8-10
グラフトン領の埠頭までは王都から馬車で半日はかかるとのことだった。憲兵総局に立ち寄り侯爵の所有する倉庫の番地を確認すると、その足で遠乗り用の馬車に乗り込む。
王都から離れるにつれ道の舗装が雑になっていくのか、がたんごとんと、車中が波に揺られるように律動している。
ランドルフはむっつりと押し黙っていた。相変わらず表情に乏しいが、纏う空気がおっかない。気がついたらコニーは口を開いていた。
「……お、怒ってますか?」
「いや」
しかし返事はずいぶんと素っ気ない。ぴしりと凍りつくコニーを見て、ランドルフがわずかに雰囲気をやわらげた。
「本当に怒ってはない。ただ、言い聞かせていたんだ。勝手に行動されるよりかは目の届く範囲に置いておいた方がマシだろうと」
「う、ごめんなさい……」
思い当たる節があり過ぎて、コニーはそのまま項垂れた。
〇
「そう言えば、教会から婚約公示手続きに関する書類が届きました」
「……そう、か」
何でもない風にコニーが告げると、ランドルフは一瞬だけ言葉に詰まるような素振りを見せた。けれど、すぐにまた淡々と言葉を続ける。
「伝えるのが遅くなったが、実は叔父が爵位は息子に継がせると正式に表明したらしい。これで肩の凝る公爵にはならなくて済みそうだ。だから、」
あ、聞きたくない。
反射的にコニーは思った。これ以上、その先を聞きたくない。
だってランドルフがこれから何を言うつもりか―――わかってしまったから。
「この誘拐事件が解決したら、婚約を解消できるように手筈を整えよう。もちろん、君に非がないような形で」
心臓が、痛い。どくどくと悲鳴を上げている。まるで知らない道に一人で放り出されてしまったような気分だ。心細さが一気に押し寄せてくる。
途方に暮れたようなコニーの表情を見て、ランドルフが珍しく困ったように眉を寄せた。それから幼子に言い聞かせるようにゆっくりと告げる。
「……きっと、すぐに君にふさわしい奴が現れる。間違っても他人を傷つけたり、殺めたりしないような男だ」
コニーは俯いたまま小さく首を振った。
「閣下は、どうするんですか……?」
「今まで通りの生活に戻るだけだ」
「結婚、は、しないの……?」
顔を上げて訊ねれば、紺碧の双眸が何かを葛藤するように揺れていた。それからややあって、躊躇うような声が落ちる。
声は、わずかに掠れていた。
「……自分ひとりだけ幸せを望むなんて、許されるわけがない」
スカーレットが『ばかな男ね』と呟いた。
◇◇◇
領内に入る頃には、太陽はゆるやかに下り始めていた。万一見張りがいたら困るので、港に続く手前の道で馬車から降りる。空はぼんやりと茜色が滲み始めていたが、係留施設ではいまだ到着した船から荷を下ろす者や、運ばれてきた荷物を検品する者の姿がある。
桟橋から少し歩けば人気もなくなり、しばらく進んでたどり着いたのは切妻屋根の煉瓦倉庫が列をなして何棟も立ち並ぶ場所だ。
ランドルフとコニーは周囲を警戒しながら、倉庫に刻まれた番号を確認していく。
「―――この列の左から三つ目のものだな」
手元の羊皮紙を確認しながらランドルフが呟いた。
「近くに見張りはいないようだが。こちらの予想が外れたか?」
『おかしいわね。二階に格子窓があるから、わたくしが中を確認してくるわ』
そう言うと、スカーレットはふよふよと浮上していき室内を覗き込んだ。コニーは固唾を呑んでその姿を見守る。
『……え?』
聞こえてきたのは、わずかに動揺したような声だった。スカーレットは弾かれたように後ろを振り返ると、紫水晶の双眸を細めて遠方に焦点を合わせた。しばらく何かを探すように視線を彷徨わせていたが、やがて小さく息を呑む。
「スカーレット?」
その様子を怪訝に思ったコニーが首を傾げたのと、何かが空を切ってコニーの足元に投げつけられたのはほぼ同時だった。ころころと転がってくるのは手のひらほどの楕円形の鋳鉄である。
『―――逃げて!』
切羽詰まったような叫び声がコニーの耳朶を打った。
「逃げるの!?」
その言葉を合図に、ランドルフがコニーを庇うように腕の中に引き寄せた。そして物陰に飛び込むと地面に伏せる。
―――次の瞬間、凄まじい爆音とともに眩い閃光が視界を焼き尽くした。
◇◇◇
ルチア・オブライエンは浮かれていた。生まれてはじめて同じ年頃の友人ができたのである。ミルクをたっぷり入れた紅茶のような髪と、淡い菫色の瞳を持つ、天使のように愛らしい女の子。最初は子猫のようにこちらを警戒していたけれど、すぐに姉妹のように仲良くなった。
こんな幸せな日々が訪れるなんてルチアは夢にも思っていなかった。ほんの数年前までは、生き延びていくだけで精一杯だったのだ。
地獄のような場所から救い出してくれたアビゲイル。それに、大男だけど優しいテディと、口は悪いけれど面倒見のいいルディは、ルチアにとってかけがえのない宝物だ。
貴女の宝物はこれからどんどん増えていくわよ、とアビーは笑っていたけれど―――
ルチアはくすぐったい気持ちで微笑んだ。今はレティシアと一緒にアナスタシア通りに来ている。城下で流行っているというピンクやエメラルドの宝石のような焼き菓子を買いに来たのだ。最近忙しそうにしているアビーへのお土産である。さくさくしていて、中には果実のクリームが入っているらしい。様子を見に行った侍女が「行列なので私が並んで買ってきます」と言うので、ふたりは馬車の中でおしゃべりをしながら彼女の帰りを待つことにした。その矢先のことだった。
「大変、あの猫、怪我をしているわ!」
物珍しそうに窓から城下の様子を見ていたレティシアは、そう言うなり馬車から飛び出した。確かに彼女が駆け寄ろうとした先には後ろ足から血を流した猫がいる。しかし手負いで気が立っているのか、威嚇するように毛を逆立てるとそのままするりと路地裏に入り込んでしまう。レティシアはすぐさまその後を追った。ルチアの顔から血の気が引いていく。城下とはいえ、大通り以外ではどこに危険が転がっているかわからないのだ。
ルチアも慌てて馬車から降りたが、レティシアの姿はどこにも見当たらなかった。まだ陽は高いというのに路地裏には人気がなく薄暗い。心臓が嫌な音を立てる。背後で猫がにゃあと鳴いた。「レティシア!?」ほっとして振り向くと―――ルチアはその場に凍りついた。
「―――デボラさま」
そこにいたのはデボラ・ダルキアンだった。猫がまた、にゃあ、と鳴く。抱きかかえているのはレティシアだ。けれど顔は真っ青で、今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。
「……あっ」
ふいに気まぐれな猫が、怪我など感じさせない軽やかな動きでレティシアの腕の中から飛び出した。レティシアは小さく声を上げたが、追うことはなかった。動けないのだ。
デボラ・ダルキアンは、恐怖に震えるレティシア・カスティエルの首にナイフを突きつけ嫣然と微笑んでいた。
ルチアはごくりと唾を呑み込んだ。デボラには一度だけ会ったことがある。アビーに連れられ訪れた劇場で、偶然、顔を合わせたのだ。それはほんの一瞬のことだったが、燃え上がるような憎悪に満ちた灰色の瞳はそう簡単に忘れることなどできない。
だから、ルチアにはデボラの目的がすぐにわかった。
良かった、とルチアは思った。目の前にいる相手がデボラ・ダルキアンで本当に良かった。
だって、彼女が傷つけたいのはレティシアではない。
「その子を放してくださいませ。狙いは、ルチアでしょう?」
そう言えば、レティシアが目をいっぱいに見開いた。それから大きく首を振る。そんなことをして鋭い切っ先が肌に当たってしまったらどうしようとルチアは的外れなことを思った。
「現実的に、二人も連れて行くのは無理ですわ。かと言って、そんな細い腕で人を殺すのは大変だと思いますの。血がいっぱい出てドレスは汚れるし、ナイフだって使い物にならなくなりますわ」
両手を上げながらゆっくりとデボラに近づいていけば、彼女はあっさりとレティシアを解放した。もともと脅すだけのつもりだったのだろう。レティシアは力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
彼女の体に目立った怪我がないことを確認すると、ルチアはふっと笑みをこぼした。
「―――レティ。アビーにごめんなさいって言っておいてね」
救われてからのルチアの毎日は幸せだった。本当に、幸せだったのだ。
だから後悔なんてちっともしていない。むしろ、初めてできた友人を守ることができたのなら満足である。
その言葉に、地面に手を当て呼吸を整えていたレティシアが弾かれたように顔を上げた。
「いやよ!」
まさか拒絶されるとは思っていなくて、ルチアは思わず目を丸くする。
「ぜったいに、いや……! 何が何でもふたりで帰るんだから……!」
先程まで震えていたはずなのに、淡い菫色の瞳には紛れもない怒りが浮かんでいた。
「お前、こんなことをして許されると思っているの!?」
ルチアが制止する間もなく、レティシアは友人を取り戻そうとデボラに掴みかかっていく。デボラは一瞬怯んだものの、すぐに冷たい視線を少女に向けた。
「うるさい子供ね」
そう吐き捨てると、刃物を持っていない方の手で、暴れるレティシアの首筋を思い切り打った。打ち所が悪かったのか、小さなレティシアは再びその場に崩れ落ち、そのままぐったりと動かなくなる。
「レティ!」
ルチアは悲鳴を上げるとレティシアの元へと駆け寄った。顔色は悪いが、ちゃんと心臓は動いている。気を失っているだけのようだ。ほっと胸を撫でおろしていると、ぐいっと腕を掴まれる。
見上げれば、どこまでも濁った灰色の双眸がルチアを映していた。
「―――あなたの首を送りつけたら、あの偽善者はいったいどんな顔をするかしら?」




