8-4
やってしまった。
コニーは盛大に顔を引き攣らせた。手のひらがじんじんと痛みを訴えている。人を引っ叩くなんて生まれて初めてのことだったが、叩かれた方はもちろん、叩いた方も痛みを覚えるのだとは知らなかった。
アドルファスは驚いたように目をぱちりと瞬かせた。その頬はうっすらと熱を帯びている。己が仕出かしたこととはいえ、心が痛んだ。ついでに婚約者の暴走にがっくりと顔を覆って項垂れているランドルフにも。
殴られた方がよっぽどマシなのではないかという気持ちになっていると、しれっとした声がどこからともなく降ってきた。
『あら、ごめんあそばせ。でも、スットコドッコイ相手には拳で語るものだってお母さまが』
どこの無法地帯の話だ、それは。
コニーはやけっぱち気味に口を開いた。
「その、これは、友人のお母さまのご出身での風習だそうで」
「……風習?」
「ええ。どうもスットコドッコイ相手にはこうするんだとか―――あっいや別に公爵がスットコドッコイだと言っているわけではなくてですね……! 物の例えというかなんというか……!」
すると公爵は一瞬驚いたように目を見開くと、次の瞬間噴き出した。
「―――平手打ちなら可愛いものだ」
「へ……?」
あの時はもっと痛かったからね、と何かを懐かしむように目を細める。そしてそれ以上お咎めはないようだった。
どうやら首はつながったらしいと胸を撫でおろしていると、アドルファスがこちらに向き直って口を開いた。
「―――それで、あなたの友人の望みはなんだ?」
「はい?」
「まさか、引っ叩いて終わりではないだろう?」
ええ、そのまさかです。
コンスタンスが誤魔化すような笑顔を浮かべたまま黙り込むと、その沈黙を誤解したのか、公爵がふっと相好を崩した。
「何でも言いなさい。ああ、この首でも差し出そうか?」
「とととととんでもない!」
急に飛び出てきた物騒な発言にぶんぶんと首を振る。
「そうか。必要になったらいつでも言いなさい」
冗談めかしていたが、赤みがかった紫の瞳はちっとも愉しそうではなかった。そのことに気づいた瞬間、コニーは反射的に口を開いていた。
「公爵は、死にたいのですか?」
アドルファス・カスティエルは意外な言葉を聞いたように、きょとんと目を瞬かせた。それから何かに納得したよう苦笑する。
「―――ああ、そうか」
それは、ひどく哀しい笑みだった。
「死にたかったのか、私は」
コニーは束の間言葉を失った。それから、ゆっくりと言葉を選んでいく。
「……ええとですね。その子は、とっても忙しいそうで。なにせ、復讐相手がたくさんいるので。ひとりにかまけている暇はないと。なので―――」
困ったように眉を八の字に下げて、こう告げる。
「もう、ご自分を責めなくても、いいのではないでしょうか」
「……君には関係のないことだ」
「ええ。だからこれは、私の言葉じゃない」
ふん、とそっぽを向く誰かさんの代弁だ。けれどもアドルファスは納得できないようだった。
「……君たちがそうしないと言うのであれば、別の方法を探すまでだ」
光を失った赤紫の瞳は底なし沼のように昏かった。
「―――そうでなければ、罪もなく命を奪われたあの子があまりに哀れじゃないか」
「それは……」
公爵は思いのほか頑固だった。コニーの声など届いていない。このままでは本当にその首を持って帰る羽目になるかも知れない。血みどろな光景をうっかり想像してしまい、思わず涙目になる。
(た、助けて―――)
『まったく、もう』
その時、黙ったまま成り行きを見守っていたスカーレットがわざとらしく溜息をついた。眦をつり上げ腰に手を当て、よく通る声を響かせる。
『仕方がないわね! コニー!』
「よしきた……!」
藁にも縋る気持ちで頷けば、次の瞬間、何かが助走をつけてコニーの中に飛び込んできた。
※
「―――お言葉だけど」
しばらく黙り込んでいた少女が、おもむろに声を上げた。何の気なしに視線をやったアドルファスは違和感に眉を寄せる。自信に満ちた声に、堂々とした振舞い。先程とはまるで印象が違う。小動物のようにおどおどと落ち着かない様子は鳴りを潜め、そこにあったのは獲物を捕食するのを待つ肉食獣のような泰然とした微笑だ。
強烈な既視感。コンスタンス・グレイルとは今日顔を合わせたばかりのはずなのに、何故だかアドルファスはその微笑みをよく知っているような気がした。
少女は、ひどく見覚えのある笑みを浮かべたままこちらを睨みつけてくる。
「わたくしは、自分のことを哀れだと思ったことなんて一度もなくてよ」
その言葉に、アドルファスは目を見開いた。
「確かに腹も立ったし、悲しくもなったけれど。でも、お父さまは不器用で意地っ張りだもの。仕方がないわ」
この少女は、誰だ。いや、わかっている。コンスタンス・グレイルだ。榛の髪に若草色の瞳、そして平凡な容姿。それは間違いない。けれど。
「哀れなんかじゃないわ。だって、わたくしは愛されて生まれてきたと知っているもの」
世界の中心が己だと疑わない自信に溢れた微笑みを、己が見間違えるはずがない。
「お父さまが、わたくしを愛してくれていたことくらい、知っていたもの」
アドルファスは息を呑んだ。くらりと眩暈がする。ああそうか、と声に出さずに呟いた。そうか。そうだったのか。
「言いたいことはたくさんあるけれど、後の文句は、そうね―――」
彼女はそう言うと、とっておきの秘密を告げるように囁いた。
「―――仕方がないから、ぜんぶ、コーネリア・ファリスに言ってやるわ。お父さまも知っているでしょう?」
知っている。知っているとも。
泣き笑いのような表情を浮かべて頷けば、榛の髪に若草色の瞳を持ったスカーレット・カスティエルは晴れやかに笑った。
「お母さまの、口癖だもの」
◇◇◇
「―――この小径」
コニーはカスティエル邸の庭を歩いていた。燃えるような深紅のサルビアの群生は、少し前に小さなレティと出会った場所だった。
「昔は白いアナベルだったって言っていたよね」
スカーレットは、ええ、と頷いた。
「執事のクロードさんが教えてくれたんだけど、この花、ソルディタ共和国ではスカーレット・セージって言うんだって。カスティエル公爵が、選んだんだよ」
―――けっきょくスカーレットと対峙して、公爵が何を思ったのかはわからない。けれど去り際に一言だけこう言われた。
娘をよろしく頼む、と。
風に揺れる雫型の花びらを見ながら、コニーはゆっくりと微笑んだ。
「きれいだね」
スカーレットは答えなかった。ただ、一面に敷き詰められた赤い花を静かに見つめていた。それから、ふん、と鼻を鳴らす。
『次は、ダルキアンね。あの年増の皺が伸びるまで引っ叩いてやるわよ!』
「いやだからそれやるの私だからね……!?」
◇◇◇
客人を帰し、暫くぼんやりとしていると、どうぞ、という声とともに芳しい香りが鼻腔をくすぐった。
「咽喉が渇いていらっしゃるかと」
そう告げたのはクロードだった。白磁のティーカップに注がれた紅茶は、西の地平線に沈む夕焼け空のような色をしている。
まるであの日のようだとアドルファスは思った。見上げれば、心得たようにクロードが微笑んでいる。アドルファスもわずかに口元を綻ばせると、カップの縁に口をつけた。
「……うまいな」
言葉とともに、温かい何かが頬を伝っていく。
「―――泣くほど喜んで頂けるとは執事冥利に尽きますな」
しれっとした口調にアドルファスは笑い、その拍子に零れた雫が白磁の中の夕陽に落ちて小さな空を静かに揺らした。
※
「―――咽喉が、渇いていらっしゃるかと」
クロードの言葉にアドルファスはゆっくりと顔を上げた。霞がかった思考のまま、ここはどこだろう、と室内を見渡した。どうやら己の書斎のようだった。いつの間にやって来たのか、そして、どれほどこうしていたのか、全く記憶がない。おそらくクロードが様子を見に来るほどには時が経っているのだろうが。
スカーレットの処刑は滞りなく行われた。最後の瞬間まで誇り高きスカーレット・カスティエルであり続けた彼女の姿は、その場に集まった民衆の記憶に鮮明に焼きついたことだろう。後はキンバリーが上手くやってくれるに違いない。
膝に置いていた陶器の骨壺にはスカーレットの遺骨が入っていた。野晒しにされていた遺体は損傷が激しく、灰にするしかなかったのだ。冤罪とはいえ、世間一般ではスカーレットは罪人のままだ。カスティエル家の墓には入れられない。
丸く膨らんだ部分を指の腹でなぞりながら、アドルファスはぽつりと呟いた。
「……棺は、黒玉がいいだろうな。遥か東方の海から採れる黒玉は、水底に沈んだ黄金の樹から生まれるらしい。魂を約束の地へ導くと言われる神樹だそうだ」
「すぐに手配いたしましょう」
クロードの態度は常と変わらなかった。だからアドルファスもつられるように自然と言葉が出てきた。
「……ああ、それから、天蚕で編んだブランケットを用意するのを忘れないでくれ。あの子が寒いといけないから。小さいときは、よく、風邪を引いただろう? すぐに熱を出すから、目が離せなかった」
「ええ」
「そうだ、棺には、美しい飾り彫りもいれようか。アリファトから職人を呼び寄せて。どんな模様がいいかな。一級品じゃないと、あの子はうるさいんだ。本当に、昔から、わがままで」
「……ええ」
「カスティエル領にある、香雪蘭の花畑に、連れて行こうと思っているんだ。あの子が泥だらけになった場所だ。マクシミリアンに手を引かれて、帰ってきた。空色のドレスが、本当に、よく、似合っていて―――」
それ以上は声にならなかった。アドルファスは娘の遺骨を抱えてうずくまった。
―――他に方法があるのであれば、何に代えてもそうしていた。悪魔に魂を売っても良かった。命など、いくらでもくれてやったのに。
「一度でいいから、愛していると言えばよかったなあ……!」
くだらない意地など張らずに伝えてやればよかった。望むなら何度でも頬にキスをしてやればよかった。それは何も難しいことではなかったのに。
果たされることのなかった想いが行き場を失い慟哭となる。方法などない。たとえこの命を絶ったとしても、罪深き己はスカーレットと同じ場所には逝けないに決まっている。それでも、願わずにはいられなかった。たった一言でもあの子に伝えることができるなら、それだけでよかった。そのためならば何だってするのに。
そんなことは、もう叶わぬ望みだとわかっていたけれど。
けれど、それでも人は―――きっと奇跡を求めてしまうのだ。この先を、生きていくために。




