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「あなたって、本当にどうしようもない人ですわね」
被っていた猫を脱いだアリエノールはなかなかに辛辣だった。
「わたくしと顔を合わすよりも、陛下と一緒にいる時間の方が長いのではなくて? いっそのこと国とでも結婚なさればいいんだわ。休みのひとつも取らないとそのうち禿げますわよ」
『好きなように生きていく』という言葉通り、アリエノールは一年の大半をカスティエル領で過ごしていた。王都に出向くことはほとんどない。特に、夜会の類は必ず断っていた。彼女曰く、「狐も狸も好きではありませんもの。害獣を狩っていいとおっしゃるのなら別ですけれど」ということらしい。
そこに関してはアドルファスも異を唱えなかった。彼女の血筋を利用しようとする輩がどこに潜んでいるかわからない。出会いの場は少ないに越したことはなかった。
それに、口や態度こそ逞しいが、アリエノールの体は基本的に病弱だ。もし彼女が望んだとしても、すべての夜会に出席するのは難しかっただろう。幸いなことに自然の多い領地では比較的健やかに過ごせるようだったが。
※
「―――大丈夫か」
それでも季節の変わり目に体調を崩すのはいつものことだった。月もとうに頂を越えた頃に帰宅したアドルファスは、隣室から咳き込む声を耳にすると控えめに扉を叩いた。
「どうぞ」という掠れた了承を受け、普段であればこの時間帯は立ち寄らない妻の自室に足を踏み入れる。
アリエノールは寝台から体を起こし、水差しに手を伸ばしていた。グラスに注いだ水をこくりと飲み干すと、ぽつりと呟く。
「……蜂蜜檸檬が飲みたい」
そんなことか、とアドルファスは頷いた。
「侍女に作らせよう」
「こんな時間に彼女たちを起こすのは可哀想だわ」
ソルディタ共和国は多神教の国だ。最高神アナイは自由と平等を司ると言われている。アリエノールは巫女として貴賤のしがらみのない神殿で育ったらしい。だからなのか、人の前に立つことには慣れていても、人を使うことには抵抗があるようだった。
アドルファスは溜息をついた。屋敷には夜番の者がちゃんといるのだが、おそらく伝えても無駄だろう。
「……待っていなさい」
しばらくしてから湯気の立つカップをふたつ持ってくる。アリエノールがきょとんとした表情を浮かべた。
「あなたが作ったの?」
まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔だ。
「侍女に頼みたくないと言ったのは誰だ」
憮然として告げれば、おずおずと手が伸ばされる。ふうふうと息を吹きかけてから、アリエノールはカップの縁に口をつけた。
「……すっぱい」
最初の感想がそれだった。それから、やれ種が入っている、果肉はきちんと濾してくれ、蜂蜜が溶けていない、などとぶつくさ文句を言われる。思わずむっとして何か言い返そうとしたが、不満を並べるアリエノールの顔がどこか嬉しそうだったため、アドルファスは言葉を飲み込んだ。
気づけばカップは空になっていた。
それからというもの、彼女が体調を崩す度に蜂蜜檸檬を強請られるようになったのだった。
※
そして季節はいくつも巡り、運命の日がやってくる。
王都で政務に勤しむアドルファスが領地に帰るのは年に数カ月程度だ。
その日、アドルファスはおよそ一年ぶりにカスティエル領に戻った。領地での外せない視察を終えると、久方ぶりにアリエノールと顔を合わせ、取り留めのない話をした。それだけ。いつもと何も変わらない一日。
けれど、その日の夜に事件は起こった。
寝台のランプをつけ、王都からの報告書に目を通していたアドルファスは、ふいに聞こえてきたノックの音に顔を上げた。
こちらの返事も待たず寝室に入ってきた相手は、目を見開くアドルファスを前に、まるで何も悪いことはしてないと言うように、にっこりと微笑んだ。アドルファスは報告書を置いて、思わず額に手を当てる。
「……アリエノール。これは、淑女のすることではないぞ」
「あら、だって夫婦ですもの」
その厚顔な態度に、在りし日の会話が蘇る。
「……我々のような関係はただの顔見知りというのではなかったかな。確か辞書にはそう書いてあったと思うが」
「そんなゴミは即刻燃やすべきね」
アリエノールはしれっと肩を竦めると、「あなたがあまりにも意地っ張りだから実力行使に出ることにしたのよ」と告げた。その内容にアドルファスは低く呻く。
「……意味がわかっているのか?」
「言ったでしょう? 愚か者と言われようが、人でなしと罵られようが、わたくしは、わたくしの好きなように生きていくことにするって」
それは確かコーネリア・ファリスの遺言だと言っていたか。訊ねれば、アリエノールはあっけらかんと頷いた。
「ええ。彼女はね、生まれてきた娘にこう言ったのよ」
歌うように言いながら、ゆっくりと寝台に乗り上げてくる。
「―――心から愛する人ができたなら、躊躇わずにその人の子を産みなさいって。たとえ神さまが許さなくても、その罰はコーネリアが引き受けるからって。偉大なるご先祖さまがそう決めたのよ。ねえ、アドルファス。わたくしたち星冠を受け継ぐ者に教えられる、とっておきの家訓を知っていて?」
「知るものか」
険しい表情で睨みつけてもアリエノールは動じなかった。それどころか、楽しそうに口の端を吊り上げる。
「文句があるならコーネリア・ファリスに言いなさい」
なんて―――厄介な。アドルファスは頭を抱えた。今すぐにでもこの場を立ち去ってしまいたい。けれど、その前に一つだけはっきりさせて置かなければならないことがあった。
「……もし、子を成したとして」
徐々に近づいてくる相手を牽制するように両肩を掴む。思ったよりも細く柔らかい身体に心がざわついた。
「生まれてくる子が運命に翻弄されることが、哀れだと思わないのか」
気づけば、吐息が触れそうなほどに顔が近づいていた。アリエノールの宝石のような瞳がわずかに細まる。
「―――お言葉だけど」
その声には迷いなど微塵もなかった。
「わたくしは自分のことを哀れだと思ったことなんて一度もなくてよ」
きっぱりと告げられた言葉に、アドルファスは思わず目を瞬かせた。
アリエノールは、ふふん、と得意気に笑う。
「だって、わたくしは自分が愛されて生まれてきたと知っているもの」
その態度は、だから彼女も子を成すことに問題がないと言っているようで―――
「……私は、君を愛してなどいないが」
重要な点を指摘すれば、アリエノールは笑い声を立てた。それから手を取られ、ぎゅっと指を絡められる。
「なら、この手を払いのければいいわ」
きらきらと輝く紫水晶の瞳が、戸惑った顔の男を映している。
「―――できないでしょう、アドルファス・カスティエル」
突然のことに固まっていると、勝ち誇ったような声が降ってきた。
実際のところ、その手を振り払うのは簡単だった―――はずだ。そうしなければいけないともわかっていた。国のためにも、生まれてくる子のためにも。
―――けれど。
けれど、目の前のアリエノールが、あまりに嬉しそうに笑うので。
アドルファスは繋がれたその手を離すことができなかったのだ。どうしても。




