「悪夢」
夢を見た。
目の前では真っ黒な影がうぞうぞと動いている。鈍くて大きな牙。きっと、嚙み切るためのものではなく潰すためのものだ。
どこを見ているのかわからない目は、その時だけは確かに私を見つめ、下品に歪んでいる。爪。牙の奥に覗く真っ赤な舌。奇怪な体躯。
そんな魔物に、私は喰われていた。
抵抗をしないのか、それとも出来ないのかはわからない。とにかく拒む動作の一つもなしに、喰われていた。
つま先から、じわじわと飲み込まれていく。獲物を咥えた魔物の口は無情に動いている。難なく骨は砕かれ、容易く肉は裂け、それでも私は痛いと思わなかった。
ただ、つらいと思った。
その時泣いていたようにも思うが、気のせいだろうか。口元が緩んでいたのは覚えている。いや、やはりそれも定かではない。
頭のてっぺんが噛み砕かれる頃には、もう臓物はぐちゃぐちゃだった。
無惨な血と肉と骨の残骸になり、胃袋に収まった私を、私は見ていた。
「……肉塊になった私は、それでも私なのかな」
朝。目が覚めて、そう口をついた。
✱
「ね、気持ちいい?」
「……わからない」
「これは?」
「……さあ」
薄暗い中で、蠢く。
男女の声と、水音がその場に響いていた。
仄かな灯りが、緩慢に動く影を壁に写し出す。実際よりいくらか大きいその像は、例えようもなく恐ろしい魔物の影に見えた。
「痛くない?」
「……それも、わからない」
男のため息が、私の身体に落とされる。似たような薄い反応しか返ってこないことに呆れたのだろうか。
暗さ故、その表情はよく見えない。覗こうとして思いとどまり、目元に当てた腕をさらに強く押し当てる。
しばらくするとまた、汗ばんだ吐息が忙しなくなった。わざとらしい嬌声が自分の口から漏れている。
ーーそういえばあのマンガ、アニメ化決まったんだっけ。
体が激しく揺すられる中、私の頭をよぎったのは漫画の最新刊のことだ。SNSで作者本人が宣伝していたのが記憶に新しい。新刊の帯はそれだろうか。
香水の甘ったるい香りと染み付いたタバコの匂いに抱かれながら、そぐわない思考は続く。
明日の日課はなんだったろうか、今日の夕飯は。そうそう、風邪で休んだ友人は大丈夫だろうか。
どれくらい経っただろう。男が余裕のない声を上げる。
「……っごめん、もう」
「……」
顔隠したまま首を縦に振ってみせると、それを確かめた瞳は一層熱を持ち始めた。
汗がまとわりついて気持ち悪い。汗と、だ液と、ほかの何かで湿ったシーツの上。私は、視界を遮る腕とは別の腕で額を抱く。充分に暗いのに、更に目を固く瞑る。
ーー痛くはない。痛くはないのだ。
ちらちらと、まぶたの裏に映る何かがある。ひとつ思い当たる節があり、歯の奥が軋んだ。一段と激しく体を揺すられるなか、いつまでもその幻想は消えてくれない。虚ろな闇から、責めるようにじっと私を見据える、その目。
ーーなんだっていい。もう私には関係ないのだ。ーー
隙間から天井を覗くと、男の顔が見えた。
火照った、イケメンではないけどある程度整った、少し目が大きめの、男の顔。
目が合わなかったことに安堵していると、男の小さな呻きと、ーーっは、と吐いた息がその行為の終わりを告げた。
「……」
ーーなんだ、あっけない。
自分がどんな表情かなんてわからないが、きっとなんとも微妙な面をしていることだろう。腕をくずし、体をシーツに預けると案外部屋が明るいのがわかった。
「……もっと、心がいたむものかと思った」
小声でもらすと、不安定だったものがすっと自分の底に落ちてきたような感じがした。
「え?なんて?」
「ううん」
気遣いなのか、天然なのか、男はそう言って体を起こす。
そのまま息を整え、汗を拭うと「どうする?」と聞いてきた。
「え、……と」
「もう一回する?それとも寝る?」
気だるげに体を起こし、ベッド脇のティッシュに手を伸ばす彼の顔が視界に入る。
口がこわばって、上手く言葉が出ない。
「寝る」
それだけ伝えると、枕に頬を擦り付けて、寝やすい体勢を探った。
ぬくい。
「……つれないなぁ」
男が苦笑し、すぐ隣で毛布に潜るので、私はそれににじり寄る。布地と自分の肌とのこすれる音が耳に障った。
「あの」
「ん?」
「……抱きしめて、もらっても?」
俯きがちにそう言うと、手が伸びてきた。
「はい」
……やっぱり、ぬくい。
浅ましい自分の安堵感にため息をつく。
人肌の体温があれば、それだけで生きていけるような気さえした。
「おやすみなさい」
「うん」
目を瞑ると、さっきとは違った闇が広がっている。ゆっくりと息ができなくなるような景色だった。
ーーーーこのまま、消えてしまえたらいいのに。






