3-3 倩兮女
ベイルートは地味に物価が高い。なので市内を走る車は旧式の欧米車が大半であり、日本車を見かけるのは非常に稀である。
けどそれはこの眼下に広がる光景の遥か遠くに霞む世界での出来事だ。建築物の背が高くなるにつれてその割合は変化してくる。日本車を見かける割合も増えてくる。
そんな光景を誇らしくも思うが、同時に悔しさも込み上げて来るというのが正直な所以でもある。
ホテルの高層階から見下ろす、遠くまで続く車の流れを見て、カルロス・G-ンはひとりごちた。
足元を掬われた。その一言に尽きる。
私は善人だが聖人では無い。特別な働きに関しては特別の報酬を求める普通の人間だ。誰だって刺激要因が無ければその才能を発揮しようとは思わない。だからそれ相応の報酬を求めてきた。それだけなのだ。
私は身を削って日○の為に働いてきた。だから、○産側も同様に身を削って応える必要がある。それが当然ではないのか。
日本には『出た釘は叩かれる』という諺がある。それが現す様に、日本という国は“一人勝ち”を許さない。おまけに閉鎖性と排他的な民族の性格も相まって、会社と日本政府が私を貶めようとしたのだ。
だから私は自由と真の正義を求め、レバノンへと旅立った。
レバノンは法治国家ではない。と言えば聞こえは悪いだろうが金さえあれば何だって出来る国なのだ。国家公務員が公金を横領したところで投獄されない事を司法が保障している位なのだ。
それに両親はレバノンの人間であり、私もレバノン国籍を持っている。おまけに日本との犯罪者取引協定も結ばれていない。つまりこの国に居る限り私は同胞に守られながら自由を得る事が出来る。
この国はつい最近まで内戦状態だった上にイスラエルが侵攻してきた事もあり、経済回復を進めている真っ最中である。そのような世相の国だからこそ、成功を掴んだレバノン人である私を経済回復の象徴として快く迎え入れ、そして現在も日本政府の不義理から守ってくれている。
日本脱出には多額の費用が必要だったが、愛する妻とワインを傾け語らいあう時間を取り戻せるのならと喜んで民間軍事会社に金を払った。
そんな訳で私の財布の中身は減る一方なのである。
なのでルノーに退職金の1億4千万ドルを払うよう求めたのだが、その回答は『日本で手渡しなら支払おう』などと正気を疑うような内容であった
自宅は先日の爆破事故で倒壊してしまったが、幸運にも私と妻、ポケットの中身は無事だった。家を失ってしまったのは悲しい事だが、きっと小さな家で慎ましい生活はもう続ける必要がないという、天から私への啓示だったのだろう。
今はベイルートの最高級ブティクホテルで暮らしている。慎ましい生活では浴する事の出来ない高いクリエイティビティが私のイノベーションを刺激する。そしてそれは私の再起へと繋がる道でも在るはずだ。
最近は自叙伝らしきものを書いて過ごしている。出版すれば収入にも繋がる上、日本で受けた屈辱と日本政府の謀略を世間に広める事も出来るからだ。
しかしその気分転換にと始めたスキーに没頭してしまい、気付けばゴーグルで覆っていない鼻から下だけが日焼けしてしまい、ペンの滑りが悪くなってしまっているのが現実だ。キーボードに向かったものの筆が一向に進まない――刺激が足りないのだ。
キーボードに頭をぶつけ続ける人生を送る姿を想像し、それをは無い気で笑い飛ばすと勢いよく立ち上がった。ホテルラウンジでコーヒーが飲みたくなったのだ。
“中東のパリ”と呼ばれ讃えられる、乳白色の壁で統一された町並みを遠くに見下ろす近代的な都市郡。上流階級である私に相応しい環境。
ここには愛する妻とワイン、そして自由と国民への愛がある。そんな世界を眼下に納めながら今後のプランについて思索を躍らせるのも悪くない。
そう思いラウンジまでの廊下を歩いていたときの事だった。
丁字の廊下の左先から異質なモノが現れた。
黒い着物姿――日本の民族衣装を着た女が見えたのだ。
黒い生地には巨大な骸骨が刺繍されており、今まさに武人へ飛び掛らんとしている様子が描かれている。
いや、そんなことはどうでもいい。
問題なのはその女が
振り返り気味に俺を見て
ほほほ――と笑ったのだ。
廊下の向こうだが。確かに聞こえた。鼻で笑っていた。私を見て笑っていたのだ。
その鼻にかけるような声での嘲笑が、 腹の中でぞわりと茨が身を捩るような――ヒリヒリとした苛立ちを浮き上がらせる。
いや、それよりも――
その女はひとしきり笑うと、丁字路の向こう側へと姿を消した。
笑い声はまだ聞こえている。
私は思わず駆け出して女の影を追っていた。
だが廊下の先まで駆け寄った時には、女の声は聞こえなくなっていた。
そして、丁字路だと思っていた廊下は左の曲がり廊下だった。
疲れているのか?――それは無い。今の私は心身ともに最高の環境でベストな状態が保たれている。
日本の動向が気になるのか?――それも無い。レバノンを出ない限り私に敵は居ない。それに日本にはアメリカにおけるCIAのような機関は存在しない――いや、噂ではシャーマンのような存在が暗躍していると聞いた事もあるが、外国人向けに“ニンジャは居る”と言うようなジョークを真に受けるほど私は愚かではない。
着物に見えたのはブルカ(イスラム圏の女性が身に付ける、全身を隠す黒いローブ)を見間違たのだろう。光が反射して廊下に影を落としただけかもしれない。
どちらにせよ、この私が他人に笑われる理由など在り得ない。
産まれによる他人の不幸を笑った事はある。
労働の成果を認められない手際の悪い同期を笑った事はある。
掛け声一つで精密に働き足元に財を積み上げてくれる労働者階級を笑った事はある。
私を磔刑にしようとした日本政府も、私個人よりも日産とルノーの同盟を選び、さらには私に税金を払えと督促してくるフランス政府も、ここレバノンから嘲笑に伏した。
だが――
私が笑われるような事は無かった。一度たりとも無かった。世界を動かしてきたこの私が、これからも動かし続けるであろうこの私が――他人に笑われるなど在ってはいけないのだ。
レバノンには私を尊敬する人間は存在しても、笑うような人間は何処にも居ない。誰もが私の功績を知っており、誰もが私は善人である事を知っているからだ。
多少のイラつきを覚えながらラウンジのソファに身を沈めると、スタッフが静かに近付いてきた。コーヒーを注文すると、程無くして別のスタッフがトレイにコーヒーを持ってくる。私は目の前に置かれたコーヒーに対しトレイにチップを置いた。
くすくす
近くで笑い声が聞こえた。
声の出所に顔を向けると、つい今しがたチップを受け取ったホールスタッフの男が口元を笑いの形に歪めていた。
「何故笑っている」
腹の奥で荊が蠢く。じりじりとした不快感が口調に表れてしまう。
「い、いえ、失礼します」
男は私へ背を向けると早々に立ち去った。
何なのだ一体。ここはスタッフもよく訓練された最高級ホテルの筈だ。
なのに従業員が客を笑うとはどういう了見なのだ。
私が軽く手を挙げる。するとその様子を見てホールスタッフが丁寧に、迅速に寄ってきた。先程とは別の人間だった。私はスタッフの顔も見ず不満げに訴えた。
「さっきのあいつは私を見て笑っていたぞ」
これだけで理解出来る筈だ。従業員が客を笑うなど言語道断の対応――
ふふふふ
驚きとともに顔を上げると、つい今しがた真面目な顔をして近付いてきたスタッフが、口を押さえ肩を震わせて、必至に笑いを押し殺している最中だった。
「…どうして笑っているのだ」
「いえ、笑ってなんて…」
否定するが、必至になって肩を震わせ、両手で口を押え、込み上げてくる笑いを押し殺そうとしているではないか。それなのに“笑っていない”とはどういう
「笑っているじゃないか!」
その声にスタッフは動きをピタリと止め、目を剥いて私を見つめると――
あっははははははははははははははは
とうとうこのラウンジで大声を上げて笑いはじめてしまった。
「何だお前達は!この私を馬鹿にしているのかっ!?」
私が更に大声を上げると、とうとうスタッフは立っている事を諦めて床を転がり腹を抱えて笑い出している。
「イヤもう本当に!無理なんで!止めてください!」
遂には床を叩いて涙を流しながら笑い始めてしまった。
その様子を見ている他の客たちやスタッフは――何が起きているのだという好奇の眼と疑問の眼を半々の様子で私へと向けていた。
あの男が何かしたのか――
いや、あの人は――
あの人がそんな――
理由なんて私が聞きたいくらいだ。
こんな事で注目を集めたくはない。この席に居る事自体が不快に思えて仕方がない。
私は席を立ち、その場を離れ――気が付いたら人目を避けるようにエレベータへと乗り込んでいた。
大きな鏡で自分の全身を見る。
おかしなところは何処にも無い。頭髪の乱れもないし、ズボンのチャックが開いている訳でもない。ましてやハイスクールの悪戯のような背中の張り紙すらもない。いつもの私、優れた経営者で在り優れた人間、カルロス・G-ンである。
自分の姿を見ながら考える――何故笑うのか。
人間というのは自分から見て格下の――経済的にも社会的にも下の相手に対して笑うものだ。
その点に於いて私は頂点に居ると言って過言では無い。
足元に這い蹲る人間の年収を軽く越える金額が私の財布には詰まっているのだ。
尊敬されることはあっても笑われる理由が無い。
けれど。
エレベータが停止しドアが開いた瞬間、向こう側に立っていた人間は私を認めると吹きだした。
またなのか――まだなのか。
顔を伏せて足早にその場を離れるが、通り過ぎた後ろからも笑い声が波のように追いかけてくる。
くすくす
ふふふ
ははは
ねぇねぇあのオジさん――
しぃっ!見ちゃいけません!
遠慮なくなんでも口にする子供を、親が制止しようとしている声が聞こえた。
あのオジさん――
あのオジさんが、どうなっているのだ。なぜ皆で笑うのか。それを聞きたかったが、結局それは聞けなかった。背中で起こっている笑い声に足が止められなかった。
俯いたまま逃げるように歩いていたらホテルの外に出ていた。
顔を上げると空が高く、青い。
だが振り向くとホテルの前ではドアマンやポーターが笑い声を噛み殺しながら顔を背けている。
ここでも――私は笑われている
私は辺りを見回し、遠くを歩いていた苦虫を噛み潰したような厳つい顔をした男性を無理矢理捕まえて問い質した。
「何が可笑しい!?私の何が可笑しいんだ!?」
頼むから教えてくれ。遠慮なく教えてくれ。
両腕を押さえながらそう訴えると、男性は数秒ほど私の事を目を剥いて見つめ――
ぶっははははははははは
と、私の顔に唾が吹き出すのも構わず笑いに落ちていた。
「いやだって――」
「何故笑う!」
高らかに悲鳴を上げるように笑うスーツの男。その異常なほどの笑い声が聞こえたのだろう。周囲に人が集まり出した。そして群集たちもスーツの男ではなく――私を見て指を差して笑い始めた。
「あなたこそ何故そんなに…」
男はそこまで言うと急に素面に戻り、そしてまた私の顔をじぃっと見つめ――
ひぃ――ひひっひっひっひひひひひっひっ
「笑うなっ!」
その一言に周辺がどっと笑い始めた。
「笑うな、笑うな、笑うな、笑うなぁ!」
どうして笑うんだ。何故笑うんだ。私が何をした。何が可笑しいんだ。必至になって叫ぶほどに私を見て笑う群集の笑いは次第にヒートアップしてゆく。
誰か、誰か教えてくれ。
どうして私は笑われているのだ。分からない。分からない。
「やめて…やめてくれ」
何故笑う。何故笑う。
「笑わないで…笑わないでくれ…」
理解出来無い事が――おそろしい。
私を見て腹を抱えて笑う群集は、今や私を中心にしてぐるりと取り囲んでいる。
逃げ出したくても動けない。足が竦んで動けない。
焦る度に。狼狽える程に。一挙手一投足の動作に群衆の中に笑いが起こっている。
そんな群衆の中に――あの女が居た。
黒い着物。伝統的に結い上げた髪形。
間違いない。廊下で見かけたあの女だ。
と思ったその瞬間――女がぐん、と大きくなった。
私を見て笑い続ける群集を遥かに見越し、美しい顔は肥えて弛み、眉目はだらしなく垂れ下がり、頬と顎の肉を揺らしながら、下品に真っ黒な大口を開けて髪を振り乱し、げらげらと狂ったように笑っている。私を見つめながら笑っている。
「やめてくれ…もう許してくれ…お願いだからもう…」
笑わないで下さい。
巨大化する女から眼が離せず、どんどんと仰ぎ見る。仰ぎ見れば仰ぎ見る程に、女の姿は大きく、醜くなってゆく。とうとう尻餅をついて、思わず後ずさる。
今や私を見下ろす程に大きくなった笑い女から離れたくて、ずりずり、ずりずり、と後ずさる。
そして自分を見下ろして笑う巨大な女の眼にキラリとしたものを認めた刹那――どすんという衝撃の後、視点だけが背後へとスライドしてゆき、べたりと湿った音の後に地面から自分の背部を見上げる形となっていた。
背後から見上げる自分の背中は
げぇっげぇっと笑い声を上げていた。
とうとう自分にも笑われた。