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「―――本当に、偶然でした。それまで私は領地で静養していたのですが、ここの所は状態が安定していたので主治医に気分転換を勧められていたのです。それで、海を見るためにグラフトン領に。そうしたら侍女とはぐれて埠頭で迷ってしまって。……ええ、そうです、あれは、確かにコンスタンス・グレイルでした。幼い頃からの友人を見間違えるわけがないでしょう? 彼女は、ひどく慌てた様子で泣き叫ぶ子供を馬車に押し込んでいました。声を掛けようとしたけれど、それからいくらも経たないうちに銃撃戦が始まってしまって。恐ろしくて、私はすぐにその場から立ち去ったのです。もちろん憲兵にも通報しています。……今思えば、きっと、あれがユリシーズ殿下だったんだわ」
白金色の髪の少女は、そう言うと、引き攣ったような笑い声を立てた。話を聞いていた壮年の調査官が冷静に訊ねる。
「銃撃戦、とおっしゃいましたが、コンスタンス・グレイルが応戦を?」
「いいえ。一緒にいた男性の方でした。顔はよく見えませんでしたが、確か、コンスタンス・グレイルの婚約者は憲兵局の少佐でいらっしゃったでしょう? 確証はないけれど、おそらくその人ではないかしら。銃の扱いには慣れているのでしょうし」
そこでまた、少女は甲高い笑い声を上げた。
「どうしても気になったので、領地には戻らずに王都にいるコンスタンスに訊ねてみたんです。そうしたら、彼女はひどく慌てた様子で人違いだと言いました。近くに付き人が控えていたので、彼女たちに確認して頂ければ私が嘘をついていないことがわかると思います。それにしても、あの誠実のグレイルが、嘘をつくだなんて……。きっと、何か恐ろしいことが起きているに違いないわ。だから、こうして然るべき場所でお話しすることに決めたのです」
◇◇◇
状況は、極めて不利だった。病的な容貌や態度はともかく、パメラ・フランシスの発言にはこれといった矛盾が見られなかったのだ。
確かにコンスタンス・グレイルは婚約者であるランドルフと共にグラフトン領に向かっている。御者は埠頭の手前で二人を降ろしたと証言していた。そこで銃撃戦があったのも証言通りだ。その件に関しては他にも目撃者がいる。そして遺体となったのは、サイモン・ダルキアンから秘密裏に第七殿下の捜索の依頼を受けていたゲオルグ・ガイナが雇った情報屋―――とその仲間たちだったと言う。
くそったれ、とカイル・ヒューズはがしがしと頭を掻きむしった。死人に口なしとはよく言ったものだ。あの場で命を落としたのはどうしようもない破落戸連中だった。裏社会に精通する情報屋と言われても不思議はない。錬金班のモリーとともに連中の黒子の位置まで隈なく調べたが、組織の一員であることを示す太陽の入れ墨は見つからなかった。おそらく捨て駒だったのだろう。
厄介なことに、パメラ・フランシスの証言を受けてランドルフもまた拘束されていた。今はまだ重要参考人の段階だが、これから行われるコンスタンス・グレイルの聴取次第では彼も収監されることになるかも知れない。
がんっ、という鈍い音とともに染みの浮いた壁が震えた。拳を叩きつけたカイルは血が出るほどに唇を噛みしめると、半ば放心する部下たちに向かって唸り声にも似た低い声を振り絞った。
「―――ユリシーズを、探すぞ」
それ以外に、この状況を打開する方法はない。
◇◇◇
ゲオルグ・ガイナに連行されたコニーは、憲兵総局の一室で取り調べを受けていた。詰問するのはガイナで、部屋の隅には会話を記録するための書記が座っている。
「王子は今どこにいる?」
「……知りません。ユリシーズ殿下を攫ったのは、私じゃない」
「犯罪者は皆そう言うんだ。ああ、もしかして、ランドルフ・アルスターにでも唆されたか? パメラ・フランシスの証言もあるしな。アルスターが銃を抜いていたと」
コニーはぎょっとして目を見開くと、ぶんぶんと首を振った。ガイナが愉快そうに咽喉を鳴らす。その瞬間、コニーは悟った。
これは、茶番だ。
きっと今頃はランドルフも取り調べを受けている。そして、その分だけ、ユリシーズの捜索は遅くなる。戦争が、近づいてくる。
敵は全て分かった上でこの場を設けている。馬鹿正直に真実を伝えても意味がない。時間だけが無駄に過ぎていくだけだ。
「アルスター伯は、何もご存知ありません。それは―――別の、人間です」
きっぱりと告げれば、この小娘は一体何を言っているのかとゲオルグ・ガイナがわずかに狼狽えた。その態度を見て、コニーは確信する。おそらくだが、この男も【暁の鶏】に関わっているのだろう。そして、彼らの目的は時間稼ぎだ。計画を邪魔する者を、足止めすることなのだ。
コニーはわずかに震える指を握りしめると、恐怖を隠すようににっこりと微笑んだ。
誠実なんて、くそ食らえ。
「アルスター伯とは埠頭で別れました。その後で、協力者に会ったんです。パメラが見たと言っていたのはその人でしょう」
『コニー!』
スカーレットが信じられないというように瞳を見開いた。
『お前、急に何を言い出すの……!』
紫水晶の双眸が嵐のように波打っている。コニーはぐっと唇を噛みしめると、そのまま言葉を続けた。
「おっしゃる通り、私がユリシーズ殿下の誘拐に手を貸しました。アルスター伯は関係ありません。私には―――別の後ろ盾があったんです。巨大な……目的のためなら殺人も厭わない残酷な犯罪組織です。私が最初に行動を起こしたのはハームズワース子爵が主催したグラン・メリル=アンの夜会でした。そこに、アルスター伯はいなかったはず」
スカーレットが今にも泣き出してしまいそうな表情で声を震わせた。
『ばかコニーっ、もう、本当に、おばか……!』
ごめんね、スカーレット。本当に、ごめん。コニーはその言葉を胸の中で何度も繰り返した。
「―――組織の名は、【暁の鶏】」
ゲオルグ・ガイナが青褪めた顔で首を横に振っている。ざまあみろ、とコニーは思った。それから、ぽかんと口を開ける書記役の男に向かって微笑んだ。
「ちゃんと書き留めましたか? なら、次にすべきことがわかるでしょう? 容疑者が、実行犯を白状したんです。私が貴方だったら―――まずはランドルフ・アルスターを釈放しに行きますね」
乱暴に腕を取られ、投げ捨てるように放り込まれたのはひんやりとした冷気が漂う留置所の一室だった。鉄格子の中には擦り切れた毛布があるだけだ。
スカーレットは辺りを一瞥すると不愉快そうに鼻を鳴らした。そして、それきり黙り込んでしまう。どうやらかなり怒っているようだ。
コニーは冷たい壁にもたれかかると、両膝に顔を押しつけた。しばらくそうしていると、ギィ、という錆びた音とともに鉄製の扉が開く。
「―――ここは貴族専用でね。十年前にスカーレット・カスティエルが最初に連れて来られた場所でもあるんですよ。知っていましたか?」
でっぷりと肥えた樽のような体を揺らしながら入ってきたのは、ハームズワース子爵だった。コニーはゆっくりと顔上げると、戸惑ったように首を振る。スカーレットを見れば、関係ないと言わんばかりに顔を背けていた。
「でも、意外でしたな。よりにもよって、貴女が聖職者を呼ぶなんて」
ハームズワースはそう言うと、場違いなまでに陽気な笑い声を上げた。教会の教えにより、囚人は神に許しを請うことが許されている。聖職者への面会を要求をすれば、総局の判断で拒否することはできない。
コニーがハームズワースを呼んだのは、ガイナとの聴取を終えてすぐのことだった。
「けれど、まさか―――本当に神への懺悔のために呼ばれたわけではないでしょう?」
そう言って悪戯っぽく目配せをしてくる子爵を前に、コニーは静かに微笑んだ。
◇◇◇
「君は、何を考えているんだ!」
息を切らせながら飛び込んできたランドルフを見て、コニーは心の底から安堵した。ここに来られたということは、どうやら閣下は無事に解放されたらしい。
「ガイナに告げた馬鹿げた内容だけじゃない! ハームズワースにも、一体何を言ったんだ!」
あのハムは体形に似合わず仕事が早いようだ。感心していると、凄みのある低い声が落ちてくる。
「それで、俺を―――捨てるのか?」
その口調にコニーは思わず苦笑すると、何でもないことのように頷いた。
「はい」
コニーが子爵を呼んだのは、もちろん告解をするためではなかった。目的は、ランドルフとの婚約を破棄してもらうことである。
ハームズワースは意外なほどあっさりと承諾した。我ながら勝手な行動だったと思うが、後悔はしていない。きっと、閣下の方からはそうしないだろうという確信があった。
けれど、それでは困るのだ。王子誘拐に関わったコンスタンス・グレイルと一切の関わりを絶たなければ、おそらく閣下は捜査には戻れない。それでは敵の思う壷である。
いつだって足手まといのコニーができることはこれくらいだった。諦めたのではない。信じたのだ。信じたから、託したのだ。
ランドルフだけではない。今も奔走している仲間がいる。彼らは、必ず救ってくれるはずだ。ユリシーズを。ルチアを。
そして、この国の―――未来を。
「……どうするんだ、二度も婚約破棄なんかして。嫁の貰い手がなくなるぞ」
晴れた海のような紺碧の瞳が、どこか途方に暮れたように揺れている。その青は、吸い込まれてしまいそうなほどに澄んでいて―――
息がとまりそうなほどに、深かった。
「……すべてが」
コニーは、その瞳を静かに見つめた。
「すべてが、終わって。もしも、私が、ここから出られたら。そうしたら、押しかけに行きたい人がいるんです。勝手なことばかりしているから、もう、呆れられているかもしれないけれど。一生を過ごすなら、その人だって決めているんです。だから、つまり、その……、じょ、女性の方から結婚を申し込んだって、いい、わけ、ですよね……?」
「駄目に決まっているだろう」
拒絶の言葉に愕然と目を見開くコニーに向かって、ランドルフが躊躇いがちに腕を伸ばしてくる。―――きっと、と。
それは、囁くような声だった。
「きっと、その前に求婚される。領地も持たず、気の利いた台詞ひとつ言えない、ついでにデートの場所も頓珍漢な―――つまらない男に」
その台詞にコニーは小さく息を呑むと、ふっと口の端を緩めて噴き出した。それから、差し伸べられた掌をぎゅっと頬に押し当てる。節くれだった手のひらは意外なほどに熱かった。瞬きと共に涙が零れる。それが頬を伝い切る前に、かさついた親指の腹でぐいっと拭われた。
ランドルフは、眉を寄せ、ひどく困ったようにこちらを見下ろしている。
ああ、とコニーは思った。
この人が、すきだ。
ふにゃりと笑いかければ、ランドルフは眉間の皺をさらに深めた。おっかないけれど、可愛い。そう思いながら見上げていると、怒ったような精悍な顔が近づいてくる。一瞬だけ夜のような影が落ちた。驚く暇もなく、熱を帯びた唇が額を掠めとる。
「……おでこ?」
コニーはきょとんと目を瞬かせた。
「……今は、婚約者ではないからな」
どことなく不機嫌そうな口調がくすぐったくて、コニーはもう一度笑みをこぼした。そして、それから―――少しだけ、泣いた。
スカーレットが消えたのは、その翌日のことだった。