7-21(終)
目を真っ赤に腫らしたルチアがアビゲイルの胸に飛び込んでいく。
「心配なんて、これっぽっちも、していませんでしたの……!」
けれど叫ぶ声はところどころ裏返り、小さな肩は何かを堪えるかのように震えていた。アビゲイルは、泣き笑いのような表情になってルチアをぎゅっと抱きしめた。控えていた何人かの侍女が目頭を押さえる。
そして、ふたりの傍にいる初老の執事だけが穏やかに微笑んでいた。
その光景にコニーも思わず貰い泣きしてしまいそうになって、慌てて鼻をこする。
―――諸々の手続きを終えたアビゲイルが釈放されたのは、裁判から数日後のことだった。彼女を出迎えに行ったコニーは、そのままオブライエン邸へと招かれた。屋敷では、女主人の帰還を、皆首を長くして待ち構えているようだった。
アビゲイルが馬車から降りるや否や、まずは小さなお姫さまが脇目も振らずに駆け寄ってきた。口では気丈なことを言っているが、きっと心配でたまらなかったに違いない。
せっかくだからとルチアも一緒にお茶をして、それでも長居はせずにお暇する。今日くらいはゆっくりと家族で過ごすべきだろう。
帰り支度をしているとオルダスがやってきて、ぶっきらぼうに「悪かったな」と告げた。コニーはきょとんと目を瞬かせ、アビゲイルは噴き出した。
「素直じゃないのね」
「うるせえな。そもそもアビーが捕まらなければよかったんだ。余計な手間をかけさせやがって」
「ほら、素直じゃない」
三人で談笑しながら正門を開けると、人影がふたつあることに気がついた。オルダスがさっと表情を変えて、コニーたちを庇うように前に立つ。
「―――やあ、聖杯の娘」
向けられる殺気を物ともせず、気楽な調子で手を上げたのはつい先日会ったばかりの金髪の女性だった。今日は正装しておらず、最初に会った日のように布に包まれた身の丈ほどの何かを背負っている。
「……だからグレイルさんですって。サン、貴女わざとやってます?」
頭が痛そうに訂正を入れたのは細身の銀髪だ。そのやり取りを見ながら、アビゲイルが「知り合い?」とコニーに訊いてくるので、思わず顔を引き攣らせた。
「ファリスからの観光客の方、みたいです。知り合いというか、二度ほど偶然会っただけなんですけど……」
「偶然?」
アビゲイルは不思議そうにそう繰り返すと、すぐさま完璧な微笑みを貼りつけて目の前の二人に声をかけた。
「じゃあこれで三回目の偶然というわけね? ―――私の妹に何かご用かしら?」
言外に込められた圧力に気づいていて流しているのか、それとも単に鈍いのか―――サンも晴れやかな笑顔を浮かべて言葉を返す。
「いや、なかなか見事な救出劇だったと思ってね。……心配性な姉上もいるようだし、単刀直入に訊こうかな」
言いながら、彼女は一歩足を踏み出した。
「あなた方は【暁の鶏】を追っているな?」
その瞬間、オルダスが弾かれたように懐から拳銃を取り出した。同時に、ひゅんっ、と何かが空を切るような音とともに前方から一陣の風が吹き抜ける。
「―――アデルバイドの男は気が短いな」
古めかしい大剣をアビゲイルに突きつけたサンは愉しそうに低く笑った。
一体どこから―――と考えて、彼女の背中が空になっていることに気がつく。荷物の正体はこれだったのか。
「ファリスの女ほどじゃないけどな」
拳銃を構えながらオルダスが吐き捨てる。その銃口は真っすぐにサンを捉えていた。
「銃弾が届くのと、私がお前の主人の首を引き裂くのと、果たしてどちらが早いかな」
「試してみるか?」
オルダスの口元が皮肉気に歪む。その場の緊張が一気に高まった。
―――ど、どうしよう。
コニーが息を呑むのと、呆れたような溜息が聞こえてきたのはほぼ同時だった。
それも、ふたつも、である。
「ルディ、やめなさい」
「サンも悪ふざけが過ぎますよ」
サンは「いやあ、つい」と笑って剣を納め、それを見たオルダスは渋々と拳銃を降ろした。
エウラリアが申し訳なさそうに頭を下げる。
「連れの行き過ぎた非礼をお詫びいたします。実は、あなた方の協力を仰ぎたいのです」
オルダスが舌打ちをした。
「あれが協力して欲しい奴の態度か?」
「ルディ!」
「いえ、おっしゃる通りです。その、サンは少し―――自由人でして」
途端、豪快な笑い声が降ってくる。
「自由とはまた、ずいぶんな褒め言葉だな。しかし、弱っちいやつに頼るわけにもいかんだろ」
「あ、もうサンは黙っていて頂いて大丈夫です。むしろ話が進まなくなるからちょっと黙ってろ」
―――凍えるように冷たいエウラリアの視線に、さすがのサンも神妙な表情で「はい……」と頷くと、それきり口を閉じたのだった。
「私たちはファリスの第三殿下派の人間なのです」
エウラリアの言葉に、アビゲイルが記憶を辿るように首を捻る。
「第三殿下……というと、アレクサンドラ王女ね。確か彼女は敵陣営の手で幽閉されているのではなかったかしら? 大事な主人を放っておいて、なぜ、あなた達はここにいるの?」
「他ならぬ殿下の望みだからです。彼女はユリシーズ様と懇意にされていたので、今回の誘拐の件もいち早くこちらに情報が届いたのです」
「誘拐?」
アビゲイルが驚いたように目を見開いた。コニーもはっと息を呑む。色々と事件があり過ぎて忘れていたが、幼い王子の行方は依然としてわかっていない。
「ええ。もちろん私たちとしても、本来であれば殿下の解放に力を尽くしたい。でも、そうも言っていられない事情がありまして。ファリスの財政はご存知ですか?」
「知り合いの商人が虫の息だと言っていたけれど」
「実に的確です。まったく、ヘンドリック王も厄介な時期に倒れてくださいました」
そう言うと、エウラリアは疲れたように溜息をついた。その態度を見る限り、王に対する敬意も思慕も特にないようだ。
「まあ、つまるところ―――第三殿下は反戦派なのです」
あいつ説明が面倒になったな、とサンが呟く声が聞こえる。確かに脈絡のない発言である。コニーはもちろん、アビゲイルでさえも面食らったようにぽかんと口を開けている。
「……待って。それは、どういう意味かしら」
「病床の王に代わり国の実権を握っている宰相は開戦派だ―――と言えばわかりますか? 彼はすでに他の殿下を抱き込んでいる。祖国では戦争の準備が行われています。相手はここ、アデルバイドです」
アビゲイルは厳しい表情を浮かべていた。
「……今は二国間で平和条約が結ばれているはずよ。それを無視して戦争を仕掛けるなんて、周辺諸国からの干渉に口実を与えることになってしまうのではないかしら」
「一方的な侵略ならばそうでしょうね。ですから、大義名分を作るのですよ」
そうそう、とサンが軽い口調で口を挟んできた。
「ユリシーズの誘拐はそのためだ。開戦派は誘拐の事実を公表し、その報復行為として進軍するつもりらしい。あの子が今回の使節団の正式な同行者でなかったことが幸いしたよ。今は自国で影武者を立てて、なるべく人目につかせるようにしている。牽制だけど、いつまで持つか。今はお互い様子を見ている状態だ。おそらく、猶予は使節団の帰国まで。……あと一月もない」
サンはそう言うと、真剣な顔をして頭を下げた。
「誘拐を行ったのは【暁の鶏】だ。奴らを潰したいと願う目的は一緒だ。だから、どうか一緒にユリシーズを探して欲しい」
コニーは慎重に考えを巡らせた。
おそらく、嘘は言っていない。ユリシーズの誘拐も事実だし、【エリスの聖杯】はファリスによる侵略を目的としているとリリィ・オーラミュンデの手紙にも書いてあった。内容も一致する。
コニーとて戦争は嫌だ。出来ることなら協力したい。けれど、素人が出来ることなど限られている。
「それなら、憲兵総局に協力してもらった方が……」
恐る恐る告げてみると、エウラリアがきっぱりと首を振った。
「組織の息がかかっていないという確信がありません。レヴァイン特使が黙したままこちらに援護を求めてきたのも同じ理由でしょう。アデルバイドの上層部にも【暁の鶏】の手の者がいると聞き及んでおります」
「く、くらくらしてきた……」
怪しげな薬をばら撒いているだけかと思っていたが、相手は思ったよりも強大だったようだ。
「なんせ十年以上もかけた計画だからなあ。なかなかに壮大だろう? 実は宰相は、十年前にも一度この国に戦争を仕掛けようとしているんだよ。まあ、あと一歩のところで撤退を余儀なくされたらしいが」
腕を組んで話を聞いていたアビゲイルが、ふと口を開いた。
「……十年前は、どうして失敗に終わったのかしら」
おそらく、そこに何か解決の糸口があるのではないかと考えているのだろう。
「知らないのか?」
サンは珍しくきょとんとした表情を浮かべていた。
【暁の鴉】の計画を壊滅させ、十年にも渡りファリスに苦汁を嘗めさせ続けた要因。それは―――
太陽を映した髪を持つ女は、当たり前の事実を告げるように口を開いた。
「―――スカーレット・カスティエルが処刑されたからだよ」
◇◇◇
屋敷の主人は生憎と不在だった。対応した執事からすぐに戻ってくると言われ、応接間に通される。
どれほど待っただろうか。彼の人の元を訪れると決めたのは他でもない自分だ。けれど、心の奥底ではこのまま相手が来なければいいと思っていたのかも知れない。
己の考えが正しければ―――それは、あまりにも残酷で哀しい真実だったから。
「―――手札はきちんと揃えてきたか?」
だから、その揶揄うような声に思いのほか動揺したのだと思う。
ランドルフ・アルスターは詰めていた息を吐くと、ゆっくりと顔を上げた。視線の先に立っていたのは、老いてもなお美貌を誇る男だ。アドルファス・カスティエル。赤みがかった紫という王家の瞳を持つ、この国の要。
誠実といえばグレイルだが、実際のところランドルフはアドルファスほど誠実な男を知らなかった。
人としてではない。この国にたいしてだ。
ランドルフの知る彼はいつだってアドルファスという個ではなく、アデルバイドに忠誠を誓うカスティエルとして生きていた。
彼の行動の原理は、常に、祖国のためになるか否か―――それだけである。
「……スカーレットの母親はアリエノール・シボラでしたね」
ランドルフが問うと、ソファに腰掛けたアドルファスは肯定するように鷹揚に微笑んだ。
「こちらで調査したところ、シボラの祖は確かにあのコーネリアだった。しかも、アリエノールはコーネリア・ファリスの直系の子孫だ」
なぜアドルファスがアリエノールと婚姻を結ぶことになったのかはわからない。けれど、少なくとも目の前の男は『冠なきアリエノール』の出自を知っていたはずだ。そしてそれは王家の意志でもあったに違いない。アドルファス・カスティエルが動くのは、いつだってこの国のためなのだから。
「リリィの手紙には詳細は書かれていませんでしたが、おそらく【エリスの聖杯】とは―――」
アドルファスがゆっくりと双眸を細めていく。赤みの強い紫は、この国の王家が持つ特徴だ。
けれど、スカーレットの瞳は赤にも青にも引き摺られない―――それは見事な紫水晶だった。
今でこそファリス王族の双眸は青みがかった紫が主流だが、赤と青が均等に混じり合った紫は、かつてこの大陸を一飲みにしようとした貴き一族の象徴だったという。
「【エリスの聖杯】の真の目的とは―――旧ファリス皇族の血を引くスカーレット・カスティエルを新王に祀り上げ、名実ともにアデルバイドをファリスの属国にする計画のことだった」
スカーレットに流れる血は、ファリスにとっては失われた【星冠】そのものだ。
「血統に拘泥する奴らは、帝国時代の植民地支配と同じことをしようとしたのでしょう」
アドルファスは黙したままだった。そこには焦りも動揺もなく、泰然とランドルフの話に耳を傾けている。
「……当初のセシリア・リュゼの役割は、エンリケの愛人となり影で操る程度のことだった。始めから王太子妃になるつもりはなかったはずだ。そもそも普通は公爵令嬢―――それも四大公爵のひとつであるカスティエル家の娘が、たかが子爵令嬢程度を相手にすると思わない。しかし、予想に反してスカーレットはセシリアをわざわざ表舞台に引っ張り出してしまった。敵はひどく焦ったでしょうね。セシリアに注目が集まるのは避けたかったはずだ。けれど、だからといってスカーレットを処刑するつもりはなかった。彼女が死んだら計画が頓挫してしまう。最初の【エリスの聖杯】はスカーレットなしでは成立しない。つまり彼女が―――スカーレットこそが、【エリスの聖杯】そのものだった」
だからスカーレットが処刑されたことで、ファリスは一度撤退して計画を練り直す羽目になったのだ。
それも、十年もの歳月をかけて。
「―――スカーレットが死んで救われたのは、寝首を掻かれようとしていたアデルバイドの方ではありませんか?」
ファリスからの独立戦争を経て建国して以降、アデルバイドは他国と争ったことがなかった。もちろん国境沿いでの小競り合い程度ならあったが、十年前であれば軍事力にも乏しかっただろう。まともに戦っても勝機はない。もし、国の上層部がこの計画を知ったならばどうするか。
ランドルフならば、まず、戦争を回避する手段を考える。
そんな折、当時の捜査資料を読み込んでいたランドルフは奇妙なことに気がついた。セシリア・リュゼ暗殺未遂の最たる証拠とされていたのは、スカーレットの自室から見つかった毒瓶だった。しかし、何者かが屋敷に侵入した形跡がどこにもないのだ。だからこそスカーレットの犯行として断罪されたわけだが、今のランドルフはそれが仕組まれたものだと知っている。
だとすれば、考えられる可能性はひとつだけだ。
「総局の保管室へ侵入するのとはわけが違う。公爵家に忍び込み、令嬢の部屋に毒瓶を仕込む。証拠も残さずそんなことができるのは、この世にたったひとりしかいない」
―――引鉄は、アイシャ・ハクスリーの歪んだ愛憎だった。
けれど、よく見ればそこらかしこで火種は燻っていたのだ。
ファリスの陰謀。【暁の鴉】の暗躍。もちろんスカーレットの行動にも問題がなかったとは言えない。
有象無象の些末な偶然が重なり、絡まり合って、まるで運命のようにひとつの糸を紡いでいった。
その糸が描いたのは破滅だったのか、それとも救世だったのか。ランドルフにはわからない。わかるのは、結果としてこの国が生き永らえたという事実だけだ。
そして、女神アトロポスが如くスカーレット・カスティエルの運命の糸を断ち切ったのは―――
ランドルフは一点の曇りも許さない揺るぎない眼差しで、目の前の男をじっと見据えた。
「違いますか―――カスティエル公爵」




