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3-2 倩兮女

 今回式神のサンは留守番です。こんぺいさんや相志さんは了承していましたが、サン本人は物凄く不満そうでした。そりゃあ“仕事”以外で私と離れた事、無いものね。


 と言う訳で、久々に訪れる『物部屋敷』です。

 とんでもなく横に広い屋敷の中を、物部さんの先導であちらへこちらへと曲がりくねりながら進むと、ようやく中庭と思しき広い空間に出ました。

 中庭とは言ったものの白い玉砂利が敷き詰められた、映画のロケ地ですかと疑いたくなってくるような広い空間です。そんな所に袴姿で腰に刀を帯びた男性の姿をした式神が二人、直立不動の姿勢で待ち構えていましたが、私達を察知すると玉砂利に額を擦り付ける勢いで平伏していました。

 勿論、そんな式神達を気にも留めないどころか私への紹介も無い物部さん。足跡一つの乱れも無い玉砂利へと無造作に降りてはズカズカと歩いて行きます。後を追う私はオドオドしながらその後を付いて行きました。適当なところまで歩を進めると物部さんが立ち止まって振り返り、私に声をかけてきました。


「これから行う『里開きの儀式』は、陰陽師2人が呼吸を合わせて行う必要がある」

そう言って私に仏教っぽい意匠の凝らされた剣らしきものを一本手渡してきました。30センチ程度の長さをした紅褐色の美しい木剣でした。

「これは独鈷杵、という法具だヨ。イチイの木で作られている」

「あ、これマンガで見た事あります。化物に刺すと雷がドーンって…」

取るに足らない話でしたけれど、物部さんは「見覚えがあるだけでも凄いネ」と褒めて下さいました。

「マンガだと武器なんだけど、本当は結界を結ぶための法具なんだヨ。というか木材の方が実は重要なんだよね、これ。東北ではオンコとも呼ばれている木なんだけど、かつて天皇の使う杖をこの木で作る為に、官位の最高位である『正一位』を賜ったという格の高い木なんだ。ギリシア神話では死と再生の象徴ともされている。不思議なものでネ、西日本では上手く育たないんだヨ」

そんな木があるなんて初めて聞きました。

「はじめに僕達二人で、若葉ちゃんに相性の良い『隠れ里』を招き寄せる儀式を行う。これには『隠れ里』を招く陰陽師の純粋な巫力が必要になるから、サンのような『他の陰陽師と繋がりのある式神』を傍に置いていると()()可能性があるんだ」

そうか。だからサンは留守番になって、それを相志さんやこんぺいさんは了承していたのか。

「若葉ちゃんは巫力の放出に専念してくれ。俺は放出した巫力を誘導する。その後で式神達が入口を開けるから、僕らはこのイチイの独鈷杵でそれを留め、入口を固定する。これが一連の流れだヨ」

うん。何となく分かったような分からないような…

「どんな『隠れ里』になるんでしょうか?」

少し不安に思い尋ねてみましたが、それはわからないヨとあっさり言い切られてしまいました。

「この『隠れ里』というのは泡沫の夢のように不安定な空間でね。どんな世界が在るのか、いくつあるのかも分からない。今この瞬間にも何百億と存在するかもしれないし、一つも存在しないのかもしれない。ゼロか1。在るか無いか。観測する者――即ち支配者が居なければ存在もできない。いや、存在したのかさえも分からない。そんな世界なんだヨ」

まるで量子物理学のような世界のお話でよくわからないけれど…

「要するに何が出るか分からないレアガチャって事ですか?」

「まぁ…そんなもんなのか、な…」

相変わらず私の喩えはウケが悪い。何故なんだろう。

「よっし。じゃあ早速儀式を始めようかネ」

「…狩衣に着替えなくていいんですか?」

「別にお客さん向けの仕事じゃないし、ラフな格好でもいいんじゃない?それとも物部流の白衣と緋袴に着替えようか?今なら下着も見繕ってあげるヨ」

「いえ、ラフな格好大歓迎です」


 そうして私は物部さんに簡単な指導を受け、『里開きの儀式』に臨みました。


 独鈷杵を親指に挟んで人差し指と中指を立て、両手で印を結ぶ。

 私と物部さん、二人で並び立ち、呪文の詠唱を開始しました。物部さんは

「こっちの事は気にしないで、若葉ちゃんは呪文の詠唱と巫力の放出をお願いネ。タイミングは俺の方で合わせるから」

とは言っていましたが、少し心配していたのですが…


「天地の狭間に橋渡そ 冥途の谷に橋渡そ」

“行くよ”などタイミング合わせを図る事も無く詠唱のタイミングをピッタリ合わせてくる物部さんでした。


「若葉なる 狭間の あるじが 橋渡そ」

さすがは陰陽師の総裁をされているだけあって器用だなぁ、と今更ながらに思ってしまいます。


泡沫(うたかた)の里 虹の里 朝霧の里 八百万の里よ 我が仙気に寄り集い給え」

いつの間にか刀を持った式神2体が私達の隣に陣取っていた。式神達が抜刀すると私がバンバン放出していた巫力が2振りの刀によってまとめ上げられてゆくのが分かりました。


「花は空に咲き 雲は地を這う」

二人同時に違う呪文の詠唱です。


「天は地と成し 地は天と成す」

私の呪文に一寸の誤差も無く合わせて詠唱してくる物部さん。


「常若の國ぞ 今ここに留め置きたる あるじを迎えよ」

両脇に控えていた式神が前に踏み出る。右の一体が縦に、左の一体が横に刀を振るうと――縦と横に空間がぺろりと切れ目を作っていました。

灰のようにポロポロと崩れ落ちる刀を放り投げた2体の式神が切れ目に指を捩じ込んで空間を抉じ開けます。

 すると物部さんが声を掛けてくれました。

「今だよ――ドアのカドに突き刺す感じでネ」

抉じ開けられた空間。その両上の端にそれぞれの独鈷杵を打ち込むのだそうです。

「は――はいっ!」

そして2人とも寸分違わぬタイミングで、空間に独鈷杵を突き立てました。まるでずぶりと生肉に包丁を刺した様な感触がして、独鈷杵が空間に固定されました。

「――もう大丈夫。あとは見ているだけ」

掛けられた声に振り向くと、額に玉の汗を浮かべた物部さんが笑っていました。御礼を言わなきゃ、と思っていたら物部さんはチョンチョン、と独鈷杵を突き立てた空間の方を指差し『見てな』と言っています。そちらに目を向けると、木製の独鈷杵がパラパラと崩れ落ち、その欠片が一枚の障子を作り出している最中でした。


 2体の式神が頭を下げたまま左右へと退いてゆきます。

 そして後には玉砂利の中庭に白い木枠の障子がひと張り立っていました。

「さぁ――これで完成だ。若葉ちゃん専用の『隠れ里』だヨ」

独鈷杵の木は赤みがかっていたのだけれど、この障子の木枠は白かった。『夕闇の境』に通じる障子は焼きを入れたような黒だったのに。そう言えば夢見さんの『隠れ里 月光の森』の扉は中世ゴシック様式っぽいデザインだったなと思い出す。そういう所からそれぞれに違いが出るものなのだろう。

 障子に手を掛け、少し引いてみると音も無くするりと開きます。

 障子の向こうは明るく、そして――暖かかった。横では物部さんがニコニコしながら『どうぞ』と促してくれています。

 私は障子を開け、中へと足を踏み入れました。

 そこには――


 暖かい陽の光。

 舗装されていない土の道。その両脇には桜が咲いているが、街路樹の様に整然と並んで居る訳ではなく、桜の密生する森の中を道が貫いている、といった雰囲気だ。そんな道が緩やかに湾曲を繰り返しながら只管に続いています。

 耳を澄ますと何処か遠くから人の笑い声のような、鳥の鳴き声の様な、そんな音が聞こえてくる。人の声と聞けば少年少女達の希望に満ちた笑い声のようにも思えてくる。

 この道をずうっと行けば、何かとても素晴らしい事が待っている様な。

 そんな気さえもしてくる。

 ――けれど。

 道の脇にと目を遣れば、桜の木々の奥は次第に闇が濃くなってゆき、闇の中にはこちらを窺う獣のような眼も見える。

 すべてが順風満帆、と言う訳ではない――道を違えば破滅も待ち構えている。そんな世界なのだろう。

 空を見上げれば桜の花の間から、白い大きな月が輝いています。


「これが私の『隠れ里』…」

舞い散る桜の花弁の中、背後から物部さんの声がしました。

「いい『隠れ里』だね。名前はどうするんだい?」

そう。『隠れ里』は名を与えられる事で本当の安定を得られるのだそうです。決めておいたほうがいいよ、とは物部さんに言われていましたが、私はこの眼で見てから決めようと思っていました。


 桜の舞う――希望に満ちて――笑い声――まるで――

 本当は世界はとても優しく出来ている。だけれどそれを全て享受できるとは限らない。辛い事とか痛い事とか苦しい事なんてほんの一欠けらでしかないのだけれど、その突き刺さった破片は傷が治ったその奥でいつまでも肉を痛ませる。

 終わった筈なのに。祟り殺した筈なのに。小さな欠片が今でも爪を立ててくる。

 だから私は優しい世界で祟り続けよう。痛みを抱えながら祟り続けよう。明るい世界に立ちながら、魂を闇に置き続けよう。この門出の日のような世界から祟り続けよう。

「――3月8日の道」

私の言葉に暫くの間を置いて、物部さんが聞いてきました。

「随分と具体的な日付だネ。特別な思い出でもあるのかい?」

「私が迎えられなかった門出――高校の卒業式の日付です」

「…それはこの世界に足を踏み入れた事への後悔なのかい?」

物部さんが静かに聞いてくる。

「いえ、これは私なりの――覚悟です」

「そうかい――」

桜吹雪が道に溜まる事もなく、緩やかな風に舞い何処かへと運ばれてゆく。その先が見たくてずうっと空を見ていると、


「あなた様がこの里が主で御座いますか」

道の脇に咲き並ぶ桜の木の陰から声が聞こえました。女性の声でした。

「――誰?」

私の誰何に声の主が姿を現しました。紅色の振袖姿に細くしなやかな手が覗いています。女性なのか。けれど白い布を頭から被っており、白い肌に引かれた朱色の唇しか見えません。そして私に向かい微笑みを浮かべる唇の間からチラリと覗く――黒く染められた歯。

「あなたは――」

その人に声をかけようとしたところで物部さんが口を開きました。

「隠れ里の番人だね。方相氏を持たない若葉ちゃんには丁度良いと思うヨ」

話しかけようとしたところに物部さんが私に教えてくれました。

「番人?」

「隠れ里には住人が居る場合がある、それは知っているね?」

物部さんの問いに素直に頷く私。

()()を得た隠れ里は自衛の為に住人を生み出す場合があるんだヨ」

「自衛の…ため?」

「そう、自衛。すなわち自らの存続を手助けさせる事。隠れ里の存続とは即ちあるじ――支配者の存在。これは得てして若い隠れ里と巫力の高い陰陽師の場合に生み出されることが多いんだ。陰陽師の護衛や術の支援、はてはコンビニで焼きそばパンを買ってくるまで何かと役に立つよ」

コンビニで焼きそばパンてパシリかよと思いましたが、要するに私の為に働いてくれる、という事なのだろう。

「仰るとおりで御座います。この世界は勿論ワタクシも、若葉様に繋ぎとめて頂けなければ、存在し得なかった存在なので御座います」

ただし――

「繋ぐ前から居たのか繋いだ後に居たのかは判じかねるので御座います」

ほんの少し顔を傾けてそう答えてきた。

 私は『番人』と呼ばれた存在に近付いて声をかけました。

「貴女は――『お歯黒べったり』ね」

すると静かに頭を下げ、

「左様で御座います」

そう言って頭に被った白布を捲り上げた。その下には眼も鼻も存在せず、朱色の唇と、その間から覗く鉄漿で染まった歯が見えるだけだ。

「お歯黒べったり?」

何だそれといった様子で物部さんが聞いてきました。

「はい。神社の前に現れて通り掛かる人を脅かしたという妖怪です」

「でもなんで妖怪なんだろう?そんなモノが居そうな雰囲気じゃないんだけど」

「そうでもありませんよ?振袖は武家の女性が神社に参拝する際の正装ですし、鉄漿(おはぐろ)は魔を退ける意味合いも在ります」

「さすが葛葉の陰陽師だネ」

「うーん、でもずっと『お歯黒べったり』って呼ぶのも呼び難いから…“はぐろ”って呼んでいいかな?黒い羽、で羽黒さん」

私がそう言うと『お歯黒べったり』はほんのりと頬を染め、唯一見える口許に笑みを浮かべて答えました。

「名前まで授けて頂けるとは光栄の極みで御座います。これより私は羽黒としてご主人様へ御仕えさせて頂くので御座います」

そして深々と頭を下げる羽黒。

「…その『御座います』ってどうにかならないかな?あと“ご主人様”ってのもちょっとこそばゆいんだけど…」

「そう仰られてもこればかりは仕様なので御座います。ご主人様」

仕様と言われてしまっては仕方がないのでございます。というか妖怪が“仕様”という言葉を知っている事に驚きです。そしてソフトに押し切られてしまった事にも驚きなのです。


 そうして私専用の隠れ里『3月8日の道』への障子が『タタリアン』2階の一角に設えられました。




「これが若葉さんの隠れ里『3月8日の道』ですか…美しいところですね」

私の祟りを見物に来た紫苑さんが、桜の舞い散る道の上で眼を細めながら呟きました。私も満開の桜の下で紫苑さんを見られると思っていませんでした。はぁ…やっぱり美人はどんな場所でも美しいんですねぇ。

 そんな光景を私と一緒に相志さんが並んで眺めています――なんという爽やかな笑み。相志さんも見蕩れているんでしょうね。

 そんな二人の様子を見守る私の足元とかその辺では、物部屋敷に行く間、留守番をしていたサンが気持ち良さそうにクロちゃんと桜の木の周りを追いかけっこして遊んでいます。

「そして影の奥には魔が潜む…成程若葉さんにぴったりの隠れ里ですね」

どうやら紫苑さんにも私の隠れ里をお気に召して頂けたようです。


「早速のご来訪、この羽黒、誠に感激で御座います」

「ひゃうっ!?」

私が『3月8日の道』と名付けたこの隠れ里の住人であり『お歯黒べったり』という妖怪、羽黒がいつのまにか私の横で頭を下げて控えていました。

「羽黒さんですかあ…ビックリしました」

「羽黒、と呼び捨てて欲しく御座います」

「んん…そうは言っても」

「呼び捨てて欲しく御座います」

――意外に頑固なんだな、この子。下手に出ながらも要望はキッチリと通す性質の様です。

「その子は――番人ですね?」

紫苑さんが近付いてくると羽黒を見て言いました。

「お歯黒べったりですね。いい子のようで何よりです」

それに応え丁寧に頭を下げる羽黒。

「お褒め頂き感謝致しまして御座います」

「じゃあ…羽黒、この世界で『歳神』を呼び出して祟りを執り行いたいんだけど、相応しい場所はあるかな?」

そう。これから『3月8日の道』で私の祟りを行う予定なのだ。私は羽黒に聞いてみました。

「それでしたら――どこでも結構で御座います」

「そうなの?」

「この世界は生まれたばかりの老人。ご主人様が“斯くあれ”と望まれれば慣れ親しんだ古道具が如く最良の結果を生み出せるので御座います」

「そっか…じゃあ――」




「この場所で宜しいのですか?」

私は2本の道が交差する場所――辻を指定しました。こんな交差する道でも脇には桜の木が生え育っており、そのずっと奥には不吉な気配も見え隠れしています。

「いい場所ですね」

周りを見渡して紫苑さんが言う。

「歳神は勿論ですが、辻神を呼ぶのにも十分適しています。これならばどちらの祟りも問題なく扱えるでしょう」

「では若葉さん、今日は――」

何の本を使うのか、と相志さんが聞こうとしたところへずい、と羽黒が前に出た。

「ご主人様には私がお勤めするので御座います」

うおぉ主張が強い。さすが妖怪、相志さんのイケメンも効果は無いようだ。

「既に書物はお預かり致しておりますので、どうぞこの場はお譲り頂きたいので御座います」

グイグイと前に出てくる羽黒に身を引く相志さん。なんかごめんなさい…

「それではご主人様、本日の祟りにはどちらをお使いになりますか?」

意気揚々と羽黒が私に声を掛けて来ました。初仕事だしね。

「羽黒、『今昔百鬼拾遺 上之巻 雲』をお願い」

私の言葉に頭を下げ、辻の中央へ向かうと袖の袂から蝋燭を取り出し、円形に並べてゆく羽黒。寸分の狂いも無く蝋燭を並べ終わると、辻の中央へ『今昔百鬼拾遺 上之巻 雲』 を置き、私へ頭を下げると背後へ控えるように戻ってゆきました。

 私の式神、三つ目の小狐サンが、尻尾の先に火を灯し、蝋燭へ一本一本丁寧に火を灯してゆきます。

「ご主人様、神楽鈴で御座います」

戻ってくるサンのタイミングを計っていたかのように入れ替わる形で恭しく神楽鈴を差し出す羽黒。 きっと観念して相志さんが手渡したのだろう、やる事が無いので手持ち無沙汰な様子の相志さん。紫苑さんはクロを抱え目を輝かせながら私と羽黒のやりとりを観察しているようです。


 私は神楽鈴を受け取ると胸の前に構え、しゃん、と三度鳴らし、その後静かに鳴らし続けます。右手を胸の前で握り、人差し指と中指を立て、印を結ぶと詠唱を開始しました。


「金沙羅の左 双盃の右 天より下りて地を満たすもの」

唱えながら、左足の草履をリズム良く強弱をつけてたんたんと踏み鳴らす。風に舞う桜吹雪が私を中心にして渦を巻き始めます。

 そして感じる、()()()()という感覚。まるで今までの召喚が枷を填めながら喚びだしていたかのようです。まるで『大リーグボール養成ギブス』を外された星飛雄馬のような気分、と言えば分かるでしょうか…分かりませんか?


「寿老の星は南天の地に輝き 歳徳の寿ぎはわが手に満ちる」

桜吹雪の渦が桃のような甘い香りを纏い始めます。それが引金なのか予兆なのか、遠くから鈴の音が近付いてきました。こころなしか足取りが軽いようにも感じる。やはり『夕闇の境』に比べて訪れやすいのだろう。

 やがて鈴の音を響かせ赤い鼻緒の雪駄を履いた白足袋の足『歳神』がやって来て、地面に立てられた蝋燭の前に並びました。


 日の出と共に来るもの。

 頭を垂れる稲穂を運ぶ形無き理の貌よ来たれ

 汝が絵姿に寄りてここに現れよ

 慈愛を糧に踊り出で奇跡(うれし)きを為せ


 中央に置いた本『今昔百鬼拾遺 上之巻 雲』の頁がひとりでにめくれてゆき、そして止まりました。


 高い土塀のその向こう。

 土塀を越える程に大きな女が笑っている。塀の内側を見て笑っている。

 眉目は垂れ下がり、下品に開けた口はどうにか手で覆ってはいるが、堪えきれずに反対の腕を振り回してはげらげらと高笑いしている。

 何を見て笑っているのだろう。

 誰を見て笑っているのだろう。

 何時まで笑っているのだろう。

 ――そして不安に思うだろう

 何故笑っているのだ、と。

 どうして笑われているのだ、と。

 不安はやがて恐怖へと変性されてゆくのだろう。


 これが、私の選んだ妖怪。


怪威招来――「倩兮女(けらけらおんな)!」


 その言葉と共に形代を飛ばし入れる。それに応じて赤い鼻緒の白足袋達が蝋燭で囲まれた輪の中へと一斉に踏み込んだ。

 途端、鼻緒の赤と足袋の白が紅白の渦となって形代に吸い込まれてゆく。そして全ての『歳神』が形代に吸い込まれた途端、円を作るように配置していた蝋燭の炎それぞれが、日の出の様にゆっくりと、しかし次第に強く光を放ち始め、一際眩しく輝きを放ち――


 ようやく目を開けられるようになり辺りを見回すと、辻の中央に何かが居た。


 黒地に髑髏の意匠が美しい振袖姿がこちらに背を向けていた。

 それはゆっくりとこちらを振り向いて

 美しい顔をぐにゃりと歪ませて

 ははっ

 鼻で笑った。


「倩兮女、ですか」

紫苑さんが私の隣に並んで言いました。

「はい。前にどこかで見たんです。『笑いは、笑われるものにとっては恐怖である』っていう――誰だったかまではちょっとアレなんですけど…」

私がそう言うと、

「民俗学者、柳田國男ですね」

即答される紫苑さん。さすがです。

「今回のターゲットのような上流階級の人って、他人に笑われる事って、無いと思うんです。だから選んだんですけど…あんな顔して鼻で笑われるのって普通の人でもイラっとしますね」

「全くです…初めて見る妖怪でなければ相志に斬らせていたかもしれません」

静かに答える紫苑さん。おぉ…ここに元スーパー上流階級のお方が居た事を失念しておりました。


 くるりとこちらに背を向けて、ふふふ、あはは、と笑いながらくねくねと歩き去ってゆく倩兮女を見送りながら、私は言いました。


「祟り――ここに成されたり」

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