8-12
嵐のような銃声がぴたりとやんだ。
廃材の影に身を潜め周囲の様子を窺っていたランドルフは、その隙にシャツの袖を引き裂くと、脇のつけ根をきつく結んだ。被弾した傷口は幸いにも動脈から外れていたため見た目よりも軽傷だ。
とはいえ、戦況はどう考えても不利だった。
(……厳しいな)
手持ちの弾倉の数を確認しながらランドルフはそう判断した。何人かは仕留めたが、今だ敵の正確な人数すらわからない。
肩で呼吸を整えながら、さてどうしたものかと考える。けれど困ったことに、この状況でランドルフの心を占めるのは打開策などではなく、コンスタンス・グレイルが無事に逃げたかどうかということだけだった。
気が弱い癖に変なところで潔く、思いのほか頑固で、目を離せばうっかり騒動に巻き込まれている底抜けにお人好しな婚約者。
くるくると変わる鮮やかな表情に、いつだってまっすぐな若草色の瞳。彼女の存在は、気がついたらランドルフの灰色の世界に色を与えてくれていた。
だから、だろうか。勝算などないことは端からわかっていた。それでも応戦を決めたのは、わずかな時間でも敵を足止めできればよかったからだ。こちらを困らせてばかりのあの子を、無事に逃がすことさえできれば―――
(―――行くか)
ランドルフは、ひどく凪いだ気持ちで覚悟を決めた。その時だった。低い悲鳴とともに、銃を放り投げた男が手首を押さえながら転がってきた。地面に転がった口径からは青い火花が散っている。暴発ではない。まるで小さな雷がそこに落ちたようだ。
それと同時に中断していた攻撃が一斉に再開された。無数の銃弾が矢のようにランドルフ目掛けて飛んでくる。
「……スカーレット、か?」
呆然と呟けば、答えるように一陣の風が吹き抜けた。
疾風は、先陣を切るように降り注ぐ弾丸を弾いていく。見えない力の存在に、敵がたじろぐのが気配でわかった。
ランドルフは苦笑するように口角を持ち上げた。自分はコンスタンスを守れと頼んだはずなのに。まるで、「誰が他人の命令になど従うか」と言わんばかりの振舞いである。しかし―――
「―――感謝する」
道は、拓けた。ランドルフは小さく呟くと、手にしていた拳銃を構え直してスカーレットの後に続いた。
◇◇◇
太陽はとうに地平線の下に沈んでいた。
猫の爪のような月は雲に覆われ、辺りは濃紺の暗闇に包まれていた。遠目からでは一体どうなっているのかわからない。ただ火花と激しい金属音が風に乗って聞こえてくるだけだ。コニーが祈るような気持ちで状況を見守っていると、ふいに銃声が聞こえなくなった。どうやら片がついたようだ。心臓が早鐘を打つ。
ランドルフは無事なのか。スカーレットは―――
『―――まったく、情けない顔ねえ』
頭上から聞こえてきたその声に、コニーは思わず鼻をすすった。
「スカーレット、ぶ、ぶじでよかったああああ……!」
『ふん、当り前じゃない。わたくしを誰だと思っているのよ。ついでにランドルフ・アルスターも生きてるわよ。まあ、わたくしが手を貸したのだから当然だけど』
その言葉に、慌てて後ろを振り返る。目を凝らせば、ゆっくりとこちらに近づいてくる人影があった。ランドルフだ。足取りはしっかりしているようだが、だらりとぶら下がった左腕を手のひらで押さえている。
気がつけば、コニーは弾かれたように駆け出していた。
「閣下! け、怪我は―――」
息を切らせながら大きな身体に飛び込めば、ランドルフは、ぼんやりとした表情でコニーを見下ろしていた。
「閣下?」
「……逃げなかったのか?」
ぽつりと落とされた声に、コニーはぱちくりと目を瞬かせる。
「逃げろと、言ったはずだが」
どことなく責めるような口調である。コニーはもう一度ゆっくりと瞬きをすると―――次の瞬間、若草色の瞳をすっと細めた。
「…………この、」
出てきたのは、咽喉の奥から絞り出すような低い声だ。頭の中で、何かの糸がぷつんと切れる音が聴こえた気がした。
「―――バカ閣下! あんな状況で、閣下を置いて逃げられるわけがないでしょう!? だいたいひとりで飛び出すなんて何を考えているんですか!?」
いくら間抜けなコニーにだってあれは自殺行為だったとわかる。
―――あの時。ランドルフはただの一度もこちらを振り返ることもなく、銃撃の渦中に向かって行った。本当に、心臓がとまるかと思ったのだ。確かにコニーは足手まといだったかも知れない。けれど、だからと言ってあれが最善の策だったとは思えない。他に方法はいくらでもあったはずなのだ。
きっと、二人で生き残る方法が、あった、はずなのだ。
渾身の怒りをぶつけても、当の本人はどこか困惑したような、ぽかんとした表情を浮かべているだけだった。その何もわかっていないような様子にますます腹が立ってくる。
コニーは拳を振り上げると、ランドルフの胸に思い切り叩きつけた。
「もう、もう……! ほんとにもう、閣下の、バ閣下……!」
鍛えられた胸板は思いのほか堅く、荒事に慣れていない乙女の拳は早々に悲鳴を上げた。顔をしかめたコニーに気づいて、ランドルフが慌てた様子で後方に下がる。
それから、きょとんと首を傾げた。
「ばかっか……?」
「そうです、おバカな閣下で、バ閣下です! 何か文句でも!?」
きっと睨みつけてやれば、紺碧の双眸が呆気に取られたように丸くなった。それから一拍おいて、小さく吹き出す声がする。
コニーは思わず息を呑んだ。
「なんで、このタイミングで笑うの……!」
すると困ったようにランドルフの眉が下がった。
「なんで―――泣くんだ」
気がついたら、コニーの瞳から涙が零れていた。ぼろぼろと大粒の涙が頬を伝っていく。
「……こわかったからです!」
「だから、逃げろと言っただろう」
ほら見ろと言わんばかりの口調は聞き捨てならない。コニーは勢いよく顔を上げると、猛然と反論した。
「違う!」
飛び交う銃弾はもちろん恐ろしかったけれど、それよりなにより怖かったのは―――
「あなたが死んじゃうかと思ったから、こわかったんです! そんなこともわからないのか! バ閣下のっ……大バカ野郎……!」
声が掠れてしゃくりが上がる。コニーは肩で息をしながら手の甲で目元を拭った。ごしごしと乱暴にこすっていると、やめさせるように、そっと手を取られる。
「―――俺も、こわかったんだ」
聞こえてきたのは穏やかな声だった。
「君を、失うかと思って」
コニーはゆっくりと顔を上げた。
「おんなじだな、コニー」
そう告げたランドルフ・アルスターは、澄んだ青空のような双眸を柔らかく細めてコニーを見つめていた。
コニーはびっくりして―――びっくりし過ぎて―――涙を引っ込めて目を見開いた。
―――なんだ、これ。
「わ、笑ったら何でも許されると思ったら大間違いだからな……!」
やっとのことで負け惜しみのように上擦った声を上げれば、ランドルフは堪えきれないように肩を揺らした。その度に心臓がぎゅっと締めつけられてコニーはどうしていいかわからなくなる。
所在なげに視線を彷徨わせていると、ふいに、躊躇うような声が落ちてきた。「……許されるなら」
それは、耳を澄ましていなければ聞き逃してしまいそうなほどに、小さな、声で。
「許されるなら、君と共に、人生を歩んでいきたい」
気がつけば、いつの間にか雲間から月が顔をのぞかせていた。淡く白い光が空からこぼれ、世界を優しく照らし出す。コニーはゆっくりと息を呑んで、そして吐いた。
「―――なら、許します」
その言葉はするりと出てきた。月光を滲ませた紺碧の双眸が、動揺するようにわずかに揺れる。
「私が許します。陛下が許さなくても、国が許さなくても、閣下の大叔父さまが許さなくても、他の誰が許さなくても、たとえ、神さまが許さなくても、私が、ぜんぶ許します。だから、閣下が気にするようなことはこれっぽっちもないんです」
我ながら、とコニーは思った。まったく、我ながら、スカーレット・カスティエルも真っ青な暴論である。けれど本心なのだから仕方ない。誰に何を言われようともコニーは許す。許すに決まっている。
このとんでもなく不器用な人が、それで幸せになるというのなら。
コンスタンス・グレイルは、女神にだって喧嘩を売ってやる。
「もしそれで閣下を非難するような人間がいたら―――」
「……いたら?」
コニーはおもむろに手のひらを見せると、にっこりと微笑んだ。
「引っ叩いてやります」
堂々と宣言すれば、ランドルフは驚いたように目を丸くした。それから、ふっと笑みをこぼす。
「君は、たまに、すごいことを言うな」
「う……。は、反省してます……」
確かにとんでもないことを言った自覚はある。思わず背中を小さく丸めたコニーを見て、ランドルフはひどく眩しそうに目を細めた。
「ああ、是非そうしてくれ。―――殺し文句だ」
◇◇◇
麻袋を背負ったままの誘拐犯に手を引かれてルチアがやってきたのは、空き家の裏手に繋がれた大型の幌馬車だった。
「ショシャンナにお土産ー」
サルバドルはそう言いながら帆布で出来た入り口を捲ると、中で座っていた少女に向かって麻袋を投げ捨てた。どさりという重たい音に、ショシャンナと呼ばれた子が驚いたようにこちらを振り返る。ルチアよりも、いくつか年上だろうか。目鼻立ちのはっきりとした整った容姿で、腰まで届く癖のある髪は銀色だ。そして、大きな瞳はまるで柘榴石のような色をしている。
ショシャンナはサルバドルに手を繋がれたままのルチアに気づくと、引き攣った表情を浮かべた。
「ふ、増えてる……!」
悲鳴にも似た声に、サルバドルが取り繕うようにへらりと笑う。
「えーと、あ、ほら、ペットは多い方がよくない?」
銀髪の少女は麻袋とルチアを交互に見やると、がっくりと頭を垂れて低く呻いた。
「ってことはその女の子も私が世話するんだ……いやわかってたけど……わかってたけど……!」
二人はどうやら気安い仲のようだ。似ていないが、兄妹なのかもしれない。そんなことを考えていると、視界の端でもぞもぞと麻袋が動いた。ルチアはサルバドルから離れると、袋の口を縛っていた縄を解く。
中から出てきたのは、きれいな顔立ちの男の子だった。きっとこの子が先ほどの声の主だろう。ルチアはほっと胸を撫でおろした。やはり生きていたのだ。肌はひどく青褪め、身なりはぼろぼろだったが。
それでも、生きている。
周囲を警戒するようにさっと体を強張らせた少年を見て、ルチアは優しく微笑んだ。
「ルチア・オブライエンですわ。あなたのお名前は?」
屈みながら問いかければ、昏く沈んでいた双眸にわずかに光が戻ってくる。その様子を見て、まだ大丈夫だとルチアは思った。
まだ、この子の心は死んでない。
青みがかった紫色の瞳が、ゆっくりと焦点を結んでルチアを映した。
「―――ユリシーズ」