念で動かないヒトを動かすにはカネが要る。
来世の幸福よりも目先の利益。カネを追い求める者は先生の背後にカネを見る。
そしてそれらを管理する仕事を託された私は、先生が市議から県議、国会議員へと出世ゆくに従い、管理する金銭の額や――その種類も増えていった。
表立って帳簿に記入できない金銭授受――所謂『裏金』という奴だ。
勿論初めは抵抗があった。
現実から眼を背けず、しかし清廉潔白に夢を語り、理想を追い求めている先生。そこに私は惚れていたのだから。
だが政治とは戦いだ。そして現金は武器になる。武器を必要としない戦争ができるのかと問えば、誰もが頭を抱えることになるだろう。
実現できるカネも無いのに夢を語るだけならば夢想家だ。カネを集めるだけで理想を叶えられないのならば詐欺師でしかない。
理想を語り夢を語り、それを実現させなければ政治家では居られない。
そのためにはカネが要る。
そうやって築いた札束の階段を登った先に権力の椅子が設えてある、という寸法だ。
そうして“清濁併せ呑む”事を覚えてしばらく時が流れた頃には、私は何時の間にか『金庫番』と呼ばれる存在となっていた。
そして新内閣発足に伴い先生の閣僚入りがほぼ決定となった、ある時の事だった。
都市再開発における便宜供与を目的として譲渡された不動産会社の未公開株――その存在が新聞記者にスクープされた。
情報の出所は追えなかった。それどころではなかったし、追ったところで尻に火が着いた状態は好転しようがない。新内閣発足前というこのタイミング――考えなければならない事が雨後の筍のように生えてくる。
このままでは菅田先生が危うい。
私は存在しないはずの帳簿を抽斗に仕舞い、先生に指示を仰ごうと受話器を持ち上げ――その腕を上から別の手に、静かに。だが力強く押さえ付けられた。
白い手袋。安物のスーツの袖。顔を上げると感情の読めない顔つきがそこにあった。
「君達は?」
私が問い質しても彼らは無言を貫いている。警察とは空気が違う――思い当たる件はひとつだ。
「未公開株の件だな?今先生に指示を仰ごうと――」
そんな私の話を遮り、男の一人が機械的な抑揚に欠ける声で言った。
「その件について先生は一切関与していない。会計担当のキミ一人が独断で進めたことだ――この意味は分かるな?」
それはつまり先生が便宜を図ると約束して受け取った株式を、私が独断で受け取った、という筋書きにするという事か。たしかにそうすれば先生が罪に問われることは避けられるだろう。だが――
「検察も馬鹿じゃない。じきにこの家だって踏み込まれる。そうなればいずれは先生にも追求が及ぶ。その前に対策を話し合いたいんだ」
だが私の言葉に男は静かに首を振り言った。
「何故だ!?私も危ないんだ!私が居なくなったら先生が――」
そこまで言ったところで、男に静かに遮られ、そして言われた。
「お前は自ら家に火を放ち証拠を全て焼き払うと、遺書を残して首を吊るんだ」
何と言った?
家に…火を放つ?私が…首を吊るだって?
「何の冗談だ?遊んでいる場合では」
「遊んでいる場合ではない。お前には遺書を書いて死んでもらう」
「狂ってるのか…?俺だけじゃなく家族まで?」
私はいつの間にか複数の男達に囲まれていた。顔までは分からない。が、狼狽する私に同情の言葉をかけるような人間は居ない事がよく分かった。男達は私の声に応える事無く無言を貫いている。
「…先生と話をさせてくれ」
先生の為とはいえ妻子と自分の命を差し出せと言われたのだ。せめて納得のいく答えを聞きたい。 搾り出すようにして漸く出せた言葉だった。
「電話はさせられない。通話履歴は残せない」
だが答えは無情だった。それはそうなのかもしれない。特に今、先生が置かれている状況ならば、ほんのささやかな疑惑でも避ける必要がある。
しかし理解は出来ても心が付いていかない。『はいそうですか』と従えるわけがない。あの先生がそんな指示を出す筈が無い、と目前の現実に軋む心が悲鳴を上げている。
「せめて家族は――」
しかし男達は首を振る。
「頼む。高校受験を控えた息子も居るんだ」
私がどう懇願しても相手にすらしてくれない。
どうにもならないのかと巡らせていた思考が停止しかけた時、男達の一人が面倒臭そうな口調で話しかけてきた。
「あなたなら、コトの重要性が分かるでしょう。あなたの家族からどんな話が漏れるかも知れない。その可能性があるだけで――」
安心して眠れないのですよ。
その言葉に。
笑みを浮かべながらそう言う先生の顔が脳裏に浮かんだ。
初めて会った時と同じ爽やかな顔で。
政治に命を賭ける覚悟を問われた時と同じ抑揚で。
自分の為に家族諸共死ねと命じるその顔が。
全てが明るみに出てしまえば政治家生命どころか政党の存続さえ揺るがしかねない。
降りかかる火の粉を避け生き残るには――生贄を一人出せばいい。
しかも家族まで道連れにしたとあれば世論は家族への同情に傾くことだろう。
客観的に考えれば至極効果的である。
しかしだからといって――
「自主的に出来ないなら無理にでもと言われている」
男達の一人が静かに、だが力強く、拒否を許さぬ威圧を込めて口にしながら一歩近付いてきた。
逃げ場は残されていないと知った私は。
ははは
笑っていた。
「遺書の下書きはあるんだろうな?」
私がそう言うと男の一人が無言で頷いた。
「寄越してくれ。気分がブレないうちに書いてしまいたい」
私が投遣りにそう言うと、スーツの男は内ポケットから無言で紙片を取り出し、こちらに向けた。私がそれを受け取ると、
「書き終わったら寄越せ」
と言ってきた。そんな事は元より承知だ。
稚拙な内容だった。
『先生に口を利いてやると持ち掛けて事業者から個人的に金銭を受け取っていた。受け取った金で家や車を購入し、愛人も囲っていた。あくまで政治資金に見せかけて受領し、私個人の為に使っていた。死んでお詫びする』
などという、情けなさ過ぎて涙も出ない動機付けにされていた。
使い道などどうでも良い。“金は個人的に受け取り、全て自分で使っていた”という文言こそ重要なのだと思い知らされる。
書き終えた遺書を適当に差し出すと、白い手袋を履いた手が静かに受け取った。私の目の前で封筒に入れられ、さらにビニール袋に包まれてゆく。自分たちの関与した証拠を残さない為の徹底なのだろう。
溜息をつく間も無く男達が私の服を引っ張って急き立てた。
それもそうか。私は家に火を着けた上で自分の死体は晒さなければならないのだ。
警察が動く前に情報を掴み行動に移れたのは先生の権力のおかげだろう。だからと言って残されている時間は少ない事に変わりは無い。
「一つだけ頼みを聞いてくれ。最後の頼みだ」
玄関で靴を履きながら相手の顔も見ず口に出す。どうせ顔を見たところで何も変わらない。男達は無言のままだったがそのまま話し続けた。
「家と、家族が燃える様子は見たくないんだ」
男達は「分かった」とだけ言い、そして私は自宅に妻と息子を残し静かに家を出た。
車に押し込められて連れて来られたのは、自宅から徒歩30分くらいの距離にある、大きな神社だった。
「何故こんな所で?」
「聞く必要があるのか?」
――それもそうか。今更聞いたところで助けが来るワケも無い。
実際のところ、私が神社で首を吊る理由なんてこの男達も知らないだろう。指示がその通りに遂行されれば良い。官僚にはそれが全てだ。
私は数人の男達に取り囲まれたまま、神社の社殿の前へと連れて来られた。
男が私の腕を取って、ロープを何度か握らせる。ロープに私の指紋をつけているのだろう。
そして男達はそのまま賽銭箱の置いてある場所――社殿の真正面にロープを掛け始めた。
本当にこんな所で私に死ねと言うのか。
鈴の隣にぶら下がれというのか。
確かに良く目立つし発見も早そうだけれどこれは――あんまりだ。
あまりの出来事にあんぐりと口を開けてそのありさまを眺めていると、男達の一人が私に声を掛けてきた。
「首吊りはすぐに意識が無くなるから苦しくないそうだ」
自分の息の根を止める縄を見て恐れをなしていると思ったのだろうか。これから死ぬ男に『苦しくない』と言って気休めになるのかとも思うのだが。
「…気休めのつもりか?」
私が皮肉を込めて応じると、声を掛けてきた男は目を伏せ、無言で私の横を離れていった。仕事とはいえ、他人を縛り首にするのだ。気分の良いものではないだろう。せめて人としてそう感じているのだと思いたい。
――というか煙草を持ってくるべきだった。
禁煙してはいたのだけれど、この空白の時間を過ごすには煙草でも吸わなければやっていられない。
とうとう社殿の正面に首吊り用のロープが掛けられた。
賽銭箱に足を掛け登り、輪の中に首を通す。
足元では男達が、私が逃げたりしないよう見張りに立っていた。この状況から逃げ果せるものでもないだろうにとは思うのだが。
視線が高くなったのでほんの少しだけ世間の見晴らしが良くなった。
首を縛る縄に手を掛けながら町の夜景が眼に入る。これが最後の景色になるのか――そう考えながら
遠くに消防車のサイレンが聞こえた。
もしかして――
顔を向けると、自宅の方角から煙が上がっているのが見えた。
家が燃えている。妻と息子が焼かれている。そう思うと止められなかった。
「雅子!りょうい――」
周りに居た男達が騒ぎ出したのは知っている。
けれどそこから先がどうなったのかは分からない。
ただその瞬間、足元への衝撃の後、頭が膨張して破裂しそうな、どずんという衝撃が首から上を襲った。
がらんがらんという音がどこかから耳に響いてくるのは圧迫された血液が鼓膜を叩き付けているからなのか。
息が出来ないのは目の前で妻と子供が焼き殺されている怒りの所為か。
目が飛び出て顔中の毛穴から血が噴出しそうなのは信じて尽くしてきた男に裏切られた悲しみが爆発しそうな所為か。
私が入院した時にずっと付き添ってくれたのは妻だった。
希望の中学に合格した事を私に真っ先に教えてくれた息子。
喧嘩した事もあるけれど、だいじなだいじな私の家族だ。
けれど私は――それらを全て奪われ、自分は殺されようとしている。
善人のフリをした悪人によって。悪人に仕立て上げられて殺されようとしている。
こんな理不尽があるものか。
――キミは政治に命を賭ける覚悟があるかい?
私は当然首を振った。
そうだよね。だから僕の様な人間がキミ達の代わりに命を賭けるんだ。だから僕の手助けをして欲しい。僕の死に場を見つける手助けをして欲しいんだ――
ここがお前の死に場所じゃなかったのか。
命を賭けるというのはこういう意味だったのか。
これでは悪魔の契約だ。
いや悪魔も神も存在などするものか。存在するのならばあの男こそが悪魔だ。
自分の地位を守る為に、長年付き従ってきた男をいとも容易く葬るのか
私を踏み台にして更に意地汚く私服を肥やし続けようというのか。
私の命を奪い、私の家族の命をも奪うその指示を下した口で夢を語り、その舌で巷間に希望を蒔くというのか。
やらせない。
許さない。
もしも私に魂というものが在るというのなら。
私は――
魂を賭けてでもお前の歩む道に不幸を振り撒き続けてやろう。
全てを賭けてお前を
殺してやろう
ころして――
そして世界はぐるりと暗転し
私はまだ此処に居る。
頭が破裂しそうな苦しみから開放されることなく。
魂が焼け付く様な怒りからも開放されることなく。
私は神社の前で吊るされたまま、此処に居る。
あの男を殺してやりたい。
私は死んだ筈なのに。妻と息子も殺されたというのに。
私はあらゆる倫理や道徳からも解放された筈なのに。
私の首を縛る縄が私をこの場に吊るし続けている。
殺してやりたいのに。殺してやりたいのに。殺してやりたいのに。ころしてやりたいのに。ころしてやりたいのにころしてころしてころして――
あぁ
もう
この縄で
だれでもいいからころしてやりたい。